Shivaji Surathkal: The Case of Ranagiri Rahasya (Kannada/2018)をオンラインで。
ここのところ納税仕事めいた鑑賞が多かったけど、これは本当に面白かった。アガサ・クリスティーの超有名ミステリからアイディアをいただいていることは途中で何となくわかり、謎解きの面白さは特になかったけど。回想部分をマイスール、現在部分をケーララ州境(黒魔術といったらケーララだから?)としているのが新鮮。主人公がマディケリに行けと言われて嫌がるのだけがよく分からなかシーヴァージ・サラトカルが特別にエキセントリックな人物として造形されたのはそれ以外の登場人物から目を逸らさせるためか。何だかラメーシュがバラクリに見えて仕方がなかった。悪い奴がテルグ語を母語としていることは意味があるのか。冒頭ソングAPARICHITAのビジュアルは本当にいい。フラッシュバックの挿入の仕方も混乱させることなく、また捜査するシヴァージ自身がだんだん妄執に捕われていく様の演出も巧い。聾唖の女性黒魔術師のエピソードだけは不発感あり。劇団員のシーンの場所はシャンカル・ナーグ劇場なのか。
Manjummel Boys (Malayalam/2024)をオンラインで。
洞窟内のパニック映画とは知ってたけど、「ボーイズ」が実はおっちゃんだらけなのに感銘。パーティ成員の年齢に幅があるような気がしたが、回想の子供時代の彼らはほぼ同い歳に見える。綱引きに興じる(これがグループの主目的なのか?)など普段から割と大人気ない連中が旅に出てさらにはっちゃけるのがイタい。天罰なのか何なのか一人が深い穴に転落する。『Aramm』と同じ展開じゃん。ラーマチャンドラ・ドゥライラージが出てくるのは製作者も意識してるからなのか。立ち入り禁止区域に入るいい歳したボーイズも酷いが、人命救助にまともに取り組まない警察も酷い。迷信深い地元人の描写もあり。遵法意識の低さと命の軽さ、インドの悪いとこが全部出たような映画なのに、とりあえずはカタルシスが得られるのが癪に触る。深い穴を取り囲む深い森の神秘的な佇まいと人間たちの騒ぎとの対比が。結局、祟りとかはなく、危ないところには蓋をすればいいだけのことなのに「これまでに13人死んでる、諦めろ」とか酷いな。落ちた奴も含め各人が徐々に日常生活に戻っていく描写は面白かった。
Ramaleela (Malayalam/2017)をDVDで。
ディリープのもので食指が動かず放ってあったけどこれは拾い物のポリティカル・スリラー。脚本はあのサッチだ。公開時にディリープは逮捕されてたが、興収トップに。もちろん撮影は逮捕前のものだが、悪という字が浮き上がるような容貌になっている。CPMとNDAがモデルの2つの政党の間をスイッチした男が補欠選挙の運動期間中に遭遇した、衆人環視の元での政治家の暗殺事件。彼が筆頭の容疑者となるが、軟禁状態から抜け出してゴアの沖合のリゾートアイランド(実際のロケ地はモルディブのサン・アイランド)に潜伏し、電話やネットが遮断された状態で真犯人が誰なのかを推理するという展開。利用されるのは特ダネに飛びつくマスコミ、信じやすい警察、激しやすい大衆など。後から考えれば物理的に無理なトリック、偶然に頼り過ぎた仕掛けなどはあるのだが、まずは緊張感のあるストーリーと、イイ顔親父満載のキャストに癒される。レナが吃驚する美しさになっていた。前半ではコッチの旧市街の知ってるホテルがロケ地だった。死体役でしか知らなかったプラギヤ・マールティンはシャープな感じで好感。
Mr. & Mrs. Ramachari (Kannada/2014)をDVDで。
