Guntur Kaaram (Telugu/2024)を池袋ヒューマックスで。
22年春以来のマヘーシュ、しかもASVRで台詞のカッコよさに刮目したトリヴィクラム作品なので、ぎっちぎちデーの中でも最優先で見に行った。現地の評判はいま一つらしいが、充分に満足。あのマヘーシュがグントゥールの唐辛子農家の鉄火男をやる。ドーティーをまくり上げ、煙草をしきりと吹かし、お国訛りで話し、すぐにカッとなる荒くれ。それをあの外見でやる。ノンシャランと荒くれの不思議な共存。台詞には「俺の肌色を保つには日傘が要る」「一線を越えるな/カバディじゃあるまいし」「俺がサインするのはファンに求められたときだけ」などなどのトリヴィクラム節。訳あって離婚して実家に戻り、その後再婚して政治家になった母、その母と完全に縁を切らせようとする母方親族と主人公との戦い。シュリーリーラは求められているグラマーをきっちり演じた。脇を固める中ではジャヤラーム、ラムヤ、イーシュワリが特に良かった。主人公は赤い車で軽快にグントゥールとハイダラーバードを往復するが、よく考えたら、AP州の分裂が起きてない世界線か。きびきびと小気味いい159分。
Bheeshma Parvam (Malayalam - 2020) をオンラインで。
題名以外の予備知識なく見て冒頭でやたらと人名が多く出てくるので難しいやつだなと覚悟、早めに切り替わる字幕にも弱ったが、中盤からの怒涛の展開にほぼノンストップで見ることに(だが復習の2度見はしたい)。コッチの有力なシリアン・クリスチャンの一族に翻案したゴッドファーザーとマハーバーラタのリミックス。どちらのストーリーにも緩く符号するキャラクターやエピソードが盛り込まれる。マハーバーラタなら敗者の側になるビーシュマを無双のヒーローとした。ストーリー自体は先の読める単調なものなのにこれらの飾りが効いて飽きさせないものになっている。ヴァ―キー一族は政界、聖職者界、その他の実業界に進出して、映画にまで手を染めているが、堅実なのは傍流の息子がやっているスーパー経営。それがVarkey'sっていうのはオーケーなのか。それにしても、名門クリスチャン家庭を舞台にしたマラヤーラム語映画に特有の暗くささくれ立ったあの感触は何なのだろうと思う。不気味な生ける屍のように登場するKPACラリタとネドゥムディ・ヴェーヌの最晩年の姿。
Kadaisi Vivasayi (Tamil/2022)をオンラインで。
文芸調の田舎映画。農本主義ユートピアへのあこがれをムルガン信仰と絡めながら描く。風光明媚な農村が舞台だが、多くの村人が離農してしまっている中、頑固に古式の農業を続けている老人が主人公。農地を売り、象を買った住人は象の儀礼参加で稼ぐ。売った土地では都会人の手でオーガニック・ファーミングが行われているという皮肉。老人が理不尽な理由から逮捕・拘留されるなか、意図することなく周りの人間を感化していき、伝統的な村祭りを復興するまでを描く。そこにアラヴィンダン映画を思わせるような不思議な稀人(老人の孫世代の親戚)がムルガン巡礼の中でふらりとやってきて飯を食っては去っていく。舞台のウシランパッティはマドゥライとテーニのちょうど中間のところで、画面にはパラニを思わせる巨石が写り、Sacred Rockと称されている。とても美しい一片なのだが、タミルニューウェーブのラウなあの感じとも、バーラティラージャーのヴィレッジ・シネマとも違う小綺麗な印象。VJS演じるラーマイヤが死んだ恋人が見えていて同行しているというのは旧作からの引用か。
Annapoorani: The Goddess of Food (Tamil/2023)をNTFLXで。
