Krishna Gaadi Veera Prema Gaadha (Telugu - 2016)をDVDで。
米国Bhavaniブランドだが字幕が手抜き。Andala Rakshasiの幻想的ビジュアルと張り詰めた情念が突き抜けていたハヌ・ラーガヴァプーディ監督作だが、作家性よりはナーニのキャラが優先された感じ。設定ではヒンドゥープラとなっているロケ地が印象的。岩山はUravakonda、城塞はMadakasiraというところらしい。ストーリーは前半グデグデ、後半が異様な高密度。手術台の上の蝙蝠傘となんとやらのように、ラーヤラシーマのファクション抗争と国際テロリスト(マフィアじゃないの?)ダウド・イブラヒムとが結び合わされる。各種のお笑いが繰り出されるが、プリドヴィラージのお巡りと国際テロリストなのに手下がいないと弱っちいムラリ・シャルマとのやりとりが最高におかしかった。お笑いに徹したのはナーニ映画としては正しいが、抗争する二つのファミリーの片方を絶対的な悪の勢力とする理由付けが弱い。マハーデ―ヴァンの強面はとても良い。いつもは微かなお間抜けのサンパトラージの切れ者ACP演技が意外。
Nandanar (Tamil - 1942)をYTで。超杜撰な英語字幕付き。
先日のSarvam Thaala Mayam上映の際の監督QAでインスピレーションの源を問われた監督がナンダナールのディヴォーショナルソングを上げていたので、早速見てみた。ナンダナールはサイレント期から始まり何度か映画化されているので、これが監督の言うものだったかどうかは分からないのだが、1942年のこれが最も成功した一作だったという。ストーリーは単純で、パライヤに属するナンダンが、同胞たちのカルッパサーミ信仰には目もくれず、シヴァ神だけを崇め、身の程知らずを咎めるバラモンの地主を神の奇跡によって改心させ、ついに念願かないチダンバラム寺院ニューウェーブ赴き本尊の踊るシヴァ神を参拝するというもの。この時代のものだから、不可触民の土俗的信仰は徹底的に否定される。肉食、飲酒、鳴り物、憑依、動物供儀、ダップを主にした陶酔的な音楽などがその特徴とされ、微かな仄めかしとして性的な放縦も描かれる。サンスクリタイゼーションという言葉が発明される以前に、その概念の完璧なサンプルが示されている。カルッパサーミ映画を見なくては。
[2001年宇宙の旅」IMAX版をTOHOシネマ日比谷で。途中休憩ありの上映。
この年になるまでまさかの未見の有名作はいくつかあってこれもその一つだったが、劇場でIMAXという最高のコンディションで観られてよかった。未来予想型の作品ではないにしろ、2001年という設定の作品を17年後に見るというのは、やはりそこはかとない内省とノスタルジーを伴う行為。同時に初見なので全てが新鮮。あの宇宙船の無数の突起や溝にはすべて意味があるのか。現代の航空機や高速列車と全く違う設計思想。最初の方の宇宙ステーションは60年代のモダニズム美学、最後の方の突入シーンは70年代のサイケの先取り。結果として並行世界的になってしまったのは、会議シーンでのカメラが拳銃型なのと、宇宙旅行にたずさわるのが白人だけというところか。難解だと言われるが、各々のシーンの意味するところの詩的なレベルでの解釈はそれほど難しくはないと感じられた。そして各人があーだこーだと諸説を展開しているのを読むのは楽しい作業になる。眠った人も多いというが、宇宙の森閑を長回しショットはやはり必要だったと考える。4年後の「惑星ソラリス」も否応なく思い出さ
『世界はリズムで満ちている』続き。
