Nasir (Tamil/2020)をYTで。
WeAreOneオンライン映画祭の一環としての配信。提供元はムンバイ国際映画祭。割と珍しいタミルの芸術映画で、なおかつ非常に稀なタミルのイスラミケイト映画。コインバトールで伝統的なサリーショップの店員として働くムスリムの男が主人公。この貧しい中年男の砂をかむような数日間が描かれる。エンディングでそれは彼の生涯の最後の数日間だったことがわかる。つまらない暮らしをしているように見えて、詩心があり、また熟年になっても妻を熱愛している。そして実子ではない知的障害のある子供を引き取り育てるという篤志家的一面も。この男に降りかかる運命の無残を理解するには、コインバトールのコミュナル紛争の歴史的事実と、タミルで勢力を広げようとしているヒンドゥー・ムンナニについての知識が要る(画面中に何度か登場するガネーシャ像の意味合いなど)が、外国の映画祭、いやムンバイ映画祭でも、観客にそれを求めるのは多分無理だと思う。かといって、事前にそれをレクチャーしてしまったら感銘を削ぐことになるだろう。このあたりが、作品の文脈の解題と映画的なライブ感とを巡る難しい問題。
Falaknuma Das (Telugu/2019)をUSAPで。
Angamaly Diariesのリメイク。タイトルから真正のテランガーナ映画だと予測して見てみたところ、大当たり。ハイダラーバード旧市街を舞台にした作品は今でも珍しく、ちょっと思い出すぐらいではOkkadu (2003) ぐらいしか出てこない。原作でコッチ郊外のクリスチャン養豚業者として登場した主人公は、ここではファラクヌマのヒンドゥー教徒マトン精肉業者となった。ファラクヌマといったらタージ系列の宮殿ホテルのイメージ(ラストで壮麗な姿が空撮で眺められる)だけだが、周辺にはこんな雑駁な世界が広がっていたか。特に巨大な羊マーケットが壮観(ただし実際にあるのかは不明)。現地レビューは渋い。こういう作風はテルグのエスタブリッシュメントには気にくわないのか、それともやはり原作には及ばないプロダクション・バリューがシビアに評価されたのか。原作と比べて明らかに落ちるのはクライマックスの1シーン1カットの長回し。モニタで見てるというのを差し引いても歴然と劣っていた。そういってもHYD旧市街の混沌と汚濁を描き出したのは特筆もの。
Kannum Kannum Kollaiyadithaal (Tamil/2020)をNTFLX で。
英語字幕付き。全く予備知識なく見た本作、本格的なヘイストものと分かり吃驚。トリックはハイテクを取り込んで良く考えられたもの(多少うまく行き過ぎの感があるが)。ただ軽快なクライム映画としては2時間40分は長すぎでダレる。オープニングでDQ25などと謳われるが、タミル映画界ではDQはまだ2軍に毛の生えた程度なのだというのが、脇役の布陣などで見て取れる。チンケなサイバー犯罪を重ねて気楽に暮らす2人組vs色仕掛けで油断させて置き引きする2人組、どっちもショボいのが手を組んで麻薬王から大金を盗み出すというストーリー。インド映画を見てると倫理的規範の開示がどこかにあるものと思い込んでしまうが、本作は最後まで現生マンセーで、それが劇的に正当化されてないのが引っかかった。ガウタム・メーナン演技は硬いが役には合っていた。アニーシュ・クルヴィラは無駄遣いという感じ。ラスト近くのシーンはDQのツーリング映画の引用か。GMのUnnaithaandi Varuvaayaの劇中歌も茶化すように使われていて笑った。
Natkhat (Hindi/2020)をYTで。
WeAreOneオンライン映画祭の一環としての配信。提供元はムンバイ国際映画祭。ヴィディヤー・バーラン製作・主演の31分の短編。いや短編映画のお手本と言っていいような見事な一本。ヴィディヤーのMotherIndia的なドーンとした押し出しにまず感銘。メッセージは100キロ先からでも分かる説教映画だが、そのプレゼンテーションが心憎い程に巧み。少女のお下げを切るシーンの意味するところは火を見るよりも明らかだが、リアルな恐怖感が伴う。母が息子に話す御伽噺は単純だが恐ろしく含意に富んで深い。食卓を囲む男たちの短い会話とその立ち振る舞いによって、彼らが代表する病巣の部分がくっきり浮かび上がる。「ラーマーヤナとマハーバーラタ以外のTVを見せるな」という祖父の台詞には逆説が潜む。最後にエンディングロールのキャスト紹介によって引っくり返るという演出。
An American in Madras (English - 2013) をYTで。
