Mary Kom (Hindi/2014)をNTFLXで。
邦題は『メアリー・コム』色々な意味でヤバいものを見た感じがする。インド映画に「文化の収奪」みたいなメリケンのポリコレ思想が未輸入だというのは分かった。皮肉にもなのか、意図してなのか、本作はカーフュー下のインパールで始まる。そしてクライマックスはインド国家の斉唱で終わる。メーリ・コムが分離主義の人ではないことは分かる。しかし北東人への見下しのに耐えながらボクシングに精進してインドに金メダルをもたらすというダイナミズムが、プリヤンカ―をキャストしたことでほぼ無効化されてしまっている。代わりに分かりやすいハードルとして出産・子育てと、腐敗した連盟役員、強豪ドイツ選手を持ってきた。それにしてもメーリと夫以外のキャストが全て北東系と思われる俳優で占められているので、やはり異様。夫役のダルシャン・クマールはまだ馴染んでいたかもしれないが。スポーツドラマとしては勘どころを押さえた手堅い作り。まあただ、ボリウッドにとってどこまでが我々でどこからが他者なのかという微妙な問題に、『チェンナイ・エクスプレス』以上に踏み込んだ作例として貴重。重要資料。
Talvar (Hindi/2015)をNTFLXで。
邦題は『有罪/Guilty』。イルファン・カーン追悼として見た。予備知識ゼロで臨んだが、現実の迷宮入り事件(一応判決は出て犯人とされた者が終身刑に服しているのだが)をかなり正確に再現したものらしい。テーマは明快で、まず警察の無能と予断を持った捜査への批判。それから、本来警察とは別組織であり、むしろ緊張・対立関係にあると一般的に思われているCBIが、警察とぐずぐずのトップの意向で、警察の面子を守るために捜査を歪めてしまうという点。一般に、容疑者でネパール系の貧しい若者と中産階級の医師夫妻とがいたら、ネパール系の方に肩入れしそうなものだが、そういうポリコレは関係なく描写する。レビューの幾つかには羅生門的語りで、真相はなのかを明かさずに終わるとあったが、映像作家がどちらの説に肩入れしているかは一目瞭然。ただ、真相に近づいたように描かれる側にも弱いところがあって最終的な勝利には至れない。それは捜査にナルコアナリシスを使ったこと(これは違法ではないが)、自白を引き出すのにお馴染みの殴る蹴るをやってしまったこと。鍵の問題はよく理解できなかった。
Bombay Talkies (Hindi/2013)をNTDLXで。
これも月末で配信終了と聞いて。4話のオムニバス+エンディングの豪華絢爛スター総出演ソングという5部構成。このエンドソングと本編の文芸調とが全く噛み合わずちぐはぐ。豪華な顔ぶれよりもむしろ不在者が気になる。カラン・ジョーハルの第1話はラーニーの熟女ぶりに圧倒された。熟れ切って崩れる寸前というのをよくもまあ演じたもんだ。一部で酷評されていたが、ゲイ同士の緊張感のある心理戦と大人の女との絡み方は面白かった。評価の高い第2話では例によって日本語字幕に苛々。エキストラがエキストラとして一瞬の演技に精魂を込めるということ実際がよく分かる。ゾーヤーの第3話は子役の演技力に頼り切っているきらいはあるが、カトリーナのあのセリフがオタクには刺さりまくるだろう。アヌラーグの第4話は、いつもの作風から離れて意表を突く古譚の味わい。方言のニュアンスが分かれば一層面白いのだろう。ムラッバーという食べ物の存在を初めて知ったが、検索するとジョージア料理として出てくる不思議。実在の人々をキャストしたというバッチャン邸の警備員の面々の顔がいちいちいい。
OMG – Oh My God! (Hindi/2012)をNTFLXで。