設定は大変興味深いが、中途半端なメロドラマと、〇か✕かデジタルに勝負をつけるスポコン形式クライマックスを設けたせいでちぐはぐな印象。カースト禁忌と女性としてのハンデ、恵まれた育ちのライバルに加えて難病ものモチーフまで入れて、ヒロインの達成へのハードルを上げたのはいいが、それを絵解きするために挿入されるアニメがセンス最悪でしらける。監督ニレーシュ・クリシュナは過去作にマラーティー映画が1本あるだけ。ナヤンに加えて、ジャイ、サティヤラージなどRaja Raniの同窓会的なキャスティング。ジャイは脇役に徹すると割といい。ただし、アイヤンガール・バラモンの典座職にまつわるあれこれとか(お母さんは生理中の禁忌で調理場から遠ざかっていた)トリビアは捨てがたい。まあそれと、あざとくはあるけれどもインド的な宗教シンクレティズムを示そうとした点は分かった。各種のセンチメンタリズムを抑えて、味覚の天才がその能力を伸ばすところだけに絞った方が良かった。それと高級料理とは西洋料理であるとの偏見も出ていた。
翔んで埼玉(2019)をNTFLXで。
要するにここ2~3年の汎インド映画化みたいなのが気に喰わなくて、それで失われてしまうものを言語化する助けになるかと思って観た。原作は1983年、バブル時代の「トレンディー/ダサい」の対立項をパロディー化したものなのだろうけど未読。田中康夫『なんとなく、クリスタル』は1980年、そういう時代だ。漫画的なのは原作が漫画だからまあ許容。ポリコレ系の視点で見ると、農業・漁業がダサいもんの筆頭にあるのは本来なら警報ものだが、トレンディーとされている東京をゴテゴテ成金趣味にしたことにより中和されているか。が、それによって「東京以外に人生などない」と思い込んでいる東京人への批判は減じられてしまっている。お高く留まった東京人が耳にするだけでもおぞましいものとして草加、春日部、所沢などの地名が上がるが、あくまでも東京人が知っている地名でしかなく、行田の立つ瀬がない。まあ埼玉にしろ千葉にしろ豊かな地域だからこれが作れたんだな。ロードサイドの無味乾燥、県内の鉄道線網の起点が東京に集中し横のつながりがない件も指摘すべきだった。一番笑ったのはエンディングの「埼玉県のうた」。
Hi Nanna (Telugu/2023)を池袋ヒューマックスシネマで。
事前予約は30人超だったけど結果的には50人ほど入っていたか。タイトルと宣伝画像から想像される通りのおセンチドラマで、あーはいはいと思いながら前半はかったるく見ていたけれど、インターバル前に驚きのツイスト。Hi Nannaは「お父ちゃん!」ではなく「~ちゃんのお父さん」の意味だったか。そして後半は行ったり来たりを繰り返しながらも小型のツイスト(ジャヤラームとアンガド・ヴェーディー)を盛り込む。カメラのトリミングで隠されていたことが最後に明らかになるというタイプの。子供、難病、ワンコ、記憶喪失などありがちなお涙頂戴モチーフを活用しながら独創的なストーリー。ただし例によってあり得ん脇見運転がキーになってたのはちょっといただけない。ウーティーとムンバイとゴアという舞台で、テルグ語地域が全く出てこないのは斬新。シュルティ・ハーサンが勿体ないようなアイテム出演。ヒロインの妹が隠れたところから突然登場するのはよく分からなかった。ジャヤラームの「我々は夫婦としてはダメだったが、親としてしくじるのはよそうじゃないか」が渋かった。
Street Dancer 3D (Hindi/2020)をオンラインで。
公開時に劇場で観て以来の2回目。まあ余り乗れないのは変わらず。再見ではっきりしたのは、これはパンジャービー・ディアスポラの映画だということ。本来ならパンジャーブ語で作られるべきものだった。インド人もパキスタン人も皆ほとんどがパンジャーブ人。シク、イスラーム、ヒンドゥーの宗教的帰属、国籍上の帰属以前にパンジャーブ人。そこが一般の日本人観客に理解できるかどうか。分からないと抽象的な人道の話になってしまう。それとシク教徒男性にとってターバン、頭髪が持つ意味も。さらには黄金寺院厨房の給食に代表されるシク教徒の喜捨と救貧の精神も。ダンスの方は中盤のプラブデーヴァのソロ以外は組体操あるいはパルクールを観てるみたいで感心しない。それとクライマックスが近づくにつれて主人公たちのチームのパフォーマンスだけがグラフィック処理で飾り立てられるのが却って興を削ぐ。まあそれと「慈善の目的のために踊るから貴い」というのも、ドラマの組み立て上そうなるのは分かっても違うだろと思ってしまう。在英パンジャーブ人の当事者性からは遠いところにある感じ。