以前から海外のNTFLXで見られるようにはなっていたらしいけど、晴れてYTで公開されて嬉しい。7年越しの想いが実った。画面は隅から隅まで(1930年代の映画作品の抜粋も含め)ピカピカに美しい。ダンガンには自伝があってそちらの方がもちろん情報量は多いが、あくまでもダンガンの自分語りで触れられない部分もあった。本作では様々な人の証言が集成され、若干の批評性(たとえばプラバ―ト・フィルムとの比較とか)も加わり、多角的なものになっている。フィルム・ニュース・アーナンダンやPKナーヤルなど、もう既に向こう側に行ってしまった人の姿もあって、まあこの作品のギリギリ間に合った感が迫って来る。ダンガンはMGRに対しての恩人なのだと思っていたが、そうでもなかったというエピソードが新鮮。脚本家としてカルナーニディが登場したPonmudi (1950)がDMKイデオロギーを前面に押し出した最初の作品になったなどという知らなかった事実も。ハイライトは何と言ってもMSの主演した2本の作品にまつわる部分と再会に関するところ。
インド映画のディスクから配信への流れはコロナ禍で加速しただろうし、
もう抵抗してもしょうがないという諦めはあるのだけれど、この不安定感は何だろう。まずIPアドレスによる壁があり、課金制度があり、なおかつ配信の期限というのがどうなってるのか分からない。それから、とあるサービスでは字幕がなく、また別のサービスでは字幕付きだがカットされているとか、余りにも混沌とした状態。それに比べると音源の方は、まあだいたいいつでもYTかVimeoにあるし、民間ボランティアのアップロード()もあって、映像とは異なり不安感がない。どうしても物理的に所有しないと落ち着かないという煎りたてるような感じはないのだ。映像も音源並みに落ち着ける日が来るのだろうか。
Eeb Allay Ooo! (Hindi - 2019) をYTで。
WeAreOneオンライン映画祭の一環としての配信。提供元はムンバイ国際映画祭。久しぶりに映画祭アイテム。題名は猿を追うための(泣き声に似せた)掛け声。一群の男たちが集められ、首都デリーのそのまた中枢部のニューデリーで手に負えない程に増えて凶暴化した猿たちについてレクチャーを受け、市民生活を脅かさないよう、さらにニューデリーで行われる政府系の建物で問題を起こさぬよう「追う」。政府の仕事とはいえ一時雇い。そして、一般市民の中には問題を認識せず、宗教的慣行として猿に餌をやる者が後を絶たない。貧しい国内移民である主人公は仕事に馴染めず、馴染めないながらに様々な工夫もするが、うまく行かない。不運が重なり、相棒の男が死に、彼もまた解雇されるというところで終わる。まさに今現在インドで起きている国内移民労働者クライシスと重なり、タイムリーな作品ではあるが、たとえば主人公の故郷はどこなのかとか、もう少し情報を入れても良かったのではないか。それからエンドロールにかぶせた台詞に字幕がないなど、国際映画祭向けにしては雑な面も。
Bigil(Tamil/2019)をYTで。メモを取りながらの2回目。
1回目に見たときの感想を読み返してみたら随分好意的なこと書いてるな。だけど、やはりコカインの件と警察での拘束の件ではモヤる。それとオヤジとしての役作りにも諾えないものがある。ファンなら大喜びだろうが、ファンじゃないと童顔の老けメイクに居心地悪い感覚を持つ。構成としての欠陥は、デリーでの最初の2試合の後に踊りやらなんやらを入れたこと。そこでスポ根的な血潮の滾りが一旦ストップしてしまう。そしてその後の舞台がチェンナイなのかデリーなのか曖昧になる。ヤクザ者としてスポーツ界を追われた主人公が、場面場面でフェアプレーと極道手法とを使い分けしてるのも気になった。試合の経過を見せる特撮はもっさりしてショボいのだけどそれでもちゃんと感動できるのが凄い。
パプリカ(2006)をNTFLXで。
『狂つた一頁』(1926)は見ていないのだけど、同作の映画作家が現代に生きていたらこういうものを作ったのではないかと思わせる大正ロマン的不条理夢幻劇。『ルシア』のように、胡蝶の夢を哲学的に展開する部分、そして夢見る装置としての映画への愛なども組み込まれた、イマジネーションの奔流のような90分。こういうのを見ると、2000年以降の日本映画で最も才能ある人材は全てアニメに流れたのではないかという性急な決めつけに走りたくなる(自制しないと)。これまで『千年女優』しか見ていなかったけど、現実に夢を入り込ませて魔術的な世界を構築することにかけては第一人者であると確信した今敏は、やはり全作見なくてはという気になった。
Ente Ummante Peru (Malayalam/2018)をUSAPで。