『Naagarahaavu』の主人公と同じ名を持つラーマ―チャーリは、勉強はあまりできないが腕っぷしの強い奴に育ち、ヴィシュヌヴァルダンの強火ファンとして騒ぐ以外は悪友との酒と煙草で無為に過ごす。とりあえずラージクマールかシャンカル・ナーグかヴィシュヌ翁のファン、というありがちスタート。アクションの一部ではコブラを使ったものがあった。最初のソング(確か)ではカルナータカ州旗がはためく。しかし生意気盛りのヤシュの主演作なのに、基調はロマンスで、一定の間隔ごとに始まるアクションシーンはすべて女子に不埒なことをする不良が相手。社会の巨悪と戦うシーンはない。大学で出会ったディヴィヤと相思相愛になるも、取るに足らない行き違いからの冷戦の最中に、ラーマ―チャリに家庭の事情が降りかかり、恋路にストップがかかる。ありがちな優秀な兄や、心臓の弱い親族とか、婚約者の方にも恋愛の相手がいたとか、クリシェ満載。ただ、最後にチトラドゥルガ―のあの岩山を持ってきたのは新鮮だった。しかし大事な誕生日のプレゼントにあの写真はどうなのか。
Amaran (Tamil - 2024)をイオンシネマ市川妙典で。
インド人を中心に30人強ほどの客入り。鉄兜ものという以外予備知識なしで見て、実在のタミル人将校の伝記映画だと知る。映画内言語としては、タミル/マラヤーラム語は方言のレベルで入り混じり、登場する人々は難もなく理解し合う。ヒンディー語やテルグ語もタミル語字幕なしでそこそこ出てくる。カシミール人とのやり取りで緊縛した戦闘シーンになると現地語の上にタミル語を被せる方式と都合よくタミル語を話せる奴の登場とでしのぐ。慣用句を連ねたような鉄兜ものだが、作劇は緻密で、カシミールでの作戦行動にも一定のリアリティーがある(実話だからか)。軍国の母/妻を演じたサーイ・パッラヴィも型通りの脚本の中で見事な演技。新進パラニサーミ監督はサウス伝統の能天気カシミールものを恥じて北インド人にも見せられるようなものを作りたかったんだろうか。ただ外国人の共感を得られるかというと難しい。相手をパキスタンではなく国内のミリタントとしたところが問題をはらみ、例えば投石者たちを民間人だが足を引っ張る者としか描けていない。それが軍人にとってのリアリティーだからだ。
Buddhivantha (Kannada/2008)をVCDで。
字幕なし鑑賞。後からタミル語映画『Naan Avan Illai』のリメイクと知ったがもう遅い。台詞の多い作劇ではあるが、ウッピのハイテンションで何とか見られてしまう。薄っぺらい詐欺師が薄っぺらい犯罪を繰り返し、そこに映画の慣用句のラブソングを入れることでシニズムとニヒリズムをあぶり出しているように感じたがどうか。中の一曲は中国の都市部(深センか?)でロケしているようで、うすら寒い感じが却って効果を上げている。一番傑作なのはサローニをフィーチャーしたラーヤラシーマのパートで、ボリウッド、タミルのパロディーも混じるが、本格的にファクション映画のパロディーをやっているところ。全体としては女性への搾取をカジュアルかつグロテスクな形でサタイアにする意図か。大学映像研のような青臭い映像は、ネガ、シャッフル、逆回し、早回し、リピートなどを多用する。ともかくこのメタ視線と虚無的な軽薄さで貫かれた悪夢のような映像は、はウペンドラのために作られたものにしか見えず、リメイクとは信じられない。こういう作品が興収トップになるカンナダ語映画とは。
再見シリーズ:Killing Veerappan (Kannada/2016)をDVDで。
