A.R.M. [Ajayante Randam Moshanam] (Malayalam - 2024)を川口スキップシティで。
7割近く埋まる盛況。舞台は北ケーララでヤクシャガーナ芸人などもいる地域。複雑な1人3役。1900年頃の戦士。土地のラージャを助け、褒美として稀少な女神像形の燭台を得る。被差別民の女性と愛し合うが天然痘で死ぬ。1950年代の大盗賊。ラージャから与えられた燭台がレプリカであると知り本物を盗み出し、滝に追い詰められ死ぬ。1990年の電気工アジャヤン。ラージャの末裔スデーヴに弱みを握られ、オリジナルの燭台を探すことを強いられる。祖父のせいで日頃から盗人扱いされている。上位カーストのラクシュミと恋仲。被差別民なので寺院に入構できない。監督は本作が長編デビュー。知ってた訳じゃないけど、見ていて色々ヘタクソな部分が目についた。ところどころジャッリカットゥ、別のところでカーンターラ、他ではブラフマーストラもどき、でもやっぱりオリジナルより劣る。被差別民/クリミナル・トライブのモチーフの取り込み方も安っぽい。それからワチャワチャ出てくるいい顔軍団も世代交代が生きてることを実感。
Jigarthanda Double X (Tamil/2023)を新宿ピカデリーで。
『ジガルタンダ・ダブルX』のFDFS、157席のシアター8にて。埋まり方は75%ぐらいだったか。日本語字幕版を劇場で見るのは初めて。思い出したこと、あの重そうなマスクはアーヴィング・ペンが撮ったニューギニアのMud Man。『Godfather』は1972年公開。『Apoorva Ragangal』は1975年の8月15日公開!最初の方の学園祭はよく分からないけど、独立記念日とディーパーヴァリがはっきりテロップで出るんで、時系列は追いやすい。もっと細かく検証できるかも。初見でなくともやはり引き込むのはサナーの音楽。普通にお気に入り曲をリピートするのと同じく「来るぞ来るぞ…」と待ち構えて流れに身を任せる。サナーの音楽もそうだけど、KSは本当に世界を見た男なのでクリント・イーストウッドからアフリカ系女性ミュージシャンまで世界のサブカル要素を入れ込むのが巧い。その巧みさをもってして、世界を知らなかった時代を描くのだ。調べ直してみたけど、TVが一般家庭に本格的に普及し始めたのはやっと1980年代になってから。
The Greatest Of All Time (Tamil/2024)をユナイテッド・シネマ アクアシティお台場 で。
612席が85%以上埋まってたかも。そのうちの3割以上が日本人という感触。VP's Heroのタグは通例に反して最初に出た。プラシャーント、アジマル以外にも懐かしい顔が山ほど。昔『Jeans』(1998)がインドのCG技術力を世界に見せるための作品(たぶん穿ち過ぎの深読み)と言われたけど、本作はAI作画技術のデモみたい。他人の顔そっくりなマスクなど、前世紀の粗雑なアクションのトリックだったけど、今は実現に近づいてる。最初のシーンのVJKはVJKとヴィジャイのハイブリットのようで、何とも言えない感触。後半の10代ヴィジャイの出演も。イライヤ・タラパティのビジュアルにはどのくらい加工が入ってるのか。台詞は無数の引用に満ちており、字幕は忠実にそれを拾う。意表を突くキャスティングの嵐。3人の相棒はいずれも裏切りそうな風情。クライマックスでの悪成敗シーンの「お前は誰のファンだ?」の下り、それからエピローグのクローンのくだりはak絡みだと思うのだけど、あそこが分かりにくかった。
Indra (Telugu/2002)を川口スキップシティで。4kリマスター版。