ポスターから読み取れる情報以外の予備知識ゼロで臨んだ。やはりまっさらからの鑑賞は楽しい。要するにマーピラ版『母をたずねて三千里』なわけだが、途中はもしかして『菊次郎の夏』になるのじゃないかと思い、半分ぐらい当たった。甘えん坊で若干トロめの青年と、がさつで生活力旺盛な継母とが、青年の生みの母を訪ねてタラッシェーリからラクナウまで出かけていく。タラッシェーリの田舎感はとても良いし、対するラクナウも、これまでのサウス映画で描かれた北インドの中では特段にリアリティーがある。観光ガイド的イメージは極力退けられている。ただ、生母と父との関係が完全に説明がないこと、ダンスと現在の生母との関りに引っ掛かりが残る。ウルワシとトヴィノの掛け合いは、たぶんネイティブ観客には絶妙なのだと思う。字幕をヨチヨチ追って読むだけでもその感じは分かる。演技賞はウルワシ。かつてならKPACラリタがやっていたようなキャラを血肉の通ったものとして演じきった。トヴィノの方はOru Kuprasidha Payyanから続いてのバカの子ちゃん。
この世界の片隅に(2016)をNTFLXで。
太平洋戦争を題材にした映画作品の例にもれず、本作も戦争責任や植民地支配責任を描いているのかどうかなどの点で封切り時に議論があったらしい。まあしかし、これはそういう観点から称揚したり断罪したりする作品ではない。劇中でヒロインを「普通の人」と形容するシーンがあるが、そういう普通の人が担った時代精神を描くことに注力したものだ。それは漫画で「坊ちゃんの時代」が行おうとしたことに近い。「普通の人」の幅は若干広めにとられているが、その度量は割と広い。世界の中での日本の立場については理解が及んでいないかもしれないが、目の前の日常生活における出来事への対応は、割と柔軟で優しさがある。戦後の民主主義は戦前の全否定から出発し、明治以降の戦前を暗黒時代として描くことに没入したが、良きにつけ悪しきにつけ、日本の精神史は敗戦で全く断絶することなくなだらかに連続的に持続してきたのだということを、極限の時代の中の普通の暮らしと普通の気持ちを丹念に再現することで証明しようとしたのではなかったか、そのように感じられた。
NOTA (Telugu - 2018)をUSAPで。
タイトルの意味は知っているけど、それがこの話とどう関係するのか最後まで分からなかった。テルグ・タミル・バイリンガル作品だけど、ヴィジャイDが主演なのだからとテルグ版を選んでみたのだけど、タミル人役者がわさわさ出てきて、むしろ本籍タミルなのかも。実際にタミル版の方がヒットしたというのだけど、今一つ解せない。タミル映画ならもっと暑苦しい民族主義を入れないと現実感がないのではと思ってしまう。Mudharvanから始まり、Leader、BAN、Lucifer、etc.に至る政治スリラーの定石をうまく取り込んで飽きない作りになっているが、クライマックスに親子の個人的なセンチメントを持ってきたのは余り感心できない。盛り上がりに欠けてカタルシスがない。野党代議士を演じたサンチャナ・ナタラージャンが悪くないと思った。俳優出身の政治家、CMの息子がポッと出で襲名する慣行、裏金満載のコンテナ、ホテルでの籠城、大水害など、お馴染みモチーフで埋め尽くされる。暴動を防ぐために暴れそうな奴を予備拘束するのを善として描くところには彼我の差を感じずにはいられない。
Yatra (Telugu - 2019)をUSAPで。
昨年の総選挙がらみで無闇と作られた政治家の伝記映画のうちのひとつ。マンムーティが主演じゃなければ見てなかった。結果としては見て良かったし、勉強になった。伝記とはいっても、幼少期から死までを時系列で描くのではなく、2003年の州会議員選挙での巻き返しのためにパーダヤートラを決行するところだけに絞っているのがいい。彼の敵はTDP以上に、コングレス内の「ハイコマンド」であるというのが全編を通して語られる。この辺り、NTRが自前政党をおったてて州政権を会議派から奪取した時の状況とほぼ変わっていないのがよく分かる。マンムーティの神彩が、このプロパガンダを格調高いものにしているし、CBS、ジャガン、ソニアを画面に出さなかったのが英断だったと思う。腹心のKVPを演じるラーオ・ラメーシュも良かった。クリスチャンとしての描写は全くなかった。彼が政界入りする前は「1ルピー・ドクター」と呼ばれていたというの、メルサルの元ネタはこれだったかと思った。やむを得ないこととはいえ、エンディングロールで本物のYSRやジャガンの記録映像を入れたのは興ざめだった。
Periyar (Tamil - 2007)をErosNowで。
