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Jalsaghar (Bengali/1958)を渋谷ル・シネマで。 

邦題は『音楽ホール』。平日午後ながら半分程度の入りだったか。ベンガル文学の大家のO先生の指摘で、成り上がりのガングリが主人公に対して呼びかける言葉が最初と最後とで違っているというのがあり、聞き分けようと思ったけどできなかった。貴族階級の没落譚として最も鮮烈に思い出されたのはヴィスコンティの『家族の肖像』(1974)だった。同作が階級全体としての没落とデカダンを描こうとしたのに対し、レイは個人の内部の葛藤、執着、意地を物語る。本作でもまた象徴表現はとても分かりやすい。蝋燭の炎、飲み物に落ちる羽虫、肖像画を這う蜘蛛、風で倒れる舟の置物など。撮影地のNimtita Rajbariは今日のバングラデシュ国境付近で実際にガンガーに面し、現在も遺棄されて凄惨な姿。劇中の音楽は全てムガル宮廷音楽の流れをくむもので、ベンガルのヒンドゥーのザミンダールでも教養としての音楽はそういうものなのか。そしてCharulathaに続き、音楽をフルコーラスで聞かせようとするレイの姿勢も印象的。エッジの立った構図の連続に美術家としてのレイの面目躍如。

Charulata (Bengali/1964)を渋谷ル・シネマで。 

邦題は変わらず『チャルラータ』。10年ぶりの劇場での再見。多少知識が増えたのはボンキムとかラム・モホン・ロイなどの名前に聞き覚えがあるということで、しかしキチンと調べなければならない。37歳の夫と23歳の夫の従弟との間で揺れ動く有閑階級の妻の心。妻の持つオペラグラスや突然の強風、ただ一つのシーンでの妻の解け髪などの象徴的意味がよく分かる。1879年という設定を考えれば驚くほどリベラルな夫だが、妻を完全に掌の上で遊ばせていると信じているところ、英国の政界でのパワーゲームに一喜一憂しているところなどは今日の目で見れば哀れと受け取れる描写も。社会評論・社会改革のための言語としての英語と、文芸のためのベンガル語の真っ二つの乖離。Subrata Sensharmaによる衣装は、考証が正確なものなのかよく分からないけれど、ヴィクトリア朝の西欧婦人の普段着である長袖ブラウスとスカートにサリーをルーズに巻き付けたもののように見えて不思議な雰囲気。60年代の映画だから丁寧に覆い隠されているが、ヒロインの性的な欲求不満も微かにうかがえる。

Hero (Tamil/2019)をオンラインで。 

大いに推されて半信半疑で観てダレダレのグダグダになった。「Maaveeran」がよほど名作に思えた。スーパーヒーローと教育問題と、その他もろもろの社会問題をゴタマゼにした2時間37分。何が悪いって、まず悪役にリアリティーがない。なぜそこまで田舎の発明キッズを恐れなければならないのかが納得できるように描かれていない。そして落ちこぼれが適切な指導を受ければ凄いことを成し遂げられるという謎理論。それはどぎつい言い方をすれば優勢思想と言ってもいいもので、人間として生まれたからには何か役に立つことをしないと意味ないという功利主義の無邪気な信奉だ。インドの教育もの映画はだいたいそうだけど、突き詰めるとAmma Cheppindi (2006)のような恐ろしいものになる。役に立つ子がいい子であり、どんな子でも役に立つはずだというのは楽天的すぎ。役に立たない子は存在してはいけないのか。Gentleman (1993)の精神をリバイバルしたかったのは分かるが、中国のおっさんの発明みたいなレベルの技術で衛星もどきを打ち上げるところまでというのは雑過ぎる。

