Odiyan (Malayalam - 2018)を川口スキップシティで。
何というか、まとまり切らない切れ切れの感想が脳内を渦巻く大作。こういうの久しぶり。おそらくは部族の血をひくのであろう黒魔術師の家系に生まれた男が、術殺の嫌疑をかけられて共同体から追放されるが、殺しの真相を明らかにするため15年ぶりに戻るという話。その黒魔術ってのは動物に化けたりするものなのだが、基本的には依頼を受けて被害者の脅かすだけのもので、報酬も酒瓶一本という程度のもの。この辺りのおどろおどろしさの抑制が低評価につながったのかも。しかし普通に考えたら笑っちゃうしかない牛面の着ぐるみをあのスタイリッシュさで撮る技術に唸る。同時に結ばれることのない名家の女性への恋慕心も描かれて、このあたりが芝居としての見せ場。モーハンラールとマンジュの合計100歳超のラブ・デュエットの美麗さには絶句する。夜は全てを美しく包み込むのだ。何度も行ったことのあるテンクリッシが舞台というのに吃驚(ただし実際のロケは明らかに別の場所)。おそらくは1970-80年代が舞台。携帯電話のない世界というのは愛おしいものだと改めて思ったのだった。
Kondaveeti Donga (Telugu/1990)をDVDで。
某所でこれについて言及した際に、DVDに字幕が付いてることに気づいたので、手持ちを引っ張り出した。いやもう90年代テルグの全てが詰まっている感じ。反則しまくりの後だしジャンケンの波状攻撃&悪役の雑すぎる造形でストーリーはほとんど体をなしていない。ゾロみたいな装束で原野を疾走するチルの乗馬姿がただもうカッコいい。時間が来ましたって感じでストーリーの流れをぶった切って強引に挿入されるダンスの高速グルーブに脳がキーンとなる。Pathala BhairaviのビジュアルとAlluri Sita Ramarajuとが合体した謎の部族リブ映画。(一応)舞台のコンダヴィードゥ地方はグントゥールの郊外になるらしい。1958年に同じタイトルで作られた作品があるというのが気になった。NTRの警官ものではKondaveeti Simham (1981)というのもあったし、コンダヴィードゥという地名にまつわる共有されたイメージがどんなものなのか、Bobbiliと同様に探求して観なければならない。あと、ナーガバーブが大変にクールだった。
Carbon (Malayalam - 2018)をDVDで。
非常に評判が高いが手放しで絶賛はできない。カメレオンのように何度も表層が変わる作品。最初は定職に就けず危ない橋を渡る若者のスケッチとして現れ、次にはホラーに行きかけ、その後はネイチャー&アドベンチャー系、そして大自然彷徨の末に神秘的な体験を経て下界に戻るというもの。長い。とても2時間半を切るものとは思えず。劇的な改心を描くためには必要な長さなのだとは思う。親子の情愛も、男女の愛も、先住民の抑圧の歴史も、束の間浮上するが、クライマックスに至る前に末端水系のようにどこかに消える。壊滅的な駄作だったPhotographer (2006) からこっち、マラヤーラム映画には一定数の大自然交感系作品が現れるようになった。他の言語圏ならば外国にでも行く自分探しに、ケーララの衆は自州の西ガーツに向かうんだ。これは結構特異な現象ではないかと思う。トレッキングの退屈さ、パーティーの中での人間関係などを事細かに描いた後に、一人になった主人公がこれまでの人生のもがきを高いところから眺める。しかしトライブのエピソードがが置き去りにされたのがが心残り。
Timepass (Marathi - 2014)をDVDで。
