Amigos (Telugu/2023)をイオンシネマ市川妙典で。
カリヤーン・ラームの本格的な主演作を見るのは初めて。カリヤーン兄ちゃん、一緒に並ぶとジュニアより大柄なんだが、オーラが足りない。ドッペルゲンガーを探すというウェブサービスで出会った3人が急速に仲良くなるが、そのうちの1人は指名手配中の死の商人で、そっくりさんを自分の代わりに仕立てて警察に殺させて、その相手に成りすまして国外逃亡を図るというスリラー。他人の空似はコメディーか生き別れのメロドラマかが大概のとこだけど、クライムで来たか。テルグ人、カンナダ人、ケーララ人の3人が激似で都合よくテルグ語を話すという設定以外は難なくまとまった展開だが、難がないため驚きもない。ロマンス部分にはストーカー&チートがあるがこれはテルグの標準か。3役のうち悪役が一番面白くなるべきところだが、眼鏡君の方が似合っていた。同じ3役もの、ついJai Lava Kusaと比べたくなるが、演技では全然問題外。ただ顔をしかめる時の苦虫の嚙み潰し方はよく似ていた。大根でも親父のハリクリシュナぐらいのレベルだとまた味があるがそうもいかず。ダンスの技能は未知数。
わたしはバンドゥピ(반두비、Bandhobi、2009)をユーロスペースで。
イスラーム映画祭にて。以前別の映画祭で『ソウルのバングラデシュ人』の邦題で上映されたという。旧題で大体どんな話かは分かり、その通りだった。先進国的贅沢な悩みを抱える幼い17歳と、チッタゴンから来て肉体労働に従事し、韓国語も流暢に話すバングラデシュ人。この二人の対比からは当然韓国社会への痛烈な批判しか生まれず、実際青年は直截に「韓国人は醜い」という台詞を口にする。少女は自分の知る唯一のやり方で彼を慰めようとするが、それは過激すぎて失敗する。やっと二人が心を通わせたところで青年は不法滞在で捕まり強制送還される。少女は家を出て自立を模索する。全編を通してイタいのは、韓国とバングラデシュとの間での互いに対しての情報の不均衡。舞台は韓国だから仕方ないのだが、青年は韓国語をマスターし、韓国社会の隅々を知悉しいる上に、英語の世界の隠語まで知っている。それに対し、少女を始めとした韓国人キャラはバングラデシュについて何も知らない。終盤で彼女がバングラ飯屋で手食をするシーンも逆にイタい。ベンガル語を学ぶシーンだったらよかったのに。
Dada (Tamil/2023)を川口スキップシティで。
「トリシュール行きの列車に乗って」という歌詞が謎だったが、どうもヒロインがマラヤーリ設定であるらしい。婚前交渉からの妊娠により心構えもできないうちに実質的夫婦生活を始めた若いカップルが喧嘩をして、夫が不貞腐れて電話に出ない間に妻は出産、けれども子供だけを残して夫の元から去ってしまう。夫は絶望しつつも何とか子育てして、数年後に職場で妻と再会し、そこから再び揉めるというストーリー。デビュー監督に無名俳優の組み合わせなのに異様なほど評価が高く、特に前半をnaitivityとrealityという語を多用して賞賛するレビューを読んだ。ただし、クライマックスだけは承服できない。古臭い親子泣き別れメロドラマの「運命の悪戯」みたいな手法が使われ、ビジュアルで「子は鎹」が表現されてげんなりする。シングルファーザーものだったらもっとリアルに子育ての苦労を描かないと。謎は幾つかあり、異様に献身的な友人の存在(ゲイ映画なのかと思ったほど)、それから主人公の経済状態の振れ幅。出産前は北チェンナイの団地みたいなところにいたのに後半では瀟洒なフラット住まい。
Vaathi (Tamil/2023)を川口スキップシティで。