RGVらしいエッジの立ち方と、シヴァンナの大芝居とが不思議なくらい融合。主人公がヴィーラッパンを狩る公的な理由と私的な理由を述べる箇所、私的な理由として「ラージクマール誘拐が許せなかった」と述べるあたりに歌舞伎味がある。史実と異なる点はRGVのそうあって欲しいという願望か。「次の誘拐の標的はラジニカーントだ」というくだりは痺れる。検問所の入り口でチャイを売っていた男が、部族民を利用し、警察の失態に乗じて今や強大な悪魔になった」という台詞が印象的。シュリヤが、おっかなびっくりの協力者だったはずなのに、いつの間にかエージェントになっているのだけはよく分からない。後から読んだ資料では、ヴィーラッパンの死後、森はかえって無秩序になって資源が枯渇してしまったというような話も読んだが、作中では感情移入させるような人間味をあまり描写しなかったのが良かった。
再見シリーズ:Kirik Party (Kannada/2016)をDVDで。
プレビューまで書いて備えた一作だったけど、あまりピンと来なくて自主上映で1回見たきりでほったらかしだった。そもそも学園ものが合わない。中盤のヒロインの唐突な退場もあまりといえばあまりで、不条理劇みたいなのに一方で甘酸っぱい青春ロマンの味付けがよく分からなかった。再見してみて、多少印象は良くなった。欧米風ミュージカル仕立てというのはかなり斬新。初学年の借りてきた猫から最終学年のヤクザもどきへの変貌、Premamでもあったけど、無茶ながら演じ分けるラクシトは凄いと思った。最後に与えられる許し、下級生女子に助けられて心がほぐされていく過程など脚本は上手く組み立てられている。二人のヒロインの対比もいいし、年上の女性との恋愛を普通に受け入れているところも新しい。ハーサンの大学におそらくは北東州からの学生が多くいることもアクセントになっている。一方で学園もの全般から受ける、「やんちゃ放題をやっておいて、卒業式でスーツを着たら何食わぬ顔で分別臭い社会人」という図式に寒々したものを感じたりもした。
Brother(Tamil/2024)を川口スキップシティで。
大雨予報の日とはいえ、30人前後の動員、そのうちインド人は2~3人のみとは。問題のBadugas Nightはカーステレオから流れる1分弱の音に縮小されていた。きっと大がかりなソングシーンを撮ってあったんだろうに。本編は古臭い家族センチメントドラマで逆に新鮮。わざわざ舞台をウーティーにするというのもレトロ。融通が利かない愚直な正義漢が社会と摩擦を起こし続け、厄介払いで姉の嫁ぎ先に預けの身となるが、そこでも問題を起こし続ける。姉の婚家の家長でコレクターの地位にあるシヴが最大の敵だが、彼を懐柔しようとすればするほど姉を始めとする婚家の他のメンバーがシヴを見限って家を出てしまう。実の両親に姉の婚家での安定を守ることを誓った主人公がやればやるほどぶち壊しにするのを笑うコメディーだがあれこれ不発。ソング1曲目Makkamishiではジェヤム・ラヴィが古典舞踊を習っていたという驚愕の事実と目の前のビジュアルのギャップにクラクラ。いや別にヘタではないんだが馬鹿殿がそんな風に踊らなくてもというお気持ち。バダガと思われる部族の顔出しもあった。
Malaikottai Vaaliban (Malayalam/2024)をオンラインで。
予備知識なく見始めて、なんじゃこの無国籍はと思い始めたところで、リジョー作品だったことを思い出し納得。しかし最後の5分ぐらいで悪い予感がしてラストにIIの文字が出たところで「リジョー、おまえもかあ」となった。タミル語とマラヤーラム語が話される広大な岩砂漠。師匠と弟弟子と共に牛車で遍歴するワーリヴァン。行く先々で土地の力自慢を倒して看板を貰っていく。弟弟子は武芸家というよりは先触れの吟遊詩人のよう。途中のアンバトゥールのマライコッタイ(山城のことだが、実際には並置にある)南欧語を話す魔的な植民地支配者と勝負して、人民を解放する。しかしそれすらも彼の武勇譚の連なりの一つでしかない。赤子の時に賊に襲われ全滅した村で生き残り、師匠に拾われた孤児であるワーリヴァンだが、ティルチェントゥール村の大祭での悲劇により、本当の出生の秘密を知る。師匠と縁を切った彼の前に得体のしれない怪物が現れるところで幕。寓話的な物語を奇想を凝らした映像の連なりで語ることの巧みさはさすがのリジョーだが、適切な尺があるんじゃないか。
