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私にはとても大切なあなた(내겐 너무 소중한 너、2021)をオンラインで。 

予備知識なく見て、障碍者ものと知って若干退いたが、お涙頂戴になるのをギリギリところで回避するクレバーな作り。母を亡くした8歳ほどの孤児の女児が全盲で聴覚障碍なら、それはヘレン・ケラーと同じ。見終わってレビューを読んでやっと気づくとはボケボケ。気づかなかったのは、生物的な快不快を超えた概念を会得するのが、ヘレン・ケラーとは違い割とすんなりと運ぶから。笑顔が可愛くて下の始末には困っていないというのは映画的な美化か。Bクラスの芸能プロダクションをやってるチンピラもどきの主人公を演じる俳優のチンピラっぽい芝居はひたすら上手い。主人公のキャラにはVikramarkuduがちらつく。そして見終わった後で、例によってオフスクリーンのイメージを見て落差に何とも言えない気持ちになるところまで含めて堪能。

Kummatty (Malayalam - 1979)を東京フィルメックスで。 

邦題は『魔法使いのおじいさん』。今年になってデジタルリマスターされた映像。最初に見たのは何十年前だったか。前半のイメージはかなり鮮烈だけど、後半のワンコの熱演部分は全く覚えていなかった。久しぶりのアラヴィンダン、寝てしまうのが怖かったけど、歌あり踊りありで眠くなることはなかった。あの茫漠たる平原はケーララのイメージじゃなく、むしろカルナータカのものだけど、ロケ地はどこだったのか、ちょっと調べただけでは分からなかった。上半身裸の老女は今にして思えばトライブの女性だったと分かるのだが、中盤にちょっと出てくる子供のテイヤムのようなのはどこのものか分からなかった。子供にとっては空恐ろしくもあり魅力的でもあるBogymanの小父さんは、同時に生身の人間でもあり、体調も崩すし、髭は床屋にあたってもらったりもする。それでも立ち去り際にはすごい魔法をかける。当時のものをそのまま使ったという字幕の監修者として伊藤正二氏の名前があってジーンとする。あの動物の面をつけた門付け芸には名前があるのか、それとも映像作家による創作なのか。

Churuli (Malayalam/2021)を東京国際映画祭で。 

一筋縄ではいかないと思ってたけど、今回もまた西ガーツ山脈の限界集落を舞台としている。カンナダ語の看板がかかる市のようなものが立つシーンだけが人工的なもので、あとは圧倒的な森林とそこにへばりつくようにして立つ貧しい家々。二人のへっぽこ刑事が迷い込んでいくのは、僅かな人間の住む寒村ではなく、螺旋状にうねりながら意志をもって息づいている大自然そのもので、その住人たちは意志持つ大自然の触手に過ぎないのではと思わせるものがあった。またしても「ラテンアメリカの孤独」の再現か。当初SFとも言われていた本作だが、実際はかなり独特なコメディー・ホラーとでもいうべきか。集まった村人たちがある瞬間を境に不気味な表情を見せたりするのは微かに怖いのだが、それは怨霊などではなく、地霊というか自然の一側面に見える。アート映画の中で、ユーモアを追求するリジョーの姿勢はあっぱれ。ともかく圧倒的な森林浴効果があるので、もっとゆったりしたシネコンのシートで再見したい。冒頭のシヴァ派の坊さんの話以外で朗読されるのは黙示録か。大自然と交感して共鳴する夢の世界。

私は私を解雇しない(나는 나를 해고하지 않는다、2021)をオンラインで。 

TIIF提携企画のコリアン・シネマ・ウィーク2021の配信で。これまでのオンライン上映と違い一週間集中上映。そのせいなのか何なのか珍しく抽選から外れた回もあった。しかし全部当たってたら逆に八方塞がりだったかも。ともかくこれは傑作。割と苦手なメッセージ系なのだけど、1時間50分の画面の詩的な美とヒリヒリする身も蓋もない現実とが、ミニマリズムのセッティングの中で突き刺さるほどに効果的。本社・下請け間の差別構造と、本社での男女差別、現場での男対女と地位の上下の入り混じった緊張関係、などなどが明滅するように入れ代わり立ち代わり現れ、そこに基本的ライフライが過酷な労働環境によって維持されていることも示される。そして最後にヒロインの孤独な戦いとその人生を回顧するモノローグがこの世のものとも思われない光の中で漂う。美しい女性を主役にしながらも、女性性をほとんど表出しないところが素晴らしい。ラストのこの映像は本当に良かった。
news.kstyle.com/article.ksn?ar