イタい人が湧くことの多い上映後QAは苦手なのでなるべく避けるようにしてるけど、昨日は訳あって参加。最初の1,2問は主催者の仕込みを疑うような整然としたタメになる質問。次にパキスタン人の映画監督という人が出て、その後チェンナイ出身の色黒な人の質問。これが苛烈なもので、バラモンとダリトをステレオタイプ化して描いていないかというのと、ダリトの役がバラモン俳優によって演じられている(誰?つまり白人が黒塗りして黒人役をやるに等しい)というもの。こういうアメリカのポリコレ的な視点からの批判は新鮮。対する監督の答えというか弁明も、大変にのらりくらりしたもので、ポイント高かった。それから、主人公はラストで師匠の助言に反してフュージョン的なところに行ってしまうがいいのかとか、これは何となく通訳が上手く行かなかったようで、満足の行く返答が得られず。影響を受けた映画を問われてナンダナールのバクティ作品を挙げていたのが刮目ポイント。そういや、クマラヴェールは確かに黒塗りしていたな。それからFCの献血活動ってのは血の気の多い連中を大人しくさせるための方策じゃないかと思った。
『世界はリズムで満ちている』Madras Beats / Sarvam Thaala Mayam (Tamil - 2018)を東京国際映画祭で。
典型的な芸道ものフォーマットの一作。芸道ものに不可欠な、①芸能自体の階層性(打楽器より声楽が偉い)②奏者の資格(もろにカースト)の問題③俗世間との対立(TV出演を許さない師匠)④世俗的な幸せの断念(恋に没入できない)⑤形骸化した権威主義(女性声楽家の伴奏を拒む師匠)との闘い⑥貧困との闘い⑦挫折や破門⑧ライバル同士のバトル⑨避けられない異ジャンルとの共存(音楽行脚の旅など)⑩ともあれ何らかの形で実現しなければならない衣鉢相伝、などの要素が130分にぎゅうぎゅうに詰め込まれた。印象に残るのは②、クライマックスの〆はお約束の⑧を持ってきた。正直に言えば、冒頭のヴィジャイ・オマージュのシーンは、本物のヴィジャイ映画と比べるといかにもインテリの考えた作り物風だし、中盤のダリト集落での哀歌も、パ・ランジットの力強さを知っているとイマイチ。ただ、最後の対決で、打楽器での勝負の勝敗を、見巧者でない観客にもはっきり分かるよう作り込んだ音楽の力は凄い、ARR凄い
Yavanika (Malayalam - 1982)をDVDで。
タイトルの直訳は「緞帳」だが、意味としては「劇終」なのだという。歴史的な名作とされる殺人ミステリ。しかしその謎解明のプロセスは、死体発見現場に容疑者のイニシャル入りキーホルダーがあったとか、凶器の酒瓶を接合したら一片だけ抜けていたかけらが別の場所で見つかったとか、捜査の結果として順当に証拠が見つかったというの素朴極まりないもの。これは他のケーララ製「ミステリ」とも共通している。主眼はあくまでも心理の綾を描くことにある。ヒロインであるジャラジャの繊細さとか弱げな雰囲気には心打たれる。けれど衆目の一致する通り、演技で飛びぬけていたのはバラト・ゴーピの演じる悪役的被害者。巨悪ではない、けれど壊れきっていて手の施しようもない悪役を異様な迫力で演じた。ミステリとしての物語の構成上は、死体になることにしか意味がない存在であるにもかかわらずだ。つまりやはりこれはミステリではないのだ。そして当時の舞台劇(見たところ左翼系ではないようだ)の克明な記録が大変貴重。演劇界を扱った映画作品としてこれはNadanとセットにして見られるべき一本。
Ee.Ma.Yau (Malayalam - 2018)の続き。
の晦渋な長文レビューを読むと、これがいわゆるダリト映画の流れに連なるものであることが細かく検証されている。少なくともLJP監督は初期二作を除けばクリスチャンというカースト(信仰ではなく)のポートレイトを描くのを一貫したテーマとしていることは明らか。そして、美男美女が一人もいない、リアリティ溢れるキャスティング。特にヴィナーヤガンが友人思いの苦労人&常識人を演じているのが凄いと思った。主役のチェンバン・ヴィノードの、最後に見せる感情の暴発は、ソール・ベローの『この日をつかめ』を思い出させるところがあった。もちろん、類似はそれ以上の意味を持たないのだが。ともかく、昆虫の観察日記風の人々の生態の極めて醒めた描写と、ラストシーンに代表されるような超越的な何ものかを暗示する神秘的なシーンとのミックス具合が、脳のいつも使わない部分を刺激する、としか今は言いようがない。少なくとももう一度見なければいけない。