Devara (Telugu/2024)をオンラインで。
1996年とその12年前の1984年が舞台(メインの現在時は96年より遡る?)。アーンドラ・プラデーシュ州とタミルナードゥ州の州境部分の海辺の切り立った山地ラトナギリ。そんな地形なので僻村のまま放置されたエッラ・サムドラというエリアに4つの隣接した村があり、基本的には漁村なのだが、いつしか密輸の下働きに手を染めるようになっていた。村人は元々は尚武の気風を持つ戦士の末裔で、4村が合同で行うアーユダ・プージャー(道具=武具祭り)は大祭と位置付けられていた。4村のうちの一つの村長デーヴァラは、ずば抜けた強さと冷静さを持ち合わせていたが、自分が加担した密輸が無辜の人々を殺す原因になったことを知り、足を洗う決意をする。それに反対する他の人々との間で武闘が起き、彼は姿を消す。村人たちに、再び密輸を行えば、必ず彼が犯人に死の裁きを与えると予告して。時が流れ、成長した彼の息子ヴァラダは外見こそ父に似るが、怯懦で無力な青年だった。またしても二部作。コラターラ・シヴァのストーリーは例によって緩いが、その分ジュニアの演技をたっぷりと見せることになった。
『侍タイムスリッパー』(2024)をキノシネマ神戸で。
自主制作がまさかの全国公開にまで至った怪作。確かに脚本が流れるようで見事。2時間11分と邦画にしては長い方だが、スルリとした喉越し。幕末の騒乱の時代と現代を対比させるのは効果的。その対比の小道具が白米の握り飯だったり、ショートケーキだったりすることからは「スイス300年の平和が何を産んだ?」というセリフを思い出すなど。クライマックスの真剣勝負は、昔の大河ドラマ(何だったか忘れた)でのアメリカ人に見せるための剣術試合を真剣で行ったというエピソードを思い起こさせた。あれは実話に基づく場面だったのかどうか。日本人が出身地域によっていがみ合い・殺し合いをしたのは幕末〜戊辰戦争期が最後だったのだなと感慨。それにしても「カメとめ」といい本作といい、保守本流の大作ではなく、映画についての映画というメタな作品が大評判&ブームになることには複雑な思い。某国との違い。韓流時代劇を見た後と同じく、主演格俳優のオフの写真を検索して劇中との落差でジンジンくる感を味わうなど。竹光であることが分かっているチャンバラを見る安心感の中に真剣勝負を入れた緊張感は秀逸。
Joyland(Panjabi/Urdu/2022)をシネリーブル神戸で。
邦題は『ジョイランド 私の願い』。夕方回なれど客は自分含め4人。しばらく前にどこかで知らない人が「生きづらさばかり描く日本映画に倦み疲れていると、インド映画の豪快さにせいせいする」という意味のことを書いていてなるほどと思ったのだけど、まさにこれはパキスタンの古都に住む中流家庭の成員たちの生きづらさを描いたもので,南アジアからもこういうものが出てきたかという感慨。クイア映画として宣伝されているが、生きづらさを感じているのは必ずしも性的少数者だけではない。主人公にあたるハイダルは、繊細でインテリ臭も漂わせるが、優柔不断なところもある静かな男。妻がありながらムジュラーを生業にするヒジュラーと付き合うのだが、彼がバイであることが明かされる場面が衝撃的かつ悲しい。監督によれば、自分の求めるものが何かわからず混乱している状態。全体的に暗さと汚れをリアルに描き、その中に美を見出す美学が貫かれる。カットアウトをバイクで夜に運ぶシーンが美しかった。論評しようとすると生真面目になるしかなく、茶化しながら愛することはできない類の一作。
