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アメリ(French/2001)をNTFXで。 

未見の有名作をついにつぶすことができた。仕事にも若干関係のある作品だったし。スパイス漬けの中、ちょっとフレンチで気分転換のつもりだったけど、あまり感銘を受けなかった。もしかしたらこれ、出会う時期を間違えた系のものなのかもしれない。公開と同時に見ていたら夢中になってたかも。いわゆる「不思議少女」のお洒落映画に121分は長すぎる気がした。見た後に多少レビューを読んでみたけど、「コミュニケーション不全の少女が、自分から一歩を踏み出し、愛をつかむ物語」と解説されていて、もしかしたら公開当時の宣伝文言にそうあったからなのかもしれないけど、蒙を啓かれた。それならすんなり納得できる。ただな、あくまでもお洒落に展開するための「コミュニケーション不全」だと思う。アメリはたとえば「試しにセックスしてみたり」するし、カフェという接客業で働いてる。奇人変人揃いの周りの人々とも特に問題なく(お洒落な)会話を交わしてる。これをもってコミュニケーション不全とか言われてしまったら、本物のコミュ障の立つ瀬がないじゃん。主演女優も「少女」というにはちょっと大人な表情見せすぎ。

Vikrithi (Malayalam/2018)をDVDで。 

Vikrithi (Malayalam/2019)だった。

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Vikrithi (Malayalam/2018)をDVDで。 

これもまた予習なしで臨んで、吃驚だった一本。コーチンが舞台、実話に基づくという点でもHelenと同じ。娘の看病で3日寝ずの番をした父親が帰宅途中にメトロ内で横になって泥のように眠っているのを面白半分で写真に収めた馬鹿者が泥酔者としてSNSに流した結果の大騒ぎ。メトロが舞台というのがまたくすぐりどころ。あれが国鉄ローカル列車だったら、モデルとなった事件自体が起きなかったのではないか。ムスリムの結婚の式次第が見られるのもお得。しかし列車内で本物の泥酔者をしょっちゅう見てる東京民としては何とも言えない感じ。またSNSで泥酔者として晒上げられたとして、個人が特定され町中で笑いものになるというのがシュールすぎ。これが実話通りだとしたら、いかにコーチンがド田舎かということが炙りぶりだされたことになる。ケーララは既に先進国病にかかっているというのが年来の実感であるのだが、先進国病と都市コミュニティーのスケールとが一致せず、おかしなことになってる気がする。スラージの演技は絶賛されてるが、コメディー畑でのし上がってきた人としては普通だと思う。

Helen (Malayalam/2019)をDVDで。 

同年のJuneと同工異曲の思春期の娘と父親との交情ものだろうと思ったら大違いで、途中から緊迫のサバイバルものになる。これだから現地DVDでの鑑賞は止められない。日本語化された作品は結局色々と事前情報を仕入れて見ることになるから。実話を基にしていると言うが、平凡な日常から極限状況への導入、またそこからの日常への回帰は唸るほどに上手い。これは脚本の冴えだろう。マラヤーラム映画の強みが良く出た一作。サバイバル体験を通じて、ファーストフード店や警察のマネジメントの問題が炙り出される面もある。特に警察のそれは、映画に出てくるような腐敗の極みではなく、微かな軋みがダメダメの結果に導くというリアルな描写。それから舞台がコーチンのシティセントラルという微妙なモールだというのもオタク心をくすぐる。一つだけ合点がいかないのは、ヒロインがあれだけ段ボール箱に囲まれ、活用しながらも、段ボールでコートを作るという発想がなかった点。日本人なら普通思いつくのだが。常夏のケーララ人には段ボールハウスというのを見たことがなかったのだろうか。ヴィニートのカメオも◎。

Padman (Hindi/2018)をNTFXで。 

日本で劇場公開された作品だけど、ネトフリの字幕はオリジナルのようで、相変わらずひどい。チェンナイをチェンマイとしていたり、ヒンディー語とすべきところをヒンドゥー語としていたり。ストーリーはまあ実話ベースだし、予想していた通り。サニタリーパッド制作の技術的苦労よりも、これを女性に使わせる&女性に大っぴらに語らせることの方が大変だったというところがストーリーの肝。技術的な面では、幸運をもたらす奇跡の出会いが数回なければ、この人の成功はなかったというのが逆に不安にさせる。バッチャンによる表彰、国連での演説+パドマブーシャン受賞という、「偉い人に褒められたから偉い」というロジックで大団円になるところは、日本の観客にはあまり評判が良くなかったことが分かる。しかしこれは、演説で〆るところと並んでインド映画あるあるだ。こういう有用なメッセージを含んだ作品はインドでも絶賛の嵐かと思ったら、現地レビューも案外渋いものだった。特にロマンス的な展開を入れてきた後半が非難された模様。自分にはアクシャイの役へのハマらなさ(演技力とは別のところで)が一番の不満。