インドラの親族を皆殺しにする。怒り狂ったインドラはシヴァレッディと弟の一人を除いて一家の男たちを報復で殺す。その場にいた花嫁姿のスネーハラタはインドラへの復讐を誓う。シヴァレッディは若い弟を使い、インドラの姪と懇ろになり、結婚に持ち込むが、固めの儀式が終わった後(?)に正体を現して花嫁を捨てさせる。妊娠していた姪は自殺を図るが、すんでのところで救われ、最終的には夫と一緒になる。インドラはシヴァレッディと最終決戦。命をとることはせずに打ちのめして大団円に。
忘備録:和解としての縁組と、そこで起こる裏切りの゙繰り返し/警察は仲介するだけで裁かない/大衆とともにあるチルの姿
ヴィーナー・ステップ/両手に花、エロティシズムを含むギャグ/鬼神の怒り/前半の舞台がヴァーラーナシーであること、シュローカの朗誦、神の怒りを表すかのようなアクションの演出などなど神話言及の多さ/神そのものというよりも、神の祝福と信任を得て大衆のリーダーとなる男/“称え役”のサイドキック/カーシーではシヴァを称え、シーマではヴィシュヌを称える
Indra (Telugu/2002)を川口スキップシティで。4kリマスター版。
ヴァーラーナシーに暮らす実直なタクシー運転手シャンカラナーラーヤナ。声楽家を志す姪と暮らすが、彼自身が超絶の歌い手。UP州の知事として赴任したテルグ人チェンナケーシャヴァの゙娘パッラヴィは一目惚れして彼の家に押しかけて同居。怒ったチェンナケーシャヴァはグーンダを差し向けてシャンカラの家の者たちを誘拐するが、シャンカラは獅子奮迅の働きで彼らを救う。チェンナケーシャヴァはそこで初めてタクシー運転手がかつてラーヤラシーマで尊崇を一身に集めていたインドラセーナ・レッディであることを知る。そこから彼の過去が物語られる。シーマの゙カダパ地方、2つの名家の゙間での絶えざるファクション抗争の中、1965年と1975年に起きた大衝突。1975年に年長者を皆殺しにされた少年インドラは自分が一家を背負うことを誓う。成長した彼は地域の人々に慕われる当主となるが、農民たちに水を与えるために敵対するシヴァレッディの゙家との間で大幅な妥協をする。家屋敷を捨て、シヴァレッディの゙妹と結婚するというものだった。しかし式の当日シヴァレッディは
Saripodhaa Sanivaaram (Telugu/2024)を池袋ヒューマックスシネマで。
@PeriploEiga 忘備録:そういやクリシュナとサティヤバーマが共同でナラカスラを倒すエピソードへの言及が何度も出てきたな。
Saripodhaa Sanivaaram (Telugu/2024)を池袋ヒューマックスシネマで。
幾つかの章立てがなされてテロップが出るが、英語字幕は全部訳してない。舞台は海辺の街とハイダラーバード。基本的にはビジランテ・ムービー。そこにナーニらしい屈折とツイストとメタ視点を入れた。さらにどこぞのシュローカなども交え、流行の神話風ふりかけもトッピング。アンガーマネジメントの話というとクソガキのNaa Peru Surya, Naa Illu Indiaを思い出す。それと同じく、本作もまた怒りの制御の試みを描くが、暴力は全然否定していない。主人公の身体能力の高さの説明は全くないテルグ伝統ナラティブ。SJSの敵役も完全に向こう側に行ってしまってるキャラでそれは暴力的に矯めるしかないわ、と誘導する。母の戒め、ダリト集落の救世主、運命の巡り合わせの恋、マスク怪傑ものと色々盛り込んだので、やや冗長になった。土曜日のみ溜めた怒りを放出させていいというのは、スーパーヒーロー映画の超能力3分間の縛りみたいなものか。怒りの放出=暴力的私刑というのも考えものだが。結局ナーニは何をしたいのかが分からない。
Kalki 2898 AD (Telugu/2024)をオンラインで。