Ee.Ma.Yau (Malayalam - 2018)をDVDで。
注目のLJP監督作品。全編の半分が夜中、残りがモンスーンの驟雨の中というダークな作品。それを超絶のカメラワークで見せる。前年に映画祭上映され、今年になって劇場公開されたという。その点を取り上げると、よくある芸術映画のお仲間になりそうだが、やはり何かが違う。この感じを言い表せる語彙をいまだ見つけられない。http://www.opendosa.in/three-tight-whacks-and-the-book-of-avarna-revelations-in-ee-ma-yau/の晦渋な長文レビューを読むと、これがいわゆるダリト映画の流れに連なるものであることが細かく検証されている。少なくともLJP監督は初期二作を除けばクリスチャンというカースト(信仰ではなく)のポートレイトを描くことを一貫したテーマとしていることは明らか。そして、美男美女が一人もいない、リアリティ溢れるキャスティング。特にヴィナーヤガンが友人思いの苦労人&常識人を演じているのが凄いと思った。s百のチェンバン・ヴィノードの、最後に見せる感情の暴発は、ソール・ベローの『この日をつかめ』を思い出させるところがあった。もちろん、類似はそれ以上の意味を持たないのだが。ともかく、昆虫の観察日記風のきわめて醒めた人々の生態の描写と、ラストシーンに代表される超越的な何ものかを暗示する神秘的なシーンとのミックス具合が、脳のいつも使わない部分を刺激する、としか今は言いようがない。少なくとももう一度見なければいけない。
『バジュランギおじさんと、小さな迷子』Bajurangi Baijaan (Hindi - 2015)を試写で。
既にDVDで鑑賞済だったので、細部のハヌマーン信仰との呼応を考えながら見ることができた。ハヌマーンの特質は①武闘派(怒らせると怖い)②単細胞で一途な心(嘘がつけない)③童貞④自身がラーマ神に対する信仰者であること、というあたりにある。そして作中ではこれが見事にキャラクター設定に活かされているのだ。同時に、バジュラング・ダルに代表されるようなミリタントな原理主義者たちの旗印になりやすいということも。実際に最初のソングのようなサフラン色/赤色の洪水は、使い方によってはマイノリティーに対してかなり威圧的なものになるはず。そしてもちろんそれがストーリー全体に劇的な効果をもたらす。さらに加えて、ハヌマーンは一般信徒から崇拝されながらも、自身はラーマ神の一途なバクタであるという点。これが決め台詞であるJai Sree Ramに結実している。つまりヒーローはもちろんヒロイズムを発揮するのだが、観客の崇拝を一身に浴びるのではなく、その先にある真の神への信仰にいざなうという構造。脚本の勝利。
Sahukara (Kannada - 2004)をVCDで。字幕なし。
『ムトゥ』をこないだ見て刺激されるものがあったので観てみた。字幕はほとんどいらないレベルのカーボンコピーのリメイク。しかも動物のショットやロングショットなど、恥ずかしげもなく『ムトゥ』からそのまま映像を引っ張って来てる。もの凄く細かく継ぎはぎしてるのだ。カンナダ映画でこういうのは初めてじゃないから仰天することはなかったが、興ざめしたのは事実。こういうリメイク契約もあるものなのか。ソングもすべて『ムトゥ』の吹き替え。これはARRの唯一のカンナダ語の仕事としてカウントされるのか。9年前のオリジナルと継ぎはぎするために、衣装などはそっくりに復元されていて、ご苦労なことだ。唯一の新機軸は、主人公とその父を別々の俳優が演じるようにしたこと。父を演じる老けメイクなしのヴィシュヌヴァルダンには感じ入るところがあった。それから、オリジナルの「菜食主義者の鶴」ソングで凄いインパクトだったあの人は、ここにも同じ役柄で登場して、お色気度は倍増していた。特に面白くはなかった、しかし原作についての新たな発見があったのだから感謝しなくては。