観客にタミル人が少なすぎ。タイトル以外の情報なしで臨み、冒頭にトリヴィクラム、バナーにNTRシニアが出てきて吃驚。監督はテルグの人だった。スマントの無駄遣いに涙。わざとやってるかと思うほど阿南先生30と似てるけど、サムドラカニの悪役はリアリティーに欠けて弱い。「E」の文字の独特の書き方。アルナーチャラム上映と思いきやまさかの特別上映でそこからまさかのマサラ上映になだれ込むシーンは凄い。村八分というか村からの追放とか、パンチャーヤトで決めてしまえるものなのか。先生をかばうと自分たちも村から追放されると言う父親に対して「どのみち俺らは村に入れないし、寺院にも入れてもらえないじゃないか」と言って先生をかばう生徒の台詞が痛い。その辺りからだんだん寓話風なテクスチャーになって行く。やりすぎな野党政治家を演じてたのはタンビ・ラーマイヤーか。旅芝居での演目がラーヴァナだったのには意味があったのか。懐かしいバーラテイラージャーのカメオ。ただし、インド教育ものは機会さえ与えれれば驚異の学力を発揮するキッズしか出てこないのがやはり難しいところ。
Hamid (Hindi/Urdu - 2018)ををTUFSシネマで。
邦題は「ハーミド~カシミールの少年」。金子淳氏の解説付き。TKF以来意地になって観続けているカシミールもの。「無垢な子供の目から見た」系だと困惑するだろうと予測してまあそれは当たっていたのだけど、電話番号を巡り対立する2者が奇跡のように繋がるという面白い展開があった。ただそこから何かマジカルな飛躍が起きるのではなく、ごく常識的なやり取りで終わってしまったのがやや不満。サウス映画で主人公がカシミールに出掛けて行き、悪いムスリムをやっつけ、良いムスリムから感謝されるという頭悪いプロットを見慣れているので、本作のようなものをやはり見続けていかなければという気になる。解説で冒頭近くで父がほんの数分間行きずりの葬列に加わるシーン、あるいはゲリラの葬儀なのかもしれないとの指摘、あああと思った。I amにあったように、普通の人間がゲリラと化すような状況があり、だからこそ軍も住民すべてが信用できずに簡単にぶっ放す状況がある。父親の書いた詩と軍人が朗誦する愛国詩とが対照されるシーンが興味深かった。出てくる詩はいずれも素晴らしかった。
Shehzada (Hindi/2023)をイオンシネマ市川妙典で。
いつもと違い日本人が少なく、多分5人以下。インド人は子連れ女性が中心という意外さ。Ala Vaikunthapurramulooのリメイクということで期待値も字幕読みの緊張感も低く臨んだ。オリジナルの165分に対してこちらは140分ほどとコンパクトになっている。ヒーロー&ヒロインのフランス旅行のくだりを省略して「問題を抱えた名家で外から来た異分子がかき回した末に家族の紐帯を回復させる」という基本形がより鮮明になった。原作脚本の最大の問題点、ナワディープのエピソードと結末の血統主義みたいなおかしな展開は上手く調整したと思う。でもただそれだけなんだ。アッル・アルジュンのスワッグというのがどれだけ原作のエッセンスだったかが痛いほど分かった。カールティク・アーリヤンという俳優の退屈さだけが印象に残るファミリー映画。そしてヒーロー以外のキャラクターの極端な類家化と単純化。唯一ラージパール・ヤーダヴだけが客の笑いを誘っていた。ヒンディー語は自分でも聞き取れるほどに単純で明瞭な発音でなるほどこれが最大公約数狙いの映画作りかと思った。
Cobra(Tamil/2022)をヒューマントラストシネマ渋谷で。
渋谷インド映画祭の英語字幕枠。二度目の鑑賞。仮の邦題は「コブラ」。60席中16ほどが埋まっていた。公開時の180分から20分もカットされたバージョン。話が単純になって分かりやすくなっていた。どこをカットしたのか知りたくて以前にフルバージョンを見た時のメモを取り出してみたけど、終盤で2人が揃った後、トラムデポ~広告塔で戦って滑り落ちて意識不明になる怪我をしたのが弟の方だったと書いてあった。その後兄のカディルが弟マディになり切ってカディルの悪行を告発し、髪の毛も切ってCBIに協力する。この部分が完全に削除され、また広告塔の上で大立回りを演じたのは弟ではなく兄のカディルに変更。一人二役ものながら、敢えて外見上の違いをほとんど作らない演出だったからこういうことができたのか、それともこういう事態を見越して別バージョンも撮ってあったのか。考えても仕方ない。まあともかくゴスペルを歌うスコットランド国教会の牧師とか、あのよく分からないロックスターとかいろいろ笑える。母親が死刑になるくだりも。アーナンド・ラージとのシンクロ演技がいい。