一昨年あたりの個人的なマラーティー映画フィーバー期に漁った、必見ガイドのリストに必ず挙がっていた。そうじゃなきゃこんなティーンエージャー・カップルのジャケ写映画を見たりはしないのだが。捻りのあるニューウェーブだろうと思ってたらド直球の青春ロマンスだった。90年代のターネーが舞台であるらしい。自らをSingingコミュニティーと称する(しかし芸能には携わらない)バラモン一家の娘と、オート運転手の出来の悪い息子との恋。身分差と教育の差が圧倒的で経済的にも距離はあるが、かといって女の子の家が大富豪という訳でもない。主演のプラタメーシュ・パラブの漫画みたいな顔は見ていて飽きない。Sairatみたいに大惨事が起きるのではないかとハラハラするが、最終的には幼い恋は大人によって引き裂かれ、落第続きのバカ息子が、社会階梯を上るために初めて勉学に意欲を示すところで終わる。しかしこれは、慣れ親しんだ娯楽映画のフォーミュラからすればインターミッションでしかないのだがな。と思ってたら翌年にパート2が公開されたらしい。癪だが見ないと収まらない感じ。
Sarkar (Tamil - 2018)をイオンシネマ市川妙典で。
ヴィジャイの前作・前々作、ムルガダースの前作、いずれもピンとこないものだったので、期待値は低めだったけど、いい意味で裏切られた。最初の20分ほどのかったるいヒーローの紹介部分を我慢すれば、あとはローラーコースターの政治ショーで息もつかせない。キールティーには気の毒だけど、ロマンスもソング一曲だけに押し込めたのが良かった。たった一人の有権者の投票権が不正に奪われたことを民主主義の重大な危機と捉えて訴えを起こす。その訴えをメディアとSNSの力によって拡散し、まさに発足しようとしていた州政権に待ったをかけ、選挙を無効とし、再投票に持ち込み、ついには既成政党を権力の座から引きずり下ろす。これがロジカルに展開するところが凄い。そして拳固の応酬以上に言葉の応酬が凄まじい。悪徳政治家が「選挙民は貧乏にしておけばはした金でいつでも言いなりにさせられる」と嘯くと、ヴィジャイが「ジャリカットゥ」と言い返す、この一語の破壊力。しかしこれをタミルに馴染みのない観客に伝えるのは至難の業だろう。そしてそれこそがオタク心をくすぐるものでもあるのだ。
これ、後で読もう。恋する彗星――映画『君の名は。』を「線の主題」で読み解く(伊藤弘了)
以下の箇所が気に入ったので。
>誤解のないようにただちに言い添えておくと、それは監督の新海誠(あるいは本作の成立に重要な影響を及ぼしたプロデューサーの川村元気)がそのような読みを要請しているということを言いたいわけではない(彼らの思惑などはどうでもよいことだ)。作り手が自らの創作物の解釈を誤ることはそれほど珍しくもないのだし(このことは一般常識として広く共有されるべきだと思う)、そもそも人は作者のつまらない意図を斟酌するために映画を見るのでは断じてない。
『蜘蛛巣城』(1957)をDVDで。
例によって贈答用の英字幕付きが格安で出ていたので押さえで買った。よく言われることだけど、黒澤映画は劇的な盛り上がりから活舌が悪くなったりするシーンも多いことから、ところどころ英語字幕のお世話になってしまった。本当に必要なのは日本語字幕。ランタイム110分と、普段見ているものと比べれば短く、ちゃちゃっと見られそうなのに、途中息苦しくて何度か止めた。この息苦しさは何だろうと思ったが、ホラーのそれだったのではないか。通常ホラーを見る際と違い、既に粗筋・結末を知っているにも拘らず、やはり怖い。グロテスクな描写がないのに怖い。つまりホラーとして、より厳密にはサイコホラーとしてよく出来ているということ。有名な矢の雨あられシーンはもちろん凄いが、それよりも「森が動く」シーンの、冷え冷えとした湿気が足元から這い上がるようなあの感じが心に沁みた。それにしても、「●●が起きない限り、お前は死なない」(●●は通常物理的に不可能な事象)と言われて、まさにその●●が起きるというの、Bhakta Prahladaを否応なく思い出すけれど、ああいうプロットは世界共通のものなのか。
Oru Vadakkan Veeragatha (Malayalam - 1989)をYTで。