予備知識なく見て終わりに来て「Kalki Cinematic Universe」出てガックリ。一話で終わるもんを作らんかい!となった。180分使って世界観らしきものを提示し(それでもイマイチ分からないところも残る)、ヒーローの正体判明&覚醒らしきもののところで終わる。ディストピアSF、バウンティーハンターもの西部劇、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』、ニューエイジ・スピリチュアル映画、トランスフォーマーものなどをごった煮にした上に『マハーバーラタ』を織り込んだ大味な大長編。どこかで見たような映像が連なるが、インド産のユニヴァースを創ることに意義があると言わんばかり。今作においては神話モチーフはかなり込み入っていて、原典を知らなくとも雰囲気だけ楽しむというのでは歯が立たない。アンナ・ベンはフレッシュな魅力、パシュパティは窮屈そう。無量光はプラバース以上にアクションが多い。カマルハーサンの妖気は確かにラスボスにふさわしく、このキャラがアルジュナの神弓を持つというのが思わせぶり。Brahmashirastraは要調査。
Laapataa Ladies(Hindi/2023)を試写で。
邦題は「花嫁はどこへ?」。キラン・ラーオらしい、手堅い脚本、適切なランタイム、映画祭受けしそうな分かりやすい寓話。冒頭にはMP the heart of Incredible Indiaと出て、MP州観光局のバックアップが謳われる。風景の美しさと対照的な農村の後進性が背景なのだが。尤も後進性の中に真心を持った人間が幾人も現れて御伽噺のような大団円になるからまあいいのか。鉄道映画としても出色で、冒頭で駅ともいえない踏み台みたいなプラットフォームから乗車するシーンで度肝を抜かれた。あれは駅なのか。プール、プシュパ、スーリヤムキと、花の名前が多出するのも一層のファンタジー風味。インド映画は、才能があるのに機会に恵まれない人間を浮上させることに性急で、それ以外の凡人たちを背景に押しやることが多いが、本作は主婦を夢見て育った女性をメインに据え、学問を修めて社会に奉仕したい女性と対比させ、どちらにも尊厳を与えているところがクレバー。最終的には美味しいところはラヴィ・キシャンが持って行った。Vaathiでのサーイ・クマールを思い出した。
Nuvve Kavali (Telugu/2000)をYTで。字幕なし。
昨日の中断の後、セカンドハーフを見た。オリジナルでクリスチャンだったリードペアがヒンドゥー教徒に変わっている。MSナーラヤナのコメディー、アパレルショップでの恋敵の微妙なギャグが追加され、学園祭の出し物としてライラがアイテムダンスを踊るシーンが追加された。その代わり、クライマックスに至る愁嘆場がやや削られたか。試しにタミル語リメイクを見てみたら、ロケ地までオリジナルにそっくり同じだった。本作はまだオリジナリティーを出した方だったのか。クンチャッコーと比べてタルンは表現力が乏しい。リッチャーは割と良かった。カンナダとヒンディーはまともな動画が見つからず。テルグ化されてもアクションシーンの付加はなかった。それにしてもカレッジに行くような年の、そしてそれなりに裕福な男女の、格言ポスターだのぬいぐるみだのが満載の生活空間のファンシーさが何とも言えない。オリジナルのマラヤーラムが特別に田舎臭いのかとも思いかけたけど、テルグでも変わらないということは、この時代のハイティーンは実際にあんな感じだったのか、確かめてみたい気がする。
Niram(Malayalam/1999)をYTで。字幕なし。