Koozhangal / Pebbles (Tamil/2021)を東京フィルメックスで。 

邦題は『小石』。父が息子を学校から連れ出し、実家に逃げ帰った母を連れ戻すためにバスで出かける。途中のエピソードは、水瓶を3つも持って乗り込んでくる年配女性、父の吸う煙草が煙いと揉みあいを始める男、乳飲み子を抱えた不動の女性など。母の実家に着いてみると、母は既に置いてきた子供を心配して家に戻った後だった。母の親戚と掴み合いの喧嘩をする父。父はすぐに戻ろうとするが、息子は反抗心からバス代の紙幣を破ってしまう。逃げる息子を父は追い、捕まえて折檻する。そして家までの長い道のりを歩きだす。途中のエピソードは、鼠を捕って食べる極限の人々との出会い、教師のバイクに息子だけが乗せてもらう、父が怪我する、犬がついてくる、それぐらい。やっとのことで家に帰りつくと、妻は水を汲みに出かけたところ。泥の水たまりのような水汲み場で、自分の番が来るのを延々と待ち続ける女たちのショットで終わり。息子が口に小石を入れるのは、極端な渇きに襲われた時にそうすると、唾がでて渇きが和らぐからだと上映後のQAで知った。家には小石の山がある。

Jhini Bini Chadriya/ The Brittle Thread (Hindi/2021)を東京国際映画祭で。 

邦題は『もろい絆』。ヒンドゥー原理主義の声が高まるヴァラナシで、底辺ムスリムの織工がイスラエル人観光客の女性の案内をする。彼はその女性に恋心を抱くが、彼女はカジュアルに滞在を楽しんだ末に町を離れる。彼はしばらくして親類の娘と結婚する。一方でラーニーという名のキャバレーダンサーは、聾唖の娘をもつシングルマザー。卑猥な踊りを踊るだけでなく、RSSの有力者に体を提供することで娘に良い教育を受けさせようとする。彼女にべた惚れしてアッシーをするバーバーはぞんざいにあしらわれるが、それでもまとわりつくことをやめない。ある日彼女は男たちからレイプされてボロボロになるが、そこにRSSの有力者がやってきて体を求める。抵抗する彼女をRSSの男は打ちのめす。怒り狂ったバーバーはRSSの男を暗殺する。これがきっかけとなり、ヴァラナシの街はコミュナル暴力の巷と化す。職工は妻を救うために髭を剃ってスクーターで出かける。バーバーは警察のエンカウンターで殺される。ラーニーの娘はダンスを習い出す。

Mangalyam Thanthunanena (Malayalam/2018)をオンラインで。 

ニミシャ・サジャヤン固め見のプロジェクトの一環で。それにしても彼女は共演相手がどの作品もおっさん寄り。老け顔だからなのは分かるけど、いずれの相手も演技派ですごい。そしてほとんどの作品で危機に直面した女性を演じている。その中では本作はぬるま湯な方。チャッコーチャンにありがちなダラダラしたコメディー。相変わらずの借金を背負った無職青年の苦闘という設定。若干の捻りは、一時は湾岸で働いてそこそこの暮らしを立てていたが、訳あって帰国して休職中というもの。最後の解決はかなりイージーな、「それで解決ならもっと早くやっとけ」というものだった。その素直な解決法を取れないために、非現実的で馬鹿馬鹿しいあれこれに手を出すというのが笑わせどころらしい。まあでも十分に歪んでる。借金を返すために妻の金製品を売ろうとするが、母のものに手をつけるのは断固として拒む(マザコン)とか、妻の父の会社に勤めるのを嫌がる(妙なエゴ)とか、うべなえない。でもチャッコーチャンだから見られてしまう。久しぶりのシャーンティ・クリシュナに涙。