邦題は『オーマイゴッド 〜神への訴状〜』。月末で配信終了とのことでざわついていたので、もう一度見とくかと思った。日本語字幕は例によってグダグダ。Go go Govindaを「行け 行け ゴービンダ」とするのは意訳としてありなのかどうか。とはいえ裁判シーンは日本語化のせいでよくわかった。よく分かったところで、どうかというと、ボリウッドのソシオファンタジー(特にPKとか)にありがちな賢げでこぢんまりとした感じがつまらないなあと思った。クライマックスは感動というよりは理知的な感銘。まあただ、言ってることは結構過激だ。「神を信じよ、だが寺院には詣でるな、お印も求めるな」だもの。ラスト近くで怪しげな宗教家の言う「人は弱いのだ、彼らは必ずまた寺に来る」という意味の台詞が逆に重みをもつ。これを見ると、Mayabazaar (Telugu/2006)なんかの圧倒的な神様の強さが慕わしくなる。神が真の姿を見せるシーンの安っぽさとか(北インド風のあの衣装はいただけない)。逆に現代装束での神性の表出はさすがにアッキーと思ったのだった。
オタクのジャーゴンや定型表現の分析としてこれは興味深い。
ただ、これらの表現が自分とは全く縁遠かったのはなぜなのかがよく分からない。単なる世代差なのか、もともと来たクラスターが全然違うものだったのか。後者だとして、もともとのクラスターは何だったのか。
「推しの顔が好きすぎて語彙力死ぬ」問題をライターの僕が本気で考えてみた
https://mi-mollet.com/articles/-/23182?page=2&per_page=1
Virus (Malayalam/2019)をDVDで。2回目。
初回と違って、人物相関関係が分かって見たのでやや理解が進んだ。しかし頻出する医学用語などにはまだ追いつけていない。今この状況下でまた違った感慨があるかとも思ったが、そうでもない。まず平時からERが凄まじいのが示され加我の差を思い知らされる。大学病院であっても陰圧室とかは望みえない一部木造建築。まあそれと、現状のコロナとニパとのスケールの差。量によって質もまた変質する。感染もどうやら唾液や吐瀉物への接触からのようで、エアロゾル感染ではない模様。フルーツコウモリが大元の感染源らしいことが予想され果物屋が風評被害を被るというのがなんとも。だからマスクの奪い合いのような描写はない。致死率は60〜74%と高い。現状と符合するものがあるのは、感染発症によって日頃の行いが炙り出されてしまうことか。陰謀論は現況では一般市民のを巻き込んだプチ・インフルエンサーから湧き上がっているが、作中では中央政府と防衛筋から。市井の人々のパニックや流言飛語といったものはあまり描写されない。州政権への批判は全くない。一番の見どころはクラスター追跡の手法。
Dhobi Ghat (Hindi/2011)をNTFLXで。
邦題は「ムンバイ・ダイアリーズ」。大層心に染みわたる映画体験だった。ストーリーよりもまず映像のテクスチャーがいい。マハーラクシュミーのドービー・ガート、どこかは分からないがアーティストの好きそうな見捨てられた地区、海に突き出した富豪の邸宅。画家のアルンと金融コンサルタントのシャイとの関係性はリアルで、典型から外れたものを感じる。洗濯屋稼業をしながら俳優を目指すムンナも少しだけ外れてる。フッテージを残したヤスミンも、犠牲祭は嫌いだなどと告白し、属性から期待されるキャラクターから外れる。シャイが撮るという設定の写真のショットの数々が素晴らしい。特に洗濯場でのムンナを撮ったもの。プラテイクの役へのなじみ方がいい。どうしてTSみたいなのがスターになって、この子は相変わらず地味なのかとばかり思いながら見ていた。ムンナのバイトとしての鼠捕りが、洗濯屋仲間からさえ汚らわしいとされ、シャイに知られたことがトラウマになる(洗濯は撮影させてたのに)ということの意味は何なのか。ラスト近くでムンナが中産階級の婦人から馘を言い渡されるシーンの意味は?