Peter Brook's the Mahabharata (8K) (English/2024)を渋谷PARCO劇場で。 

173分、日本語字幕付き。1988年の舞台上演関係者によるトークで、新築されたばかりのセゾン劇場を一旦全部壊して本作のため火や水を使えるように改装したエピソードが語られ、劇場スタッフが全員アシャの服を着ていた個人的記憶と共に、バブル期の豊かさに思いを致すなど。今回の映画は89-90年のテレビシリーズ(5h18m)の散逸したフッテージを集めてレストアしたものらしいのだけれど裏がとれていない。それと2015年の舞台劇Battlefieldとの関係もさらに調べること。群像劇として奥行きをもって俳優を配置した舞台とは異なり、人物アップが多用され、どうしてもスケールが縮小された感じがする。舞台の方が断然いい。舞台を今見たらどういう感想になるか分からないけれど、映画としては、20世紀の美しい理想主義を遠い目で眺めるような気分。Deathless boyという人物ははたぶん独自のキャラクターなのだけど、かなり中二病臭がする。多国籍の俳優がその母語の影響を隠さない英語台詞が印象的。

Kootathil Oruthan (Tamil/2017)をオンラインで。 

タイトルはAayirathil Oruvanのインフレ版か。ニャーナヴェールの僅か3つしかない監督作の最初のものを見ておこうと思い。意外にもちんまりした出来。明らかにメッセージが先にあり、それを商業映画のフォーマットに何とかして乗せようと苦心した跡が感じられる。片思いの相手に振り向いてもらおうとあれこれ嘘を重ねて良いカッコをして、望み通りに相思相愛になれたものの、綻びが生じて噓がばれて全部おじゃんになってしまうというストーリー。そこからの立ち直りと恋人との和解まで全部フォーマット通り。しかしスーリヤがこれを絶賛しているポストが残っている。アショーク・セルヴァンは初めてだと思ったが、デビュー作の『キケンな誘拐』で見ていたか。トヴィノ・トーマスに似てるけど芸域はTTより狭そう。プリヤー・アーナンドは顔が変過ぎる。ガールスカウト姿の初登場シーンではどうしたものかと思った。貧困層への食の供給という本来のテーマが最後の10数分に押し込められてしまいチグハグな印象。その反動で続く2作品ではメッセージに全振りになったのかも。

ふと思いついて二部作の草分けとなった2作品を 

振り返ってみたけど、『Rakta Charitra』(2010)が合計253分、『血の抗争』(2012)が合計321分で、両方とも前後編が同じ年に公開されている。『Rakta Charitra』の253分なんてかわいいもんだという感じ。

何だか最近、印映を全部ヒンドゥー教神話で説明 

したがる傾向がないだろうか。人名の語源に過剰な意味を読み取る傾向とも相まって。日本人の名前だって、日常の中でいちいち意味とか考えたりしないだろうに。特にセキュラリズムで一本筋が通っているタミル語映画まで、全部神話的に沿ったものとして勝手な裏読み・深読みしようとする傾向は、まあ初学者の知恵熱として一度は通る道なのかもしれないけど、プロがそれを利用して小銭を稼ぐかのようなことをするのはどうかと思う。

Joi Baba Felunath (Bengali/1979) をオンラインで。 

英語題名は『The Elephant God』。何も知らずに臨み、フェルダ・シリーズの第2作目(レイ自身が手掛けたものとしては最終)にあたると知り驚く。ショウミトロ・チャタルジーとウトパル・ダットが特に印象的。前者はこの間見たKapurushとは別人のよう(まあ10年以上の時差があるけど)。ウトパル・ダットは澄んだ瞳と悪そうな面構えとのコンビネーションが絶妙。フェルダシリーズの常で、女気は全くなく、子供が重要な位置を占める。舞台はカーシーでありながら、ベンガル人のコミュニティーの中で話が進む。主人公たちの滞在する宿もコルカタ・ロッジといい、こういう場違いな名前は同郷人を引き寄せるためのものと理解する。基本的に登場人物は皆が役割を背負って登場するが、戯画的な教訓のためだけに現れるボディー・ビルダーはいい味を加えていた。カーリー祭りはカーシーにもアッルと初めて知ったが、画面中の神像は明らかにベンガル風だった。冒頭クレジットのカーシー地図から始まり、大邸宅の内部の装飾など、軽いテーマを裏切るような流麗な美しさ。