Malik (Malayalam/2021)をオンラインで。 

何かクライムスリラーらしいという曖昧な前情報で鑑賞したが、実際の事件に基づくポリティカル・スリラー。ただし、政界の動きはバックグラウンドでしかない。モデルとなったムスリムの集住村はBheemapallyというらしい。過去に警察と暴徒とのもみ合いで鎮圧のために警察が発砲し死傷者が出た場所。ここではないが、似たようなムスリム村に行ったことがあったので、ただならないリアリティーがあった。一人の男の30年超の人生行路を演じるファハドは見事としか言いようがない。ニミシャはじめ脇役もそれぞれが適材適所。多くのレビューがゴッドファーザーやカマルのNayakanになぞらえていたが、むしろSRKのRaesを思い起こさせた。結局政治化+警察には勝てないのだ。ただ上記作品群のように主人公を英雄化するアングルはほとんどなく、老いて物理的に縮んだようにすら見える現在の姿が凄味をもって描かれた。字幕がなぜか読みづらく、幾度となく停止+リワインドしての鑑賞だったが、これはストーリーを知ったうえでもう一度最初から通し見したい。久しぶりに見るジャラジャ―に涙。

Chola (Malayalam/2019)をオンラインで。 

2019フィルメックスで『水の影』の邦題で上映されていたのを必要に迫られてやっと。一本も見ていないシャシーダランを、なぜかグロ映画を撮る監督と思い込んでいたけど、そういう意味では問題なかった。Kappellaとかが描いた問題の大本はこれだったかと今更ながらに眼が覚めた。ニミシャとジョジュの演技は鳥肌もの、共同プロデューサーにジョジュと共にカールティク・スッバラージが加わっていたと知り吃驚。後半でのヒロインのやや不可解な行動は、錯乱からというよりはある種のストックホルム症候群だろうかとも思ったのだけど、後から監督のトークを読んで、もっと身も蓋もない理由だったのだと知りどんより。それからレビューを漁るうちに、ラーマーヤナと関連付けるものに当たり、膝を打つ。最初と最後に現れる尤もらしい寓話も、最後に大地が身を震わせるというのを考えれば確かにそうだ。ただ、寓話という考えが浮かばないほどに、キリキリするリアルさが全編を貫いている。特にクライマックスの圧倒的な水の存在感。源氏の宇治十帖のもの恐ろしい滝の音」というのを久しぶりに思い出した。

Kunju Daivam (Malayalam/2018)をYTで。 

素人臭い英語字幕付き。ジヨー・ベービ作品なのにThank Godで始まる。前半は田舎で育つ純朴な少年のあれこれを童話調に描く。汚れた大人と純粋な子供の対比と、子供が初めて直面する死が基調。後半で、優等生ながら難病を持つ9年生の少女が現れ、6年生の主人公が腎臓移植を助けるために奔走する。「物の分かった」大人たちは少年の奔走を空回りと見て、鎮めようとするが、彼は矯められることがない。金の工面はできた者の、腎臓の提供者が見つからずにいるところに、名乗り出たのはデカい図体を持て余した万年子供のシブだった。きれいな良い話だったのだけれど、今一つ食い足りない。つい比較してしまうのはManjadikuduで、こちらも子供の純粋と大人の不純とが対比的に描かれたものだったけど、そこにはもう後戻りのできない大人の已むに已まれぬ事情があったし、自分の力ではどうにもならぬことがあるのを初めて知る子供の消沈があった。前作2 Penkuttygalとは違い社会の抱える問題は前面に出てこず、これは児童を描いた児童映画と言っていいものなのかと思った。