Jo Jeeta Wohi Sikandar (Hindi/1992)をYTで。
学園ものを固め見する必要があり、詳しい人に教えてもらって鑑賞。英語字幕はついているがソングシーンで無音になるという訳ありビデオ。見終わった後に、これが93年の福岡アジア映画祭で「勝者アレクサンダー」のタイトルで上映されたと知り吃驚。確かに主人公はカレッジ学生だが、教室でのシーンは数分しかなく、学園ものというよりスポーツドラマに近い(ただし、クライマックスの自転車ロードレースはかなり汚い戦い)。もっともお約束のダンス・バトルはあるが。デヘラードゥーンという設定だが、かなりの部分をコダイカナルで撮影したとのこと。なるほどウーティーやデヘラードゥーンなど避暑地として有名な場所には、英国式の寄宿制カレッジが林立するが、貧しい地元民が学ぶ公立カレッジもあり、そこに階級間の緊張が生まれるというのは面白い。学園を舞台にしながら、青年のイニシエーションと階級闘争と恋愛を主なモチーフとして、しゃらくさい教育論を開陳したりしないところが良かった。富豪の館としてバンガロール城が出てきたが、こういう滅茶苦茶な誇張が90年代らしい。
Prathidhwani (Kannada/1971)をErosNowで。
サイト上でのカバーイメージは実はクリシュナデーヴァラーヤのもので、イージーな取り違え。とんだチートだ。フォークロアだと思って再生したらいきなり西部劇風の画面で吃驚。しかも西部劇ファンタジーかと思うとそうではなく、ソーシャルの復讐もので、主人公は警察官。なぜか馬に乗るシーンでだけ保安官風になる。これはシュールなご都合主義なのか、それとも撮影中に脚本が決まらずフラフラしたのか。相思相愛のヒーロー&ヒロインは最後に叔父と姪だということが分かるのだが、これは構わないのか。物語の舞台ははっきりしないが、マイソールまたはバンガロールか。デートのシーンになると突然クドレムカとかに飛ぶ。後からDBサイトを見たらジョーティラクシュミが上がってるにだが作中では見当たらず。西部劇の酒場シーンでもあって、それがカットされてしまったのだろうか。147分もあったからノーカットかと思ったのだが。無理にねじ込んだラージクマールの女装シーンがあった。目と目が離れたアーラティは、ミニスカも厭わない都会的ヒロインという立ち位置にあったことが分かった。
Giri Baale (Kannada/1985)をErosNowで。
タイトルの意味は「山の娘」か。サムネだけで予備知識なく見たシリーズ。ここのところの低空飛行の中では前半が目覚しく面白かったので、隠れた名作かと期待しながら見てたら、終盤の50分で色んなものをぶちまけた感じで収拾つかず強制終了という感じの終わり方。ヘロヘロになった。まずはショーバナの登場に吃驚。この時代のカンナダのクソださ振付のダンスでもショーバナが踊ると見られるものになる。彼女は前半の噛ませ役で退場するのかと思いきや、終盤に再登場して異様なツイストを巻き起こす張本人となる。しかし各エピソードとその時間配分のバランスがどうにも悪い。それと各キャラの性格の一貫性もぐらついてる。もしかして本当に脚本なく撮り始めて無理やりに終わらせたものじゃないのか。アクションを入れるためだけに加えられたシュリーニヴァースのキャラとか、悪役としての役割を全うできず変質するニーラヴェ二の父とか。子供を得るために第二夫人を持つというの、当時の観客にはどう受け止められたのか。二人組のコメディーはしんどい。海岸地方(?)の水辺の景色は新鮮で美しい。
Huli Hebbuli (Kannada/1987)をErosNowで。
未知のシャンカルナーグ英語字幕付きを引き続き。これはかなり楽しい。相変わらずプロダクション・バリューは最低ではあるが。シーンとシーンの繋ぎが粗雑で唐突。それ今になっていうか!的なご都合主義プロットが後から後から。愛の芽ばえとか愛が不信に転じるなどのシーンの描写が手抜き。悪者がプロレスラーの衣装みたいなのでキメていて、その衣装を無理やり他人に着せると冤罪が成り立つとか。文字通りの濡れ衣。シャンカルナーグは警官の制服がどうしてこんなに似合うのか。そして何故かヒッピー風の奇態な変装で悪の巣窟に乗り込むダンスシーンが二つもある。スマラターはこの年に本作とThoovanathumbikalに出てたのか、すごいコントラスト。そしてまさかのアナントナーグの拡大カメオにびっくり。生き別れの兄弟役なら本来はこの人のはずだが、キャラが全く合わないからゲストに収まったのか。リーラーヴァティは典型的な「カンナダ映画のおかん」を演じて見事。シャンカルナーグのアクション映画は必ずしも彼のワンマンショーではないものもあると分かったのが収穫。