Manam (Telugu/2014)をDVDで。 

封切り時に自主上映で見て以来の10年以上ぶりの再鑑賞。ともかく陽だまりの暖かさだけを画面に閉じ込めたような一作で、イエローを基調にしたビジュアルがそれを補完している。出番はそう多くはないANRがキーとなっていて、逆にそれがなければ面白くもなんともない、ふわふわしたロマンス。むしろANR演じたチャイタニヤのこれまでの人生を知りたいところではある。それにしても、ANRがこの世を去る時、まさにテランガーナがAPから分離しようとしていたわけで、その心中はいかばかりだったかと思ってしまう。そして冒頭で結構な尺を使って描いたクリシュナヴェーニとラーダーモーハンの不和はその後現実のものとなってしまった。またナーガ・チャイタニヤは本作でもあまり難易度の高くないちゃらちゃらヤングの役柄を与えられていたけど、それでも2人の人格の演じ分けが充分とは思えなかった。アキルは精一杯にカッコよく演出されていたけど、その後も鳴かず飛ばずだし。ナグさんがいい具合に枯れていくことができない訳だ。DVDオマケのプロモ動画ではスマントトスシャーントも交えた座談会の様子も収録。

2025上半期ベストテン 

Pushpa 2 (Telugu-2024)
Premalu (Malayalam-2024)
Kapurush (Bengali)
Tourist Family (Tamil-2025)
Aavesham (Malayalam-2024)
Meiyazhagan (Tamil-2024)
Retro (Tamil-2025)
Good Bad Ugly (Tamil-2025)
Kaathal - The Core (Malayalam-2023)
We Are Faheem and Karun (Kashmiri/Hindi-2024)

1位のPushpa 2以外は順不同。

Aditya 369 (Telugu/1991)をキネカ大森で。 

記録を紐解いてみたところ、本作を字幕なしの劣悪なディスクで見たのは2012年だったらしい。記憶がかなり飛んでいて、しかも理解できていないところが多かった。アムリーシュ・プリが演じる悪役ラージャは骨董マニアで、そのモガンボ風の衣装や所持品に一々由来がある(ダイヤー准将の着ていたコートとか)。一番の見せ場であるクリシュナデーヴァラーヤの宮廷のシーンは、過去の鑑賞では何も分かっていなかったが、ヴィジャヤナガラ朝全盛期の宮廷に集った文学者たちAshtadiggajaによる御前での詩作合戦、さらに王自身の介入などが時間を取って描かれ、英語かぶれでテルグの古典文芸に関する知識のない“最近の若いの”に対する啓蒙の意味を持つのではないかと感じた。テナーリ・ラーマクリシュナは通俗的な頓智譚の主人公ではなく、宮廷のトップの大詩人と言う扱い。他にDhurjati、Narasaなどの詩人の名前。ティンマラスはアッパージと呼ばれていた史実をなぞる。舞台はマドラスではなくハイダラーバード。第三次世界大戦後の2504年の世界にもチャールミナールがある。

Kuberaa (Telugu/2025)を川口スキップシティで。 

巨悪に切り込んだため免罪を着せられ刑務所に入ったCBI捜査官。新規開拓して掘り当てた海底油田を公共に供さずに私物化したい富豪実業家。ティルパティの乞食デーヴァ。富豪は元捜査官を雇い、違法取引により得た巨額の資金のロンダリングを命じる。元捜査官は無学で文盲の乞食4人をインド全土から引き抜き訓練して受け子に仕立て上げ、彼らを手取り足取り導かれスイス銀行に口座を作る。パスワードと虹彩で認証するシステムだが、一旦資金洗浄が終わると受け子は殺される。その仕組みに気付いたデーヴァは逃亡する。大富豪が違法行為をするために貧乏人を囲うという話は最近流行なのか。政治風刺かと思ったら金融犯罪アクションスリラーだった。社会の底辺にいる主人公でありながら、そこはシェーカル・カンムラなので(タミルのダリト映像作家たちなどとは違い)そこはかとない上品さと楽観性がある。ダヌシュのためにテーラーメイドされたような主人公像。3時間もあるのに、独立したソング・ダンスは1曲だけで、それが非常に効果的。物乞いの多い年の代表としてティルパティが挙がるのは方便か。