2 Penkuttikal (Malayalam/2016)をオンラインで。 

このタイトル、よく考えたらRandu Penkuttikal (1978)のranduを数字に変えただけのものものだった。劇中でTVに1978年作品が写って吃驚。北ケーララの山地部でイングリッシュ・ミディアム校に通う(6年生だったっけ?)2人の女の子物語。2人はまだモールに行ったことも海を見たこともない。後者の設定はKapellaを思わせる、そして劇中にはやはりカリカットでの危ういシーンが。メインテーマはこの2人がそれぞれのやり方で女性を取り巻く差別的な状況を学んでいくというものだが、同時に階級の格差とそこにある差別も描かれる。圧巻は貧しい方の家の女の子を演じるアンナ・ファーティマだが、その子が成長した姿としてアマラ・ポールを持ってくるのはどうかと思った。ともかく、アンナの野太い声はこれまでの子役にない迫力。貧しい家の子は、途中からマラヤーラム語ミディアムの学校に移るのだが、硬直した英語ミディアム校よりもむしろ創造的な教育をしているエピソードも。最初はダメ人間に見えた貧しい両親が子供の学びを助けて行く描写も。

Lakshmi's NTR (Telugu/2019)をオンラインで。 

お騒がせRGV監督の露悪映画と思っていたけど、しっかりと掘り下げた愛憎ドラマになっていて、お見逸れしましたというところ。現地の評判は悪く、プロパガンダ映画という文言も散見されるが、プロパガンダ上等ではないか。主人公であるラクシュミはあくまでも無辜の人として描かれていたが、そこに目くじらを立てても仕方ない。老いたNTRのセリフ回しにまず唸る。実際にそうだったのかどうか分からないが、実生活においても朗々と文語調の台詞回しで喋るというのが、見事であり、皮肉でもある。そしてラクシュミは常にNTRをスワミと呼び、こちらもバクティ映画を地で行く人として描かれる。シュリーテ―ジのCBN役は、完全に悪役の造形だが、騒々しいBGMが邪魔ながら見事な芝居。予告編でNBKだと思い込んでいた人物はモーハン・バーブだった。ともかく、ラクシュミのNTRへの献身、宮廷クーデタの描写など、全てがマハーバーラタ。特にCBNにつくMLAが当初僅かだったのを、Eナードゥが「多数参集」と書き立てて攪乱するなど、灯火で敵を大勢に見せる戦略そのものではないか。

Brahma Janen Gopon Kommoti (Bengali/2020)をオンラインで。 

TGIKと並び必見のような紹介をされてたので。しかし、こっちはフォーマット的には懐かしのバラモン・コメディーの体裁。そこに「女性を穢れと見なすな」というメッセージをうまく落とし込んだ。ヒロインは常人離れした美貌と知性と胆力をもち、大学の講師にして歌の名手、女性の保健衛生意識覚醒のための運動家、なおかつ女性僧侶もこなす、スーパーなキャラクターとして描かれる。それらをこなした上で、婚家では家事労働まで引き受ける(住み込みの複数のお手伝いがいるのだが)。まあこれはヒーロー映画でヒーローが描かれるのと同じ。悪役のプージャーリはあそこまで戯画化される必要はあったか。その悪役との決闘シーンは芸道対決みたいで良かった。もっと長く見せてほしかった。TGIKが「科学に感謝」なのに対して、こちらはあくまでも神の前での両性の平等を突き詰めようとするメッセージ。なので果たし状を突き付けて終わりでは済まない。融和を描くのにコメディーという形式はふさわしかったのだろう。しかしダリトと愛し合った女性のエピソードは不発。