『スターリンへの贈り物』(The Gift to Stalin/Подарок Сталину)をTUFSシネマにて。英語字幕付き。
2008年のカザフスタン映画だが、大部分の台詞を同国の公用語であるロシア語が占める。カザフ語は国家語という位置づけ。通常のTUFSシネマと違い、上映開始前に15分ほどのレクチャーという変則。ネタバレにならずに必要な基礎知識を開示するのにはかなり神経を使ったと思うが、ありがたかった。多元的な文化の中でのユダヤ人少年とカザフ人イスラム教徒老人のバックグラウンドを超えたふれあいという、見る前から想像がつくテーマとは別に、本作にはもっとショッキングな要素があるのだが、最後の瞬間まで予測しておらず、やられたという感じ。劇中であからさまに予告するイメージが一瞬現れるのだが、シュールな感じに却って目隠しされて気づかなかった。ドゥンガン人と呼ばれる回族の存在に目を見張る。否応なしにニキータ・ミハルコフの『ウルガ』や昨年見た『河(草原の河)』を思い出した。前者は内モンゴル、後者は青海省で、随分と大雑把な類推であるのは分かってるけど、草原を舞台にした映画は今のところ外れなし。
Aravindha Sametha Veera Raghava (Telugu - 2018)を川口スキップシティで。
例によってプレビューのために現地の各種レビューを読んだんだけど、読むごとに期待は低くなってったのが正直なところ。今はやりの社会性に気を配ったアクションなのだけど、それらの多くは社会性がトッピングにしかなってない。本作はもう少し踏み込んで、ストーリーの主軸に暴力の連鎖を止めるための模索を持ってきたのだが、晦渋で後味がスッキリしない。そして理屈を捏ね回したために、ジュニアのダンスは実質的に2本になってしまった、167分もあるのに。予測した通り「もうファクション映画はやめにしないか」というトリヴィクラム監督のメッセージを強く感じた。しかし劇中はそれで収まっても、劇場の血に飢えた観客はそれで納得するのか?歯止めの効かなくなったファクショニスト(狂信的テロリストに近い、あっち側に行ってしまった人)をその手で殺し、その妻に正直にそれを打ち明け、しかし妻はそれを許し、地域内の融和のために彼女自身が選挙に出るというのは、よく考えられたプロットだが、カタルシスとしてはどうなんだろうねえ。
ムトゥ 踊るマハラジャ(4K&5.1chデジタルリマスター版)を試写で。
20年ぶりの劇場公開にはやはりいろいろ去来するものがある。今試写では残念ながら音声の更新が間に合わず、モノラルのまま。そもそもARラフマーンの事務所の片隅に当時の素材が残っていたことから、今回のデジタル・リマスターが可能になったのだという。そして、この企画自体が、日本とインドの共同プロジェクトで、現地でよくあるリバイバル公開に乗っかって日本に持ってきたのではない、1年以上をかけた労作なのだという。つまり『バーフバリ』の大ヒットに乗っかった急ごしらえの企画ではないということ。これまではそう思ってた、申しわけないことながら。ロケ地についてはこれまで知り得たものに加えて、カルナータカのメールコーテでも撮られていたことが確認できて嬉しい。グルヴァーリ・ソングの冒頭の変わった衣装が、部族民のそれからのインスパイアードだとか。それから、1995年の本作中で登場した老人バージョンのラジニと、今年2018年のKaalaでの若作りメイクなしのラジニとを比較するのも楽しい。23年前のラジニの老人メイクはかなり良くできたものだと思った。
Junoon (Hindi - 1978)をDVDとEinthusaで。n