Nuvve Kavali(字幕なし)を必要に迫られ見ていたところ、実は元ネタがあると知り半分で停止して、こちらに切り替えた。どっちにしろ字幕なしではあるけれど、クンチャッコーが主演ならば説得力が違う。コッチで同じ日に同じ病院で生まれた中産階級クリスチャンの男女は、両親までもが互いに親しく、ダメ押しでお互いが向かい合った家に住んでいる。劇中で何度もシャム双生児と形容されている二人は常に一緒にいてふざけ合う親友どうしとして育ち、カレッジに通うようになってもそれは変わらなかった。しかし二人がそれぞれに「外野」の第三者の異性から好意を告白されると、関係がぎくしゃくし始め、まず男の方が愛を自覚する。女の方ははるかに鈍くて、男の方の優柔不断とボタンの掛け違い的タイミングの悪さも手伝って、好意を寄せてきた男と婚約までしてしまう。過ちに気付いた女は自分から愛を告白するが、男はもう遅すぎると言ってその手を振りほどこうとする。よくある四角関係ものに、友情の絶対的な神聖視というこの時期のインド映画にありがちなモチーフも絡む。アクションは一切なし。
Kalki (Telugu/2019)をオンラインで。
冒頭でアニメと共に長々したナレーションで固有名詞モリモリの込み入った前史が開陳されるタイプの作品。かつて存在した王家の高官の家同士の争いがインド独立後も続き、ファクション抗争と化している。その中で村の祭りの夜に起きた殺人事件。劇中でSeethakoka Chilakaの宣伝がされていることから1981年と判断できる。ラーヤラシーマが舞台のマーダーミステリとしては途中までは割と面白いのだけど、いかんせん主役がイタすぎた。ラージャシェーカルをまともに観たのは初めてかもしれないけど、この人が自分をチランジーヴィと同格と言い張るのは流石に無理があると思った。映像はどこまでもスタイリッシュ。特に殺陣は省略の美学で貫かれ、ラージャシェーカルの体が動かないのだなと察せられた。あの鬘はもう少し何とかすべきだった。後半に行くに従い神話引用が増え、クリシュナ、バララーマ、アッラー、ナラシンハと重ね称えられる主人公。ダメ押しで高貴の血まで持ってきた。これもラーヤラシーマの高級木材がキーとなっている。冒頭でやたらとラザーカルへの言及があったのはなぜなのか。
Zombie Reddy (Telugu/2001)をオンラインで。
ハイダラーバードのゲームデザイナーのマリオはリリースしたばかりのゲームにバグが見つかったため、修正できるカリヤーンを探すが、彼はラーヤラシーマのカルヌールで挙式するために不在だった。彼を追って2人の仲間と共にカルヌール近郊の村に行くが、途中で怪しい男が車に向けて飛び込んできてはねてしまう。その男から嚙みつかれたバドラムが最初の犠牲者となり、村にゾンビ禍が猖獗する。ラーヤラシーマ・ファクション映画、ゾンビ映画、ロックダウン政策へのマイルドな当てこすり、過去の映画作品へのオマージュなどを取り込みながら、全体に軽~い仕上がり。ヒーローのヒロイズム演出やラブソングなどを入れていないせいか。ともかく才気横溢という言葉が相応しい見事なブレンド。ただ、最後の方のシーンだけは興ざめした。「ハヌ・マン」と同じくサンスクリットのシュローカが流れる中、神さんが一気に全部帳消しにしてしまう。「Karthikeya 2」のあの嫌な感じといった方が近いか。「パリエルム」のイメージをひっくり返したアーナンディの芝居は良かった。主人公の名前の秘密も。
Nanna Preethiya Hudugi(Kannada/2001)をDVDで。
『America! America!!』のナーガティハッリの作品だと知り膝を正して臨んだが、いくら何でも古臭過ぎた。同時期のファーシル監督と同じ、頭の中でこしらえた想像上のファンシー若者像。特に主人公の造形は決定的におかしかった。ド田舎の生まれで人前で鼻をほじるようなやつだけど、フルートの才能があるというのはまあいいとして、文化交流プログラムで渡米してもほとんど演奏してない。ソング&ダンスは完全にナラティブを中断する作りになっていて、イライラさせる。アメリカの消費文明批判はソングの中だけでおっかなびっくり行われている。もっとも痛烈に批判されているのは、その消費文明に乗っかりながら、インド文化の保持を声高に叫ぶNRI富裕層に向けられている。ただしそれも幕間のコメディーとして終わり、ヒロインの両親の頑迷は別にアメリカに限ったことではないワンパターン。リードペアはそれなりに評価できるとレビューに書かれてるが、何か事情があってそう書いたとしか思えないぎこちなさ。マレナードのパートに尺を割いてたら楽しめて他かも。