『コンフィデンシャル/共助』(공조、2017)をオンラインで。 

まあほんとによくできたアクションで、十分に金がかかってることが分かるチェイスシーンを始めとして、信用できない相棒、ハイテク戦、ニセ札原盤、廃工場と埠頭での銃撃戦、時限装置付き爆弾を仕掛けられた人質、それに適度なセンチメントと、アクション映画の教科書に載ってるものを全部入れて、適材適所過ぎる俳優を配置してよどみなく作った職人芸の世界。しかし本作をスリリングにしているのはやはり南北のぶつかり合い。北の国家ぐるみの犯罪の資源を盗み出した人間をストーリー中でどういう位置づけにするのかというのは結構キツい問題だと思うが、そこはヒラリと回避して、主人公の個人的な怨恨の向かう先としてしまった。したがって南北の刑事の友情は個人のレベルに留まることになった。ちょうど印パキものみたいに。面白かったのは、何でもない食卓でのやり取りで主人公が北の人間だと分かるところ。それから南北の刑事がそれぞれの国の体制をディスり合うシーン。経済状況をディスるのだが人権問題には触れないあたり。

Bajirao Mastani (Hindi/2015)をDVDで。 

公開時にインド人自主上映で見て以来の再見。初見時にはただただかったるくて、158分終わった後にはゾンビみたいになった記憶あり。まあ総体としての印象は変わらないものの、字幕の理解度が上がったので随分マシになった。歌詞よりもセリフに織り込まれる韻文が良かった。それから衣装も見応えがあった。女性のものより男性のものにヴィジュアルな驚異がある。解説が必要だと思ったのは、①バージーラーオがバラモンでありながら武人である(宰相兼将軍)という点、②反逆者ではないのに事実上の統治者だった点、③マラーター王国史の中での位置付け、④プネーの宰相府とサーターラーの王府との関係、⑤マラーター王国におけるシヴァ派とヴィシュヌ派との関係、⑥ライバルとしてのムガル帝国とニザーム王国との関係、⑦ブンデールカンドとの関係、というあたりか。例によって絢爛豪華な王宮絵巻なのだが、ややもするとパンジャーブ人の成金あたりが客層のゴテゴテしたリゾートホテルみたいに見える。それもエステルーム。マスターニーの最期は美麗だったが、現実だったら糞尿まみれだったよなとも。

『五月十三日 悲しき夜』(五月十三傷心夜、1965、台湾)をNFAで。 

「よみがえる台湾語映画の世界」特別上映の一環として。親を亡くした姉妹が手を取り合って成長するも、同じ男を愛したために三角関係でその絆に亀裂が入る。またそこにパワハラ&セクハラの好色社長が毒牙を掛けようとして犯罪が起きる、というメロドラマ。60年代のあの髪型とチャイナドレスで女優たちは女神のよう。ただし若干顔の見分けがつきにくかった。一方で男の方はなんだか冴えない。先日の『ちまき売り』と同じくほとんどがセット撮影。慎ましい二姉妹の家やファッションは映画的美化の賜物か。日式住宅みたいなのも出てきて興味深い。ナイトクラブに中華式パゴダの装飾があるかと思うと、飲み会会場が完全に日本の座敷だったり。妹の方が連れていかれるデートが猛禽撃ちとはワイルド。姉と男が出かける男の実家は、野柳とか、台北の北の海辺だろうか。男の母親が「私だって若い頃は積極的で、この子のお父さんとは空の舟の中で結ばれたの」などと笑顔で話すのが印象的。姉と男が最初に顔を合わせるのはナイトクラブでだが、その時二人は既知の仲として描かれて説明がないがいいのか。

Tughlaq Darbar (Tamil/2021)をNTFLXで。 

英語字幕付き。自分の受け入れ力が落ちていたのか何なのか、全くダメだった。現地の評価はそこそこ笑えると言ってるのと酷評とが混じってる。ズブズブなリアリズムの政治を志す男に異変が起き、時々別の人格が現れて体を乗っ取り、人々のための善政を敷くというサタイア。その二重人格が作劇の上でうまく機能しておらず、またVJSの芝居も気が抜けたようなアパシー。サイドキックのカルナ―カランも同じくただの砂糖水。全体的にペラッペラの安い風刺劇。パールティバンはいい味出してたけどNRDの焼き直しという感じ。最後にCM役で出てくるサティヤラージは、今時珍しく登場シーンで実名テロップつき。Amaidhi Padai (1984)のナーガラージャ・チョーランのその後の姿という設定で笑えた。舞台は北チェンナイではなくマイラープールという設定だが、明らかなスラム。北チェンナイを舞台にするのがはばかられてこうなったのか。航空写真でここだろうかというところがあるのだが特定できず。政治を巡る痛烈さではスーリヤのNGKの方がずっとヒリヒリするものを持っていた。