途中で止まるDVDは如何ともしがたく、グレーだとも言われるEinthusanに手を出してしまった。2000年過ぎのシャーム・ベネガルのオワコン感から、初期の有名作以外のものに手を出すのに何となく及び腰になってたけど、これは名作。イスラミケイト映画としても傑作になるのではないか。作中で主人公が英国人から「パターン人」と呼ばれており、大雑把な蔑称となっているのかとも思ったが、後から自称としてもパターンの語が出てきた。インドのムガル朝末期におけるパターン人の位置づけについてはよく分からない。今度調べること。1857年のインド大反乱に加わったシャージャハーンプルのムスリム名家が舞台。主人公は鳩の飼育に情熱を燃やすが、一方でデリーの宮廷ほどの文化的爛熟と頽廃の気配はない。このあたりが、よくある「栄光のムガル帝国ノスタルジー」の作品群とは違う。しかしガザル風のソングは壮麗そのもの。それからアングロ・インディアンが英国人とほぼ同等の社会的地位を保っていたという描写もやはり気になったところ。原作を読まないと。
Sarkari Hi. Pra. Shaale, Kasaragodu, Koduge: Ramanna Rai (Kannada - 2018)を川口スキップシティで。バンガロールでの鑑賞に続き英語字幕付き2回目。
後半部分に否定的な感想を持ちながらも2回目を見てしまい、結構楽しんでしまった。文字数が多すぎの字幕なんだけど、読み取りが初見時よりもややできたので、笑わせる部分のおかしさがより良く理解できた(それでも全体の半分ぐらいか)。会場はバンガロールのシネコンとは比べ物にならないほどどっかんどっかんウケてた。マラヤーラム語とカンナダ語の使われ方も分析的に見ることができた。片方がマ語、もう片方がカ語で会話というシーンが非常に多い。つまり、大人は基本的にバイリンガル、マイスールから来たアナントナーグのキャラですらそう。法廷のシーンで、「カーサラゴードにカンナダ語が理解できない住人などいるわけがない」なんて台詞もあった。あと、アナントナーグの「P for Peacock」という口癖と、監督自身が演じるシャバリマラ信徒の警官との緩い連関など、イメージのボキャブラリーの豊富さも印象的。
Mother India (Hindi - 1957)をDVDで。
今頃これを見るかという感じだけど、見ないよりいいだろう。予想に違いカラー作品。開始前のセンサー認証は1977年の日付になっていた。後から調べること。基本的にはメロドラマであり、建国後のインドの理想主義的農本主義が鮮明に表れている。「生まれたからには生きなければならない」という昔何かで読んで印象的だった台詞はここから来ていたのか。それにしても、有名な十字架を背負ったようなイメージといい、マザー・インディアという大きく出たタイトルといい、今日では考えられない気概を持った作品。極めてシンプルな語り口で、善も悪もクッキリとしているが、なぜか飽きさせずに172分が一気見できてしまう。2人の子供はインドとパキスタンの象徴なのではないかと思える瞬間も何度かあった。突き詰めるとそれでは辻褄の合わないストーリーになってしまうので途中でその考えは放棄するのだが。水牛に乗るなどの、農村のイメージの幾つかにはラージクマールの主演したカンナダ映画のあれこれと連関があるのではないかと思われた。これも課題。
Kalyug (Hindi - 1981)をDVDで。