The Good, the Bad and the Ugly(伊、1966)をオンラインで。
邦題は『続・夕陽のガンマン』。やたらと早い英語字幕をいいかげんに見ながらだったけど、途中から字幕不要な感じになっていくのがインド映画に近いかも。なるほどこれがカルト・クラシックとされているもの分かる。序盤の人物紹介と終盤とでタイトルがテロップのように出るとか、墓場を回るカメラとか、超アップの手先だけで緊張感を高める技法など、斬新な工夫が一杯だけど、どこまでも下世話。はっきりと南北戦争下であることが示され、戦争は賞金稼ぎの三つ巴の争いよりさらに非人道的で下らないと言うかのような扱い。The Goodと形容されるクリントのキャラクターは別に善人でも何でもないのだが、否応なしに応援させる方向にもっていく作劇が見事。最後のオチだけは見通せてしまうが、それ以外での玉がどこに転がっていくか分からない感を出す脚本が絶妙。3人の間で上手に立つ者がシーソーのように変転するのが必然ではなく不規則な分子運動のようでいて、やはり見えざる手があるのかと思わされる滑らかさ。例の短いジングルは発射した拳銃から立ち上る煙か。
Vettaiyan (Tamil/2024)を川口スキップシティで。
50~60人程度しか来ていなかった。『ジャイ・ビーム』のニャーナヴェール監督らしい強いメッセージを持つ一作。パー・ランジットとのコラボに続き、ラジニがメッセンジャー役を引き受けた感じか。しかし、カマルの『Indian 2』に続いてまたしても観客に飲み下しにくい批判を突き付けたものとなり、特大ヒットまでは行かないのではないかとの予感。「エンカウンターという超法規的措置ですら、被疑者の社会的ステータスに応じて行われる」という事実を批判する。警察の捜査が予断に基づいたものであるという事情は前作と同じ。重々しい脇役たちを集めながら、それぞれの持ち味を十分に生かした配役と采配。脇役もエージェント・ティナに至るまで良かった。残忍な犯罪が行われ、それにより火のついたような反対運動が起き、それ自体が反社会的な性格を帯びるまでになるというあの国の恐ろしさをリアリズムで描いた。さらにそこに、民間の教育機構の利益第一主義というこれもまたポピュラーな問題提起を盛り込んだ。ラジニのアクションは極力殺さないが、やる時は銃で一思いにというスタイル。
Kishkindha Kaandam (Malayalam/2024)を川口スキップシティで。
客入りは全体の半分強。西ガーツ山中の僻村ば舞台でティルネッリの地名が出たような気がするが要確認。ソングは全くなし。それなりに格式ある退役軍人の家で起きた拳銃の紛失事件と過去の未解決の子供の行方不明事件をめぐるミステリー。森の恐ろしさ・不吉さを重要なモチーフとする。16年前の当主の陸軍からの退役、8年前の拳銃の登録、3年前の孫の失踪、3年ほど経った猿の死体の発見、2年前の土地の一部の売却、そして2年前の次男の妻の病死。これらが提示されていき、そこに当主の健忘症(あるいは初期の認知症)と怒れる年寄りぶりや、何やら不穏な旧友の訪問、発砲事件、人間の持ち物を攫って行く野生の猿、次男の後妻への当主の敵意、姿を見せないナクサルの脅威などが合わさって最後まで気を抜けない。『Drishyam』『Ghajini』の影響の指摘はあるのだろうが、どちらとも違う森閑・沈痛と老いの悲しみの悲痛が胸に刺さる。アーシフ・アリの演技者としての成長に驚き、ニシャンのカムバックに驚いた。出汁がしみ込んだヴィジャヤ・ラーガヴァン。
Jigarthanda (Tamil/2014)をオンラインで。