Stranger than Fiction(USA/2006)をDVDで。 

邦題は『主人公は僕だった』。6/20に見たという記録のためだけに覚え書きしておく。もしかしたらやらなきゃならなくなるかもしれなかったトークのために参考資料として取り寄せ。届いたころにはトークはなくなって用済みだったけどとりあえず見た。2時間弱のファンタジー・コメディーだけど退屈。朴念仁の主人公という設定は『North 24 Kaatham』あたりに影響を与えたかも。しかしそこはアメリカ映画なので、お約束のようにラブシーンを入れる。そのヒロインのエキセントリックさ、教授の変人ぶり、すべてがちんまりとしている。最後に主人公が捨て身の献身を行う経緯も今一つ説得力がない。舞台がシカゴだというのは後から知ったが、自分のイメージとは違っていた。どうも某国の映像作家、自分のビデオライブラリーのバラエティーを誇るためだけに見栄オマージュでインスピレーション元を公開する傾向があるように思う。そして国内のより直接的な影響の源泉(この件で言えば2021年のTughlaq Durbar)には意地でも言及しないというのがあるのではないか。

『国宝』(2025)をTOHOシネマズ西新井で。 

屋上シーン以外で気になったのは、「その美貌が仇となる」の名セリフがその後のストーリーの中で活かされなかったこと。それから最終シーンで特器になったのはステージの上の音楽に、現代西洋音楽である劇伴が被さって、何となく情緒的にその場を「回収」してしまうところ。古典系の芸道ものの常套手段(「花、香る歌」とかでもあったな)ではあるけど、やはり好きになれない。原作に忠実に映像化するとなれば連続ドラマになるしかないと監督は言っていたが、ラージャマウリなら前後編6時間の二部作にしていたと思う。オフではペラッペラ、見かけがシュッとしているだけが取り柄というタイプに見えた2人のイケメン俳優が、(韓流並みに)スクリーン上で演技者としてのプレゼンスを示したのは驚きだった。

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『国宝』(2025)をTOHOシネマズ西新井で。 

限定的な日本語字幕付きの上映。ともかく字幕に感謝。長唄だけでなく、舞台化粧の主人公2人を見失いかねない箇所もあったので。慣れてくればこの2人の違いは分かるようになるが、何としたことか、女性キャラが時々分からなかった。特に主人公を長崎から追ってきた幼馴染の女性がなぜ途中からライバルの方とつながるのか、その辺りの描写が不足。原作を読めばわかるのだろうか。様々なレビューが指摘するように、化粧を落としたパートの人間ドラマは限りなく薄い。特にホテルの屋上でのシーンは厨二っぽいありがち感(画家が自分のカンバスを破るシーンに似てるかも)。田中泯演じる女形の人間国宝の台詞がどれもいい。主人公の美貌を呪いと看破するところ、引退後にうら寂れた小部屋で「ここには美しいものが何一つない」と言うところ。それから主人公2人がリハーサル後に舞台上で寝転んで、何かが見ていると言うシーン。これこそが本作のエッセンスと思った。自分よりもはるかに年下で、オフを見ても最近のニーちゃんとしか思えないだろう俳優たちが、スクリーン中ではキチンと仰ぎ見られる存在になっていたことに感銘。

We Are Faheem and Karun (Kashmiri/Hindi/2024)をユーロライブにて。 

第32回レインボー・リール東京(東京国際レズビアン&ゲイ映画祭)上映、邦題は『カシミールのふたり ファヒームとカルン』。上映後トークが酷かったことは別のところにぶちまけたので省略。字幕もまあ監修が入ってないのはよく分かった。カルギルにも近いグレズ渓谷で、民間の警備会社から派遣されて検問を行っているケーララ人のカルン。コルカタから帰省して来た現地人ファヒームと知り合い、2人はお互いに惹かれ合い、奥ゆかしいやり取りにより相手がゲイであることを確信して相思相愛になる。二人の間を引き裂くのは宗教の違いではなく、グレズ渓谷という土地を巡る立場と個人史の違い。文芸的なスケッチでありながら、脇役に至るまでの個人のキャラクターを描き分けるのは『I AM』と共通。あとから読んだところによれば、舞台設定と同じグレズ渓谷でオールロケを敢行したという。今年4月のあの事件前だからこそできたことか。そしてやはり舞台設定は19年8月以降のものなんだろうとも。ケーララ人役の彼は本当にケーララ人だったので吃驚。