Halliya Surasuraru (Kannada/1990)をErosNowで。
タイトルは「村の悪魔」ぐらいの意味か?階級闘争とカースト間の争いを暗示しているようなのだが、表面的には戯画的な金貸し悪党と正義の勢力との間の死闘。ただし、プロット・演出・編集・アクション振付など、目眩がするほど粗雑で、プロダクション・バリューは最低。この時代のカンナダの非ラージクマール映画としてはまあこんなものなのだが。一方、80年代ボリウッドの暗黒映画の、カルナータカにおける呼応と考えれば落ち着きがいい気もする。シャンカルナーグのワンマンショーかと思えばそうではなく、3組の恋人たちに均一に時間が割り振られている。印象的なのは、低カースト出身ながらI A Sを目指す若者が金貸しの娘と恋仲になる設定。俳優名はわからないが、この男が恋人の危機に田舎のプレスリーみたいな格好で耕運機を運転しながら現れてアクションになだれ込むのが凄い。衣装とかも場当たりだったのだろうか。悪役のアシュワトをはじめとして皆誠実に演じているが、ロングショットで走ったりするシーンに、演じ手たちのアパシーが出てしまったような気がする。
Android Kunjappan Version 5.25 (Malayalam - 2019)、二回目の通し見。
ネイティブ・スピーカーによく分からないところを尋ねた上での再鑑賞。やはり台詞の一々が面白い。スルーした箇所も丁寧に翻訳してあればさらに面白かったはず。スラージの芝居は名演なのだが、ラストに近づくにつれてやや息苦しくなっていく。ラストシーンでのサウダーミニは謎だ。彼女は本当に物理的に存在する人だったのか?ほんの数秒だけ写真が映る悪魔のような矮人クンニャッパンの意味は何なのか?どちらも存在論哲学を感じさせるものがあるが、脚本家の苦し紛れなのか深すぎるのか分からない。田舎の衆のコクのあるキャラは何度も見ると味わいが増す。特に従兄のプラサンナンがいい。おっちょこちょい、知ったかぶり、うろ覚えの知識をひけらかすなどなど。それから薬剤師か何かの資格を持つ万年求職親父のまったりとしたキャラが凄すぎる。劇団のトップのヴィヌ(?)の実父クンニャッパンに対するオブセッションがよく分からず不気味。現地レビューでも終わり方に対する苦情はちらほら。シンプルで温もりがあるソングと歌詞はジワジワ来る。
Hosamane Aliya (Kannada/1991)をErosNowで。
未見の英字幕付きアナントナーグ主演作があるというので予備知識ゼロで臨んだけど、オープニングのクソコラ風のスタッフロールで察しがついた。とことん脱力系のカンナダ呑気ワールドだった。ただ2時間を切るランタイムはやはり変で、ところどころに、雑な作劇では説明のつかない唐突な場面転換や飛躍があった。配信にのせる段階でカットしたとも思えないので、残存プリントの問題だったのかと思う。もちろん雑な作劇も多数。学位を持ってるのに就職できない若者の鬱屈とかは途中で消え、恋愛描写も変。スチルなども残ってないと見えてカバーがわりのイメージは、どシリアスなアナント翁のアップで、本編とのギャップがすごい。しかしこの人は、時々のアート系シリアスで演技力を見せつけながらも、通常運転はこうした呑気ユーモア映画だったのではないか。クライマックスでの人質救出アクションシーンは、Amar Akbar Anthonyを何となく思い出させるミュージカル仕立て。なぜマジシャンに扮するのかとか、なぜ奇術で悪漢を倒せるのかとか、一切の説明がないところが良い。
Mallishwari (Telugu/1951)をErosNowで。字幕なし。
DVD(字幕なしだど)を探し回ってどうしても入手できなかった一作。イロスでも無字幕だからYTと変わりはないのは知ってたけど勢いで見た。プリントの状態はかなり悪い。それから後半に場の繋ぎがどう考えてもおかしいところがあった。フィルムからデジタル化する際にリールの順番を間違えたとしか思えない。亜大陸的作風。しかしまあ、楽しい2時間37分だった。ストーリーは驚くほど単純。才能ある石工と歌舞の上手い村娘。相思相愛の2人がお忍びの王様に屋外で会い、男が戯れにこの娘が王宮に上がればいいと言う。しかしそれが本当になり娘は召し上げられ、パルダに囚われてしまう。禁を破り王宮に侵入した男は捕まり、2人は決まりに従い処刑されるものと思われたが、王が最後に種明かしして大団円。まさに歌と踊りを盛る器としてのストーリー。美男美女のカップルのアップを見てるだけで楽しいが、ここでは明かにバーヌマティの方にスポットライトが当たっていたことが分かる。気になったのは「お召し」がすなわち「お手つき」ではなかったのかという点。踊りはオリエンタル風。