Cheluvina Chittara (Kannada/2007)をDVDで。
予備知識なく見始めて、10分ほどでこれがKaadhal (Tamil/2004)のリメイクだと知りがっくり。オリジナルの舞台であるマドゥライとチェンナイは、マイソール南東30kmほどのところにあるナラシープラとバンガロールに置き換えられた。印象的なラストシーンは原作ではティンドゥッカルだったが、ここでは分からず。またタミル版のテーヴァル・カーストはここではヴォッカリガ(ガウダ)に置き換えられた。タミル版122分に対し、こちらは142分ほどで、余計なソングを付け足したせいだろうと思ったが、データを見るとむしろオリジナルの方が曲数が多い。ストーリーもギャグまで含めてそっくりそのままなのになぜこうイライラするのかといえば、配役とこってりした演出にあるのだと思う。特にガネーシュは良くない。ソングシーンでもまともに踊れないため、けち臭い映像処理に頼って情けない。踊りで一番の見どころがバンガロールの下宿人たちのダンスだというのだから。カップルを助ける友人はオリジナルではクリスチャンの設定だったが、ここではそれはなかった。
Raayan (Tamil/2024)を川口スキップシティで。
入りは65パーセントほどか。日本人の方が多かった印象。読後感は爽快、風呂上がりというか雨上がりというか。両親を失った4人兄妹が北チェンナイに移り住み、長兄が身を粉にして働いて弟二人と末の妹を成人させる。大衆食堂で地道に商売している長兄がなぜかやたらと強い(このあたりは伝統に則り強さの理由を示さない)。気がかりだった妹の見合い婚が決まった矢先に中の弟が暴力沙汰を起こし、町のドンにマークされてしまう。古風な「耐える長男」ものと「妹センチメント」ものを合体させ、そこに血の雨を降らせて現代的なものにした。途中までは典型的なセンチメンタル腫れ物お荷物である妹が終盤で「妹の力」を発揮する脚本は凄い。監督というより脚本家としてのダヌシュのビジョンに唸る。唯一、弟の裏切りだけはちょっと性急だったかも。主役を食っちまう癖のあるSJSもいい感じに制御して活かし切った。舞台設定はラーヤプラムだけど、典型的な北チェンナイ・ダリトものとは異なり、地域特性よりも普遍性が勝った神話的な物語になっている。あの爪のような武器と主人公の名前に関して調べること。
Ahaan (Hindi/2019)を試写で。
ダウン症をもつ男性と周囲の人々との物語というだけの前知識で鑑賞。何は措いても福祉の観点から鑑賞すべき作品なのだろうけれど、メッセージの重苦しさは全くなく、メガロポリスであるムンバイに住む、中産階級の無名人たちの緩い日常が展開する中で見ている方も肩の力が抜けていく気分になる(ギャングもテロも悲惨な大事故も起きないムンバイ)。主人公とかなりコントラストをなす存在として潔癖症/強迫性障害の男を出してきて、その2人の間の通常はあり得なさそうな友情を巧みな脚本で納得できるものとして組み立てた。主人公のアハーンはダウン症に特徴的な容貌をもち、何もせずとも病名が分かる人物だが、症状は軽い。彼は多くの女性たちに自然な付き合いをさせるが、一方で男性は彼を遠ざけようとする。彼が夜の浜辺で佇んだ後の出来事、恋路の行方など、描き過ぎなかった省略の美学は効果的。一方でロールモデル的な人物の母親に長々と話をさせる割に当人に関する情報がないのは気になった。潔癖症男は、この後のパンデミック時代になればむしろ推奨される生き方だったのではないか。主人公が英語を話すのも印象的。