全くこれを今まで何で放っておいたのかという1本だけど、ともかく見られてよかった。二大叙事詩下敷きの現代劇と言うのは、人物やエピソードがどのように翻案されているかを追うだけで興味が湧くので狡いと言えば狡い。パーンダヴァ5兄弟は3兄弟に、5兄弟共通の妻は長男の嫁となった。ドラマの中心はカルナに相当する人物(あの膝を抱えて横たわるポーズ!)。クリシュナはアムリーシュ・プリーが演じるがこれのキャラは極めて弱く、クリシュナではなくバララーマなのかとも思える。結局最後に一番印象に残るのは、ドラウパディーに相当するレーカーとアルジュナに相当するアナントナーグの、微妙な関係性で、これはこの脚本(ギリーシュ・カルナードも参加している)の独創。クンティーに相当する女性家長の過去といい、このドラウパディーの過去のカルナとのいきさつ、現在の夫との関係性などなど、明示的に示されない、こうした女性たちの感情のドラマに色々かきたてられるものがある。それにしても、不倶戴天の仇敵が肉親だと知った時、人はあそこまで懊悩するものだのだろうかとは思う。
Crossroad (Malayalam - 2017)をDVDで。
なかなかDVDが手に入らず、現地でやっと見つけたのはやる気の無さそうなボール紙カバーの簡易包装ディスク。字幕付きだと思わなかったがプレーヤーに放り込んだら字幕が出た。カバーに書いといてよ。マラヤーラム映画としては久しぶりのオムニバス。a celebration of womanhoodと銘打ち、10人の監督が女性が主役の映画を一本ずつ持ち寄った。その中のマドゥパールとレーニン・ラージェーンドランが気になって鑑賞を切望していたのだが、肩透かし。辛い2時間47分、これまでに見たオムニバスの中では最低の出来、搾りかすみたいな作品群だった。アショークRナートの"Badar"が最も印象に残った。逆に酷すぎて忘れられないのが、アルバートの"Mudra"とアヴィラ・レベッカの"Cherivu"、それからシャシ・パラヴールの"Lake House"。文芸的な雰囲気で煙に撒こうとして失敗した&既存のアイディアを劣化コピーした見本のよう。芸達者揃いのマラヤーラム映画界のはずが、"Kodeshyan"主演の婆ちゃん以外はあまり感心できず。
Adi Shankaracharya (Sanskrit - 1983)をDVDで。
初のサンスクリット語映画。監督はカンナダ人のGVアイヤル。いわゆる芸術映画フォーマットなのに160分もあった。8世紀に生きたインド最大の宗教哲学者で僅か32年の生涯だったシャンカラを描くってんだから、通常のバイオピックのフォーマットでは無理なことは観る前から分かってた。全編にわたってシュトロートラが流れる映像詩。ウパニシャッドを勉強している人には色々意義深いものがあるのだろうけど、まあ凡人には何となくありがたい雰囲気しか分からない。じゃあ退屈かというとそうでもなく、妥協のない画面作りに感銘した。特に幼少期のケーララのパートが素晴らしい。こマラヤーラム映画みたいになってる。字幕が面白くて、シュトロートラはほとんど訳してくれないのに、「ここで父は自分の死期を悟った」みたいな画面外からのコメンタリーが入る。これは監督の意図したものだったのか。どうせならもっと饒舌に入れてほしかった気がする。ともかく面白い体験だった。
Njan Marykutty (Malayalam - 2018)をDVDで。
トランスセクシャル(トランスジェンダーではなく)の人物が社会の偏見と闘いながら自己実現を目指すという物語。説教臭い語り口だが、ジャヤスーリヤの芝居で見せるものになっている。「女装物は気持ち悪くてナンボ(だからレモは全然ダメ)」が自分の価値基準だが、まあそういう見世物としての女装ショーの範疇では全くなかった。こうしたジャンルで不思議なのは、性同一性障害に悩む者が本来の性を取り戻すために、社会が考える最も保守的なフェミニティのアタイアを取り入れるという点。これがよく分からない。本作ではそれを見せておいてから、一方で主人公が警官のカーキを着ることに憧れるという、さらにひっくり返った転換を示すのだ。こうなるともう、社会派メッセージよりも、「男優が女を演じ、劇中でその女が男に扮する」という、古典的なシチュエーションを再現したかったのではないかと思わざるを得ない。ジャヤスーリヤも名演だが、悪役警官のジョジュ・ジョージが凄い。これだけ憎める悪役を久しぶりに見た気がする。