画質激悪の映像に、ネットを漂ってた素人仕事の英語字幕を苦労して乗っけて観た。この字幕アジャスト作業であらかじめストーリーの概要を知ってしまってからの鑑賞となり気持ち悪いことこの上なかったけど、待っていてもどうやらメディア化されなさそうなので仕方ない。酷いボケボケ映像でも分かるのはチャンバラとしての面白さ。文芸的で沈鬱なストーリーにも拘わらず剣戟をきちんと振り付けたのが素晴らしい。カラリで対戦する時の儀式的な所作など、まるで相撲の土俵入りのようだ。北方剣士ものは、ともかく綺想を凝らした衣装(特に女性の場合はセクシー方向に)とちゃちなチャンバラというイメージがなぜか出来上がっていたのだけど、本作では衣装や美術も重厚で、名作という評判は通説を裏返しにしたストーリーというところからだけではないことを知る。マンムーティが素晴らしいのは分かっていた(特に中年になってからの部分)けど、マーダヴィとギーターという対照的な二人の女性も魅力的。やはりこれはどうしてもリストアした美麗画像で観たいところ。
Krishna Gaadi Veera Prema Gaadha (Telugu - 2016)をDVDで。
米国Bhavaniブランドだが字幕が手抜き。Andala Rakshasiの幻想的ビジュアルと張り詰めた情念が突き抜けていたハヌ・ラーガヴァプーディ監督作だが、作家性よりはナーニのキャラが優先された感じ。設定ではヒンドゥープラとなっているロケ地が印象的。岩山はUravakonda、城塞はMadakasiraというところらしい。ストーリーは前半グデグデ、後半が異様な高密度。手術台の上の蝙蝠傘となんとやらのように、ラーヤラシーマのファクション抗争と国際テロリスト(マフィアじゃないの?)ダウド・イブラヒムとが結び合わされる。各種のお笑いが繰り出されるが、プリドヴィラージのお巡りと国際テロリストなのに手下がいないと弱っちいムラリ・シャルマとのやりとりが最高におかしかった。お笑いに徹したのはナーニ映画としては正しいが、抗争する二つのファミリーの片方を絶対的な悪の勢力とする理由付けが弱い。マハーデ―ヴァンの強面はとても良い。いつもは微かなお間抜けのサンパトラージの切れ者ACP演技が意外。
Nandanar (Tamil - 1942)をYTで。超杜撰な英語字幕付き。
先日のSarvam Thaala Mayam上映の際の監督QAでインスピレーションの源を問われた監督がナンダナールのディヴォーショナルソングを上げていたので、早速見てみた。ナンダナールはサイレント期から始まり何度か映画化されているので、これが監督の言うものだったかどうかは分からないのだが、1942年のこれが最も成功した一作だったという。ストーリーは単純で、パライヤに属するナンダンが、同胞たちのカルッパサーミ信仰には目もくれず、シヴァ神だけを崇め、身の程知らずを咎めるバラモンの地主を神の奇跡によって改心させ、ついに念願かないチダンバラム寺院ニューウェーブ赴き本尊の踊るシヴァ神を参拝するというもの。この時代のものだから、不可触民の土俗的信仰は徹底的に否定される。肉食、飲酒、鳴り物、憑依、動物供儀、ダップを主にした陶酔的な音楽などがその特徴とされ、微かな仄めかしとして性的な放縦も描かれる。サンスクリタイゼーションという言葉が発明される以前に、その概念の完璧なサンプルが示されている。カルッパサーミ映画を見なくては。
[2001年宇宙の旅」IMAX版をTOHOシネマ日比谷で。途中休憩ありの上映。