Vendhu Thanindhathu Kaadu Part 1: The Kindling (Tamil/2022)をヒューマントラストシネマ渋谷で。
渋谷インド映画祭の英語字幕枠。二度目の鑑賞。仮の邦題は「焼け焦げた森/第1章:発火)。席数60でまるで試写室だったけど、映画が始まればそういうことは忘れる。観客はいつも川口あたりに来ているメンツ+数人という感じで65%ぐらいの埋まり方。再見で幾つか分かったことはある。終盤でサラヴァナンの裏切りが分かった時、自分の手でお前を殺しはしないと言いながらもムトゥはその場の他の男たちに目配せをしていた。それから序盤で出てくるセルマドゥライとムトゥの母の間には昔何かがあったのかという疑問。彼をおじだと言うムトゥに対して、「母方か、父方か?」とアンナッチに問われるのだが、答える前に場面が終わってしまう意味深さ。ラウタルは死んだのか、シュリーダルはあの後どうやって恋人と共に逃げおおせたのか。続編で分かるのだろうか。Marakkuma Nenjamは久しぶりにラフマーンの底力を感じさせられたソング、あの明るい歌を運命の激流に流されていく主人公に重ねる妙。
Salaam Cinema(Iran/1995)をアテネフランセで。
「イラン映画を福岡の宝物に(AIFM)」プロジェクト東京上映会の一環として。映画百年を記念した作品の公開オーディションに数千人が集まる。ほどんどがド素人。100人ほどに絞られてから監督と撮影スタッフがいるホールで実質的選考が開始される。その模様が複数のカメラで撮影され、それ自体が作品となったのが本作。映えるやり取りが選ばれて本編中に使用されればそれが俳優デビューになるという理屈で、面白くはあるけど、結局応募者がカメラに晒すのはオーディション応募というプライベートな行動である点が搾取を感じさせる構造でもある。監督はもちろん意地が悪い。けれどもそれ自体も演技かもしれない。色々なことをやらせるが、最後には「笑え/泣け」が試金石。ほとんどの応募者がいきなりそれは無理だと言う。しかしその抗議の仕方でも、男は弱弱しく、女は強気で我儘。演技などしたくないけど、映画に出ることでビザ受給資格ができて国外に出た恋人を追っていけるかもしれないという若い女性。二人の女性を相手にしての「芸術家は冷酷/温かい人柄であるべきか」という長々しい問答。
Once Upon a Time, Cinema(Iran/1992)をアテネ・フランセで。
「イラン映画を福岡の宝物に(AIFM)」プロジェクト東京上映会の一環として。不覚にも睡魔に負け、クライマックスを見逃す。しかし起きてた部分はエラい面白さだった。活動写真屋がシャーに召されて宮殿に行く。そこで上映するのがイラン映画史の歴代の有名作品で、ときどきその映画の作中人物がスクリーン外に出てきたり、スクリーン外の人物が映画の中に入り込んだりするドタバタコメディー。イランの最初のトーキー映画はDokhtar-e Lorというので、これはボンベイのインペリアル・フィルム・カンパニー製作、監督はアルデシル・イーラーニーだというの、実質的にインド映画じゃないかと思った。「テヘランに来るがいい/テヘランは綺麗だけど、人の心が腐ってる」というような決め台詞が何度か繰り返される。ヒロインのゴルナルに惚れたシャーが彼女をハーレムに向かえるというので、寵姫の一人が大騒ぎする。その寵姫は例のQajar王女と同じ不思議ワンピースを着ていた。シャーが子らにも映画を見せよと言うと80人超の子供たちが出てくるシーンも。
Hunt (Telugu/2023)をイオンシネマ市川妙典で。