LEO (Tamil/2023)を川口スキップシティで。
二回目。7割ぐらいが埋まった凄い熱気、ほとんどが日本人。以下、気になったところを列記。後半に意味ありげにカフェを尋ねて来る女性はVikramの中のマーヤー(演者はマーヤー・S・クリシュナン)だったことまでは分かった。Vikramを見直さないと。もう一人の意味ありげな男の方は誰だったか。それからラスト近くでリオが腕につけるカダーはMasterにゆかりのものだと思うが、Vikramにも関係があったっけ。それとも単にローケーシュのお気に入りのモチーフというだけのことか。どん詰まりのラストの「Sir, Just sir」の台詞の由来は何か。同行者は2回見てもまだアーントニの人身供犠という行動が呑み込めないようだった。悪魔教という説明やサンジャイ・ダットのビジュアルだけでは納得できないと。今日見た際には「イサクの犠牲」も連想したけど、そんな高級なもんじゃないだろと。ドスーザは死刑を数日後に控えた設定と分かった。このキャラはパールティはリオではないと断言するが、劇終でそれが嘘だったことが分かる、彼が語ったそれ以外の詳細なストーリーも嘘なのか?
Jigarthanda Double X (Tamil/2023)をイオンシネマ市川妙典で。
10/24公開予定のDhruva NakshatramのFDFSがこけたため代替上映。前回追いきれなかった字幕が少しは判明した。客入りは前回よりも増えて、50人ぐらいになっていたようだった。前回も感じたのだけど、トライブを扱う映画が今年はどっと花開いたのではないか。それはRRRでもあったのだが、あれはスーパーヒーローの活劇で、丁寧な解題によってはじめてトライブに関して学習するというものだった。今年はYaathisaiあたりから始まって連発された印象。19世紀からあったというトライブの叛乱がやっと今になってサルベージされたのか。森に対する伝統的な権利を根こそぎにしようとする権力との戦いという意味ではKantaraとも通じる。森は平地以上に権力のむき出しの暴力が横行する領域だというのが体感できる。同時に、象たちの支配する領域の描写によって、神話の時代からのインド人と森の関係性にまで考えが及んだ。シェッターニは相変わらずわからない。明らかにヴィーラッパンの影があるが、この人物はトライブではないのか。
Jigarthanda Double X (Tamil/2023)をイオンシネマ市川妙典で。
客入りは20人程度。トレーラーだけだとSJSのいつものレトロ婆娑羅コメディー(年代設定は1973年)かと思うけど、全然違ってた。ヤクザの親分を騙くらかして、伝記的映画を撮ると言って近づいていくというプロットは前作と同じだけど、今作では監督もフェイク。気の弱い警官の卵がマドラスの政界と繋がりのある悪徳警官に脅されてマドゥライの名うてのギャングに近づき、サタジット・レイ・スクールの映像作家と身分を偽り暗殺の機会を伺うが、ギャングの身重の妻が怒って里帰りしたためギャングと共に山中のトライブ集落に行く。そこで横行するゾウの密猟、密猟者狩りの名目での警察のトライブへの暴虐を目の当たりにしてギャングも映像作家も社会正義かに目覚め、映像によって世に訴えることを考える。政治風刺とレトロと思ってたら途中からプラブ・ソロモンになり、その後マーリ・セルヴァラージになる。トライブ集落殲滅の凄まじいシーンはバリ島のププタンを思い起こさせた。ローレンスがシヴァージばりの滔々たる演説をやってのけるシーンには目頭が熱くなった。
Japan (Tamil/2023)をイオンシネマ市川妙典で。