ソングの歌詞の字幕翻訳で無理に韻を踏む必要はないなあと思った。自然に韻を踏むのはもちろん望ましいのだけど。字幕を読みつつも、同時に耳に入ってくる原語の歌詞の韻律というのがあるわけだし。むしろテキストではロジックの面白さを翻訳してほしい。

『サーホー』(Telugu/2019)を試写で。 

新宿ピカデリーの6番スクリーンはかなり良かった。2時間49分。短くなる一方と思われた21世紀のインド映画は、かならずしも予想通りにはならず、予算ががっつりつき、力が入るとむしろ長くなるような傾向すら示している。鑑賞後、恒例により各種のレビューを集めてみたが、見事に罵詈雑言で溢れている。にも拘わらず地滑り的な大ヒットを記録することになったのはなぜなのか。研究者や批評家なら目を背けずに向き合わなければいけないところなのかも。

『タゴール・ソングス』(Japan/2020)を試写で。 

いい意味でのセンチメンタルなドキュメンタリー。コルカタ、ダッカにタゴール・ソングを歌い継ぐ人々を追い、タゴールの足跡をたどり日本にも。インドだけでなくバングラデシュの国歌がタゴール・ソングだというのは知らなかった。すごくいい歌だ。パンジャーブもベンガルも国や宗教で分断できるものではないというのがよく分かる。特にベンガルの方は。ベンガルの文化は、タゴールとサタジット・レイという巨大な支柱を持ち、今でも人々は何のてらいも躊躇いもなくそこに寄りかかって生きている。それは懐古趣味というよりははるかに強く、現代の人々がよって立つ文化的地盤となっている。こうしたものを持つ民族が他にいるだろうか。画面に現れる人々は目まぐるしく変わり、インドかバングラデシュかも曖昧になり、車窓から眺める景色のように通り過ぎていくが、歌の方は幾度も繰り返されて心に染み入っていく。20世紀の結構末まで、インド世界と向き合う人の入り口は、物理的にも精神的にもベンガルだった。あの空気の中に沁みこんだ文学と憂愁の世界が、日本人の手でスクリーンに焼き付けられたのは喜ばしい。

Android Kunjappan Version 5.25 (Malayalam - 2019)をDVDで。 

ヘタレなロボット、日系ヒロイン、渋いキャスティングとか、惹かれる要素が多かったが、ちょっと拍子抜け。まずロボットが笑いをとるものなのは明白だが、それにしてもロボットらしく見せようとする工夫がない。中に小さい人が入ってるのがダダ洩れな演出。日系ヒロイン登場シーンで中国風音楽が流れるとか、甘さが目についた。日本企業のロボットなのに舞台がロシアというのも謎過ぎだし。サウビン&スラージの芝居が上手いことは分かり切ってたけど、その上手さが発揮されるシーンが浮いていた気がする。ただ、現地レビューを見てみるとえらく評判がいい。たぶんこれは台詞(特に前半の)が一々味わい深いという類の作品なんだと思う。それが英語字幕になると、多分味わいの70%ぐらいは蒸発してしまうのではないか。ともあれここからはレビュー読み込みをしよう。ロボットに機械らしさが足りないのは最大の弱点だが、それでもタハっと笑ってしまうところが何か所かはあった。ラジニのロボットの逆を行き、ロボットが変わるのじゃなく、人間が変わる話。

以前に「推し」 

って言葉への馴染めなさをどこか書いたけど、やっぱりあれなのか、ジャンルはよく分からないけどオタク社交界みたいなのが既にガッツリ成立してて、その中での立ち回りを前提として「推し」と言ってるのだろうか。だんだんわからなくなってきた。映画祭で上映された佳作がメディア化されないという文句も見たけど、その理由が「布教ができない」だったりして、なんというか、あくまでもコミュニティー内での活動みたいなものが前提になっているファンもいるようなのだった。

ファンというものはともかく何かを言明したいものなのだとは思う。 

ただ、ボキャブラリーが追いつかない現象というのはもちろんある。それは分かっていても、年がら年中、息ができないだの死ぬだの言ってるのには、ゲンナリすることはある。誰もあんたの体調なんか聞いてねえと言いたくなる。本当に体調に影響するような一本に会えたならいいけど、基本的には自分の身体的変化で作品を語るのはやめようと改めて思った。