客は自分を入れて5人。事前にマラヤーラム語映画Mumbai Policeのリメイクと知ってたのでどのように翻案されるかとの興味で見に行った。ちょうど10年前のオリジナルは推理ドラマとして秀逸ながら、作劇の根本に問題を含んでいてガッカリしたので、それがどう克服されたのかが焦点だったが、全く変更なくお色気ソングとアクションが付加されただけで脱力。同性愛の絶対的罪悪視の上に組み立てられたストーリー。だいたい、記憶喪失になっても好みの煙草の味は覚えてるのに、自分の性的指向性だけは忘れて、同性に迫られてゲロ吐く(そのショックで記憶を取り戻した?)とかロジカルじゃないし。それでも一部レビューでbrave attemptとか評されていてマジか?となる。スディールはパッとしない俳優にありがちな筋肉ショー。バラトの方も落ち目の哀愁。シュリーカーントもオリジナルでのラフマーンに比べてどっと落ちる。カシミールでの対テロリストのオペレーションの部分は意味不明。同性愛を禁じる法律が最高裁判断で最終的に違法とされたのは2018年。時が完全に止まってた。
Gandhi Godse - Ek Yudh (Hindi/2023)をイオンシネマ市川妙典で。
観客は10人ぐらい、インド人には圧倒的不人気。キャッチコピーにWar of Ideologies。イデオロギーは劇中ではवैचारिकだったかな。狙撃事件の後、命を取り留めたMGとゴードセーが同じ房に収監されて対話するという舞台劇のような空想歴史もの。大勢に支持されている本流とカルト的な少数派の意見を同一平面上に乗せて「両論併記」とすることはつとに批判の的となってきたが、本作はそれをあえてやってみた挑戦的な作劇。なので紙芝居的な演出も大目に見ようという気にはなったが(要所要所に新聞の見出しを挟み込んで要約させた)、肝心のイデオロギー論争が途中でウヤムヤになり(というか取り付く島もない平行線のままで)何か情緒的な部分で両者を和解させてしまった。MGは基本的には上手。MGが理想の村社会を作ろうとコミューンを作りそこで王のようにふるまいインド憲法に違反した廉で収監されるというプロットは秀逸。それからMGのコングレス解散提案を結局なんだかんだ言って退けてしまう閣僚が英国式ティーをたしなんでるあたり。
Thunivu (Tamil/2023)をイオンシネマ市川妙典で。
ハードなガンアクション。こうなるともう被弾するかどうかは撃ち手の技量よりも確率の問題。チェンナイのアンナー・サライにある大銀行。腐敗警官が仕組む重武装での銀行強盗。しかし警官は最後に実行犯を射殺するつもりでいる。計画通りに事は進むが、行内で白衣・白髪の男ダーク・デビルがマシンガンをぶっ放して邪魔をする。強奪するのは自分のチームだと。彼は警官チームの武装を解き、自分に従わせる。大金庫が開き、札をカウントする作業が終わったところで、命じられるまま案内していた銀行員がダーク・デビルに襲い掛かり、一時的に主導権を握るが、返り討ちに会う。これで3つの勢力が金を狙っていることになる。その後過去の因縁話が出てきて、それをダーク・デビルと繋げるのにはやや無理があるが、アジットのゴーマン威張り芸が最高に気持ちよくて、だんだん捩れて分からなくなっていくストーリーのことは忘れられる。バガヴァティ・ペルマール演じるプチ汚職警官と、それにベッタリの古狸レポーターとの間のやり取りが妙に面白かった。ポッケに手を突っ込んだまま撃ちまくるマンジュが最高。
Veera Simha Reddy (Telugu - 2023)をヒューマントラストシネマ渋谷で。