8時開始+5000円を厭わず見に来たのは104席中の65%ぐらい。インド人は5~6人のみ。初期の宣材の金ぴかイメージからも予測できたようにカールティ版KGFだった。ただし、大仰で登場人物が多くとも一直線に進むKGFとは違い、屈折があり、文芸的とすら言える。明らかに主人公のアルターエゴであるキャラクターがいて、極貧であるにも関わらずその男は金に執着する。主人公とそのアルターエゴ、それぞれに不正を許さぬ母と懶惰を許さぬ妻とがいて絶対の倫理的支柱となっている。それ以外の人物は全員がグレーな影を持っていて、ヒロイン然と現れて「私は悪い子なの」と言うサティヤも例外ではない。例外は相棒の初老の男だけか。それにしてもJailerに続いて本作も、タミルの他にカンナダ、マラヤーラム、テルグ、ヒンディーが行きかうマルチリンガルだった。ジャパンの名前の由来については前半で見せつける金歯なのかと慄いたが、そうじゃないことが分かり安心。前半のジガルタンダみたいな劇中劇のセルフパロディーでは目の前真っ暗になりかけたけど、天晴なアンチヒーロー映画だった。
Sumo Didi (Hindi/2023)をTIFFで。TOHOシネマシャンテにて。
邦題は『相撲ディーディー』。女性が主役のスポコンの定石を踏まえながら巧い造り。外聞を気にする母を一括する父がヒーローだが、その父が母に謝りながら叱るというところが良かった。恋愛の描写は余計かとも思ったが、その後の展開が自然になった。ヒロインが相撲の道に進むことを決意したあとすぐに国際大会に出るというのは、要するに国内では他にライバルがいないということか。そして国際大会で対戦する相手がお決まりだというのはやはりそういうことか。元横綱(髷を結ってたが)タオシを演じた俳優(舞の海を思わせたが誰なのか不明)、それに日本でのロケ地が気になった。ダルマさんが出てくるところは、単なるエキゾティックなマスコット扱いで痛恨。開眼の儀も早すぎる。相撲取りをどのようにイジっても構わない笑いものとしか見ないインド映画人の平均値からすると、多少の勘違いは許容したくなる。モデルになったムンバイの女性が被った嘲笑・偏見は想像するに余りある。トレーニングはあまりにも精神性を強調しすぎるきらいがあるとは思ったが。中国風のBGMは微妙。
LEO (Tamil/2023)を川口スキップシティで。
情報は入れていなかったが、どうやらLCUであるらしいことは聞こえてきていた。過去のUからの顔見世があると聞いて予想していたのだけど、まさかあの人とは。歌詞―ミールだったらどうしようと心配してたロケーションはヒマーチャルだったので安心。全編がこの地で展開することにはもちろん狙いがある。序盤から無数の人間が惨たらしく殺されまくるのに、だんだんと清々とした気分になってくる不思議。ローケーシュは本当にありとあらゆるアクションシークエンスを網羅したいのだということが分かる。それでいながらタイガーのもののように虚無的な羅列にならないのはなぜなのだろうかと考えるが言語化できない。後半の悪ヴィジャイは新鮮でとてもいい。VedhalamならAaluma Dolumaにあたる唯一のダンスナンバー、Naa Readyは見事。悪ヴィジャイよりも老けヴィジャイの方が童顔という不思議。冒頭のミシュキンの一味はコンタクト・キラーだったのか?キスシーンはごくあっさりしたものだったけど、あれは革命的なものなんだと思う。マドンナ・セバスチャンの踊りの技量も良かった。
Bhagavanth Kesari (Telugu/2023)を池袋ヒューマックスシネマで。
前半はいつものバーライヤ節で後半も同じと思ったらまさかの展開。牢名主みたいに現れる主人公がある要人を狙う刺客を撃退したおかげで刑務所長とその娘と仲良くなり恩赦で出所。しかし所長が交通事故死したため娘を引き取る。同じころに閣僚を殺した薬物マフィアの男が犯行の生き証人である秘書を始末しようとハントを始め、その過程で主人公と邂逅し、昔の因縁が再燃する。いかにもありがちなフォーミュライックな話だが、そこにテランガーナ、部族、軍隊、女性のエンパワーメントをブッ込んできた。アニル監督は、F2、F3、Sarileru Neekevvaruと、保守的ではあるがユーモアのセンスが凄い。それと軍隊で根性叩き直すというのが好きみたいだ。後半はメッセージが前面に出ていて、各セグメント間のつながりは投げ遣りになるのだけれど、それはどうでもよくなる。バーライヤがテランガーナ弁を喋るというので主催者と爆笑。アードゥカーラム・ナレーンの政治集会を粉砕するシーンでのカットアウトの使い方には痺れた。ヒロインの暴力シーンには喝采。