この年になるまでまさかの未見の有名作はいくつかあってこれもその一つだったが、劇場でIMAXという最高のコンディションで観られてよかった。未来予想型の作品ではないにしろ、2001年という設定の作品を17年後に見るというのは、やはりそこはかとない内省とノスタルジーを伴う行為。同時に初見なので全てが新鮮。あの宇宙船の無数の突起や溝にはすべて意味があるのか。現代の航空機や高速列車と全く違う設計思想。最初の方の宇宙ステーションは60年代のモダニズム美学、最後の方の突入シーンは70年代のサイケの先取り。結果として並行世界的になってしまったのは、会議シーンでのカメラが拳銃型なのと、宇宙旅行にたずさわるのが白人だけというところか。難解だと言われるが、各々のシーンの意味するところの詩的なレベルでの解釈はそれほど難しくはないと感じられた。そして各人があーだこーだと諸説を展開しているのを読むのは楽しい作業になる。眠った人も多いというが、宇宙の森閑を長回しショットはやはり必要だったと考える。4年後の「惑星ソラリス」も否応なく思い出さ
『世界はリズムで満ちている』続き。
イタい人が湧くことの多い上映後QAは苦手なのでなるべく避けるようにしてるけど、昨日は訳あって参加。最初の1,2問は主催者の仕込みを疑うような整然としたタメになる質問。次にパキスタン人の映画監督という人が出て、その後チェンナイ出身の色黒な人の質問。これが苛烈なもので、バラモンとダリトをステレオタイプ化して描いていないかというのと、ダリトの役がバラモン俳優によって演じられている(誰?つまり白人が黒塗りして黒人役をやるに等しい)というもの。こういうアメリカのポリコレ的な視点からの批判は新鮮。対する監督の答えというか弁明も、大変にのらりくらりしたもので、ポイント高かった。それから、主人公はラストで師匠の助言に反してフュージョン的なところに行ってしまうがいいのかとか、これは何となく通訳が上手く行かなかったようで、満足の行く返答が得られず。影響を受けた映画を問われてナンダナールのバクティ作品を挙げていたのが刮目ポイント。そういや、クマラヴェールは確かに黒塗りしていたな。それからFCの献血活動ってのは血の気の多い連中を大人しくさせるための方策じゃないかと思った。
『世界はリズムで満ちている』Madras Beats / Sarvam Thaala Mayam (Tamil - 2018)を東京国際映画祭で。
典型的な芸道ものフォーマットの一作。芸道ものに不可欠な、①芸能自体の階層性(打楽器より声楽が偉い)②奏者の資格(もろにカースト)の問題③俗世間との対立(TV出演を許さない師匠)④世俗的な幸せの断念(恋に没入できない)⑤形骸化した権威主義(女性声楽家の伴奏を拒む師匠)との闘い⑥貧困との闘い⑦挫折や破門⑧ライバル同士のバトル⑨避けられない異ジャンルとの共存(音楽行脚の旅など)⑩ともあれ何らかの形で実現しなければならない衣鉢相伝、などの要素が130分にぎゅうぎゅうに詰め込まれた。印象に残るのは②、クライマックスの〆はお約束の⑧を持ってきた。正直に言えば、冒頭のヴィジャイ・オマージュのシーンは、本物のヴィジャイ映画と比べるといかにもインテリの考えた作り物風だし、中盤のダリト集落での哀歌も、パ・ランジットの力強さを知っているとイマイチ。ただ、最後の対決で、打楽器での勝負の勝敗を、見巧者でない観客にもはっきり分かるよう作り込んだ音楽の力は凄い、ARR凄い
Yavanika (Malayalam - 1982)をDVDで。
タイトルの直訳は「緞帳」だが、意味としては「劇終」なのだという。歴史的な名作とされる殺人ミステリ。しかしその謎解明のプロセスは、死体発見現場に容疑者のイニシャル入りキーホルダーがあったとか、凶器の酒瓶を接合したら一片だけ抜けていたかけらが別の場所で見つかったとか、捜査の結果として順当に証拠が見つかったというの素朴極まりないもの。これは他のケーララ製「ミステリ」とも共通している。主眼はあくまでも心理の綾を描くことにある。ヒロインであるジャラジャの繊細さとか弱げな雰囲気には心打たれる。けれど衆目の一致する通り、演技で飛びぬけていたのはバラト・ゴーピの演じる悪役的被害者。巨悪ではない、けれど壊れきっていて手の施しようもない悪役を異様な迫力で演じた。ミステリとしての物語の構成上は、死体になることにしか意味がない存在であるにもかかわらずだ。つまりやはりこれはミステリではないのだ。そして当時の舞台劇(見たところ左翼系ではないようだ)の克明な記録が大変貴重。演劇界を扱った映画作品としてこれはNadanとセットにして見られるべき一本。