祝祭シーズン激突テルグの2作目。こちらはずっと同じハイテンション。イスタンブールでレストラン経営の女性とその息子。息子が恋をして結婚話になったので、訳あって生き別れていた父親をインドから呼び初めて対面させる。そこから父のラーヤラシーマでの行跡が辿られる。父はいつものように村の守護神で、具体的な生業はなさそう。重度にナラシンハのイメージがちりばめられたファクション抗争。アクションは初っ端から飛ばし過ぎて後半はややマンネリ化していたかも。ともかく景気よく腕や首が飛ぶ。Totally 12 Action episodesとする記事があった。ハンニ・ローズが父の恋人役というのは意表を突くキャスティング。ほんの一瞬のセダクトレス的場面のために選ばれたのか。62歳バラクリの母役や育ての父親役などが明らかに実年齢では年下なので、クラクラする感じ。ドゥニヤ・ヴィジャイもまた2代を演じているがこちらは非常に良い。演じ分けもしっかりしてる。ヴァララクシュミの演じたキャラクターはパダヤッパのラムヤを思わせる。
Waltair Veerayya (Telugu/2023)をヒューマントラストシネマ渋谷で。
前半は驚異的なテンポの良さと面白さ。マレナードゥの田舎の警察署で起きた惨劇。復讐を誓う生き残りがマレーシアに逃げた主犯ソロモンに報復しようと誘拐請負人を雇う。なぜかそこから舞台はヴァイザーグに移り、漁師かつ密輸業者であるワルテール登場。マレーシアでの珍道中。ケチな犯罪者である主人公が密輸(ブランド品や高級洋酒)をしてるってのがレトロ。ソロモンを血祭りにあげるインターミッション前アクションはブチ上がる。後半になって登場のラヴィ・テージャは死亡フラグを背負っていて辛い。全盛期が終わったことは十分わかっていても、なんだか一回り縮んで見えた。久しぶりに登場のシュルティは大変良かった。セクシーすぎるホテルのバトラーからRAWの工作員への変貌、そして一瞬のお色気シーン。実際は知らないが、お飾りセクシー要員のキャラも余裕でこなしている感がいい。それにしても同時公開VSRと、ヒロインのキャスト、腹違いの兄弟・兄妹設定とか、最終的には一刀両断の斬首とか、共通しているのが不思議。ボビー・シンハの存在感も良かった。
Varisu (Tamil/2023)を川口スキップシティで。
ヴァムシ・パイディパッリ監督+ディル・ラージュがヴィジャイと組むという異色の顔合わせだが、世評通りまんまテルグ映画だ。ヒーローの首だけヴィジャイにすげ変わってるような異様さ。またはヴィジャイのテルグ語映画初主演作のタミル語吹き替え版か。ビルが林立する町の風景はハイダラーバードに見える。メインの舞台も例によって会員制の超高級リゾートみたいだし、室内はフラワーショーか何かだろうかという非現実感。最高級ファッションの展示会でもある。KGFみたいな鉱山と荒くれ沖仲仕のいる港湾のシーンは刺身のツマ程度のもの。大企業オーナーの3男が自由を求めて家出するが、末期癌が判明した父のそばにいるために帰還して、企業トップの座を継ぐ。上の2人の兄はそれに怒り父に敵対してきた企業人と手を結び、一家は瓦解する。末っ子は機転と誠意とでライバル企業を打ち負かし、兄たちの心を溶かして一家の和合を取り戻すというストーリー。既存作ではAla Vaikunthapurramlooが一番近いか。シュリーカーントとシャームの脇役ぶりに涙。テルグとタミルの違いのお手本。
『バリー・リンドン』(USA/1975)を国立映画アーカイブで。
3時間5分、途中10分の休憩付き。これを以前に一回だけ観たのは多分大学生時代だったと思うので、何年ぶりかとか考えるだけでも恐ろしい。あの櫛で梳くように兵が死んでいく戦闘の場面と、マリサ・ベレンソンの立ち姿だけしか覚えておらず、新鮮に見ることができた。アイルランドの没落貴族の末裔が行き当たりばったりのハッタリと幸運とで成り上がるが、貴族社会の壁と運の尽き(あるいは生命力の減退)によって敗れ去っていく様を昆虫の観察日記風の突き放した視線で、しかし執拗に追った一代記。決闘に始まり決闘に終わる。小悪人や悪人が登場し、感情移入できる者やできない者が入り混じるが、神の視点からはいずれも歴史の渦の中に消えていく駒でしかない。啓蒙主義の時代の偉大は見当たらない。時代精神の表出という、普段見ている某国映画ではあまりお目にかからないものを久しぶりに堪能した。マリサ・ベレンソンはもっと大味なルネサンス的な大女の風情だと記憶していたが、むしろ60~70年代のポップ&サイケのテイストが勝っていた。資料:https://kubrick.blog.jp/archives/cat_50010625.html