Mahapurush (Bengali/1965)をYTで。雑な英語字幕付き。 

2回目。今度はスクリーナーで。雑な英語字幕をそのまま引き継いだような感じ。時間に関するもっともらしい哲学的言説とそれに神秘性を付加するためのハンドジェスチャーがお見事。両手を逆方向にぐるぐるさせるというプロットは、もしかしたら「Pranchiyettan & the Saint」(2010)に影響を与えたかと思った。チャルプロカシュ・ゴーシュ演じるスワーミの頭巾を取った姿は、意外にもよくいるタイプの初老のベンガル人男性のそれで、得難い貴重な瞬間を見た気分。スワーミに対抗する4人の暇な男たち+ノニ教授の、市井の常識人としての真っ当さと、同時にある斜に構えた調子のブレンド具合がいい。ショットの恋路を助けるためにスワーミ追い出し作戦を行うものの、完全に抹殺することは考えない。ああいうもんはなくならないのだとでも言いたげな諦念がうかがえる。4人の男たちの中の司令塔クラスを演じた俳優が印象に残ったが俳優の名前もよく分からず。あの4人が物憂げにダラダラと時を過ごすあの空間が、失われてしまった前世紀の庶民の世界という趣き。

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Kapurush (Bengali/1965)をオンラインで。 

邦題『臆病者』。僅か70分の文芸的一作。よく文芸作品から映像が想像できることがあるが、本作はその逆で、小説の文言が浮かび上がってくるような不思議な感じ。「Kapurush-O-Mahapurush」と括られているのは、単に上映時間が短いものを「合本」したというだけなのか。ショミトロ・チャタルジー、マドビ・ムカルジー、ハラドン・バナルジーの、ほぼ3人だけの芝居。若い脚本家が義理の兄弟のいるハシマラを目指して旅するが雇ったタクシーが故障して立ち往生する。場所は不明ながらシリグリ回廊のシリグリが最寄りの都市。たまたま出会った紅茶プランテーションの農園主に助けられその邸宅で一夜を過ごす。この農園がビハールなのかベンガルなのかよく分からない。農園主は「年に何度か困ったベンガル人を助けることがある」と言う。2人が着いた屋敷には、農園主の妻がいたが、彼女は脚本家の学生時代の恋人だった。表情だけで語らせる回想部分の演出が見事。時代が時代だけあって男性2人がニコチン中毒のように煙草を吸いまくるが、これに意味を見出すのは見当はずれなのだと思う。

Mandela (Tamil/2021)をNTFLXで。2回目。 

In and around rural Madurai-Theni belt you can see sasikumar & gautam Karthick movie posters even though nobody watches those..
reddit.com/r/kollywood/comment

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Mandela (Tamil/2021)をNTFLXで。2回目。 

『Maaveeran』を見た後に再見すると、圧倒的にこちらの方が優れていて、風刺も効いている感がある。シンプルに言うなら、票による信任と引き換えに政治家に要求すべきなのは、個人的な奢侈品や生活用品ではなく、病院・学校・舗装路・街灯であるという教訓。シャシクマールのポスターは南村の次男マディの家に飾られている(シャシクマールのカーストはヤーダヴァまたはその1セクトのコーナール)。村長の家にはペリヤールの額装された写真。郵便局にはアブドゥル・カラーム、後にネルソン・マンデラ。主人公のスマイルは恐らくMGRソングを聞いていて、投票先を問われMGRに1票とうそぶく。海外から呼び寄せられる村人が到着するのはトゥティコリン空港。感想は前回とあまり変わらないけど、ヒロインと村長の2人の妻以外の女衆の存在が気になった。トイレのオープンセレモニーを期待を込めて見つめているのは若い女性たち。また主人公の自殺を思いとどまらせるきっかけとなった深夜3時の物音は、その時間しか安心して用を足せない村の女衆のものだったというのがギャグにならない深刻さ。

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