『ヤマドンガ』(Telugu/2007)を池袋ヒューマックスシネマで。
最初と最後の舞台はシンハーチャラムだと明示されるのだが、あの森の佇まいはシンハーチャラムよりもアホービラムだ、どう考えても(ヒロインの滞在する山頂の家から下山途中にあるというのはあり得ないし)。それから、主人公登場場面のあの黄色いシャツは要するにヒョウ柄なんだな、考えてみれば。それから「ヤング閻魔」ソングの中で繰り返されるヤマハ、ヤムナーなどの言葉遊びの数々。また地獄での演説シーンは、口を開く前に身振りからシニアだった。子供の洟を拭うというのも実際にあったのかもしれない。前半のアクションシーンにはジュニアがスリムになったことを見せつけるような演出が多かった。あの演説の元ネタはDaana Veera Soora Karnaからだということを篤志家が見つけてきてくれた。やはりウルトラ・ハイコンテクストな本作は原語テキストから丹念に読み解いていくべきものと改めて思った。見るたびに思うのはマムタの気風の良さ。エロ大爆発ソングをあんなにクールに楽し気に踊れる女優はそう多くはない。サーヴィトリオマージュのなりすましもやはり巧い。
Chatrapathi (Telugu - 2005)をDVDで。
10年以上ぶりに再見。暴力的に住処を追われたスリランカ引揚げ民で、混乱の中で離れ離れになってしまった親子の物語。Krishnam Vande JagadgurumのJaruguthunnadiソングとほぼ同じであれこれ調べたら、これは2004年のゲームミュージックがソースであることがわかった。この時期の映画音楽にありがち。ストーリー全体もフォーミュライックで、チンピラとの小競り合いからだんだんエスカレートして最後に大ボスと対決というアクション映画の常道。ジーヴァーから始まり、プラディープ・ラーワトにいたる極道ピラミッドだが、あまり凄味はない。真の不安定要因として異母弟を導入するというのが新しい。シャーフィのイっちゃってる役作りと共に本作の最も印象的な要素となっている。コメディーは珍しく抑制的でヴェーヌ・マーダヴ一人が担当しているが、ヒロインもコメディアンと言えないこともない。シュレーヤーが本作撮影で、ヒーローの絶対性、ヒロインである自分の扱いの低さに愕然としたという証言を思い出した。マザーセンティメントがメインだからだ。
The Vaccine War (Hindi/2023)をイオンシネマ市川妙典で。
TKFのアグニホートリ監督と言うので恐る恐る。カンナダ人の知り合いが複数来ていたのに吃驚。こういう自画自賛映画だと母語じゃなくても見るのか。インド産のCovaxin開発に尽くしたICMRの科学者たち(ボス以外の大半が女性)の苦闘を描く。そのプロジェクトを邪魔してデマをばら撒いた女性ジャーナリストを悪役に据えた。彼女が全世界に配信されたインドの「野焼き」写真でぼろ儲けした様子、米国製薬会社から依頼されインフルエンサーなどを動員して国産ワクチンへの悪い風評を盛り上げようとしたことなどが描かれたが、最後のはちょっとやりすぎに思えた。分かりやすい悪ではあるが、政府批判が目的化した活動家的ジャーナリズムの問題から焦点がズレたように思う。ナーナー・パーテーカルは激渋。不器用で偏屈なところもあるリーダーを見事に演じた。それぞれがそれぞれの持ち場で戦った様子を描いた作品だから仕方ない面はあるにせよ、世の中一般の惨状がほとんど描かれないのはどうか。ラスト近く「メイドも戻ったからからアイロンがけしなくても」とか、よう言うわ。