Nayak (Bengali/1966)を国立映画アーカイブで。2回目。
今回は字幕を噛みしめながら。知性の翳りとエッジのきいた映像だけではなく、芸道もの的要素もあるのに気づいた。まず師匠であるションコルとの間での演劇と映画を対比した問答。映画俳優は操り人形、映画に芸術はないと言い切る師匠。俳優としてのデビュー作で新人だが主演俳優である主人公にハラスメントをするベテラン俳優。主人公にベタな演技を無理にさせる。その4シーンの不本意に臍を噛む主人公だが、映画は大ヒットして彼はスターになる。その後「フロップが3回続いた」せいなのかベテラン俳優は尾羽打ち枯らして助けを求めてくる。そしてインタビューを申し込むオディティに対して、知らない方がいいこともあると告げる(全部話したらファンを失う。我々は光と影からできている。全部を晒すべきじゃない。我々が血と肉からできることは秘匿すべき…というような内容)。既婚なのに未婚と偽り主人公と関係を持つプロミラと、映画界入りを望むボースの妻とは対になっている。映画がいかがわしいと思う人もまだ多かった時代を活写。シナリオhttps://www.scripts.com/script/nayak_14622
ROBOT & FRANK (USA/2012)をDVDで。
邦題は『素敵な相棒 フランクじいさんとロボットヘルパー』。某国某作がこれのパクリなのではないかとの疑惑の検証で。結果としては、着想の元にしたのは確かだがパクリではないというところ。邦題は無理にヒューマンドラマにしようとしているが、実際は、老いの悲しみ、先進的な人間への反感、感情がないのでブレというものがない機械への信頼、このあたりが中心テーマ。近未来のNY州で見当識障害出てきた父親にロボットをあてがう息子。最初は反発した父も次第にロボットに依存していくようになる。ロボットは善悪の判断を行わないので、老人の家宅侵入+窃盗の手助けもするようになり、大いに活躍する。容疑者として逮捕しに来た保安官らを相手に頭脳的に立ち回って追及を逃れる。肝となるのは、ロボットだから感情は持たないが、サービスする相手の言動から計算して方便としての嘘もつくこと。この部分がまるで感情を持っているかのように見えるのが面白い。パワーエリートのヤッピーの厭らしさも十分に描かれていた。認知症になりながら泥棒人生最後の大仕事をやり切った爺さんの得意気なラストがいい。
Kurup (Malayalam/2021)をNTFLXで。
ややこしそうなストーリーだと思ったが存外スルッと観られてしまった。犯罪者が主人公の本格的なピカレスクロマン。その犯罪に情状酌量の余地はなく、社会に対する異議申立ての要素も全くない、純然たる悪人の物語。変装で七変化するシーンが最大の見どころか。当人が殺人に手を下す描写はなく、他人を煽て凶悪犯罪を行わせる男。しかし粗暴な部分もあって、プライドを挫かれるような懲罰を受けたり、みっともなく逃走したりもする。山場はチャーリ殺しの場面。あっけなく殺される被害者をまさかのトヴィノ・トーマス、泣きくれる妻をアヌパマが演じているとは。ペルシャと言いながら明らかに中東なのは、政治的な配慮か。アレクサンダーという第三の名前は親父様のSamrajyam (1990)へのオマージュか。ただ大衆映画というメディアにおいてピカレスクをやるなら、「何だかイカした奴」提示だけではなく、病んだ部分をきちんと描出すべきではなかったか。警察車両の運転手に化けるくだり、中東のオイルマネーをどのように手玉にとったのかなどはもう少し丁寧に映像化してもよかったのではないか。