Ee.Ma.Yau (Malayalam - 2018)の続き。
の晦渋な長文レビューを読むと、これがいわゆるダリト映画の流れに連なるものであることが細かく検証されている。少なくともLJP監督は初期二作を除けばクリスチャンというカースト(信仰ではなく)のポートレイトを描くのを一貫したテーマとしていることは明らか。そして、美男美女が一人もいない、リアリティ溢れるキャスティング。特にヴィナーヤガンが友人思いの苦労人&常識人を演じているのが凄いと思った。主役のチェンバン・ヴィノードの、最後に見せる感情の暴発は、ソール・ベローの『この日をつかめ』を思い出させるところがあった。もちろん、類似はそれ以上の意味を持たないのだが。ともかく、昆虫の観察日記風の人々の生態の極めて醒めた描写と、ラストシーンに代表されるような超越的な何ものかを暗示する神秘的なシーンとのミックス具合が、脳のいつも使わない部分を刺激する、としか今は言いようがない。少なくとももう一度見なければいけない。
Ee.Ma.Yau (Malayalam - 2018)をDVDで。
注目のLJP監督作品。全編の半分が夜中、残りがモンスーンの驟雨の中というダークな作品。それを超絶のカメラワークで見せる。前年に映画祭上映され、今年になって劇場公開されたという。その点を取り上げると、よくある芸術映画のお仲間になりそうだが、やはり何かが違う。この感じを言い表せる語彙をいまだ見つけられない。http://www.opendosa.in/three-tight-whacks-and-the-book-of-avarna-revelations-in-ee-ma-yau/の晦渋な長文レビューを読むと、これがいわゆるダリト映画の流れに連なるものであることが細かく検証されている。少なくともLJP監督は初期二作を除けばクリスチャンというカースト(信仰ではなく)のポートレイトを描くことを一貫したテーマとしていることは明らか。そして、美男美女が一人もいない、リアリティ溢れるキャスティング。特にヴィナーヤガンが友人思いの苦労人&常識人を演じているのが凄いと思った。s百のチェンバン・ヴィノードの、最後に見せる感情の暴発は、ソール・ベローの『この日をつかめ』を思い出させるところがあった。もちろん、類似はそれ以上の意味を持たないのだが。ともかく、昆虫の観察日記風のきわめて醒めた人々の生態の描写と、ラストシーンに代表される超越的な何ものかを暗示する神秘的なシーンとのミックス具合が、脳のいつも使わない部分を刺激する、としか今は言いようがない。少なくとももう一度見なければいけない。
『バジュランギおじさんと、小さな迷子』Bajurangi Baijaan (Hindi - 2015)を試写で。
既にDVDで鑑賞済だったので、細部のハヌマーン信仰との呼応を考えながら見ることができた。ハヌマーンの特質は①武闘派(怒らせると怖い)②単細胞で一途な心(嘘がつけない)③童貞④自身がラーマ神に対する信仰者であること、というあたりにある。そして作中ではこれが見事にキャラクター設定に活かされているのだ。同時に、バジュラング・ダルに代表されるようなミリタントな原理主義者たちの旗印になりやすいということも。実際に最初のソングのようなサフラン色/赤色の洪水は、使い方によってはマイノリティーに対してかなり威圧的なものになるはず。そしてもちろんそれがストーリー全体に劇的な効果をもたらす。さらに加えて、ハヌマーンは一般信徒から崇拝されながらも、自身はラーマ神の一途なバクタであるという点。これが決め台詞であるJai Sree Ramに結実している。つまりヒーローはもちろんヒロイズムを発揮するのだが、観客の崇拝を一身に浴びるのではなく、その先にある真の神への信仰にいざなうという構造。脚本の勝利。