Indian 2 (Tamil/2024)をアクアシティお台場で。
612席のうち200ぐらいが埋まっていたか。汚職やサボタージュを告発するユーチューバー集団の中心人物チトラ。腐敗官僚に就職を阻まれて自殺した女性を救うことができなかったことで自分の活動に限界を感じる。そして彼は伝説のインディアンの帰還を求めるハッシュタグをつくりバズらせる。一方台湾の道場にいたインディアンは満を持して帰国し、巨悪を次々と倒す。チトラたちも身近な人間を告発することでインディアンに追随するが、チトラが父を逮捕させたことで母は絶望して命を絶つ。ボロボロになったチトラは今度は彼に去れというハッシュタグを即席で作りだし、それもまた燎原の火のように広まる。シャンカル節の復活が嬉しかった。本国での評判は芳しくないのはまあ分かる。結局我が子すらを手に掛けたインディアンと、肉親の情の前には正義も道を譲るチトラやクリシュナムールティ親子とは分かり合えないので、インディアンは一旦去るしかないのだ。これを3でどう決着させるのか不安。ダンスはどれも贅を凝らした作りだったが、フラクタル的な増殖がそれほど驚異に映らなかったのは確か。
For a Few Dollars More (Italy/1965) をオンラインで。
邦題は『夕陽のガンマン』。英語字幕付き。この歳になって初めてマカロニ・ウエスタンを見た。昔から残虐シーンが多いなどと聞いて敬遠していたけど、何のことない、南インド映画なんかと比べれば子供だまし程度のものでしかなかった。「マイボーイ」の出元だということも分かった。まあでも確かに、空気感などがアメリカのものと微妙に違う。そして人情や情念の描き方、正義というものの捉え方、古典西部劇とは全然違う。デモーニッシュなまでにとことんスタイリッシュさを追求するところにはオタクっぽいものまで感じる。これらすべての底にあるのはニヒリズムのように感じられるが、どうなのか。大佐の回想のトラウマシーンなどはもう少しうまく説明する映像にできなかったのかなどとは思うが、悪役がヤク中というのが分かるところがカットされていたためか。誇り高いヨーロッパ人が、アメリカの辺境の時代劇を、各国からの寄せ集めのチームで撮るという不思議。もしも時間に余裕があったなら、この映画史上の極め付きに奇異な現象の裏にあったものを追いかけたいところだった。
Mahaan (Tamil/2022)をオンラインで。
カールティク・スッバラージのラスト1本。ガーンディー主義者の家系に生まれた息子でガーンディーと名付けられた教師が、たった1泊妻が家を空けたその夜に、少年時代の遊び友達だった密造酒屋の息子と再会し、羽目を外す。翌朝取り繕うとしたがバレて、憤激した妻子は出奔してしまう。諦めた男は旧友の商売に参加し、やがてリカーバロンとなっていく。しかし思い詰めるタイプの母に連れられ北東インドの新興宗教施設で育った息子は、父への怒りを募らせ、父に道を外させた者たちに合法的に復讐するため警官になる、という物語。最初からOTT公開作として作られたのかどうかは不明ながら、かなり大胆なメッセージを含む。まず飲酒の礼賛。例のうるさい注意書きが全く現れない。そしてガーンディー主義も教条性が極端になると人を抑圧する装置になるという、至極まっとうだがインドでそれを言うのには勇気が要りそうな主張。そのせいか現地レビューは芳しくない。しかし、インド人の大雑把すぎる歴史認識、聖者に祭り上げた存在の前での思考停止の傾向を考えると、このような主張が出てきたのは大したことに思える。