Avane Srimannarayana (Kannada/2019) を川口スキップシティで。 

怒涛のサンクラーンティ公開作のラスト。いやもう凄い経験だった。ストーリーを後からダイジェストしようとしてできないんだ。普段やらないけど、重要なエピソードを書き出してみて、各エピソードのつなぎがどんなだったか思い出せない。ともかく混沌とした物語世界に引きずり込まれて、不吉な曇天の薄明の中で砂塵を浴びていた3時間という感じだ。これほどリプレイしたいと感じる作品はここのところなかった。仄暗さの中に蠢く魑魅魍魎を目を細めながら見ていたというか。主人公のことを、とある日本語のレビューは「内容のないポップアートなヒーロー」と称した。これは「トリックスター」と言ってもいいのかもしれない。神話からの引用は縦横で、知識が全然追いつかない。悪役的な人物にすら、ヴィシュヌ系の名前がついている。クリシュナ・サティヤバーマの話で有名なパーリジャータ樹が全然違う文脈で出てくる。神々とアスラとの共同作業としての乳海撹拌に本作全体のストーリーが重なりそうな気もする。ダコイトの争う兄弟はジャヤとヴィジャヤの転生にも思える。

Street Dancer 3 (Hindi/2020)をイオンシネマ市川妙典で。 

ストーリがないと言って散々に批判されているけど、いやストーリーはちゃんとあった。舞台をムンバイからロンドンに移し、背景をムンバイのストリートキッズの世界から、ロンドンの南アジア系住人・移民に広げた。問題はストーリーの薄さではなく、ダンスそのもののように思えた。劇中でプラブデーヴァが「年寄り」と侮蔑されるシーンがあり、そのすぐ後にPDの華麗な舞いが披露されてそれを打ち消すのだが、PDの舞いにある優雅さ・色艶が、キッズたちのそれには認められないのが気になった。ダンサーの個人技じゃなく、アクロバット団体みたいになってるんだもん。それからワルンの演じる主人公が、名門ロイヤルズから離れるところに説得力が欠けていたように思う。あと、芸の追及への動機づけに社会正義を持ってきたのは芸道もの的にはあまり感心しない。それでもライバル勢力が最後には芸の前に惜しみなく喝采するというお約束は保たれていた。冒頭から目まぐるしく各種の名人技を見せながらも、最終パフォーマンスが一番感動的なものになるというクレッシェンドの力配分も見事。

Ala Vaikunthapurramuloo (Telugu/2020)を特別試写で。二回目。を 

二回目だというのに疲れのせいできちんと字幕が追えなかった。トリヴィクラムという映像作家は、「もの考える人」として別格のステイタスを確立しつつあるようだけど、賢げな台詞を書いて散りばめるのと、メッセージを中心にして緊密に物語を組み立てるのとは別物だ。No is Noとか、流行りの政治的に正しい言葉を主人公に言わせながら、別のシーンではヒロインの太腿から目を離せない(見ないでといわれても止められない)主人公をお茶目に描いたりして、要するに気を緩めるとつい地がでてしまうというやつなのだ。流行りの社会派意識をトッピングしてみても、考え方の根幹が旧態依然としているから、ちぐはぐになってしまうんだと思う。そのあたり、2000年代後半のニューウェーブの波に洗われたタミル語映画と随分違うところだと思う。大家族礼賛、消費社会礼賛、性別による分業全肯定という豪農の価値観はそう簡単には変わらないということか。

Sarileru Neekevvaru (Telugu/2020)を特別試写で。二回目。 

初見の時よりも本作の構造がハッキリ見えてきた。やはりこれはユーモア映画なのだ。賑やかでクドいコメディーは考えてみればF2のそれと同じだし。やはり、ファクショニストを悪役として登場させるのにも関わらず、その闘争の過程で主人公が一切人殺しをしないというのが空前のプロット。これはもう革命的と言っていいレベル。これを国境警護の軍人の任務と絡めてロジカルに展開したのは凄いと思った。

『プレーム兄貴、王になる』(Hindi/2015)を試写で。 

昨年7月にDVDで見て以来。様々なツイストが多数用意されている本作だが、やはり一番の泣かせどころは、主人公の見返りを求めないヒロインへの愛で、これはもう信愛と言っていいのじゃないかと思った。二度目に見ると、神話のエピソードの重ね合わせ方に気が付く点が増えた。専門家が言うところの「非合理の瞬間」は後半に出てくるガラスの宮殿の建築学的な無理さに集約されているが、それが同時に一番のビジュアル・ワンダーでもある。モノクロ時代のものを思わせるほどに挿入歌も多い。こうした事々を遅れた未開の表現としか見られない人々を振り分けるだろう。その他のことは別の場所で書こう。