『MASTER/マスター』(마스터,2016)をオンラインで。 

韓国文化院の「韓国映画特別上映会」にて。よくできたアクション。ただしアクションバリバリになるのは最後の20分ほど。そこに行くまでにはマルチまがいの経済犯罪の悪どいやり口と、サイバー捜査で肉薄しようとする警察の攻防が描かれるのだが、仕組みがさっぱりわからない。分からないけど安心して見ていられるのは娯楽映画ならでは。特に「大磯の老人」みたいな、ソウル都心部に住む謎の大富豪老婦人(アジア通貨危機でも裏で立ち回ったのだという)がホントに謎過ぎるのだが、気にせず見ていられる。冒頭からかっ飛ばすマルチ商法的金融詐欺師のたたずまいが某科学の宗教団体の代表そっくりのイメージで冷や汗が出る。イ・ビョンホンにそっくりだなと思ってたら本人だった。エンドロールはタダのスクロールなので打ち切ろうと思ったけど、ぼんやり眺めてたら最後にオマケがついてきた。それから主人公の刑事の自宅が、まるで研究者か著述家みたいな蔵書であふれていたのだけれど、あれには何か意味があったのか、ちょっと気になった。

Thalaivii (Tamil/2021)をオンラインで。 

ヒンディー盤と結構差異があると聞いて我慢できずに。始まってすぐのMGRとサロージャ(という名の女優)とのフォークロア劇の撮影シーンがT版にはあったが、H盤にはなし。MJRとその最初の顔合わせでジャヤが上手く絡めないところを、振付師が指導する短いショットがT版にのみあり。それ以外では、キャストを替えて撮っただけあってヴィーラッパンとのやり取りの部分に違いがあった。メドゥワダを巡るやり取りでは、RNVが逆襲でジャヤにメドゥワダを贈るシーンがHにはあった。それから、デリーから戻ったジャヤにRNVが「お前みたいな間は何人も来ては去っていった」というのを、後でジャヤがそっくりそのまま返すシーンがHにはあった。ジャヤとRMVとの和解のシーンの台詞も変わっていた。逆にHになくてTにあるのは、CMに就任したジャヤのオフィス前で閣僚たちがジャヤをバカにして声高に話すシーン。総じてH版ではタミル政治に疎い観客にも理解されるようにする方向でロジックをうまく転がすためにRNVの悪役性を高めた印象がある。しかし音楽とダンスはどれを見てもボリウッド風。

Thalaivii (Hindi/2021)をNTFLXで。 

英語字幕付き。予想した通り、今も健在な人物に対しての配慮だろうか、生臭いことにはほとんど蓋をして、ジャヤのCM就任のところで終わっている。男中心で動いている社会の中であからさまなセクハラにも負けず最高位に上り詰めた女性を描くというスタンス。悪はカルナとヴィーラッパンにのみ背負わせたというところ。アラヴィンド・スワーミのMGRはヌメリ感と弛み感が絶妙。ナーサルのカルナは冷静に見れば全然似てないのにこれもまた魂が降りてきたような快演。ソングシーンはどことなくヒンディー語映画風。ラーダー・ラヴィがMKラーダーをやってるってのはかなり凄いことじゃないか。そのMKラーダーのMGR狙撃のエピソードが史実とされるものと全然違ってたのはなぜなのか。それからちょこっと出てきたシヴァージ・ガネーサン(ジシュ・セングプタが演じていたのか?)も、MGRへの当てつけのための噛ませ馬って感じでインパクトがない。ヴィーラッパンを演じたラージ・アルジュンはかなりの好演。「シークレット・スーパースター」の父役だったか。サムドラカニが演じたタミル版も見てみたい。

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