邦題『ジガルタンダ』。2020年に劇場でやった頃以来ずっと見直さなければと思っていたのをやっと。たぶん3~4回目の通し見になるのだろうけど、驚くほど喉越し良く、味わいどころを余すことなく味わえた気がする。これまではなぜ隔靴掻痒感があったのかというと、タランティーノ的な大車輪のノリがどうもテーマと合っていない気がしていたのと、終盤のギャングの回心の作為性が目立ちすぎると思っていたせい。しかしDXを見た後だと、その意図するものがすっと入ってくるし、後後に響く思わせぶりな台詞のいちいちにジンジンとくる。「芸術の白鳥となれ」「王として生きる、名誉とプライドとともに」「デビュー作でいきなり巨匠(サタジット・レイ)になろうとして…今頃巨匠(バーラチャンダル、バーラティラージャー)になってた」などなど。それからあからさまと言えるほどの『Thalapathi』からの引用とか、4年前も気づかなかったはずはないけど印象に残らなかったのか。劇場に行ってみたら思ってたのとは違う映画がかかってたというのも重要な共通点だったことにも改めて感じ入った。
Hanu Man (Telugu/2024)を池袋ヒューマックスシネマズで。2回目。
テルグ語映画のヒーローが問答無用で超人的に強いのに対して、本作がヒーローに超人的な強さを与えるのに理屈(超常的な者であっても理屈は理屈)を付けようとしているところが楽しめない原因かもしれない。底に時間を割いた分、悪役の悪やその他の部分を丁寧に描けなかった。その代わり、古典的な「訳もなく強い」が主人公の姉の属性となっているのが興味深い。これが若干の救い。
Navra Maza Navsacha 2 (Marathi/2024)をイオンシネマ市川妙典で。
149席のスクリーン4がほぼ満席。日本人は3人だけだったかも。パート1は19年も前のものだそうだ。1で子供を望んだカップルがその後娘を授かり、その娘の恋愛から始まるドタバタ。そこに宝石泥棒と間抜けな手下の話が混じる。ガンパティープレーへ全裸で巡礼というシュールな苦行が絡むのも1から引き継いだらしい。劇中人物のコミュニティーがよく分からないのだが、ともかく昔ながらのマラーティーのバラモン・コメディーの雰囲気が濃厚。夫妻が祀っているガナパティ像(ムールティと称される)が俗悪そのもののケバい飾りのものに見えるのに、だんだんありがたみが出てくるのが凄い。なんなら自分も家に祀りたいと思ったほど。そして無神論者が最終的に苦行を行い、神の御業によって回心するというアクロバティックな展開。ガネーシャの乗り物であるネズ公も役割を果たす。サチンは相変わらず前髪が不自然。婿役のスワプニル・ジョーシーはヤングの設定だけど脱ぐと凄いことになる。出発地はムンバイなのか不明。ともかくラトナギリで下車することは分かった。
Dam 999 (English/2011)をDVDで。
怪しげな日本語字幕付き。出たと自分で言ってたティラガンは姿が見えず。予想通りのスカスカのアマチュア映画。もちろん最後の大災害の6~7分を見せるためだけに作られた。そこに至るまでの様々な人々の人生行路を描くわけだが、雑過ぎて各々を突っ込む気すら失せる。では大学の映像研並みかというとそうでもなく、それなりに金を使っている気配もあるが、イージーな脚本とアートディレクションが台無しにしている。名門のアーユルヴェーダ施設の跡取りに生まれたヴィナイは船乗りになっていたが、破綻した結婚の末に引き取った息子サムの小児糖尿病の治療のため、実家に戻る。そこには彼の出奔の原因となった幼馴染のミーラが暮らしていた。ヴィナイが乗り組んでいた船のキャプテンであるフレディ―は西ガーツ山脈のエステート経営者だったアングロ・インディアンの名家の末裔。体が不自由な姉のマリアは同地の野心家の政治家ドゥライと結婚したが、半ば幽閉されたように暮らしている。etc。半年ぐらい前にいきなりSNSのチャットをしてきて日本版DVDを出すのを手伝えとか言ってたのは監督自身だったか。