3日がかりで2時間48分を何とか見た。でもウィキペディアには3時間8分と書いてあるがどうなってるのか。カルナーニディの政権下でDMKが資金を出して作られたプロパガンダ映画。教科書みたいに細かいエピソードを数珠つなぎにした構成で見通すのは辛いし、既に皆が知っているという前提で付帯説明なしに現れるシーンが多すぎる。それでも老齢に至ったペリヤールを演じるサティヤラージは鬼気迫っていて、目が離せない。メイクの技術も秀逸。勝手に幼な妻だと思い込んでいたマニヤンマーイは、実は30歳の成熟した女性で、教祖に付き従う信徒のようなものだったというのは初めて知った。彼女と共にペリヤールがダリトの家で饗応を受けるシーンは特筆もの。心には理想が掲げられていても吐き気には勝てないという身も蓋もない現実が示される。これは実際にあったことなのか。また、ごく若い時点で、おどけ者のバラモンと組んで無神論を歌と踊りで説法するシーンも気になった。ダリトに対して「都市や外国に出て身分を隠して別の仕事をせよ」とアジるシーンはナイーブ過ぎだと思ったがどうなのだろう。
NETFLIX 『ラガーン』の日本語字幕について①というブログ記事。
仰っていることはいちいちごもっともだが、後半の酷い例、これはもう翻訳者の英文和訳能力が極端に低い、そしてそれをチェックする機能が配信サイト側にないという、ただそれだけのことではないだろうか。
https://blog.goo.ne.jp/sakohm27/e/db3a22d2436c761c91035a66bf1331d2
Kavaludaari (Kannada/2019) をUSAPで。
非常に評判の高いスリラーとのことだったが、惜しい点が幾つかあって、必ずしもスッキリした読後感ではない。この監督らしい、沈鬱さ、クールでムーディーな音楽は相変わらず。スリラーの中に組み込まれた歴史性として、都市バンガロールの野放図な拡張、1970年代の緊急事態宣言下での多数の犯罪者の政界入りという二つが巧みに語られている。また現代の問題として、救急車をまともに走行させない公共心の欠如のような問題も。それから特有の「パワーダイアログ」とでも呼ぶべき譬え話も健在。日本の金継ぎに言及しているところでは吃驚。カーキという色の名前が元々はdirtを意味するところからの気の利いたやり取りも秀逸。問題は、現代の登場人物全てを40年前の惨劇にきれいに紐づけようとして凝り過ぎたこと。それによってループホールというかご都合主義が生じてしまった。観客は神の視点を提供されず、逆にカメラのフレームによって出来事の全体像を見せてもらえないタイプのミステリー。例のボール紙のキモいお面が、ちゃんとキモい文脈で使われていた。Triveniの入れ墨も不発。
Brochevarevarura (Telugu/2019)をUSAPで。
ASSAが何となくベルボトムを思い起こさせるように、本作はキケンな誘拐を彷彿させる。しかしもちろんパクリではない。ハイダラーバードで新人監督が人気女優に脚本ナレーションをする。すぐ後にグントゥールまたはテナリ辺りらしい田舎の高校生活が描かれる。これがナレーションの映像化なのだと思って見ていると後半にひっくり返される。それだけでなく、この2つのパーティーがアクロバティックなツイストによってひとつとなり、くんずほぐれつの追っっかけっこになり、最後にとりあえずのハッピーエンドになる。これは見事。その辺はSwami Ra Raに似てるがもっと上手い。それから特筆すべきなのはオシャレな色彩設計。貧乏学生3人組の着る平凡なTシャツが、何故だかクールなものになってる。そして、ポスターのアートワークがその色彩設計をさらに補強している。村はずれの狂人や間抜けな犯罪者たちのキャラ立ちも十分。シュウェータ主演のA指定映画からマニ・ラトナムに至るまでの映画ネタの挿入の仕方もさり気なく独特。ハイダラーバード郊外の岩砂漠みたいな景色が強烈。
Goodachari (Telugu/2018)をUSAPで。
スリラーとして傑作との評判。まずまず筋の通った脚本。ジャガパティ・バーブの使い方、見せ方は上手い。典型的な、劇中人物には見えてるのに、観客からはフレームアウトされて見えてないというスタイルをキープ。画面に初登場するシーンでは既に悪の本性を負ってのものとなる。そのくらい、この人はタイプキャストされていて、意外性がなさすぎるのを映像作家は理解していたことになる。内通者は一番らしくない奴というのは定石通り。後半のチェイスからの展開はスピーディーで良いけど、最終シーンの舞台が分からず気持ち悪い。本作の面白さは、定石のスパイものだけど、それがどローカルな風景の中で展開するという点だと思うのだが、チッタゴンのシーン以降それが曖昧になってしまっているから。アディヴィ・セーシュは脚本も手掛けるNRI俳優だというのを最近知って何か腑に落ちるものがあったけど、あんましカッコよくねえなというのが正直なところ。アジトへの潜入シーンなどで、へっぴり腰とまでは言わないものの、気迫が足りないように感じた。首ちょんぱコンビのラーケーシュ・ヴァレが良かった。