『新感染 ファイナル・エクスプレス』をNTFLXで。
敢えて真冬にアイスを食べるぐらいの気持ちで臨んだ。登場人物たちの運動量が凄い。で、扉を抑えるところでは一緒に歯を食いしばったりして、観てる方も運動になる。政治的・歴史的なコノテーションは盛んに言われていた通りで、うなずきながら見ていたが、鼻持ちならない感じはなくドラマにきっちりと寄り添って見事。列車の進行が朝鮮戦争のものとパラレルなのはわかったが、ゾンビ化はすなわち共産主義思想化と言うことになりはしないか(そこまで言ってるレビューは今のところ見つからず)9号車から13号車に生還した一握りの人々は脱北者だから差別されたのか。逃げ遅れた老女がゾンビ化しながらもただ立って南側を見つめているというのも、老女の妹が安全圏のおぞましい人間模様に嫌気がさして自分からバリアを開けてしまうところとかも。ホームレスが最後に自己犠牲を行ったのは母性と子供に対する畏敬によってなのか。自然すぎるドラマにあれこれ後から意味を考えるのが楽しい。レビューではこれが良かった。http://lovekuzz.hatenablog.com/entry/2017/09/03/145219
Munna Michael (Hindi/2017)をErosNowで。
EN耽溺の中で、気分転換&もしかしたら芸道もの?の期待から見てみた。変則的ではあるものの、やはりダンス芸道ものだった。変則的な部分とは、1.任侠板挟みモチーフ2.NZSQによるコメディーとしての踊り3.お約束アクションの三つ。こういう変則アイテムがしっくり溶け合えずに子供っぽいものになってしまった。タイガーは相変わらず爬虫類みたいで胸の洗濯板も腕のもっこりもダンスの邪魔じゃないかと心配になる。まあきっと、せめてもの芸の肥やしと幼少時から仕込まれたんだろな。ダンスコンペがクライマックスとなるとどうしてもStyleと比べてしまうけど、PDでも出したらよかった。ダンスものにはあの艶と風格が欲しい。ストーリーのひねりとしてはドリーの父とマヒンダルの妻とを活用してほしかった。芸道ものとしては、いい感じの競り合うライバルがいて、そいつの下手な(けれど耐え難い程ではなく)踊りと競いながら、主人公の踊りがどんどん上り調子になっていき最後に爆発というのが予定調和だが、その点が弱い。最終局面での仲間の離脱は謎。ニディは時々出遅れてた。
Innale (Malayalam - 1990)をErosNowで。
諦めていた字幕付きパドマラージャンの第二弾。ジャヤラームが前面に出た前半が緩くて、正直なところダレダレで見てた。ジャヤラームは医師になる勉強に失敗してモノにならず、病院のマネージャーをやってる若者という設定。この設定は本筋とは無関係なのだが、本筋に微妙なニュアンスを与えている。その他の登場人物についても同じで、登場時間が短くても、一筆書きのようにサラリとした性格描写がなされており見事。記憶を失った娘であるショーバナを保護しているうちに相思相愛になるところでソング。高原(マディケリ)でふざけ合う2人に風が吹きよせソングが飛行機の轟音に掻き消されていき、長々とした旅客機着陸の映像の後に、着陸機がゆっくりとタクシングで移動し、一方でこれから離陸すると思しき他機とすれ違うショットの象徴性に唸る。この時点ではストーリーのツイストはまだ開示されていないにも拘わらず不吉さを演出する手腕。そしてスレーシュ・ゴーピの渋さ。やっぱり役者としてはこの頃が最盛期だったのではないか。スレーシュ・ゴーピに勝利してほしいと願いたくなるような演技。
Azhagarsamiyin Kuthirai (Tamil - 2011)をErosNowで。英語字幕付き。
長らく誤解してたが、これの主役はヨーギ・バーブではなくアップクッティという別の俳優。まだ名前が知られてない頃のスーリが出ていた。大流行の終盤頃につくられた田舎映画。タミルの田舎町に行くのは簡単だが、これだけのド田舎となると人類学者かなんかじゃないと入り込めない、そういう場所をリアルの紹介してくれるという意味でも貴重。大流血はなく、民話の温もりのある語り。カースト問題も出てくるし、村の政治が原因でスブラマニヤプラムになりそうな瞬間があって緊張するのだが、最後に雨が洗い流す。お馬のアップの名演技。後から調べたところ舞台はテーニ県だとのこと。ガーツ山脈東側のクリンジ・ランドの風景が目に刺さる。コダイカナルなどが思い出されるが、外国人によって避暑地化されなかっただけでこのような土地は無数にあるのだろう。完全なお伽の国の古譚と現代劇との間で揺れるが、最後に後者に回収される感じ。ただし既成の秩序は覆される。ケーララから来たナンブーディリのいかがわしさ。多分自称ナンブーディリなのではないか。