Iblis (Malayalam/2018)をYTで。 

何の予備知識もなく見たけど、イブリースはイスラーム世界の悪魔とは関係ない。設定は80年代とどこかに書いてあったが、レトロ感はなく、一周回ってのお洒落が目につく。ほとんどのキャラが絣風の天然素材の緩衣をまとう。爺ちゃんなんか絣パッチ―ワークだ。そして登場人物が運ぶ皿の上にもしも目があったらこう見えるというような凝りまくった映像設計。後からAdventures of Omanakkuttanの監督だと知って納得。しかしなあ、前作でもそうだったけど、最近の言葉で言うところの「設定資料集」だけ完璧に作り込んで、そこで息切れしてストーリーが追い付かなかったっていう感じだ。生者はいがみ合い、憎み、憂え、恐れる。それに対して、死者はただ朗らかに過ごす。そして両者は同じ空間に存在するのだが、前者は後者を認識できず、後者は前者に働きかけができない。両者が幸運に共存するために、死者はただひたすらに生者を自分たちの側に呼び込む(ゾンビ映画か?)。死者で人口爆発しないため、生者が死者のことを思い出さなくなると、「向こう岸」へ行く。これはつまりモークシャか。

今年のテルグのサンクラーンティ大作二本、AVPLとSLNKは、ガチで正面衝突したけど、どちらも大敗せず、winwinに終わったらしい。 

しかしまあ、どちらのノドに挟まる小骨のような瑕疵を幾つも持っていて、均整の取れた傑作とはいいがたいものだった。カメラの映像美や音楽など、プロダクション・バリューは非常に高い、ただ肝心のストーリーの組み立てに、テルグ特有の無神経さが出てしまった。それは特にコメディーの質と女性の扱いに端的に表れていた。批判的なレビューを読めばいくらでも実例が挙げられている。同時に、両作があらかたの女性観客の支持を得ているだろうことも予測される。豪邸の大家族というテルグ映画の相も変らぬ家族観を、Kumbalangi Nightsと比べたレビューには目を開かれた。ようするに沿海地方ルーツのアーンドラ人マジョリティーの鈍感さをくっきりと反映したものなのだな。外の動きと引き比べながら見ると、そういうものがいちいち神経に突き刺さるのだけど、圧倒的なスターの魅力の前にチクチク指摘するのが野暮ということになってしまうのだ。テルグ映画というのは本当に厄介。

Sarileru Neekevvaru (Telugu/2020)を川口スキップシティで。 

どうせまたカシミールの軍人の武勇とテルグの地でのファクション抗争を雑にくっつけたアイドル映画なんだろうと決めてかかってたけど、アクロバティックなやり方で両者の間にロジカルなつながりを成り立たせた。そしてカシミールでの軍務からカルヌールの抗争に話を移すに当たって、長大な列車でのコメディーを挟んできてリアリズムからの遊離をはっきりと示した。そして特筆すべきなのは、ラーヤラシーマのファクショニスト政治家をメイン悪役に据えながらも、最後にそいつを血祭りに上げるのではなく、軍隊に送って根性を叩き直すというのが新機軸。Alluri Sitaramarajuへの言及がやたらと多かったが、部族民との何らかの連関に意味があるのかどうか。マヘーシュは軍人の役なので、愛郷心よりも愛国心が全面に出ることは分かってたけど、これが巧みな表出で不覚にも泣いてしまった。一つはインド国を母に例えるというロジックで。もう一つは、お前らみたいなのですらを守るためにこっちは国境で命がけの軍務についてるんじゃと言って悪役を殺さないところ。

Pattas (Tamil/2020)をイオンシネマ市川妙典で。 

ダヌシュはVada ChennaiやAsuranみたいなハード路線と本作のようなエンタメ一本槍みたいなものを織り混ぜて(どっちもとことんを追求して)バランスをとってるんだな。デビュー当初からインドのブルース・リーだの何のと言われてきたダヌシュだけど、ここまで正面切ったマーシャル・アーツ映画(ドラマトゥルギーの主軸がストーリーではなく格闘であるという意味で)というのは初めてではないのか?ストーリーの骨格はバーフバリ、それはいいのだけどメヘリーンの役柄とかが本当に雑。古武術を蘇らせて異種格闘技で勝利するというのは、芸道物とも通じるところがあるか。敵役のナヴィーンには哀愁が漂う。古武術アディムライは実際に存在するもものだと言うがどの位正確に再現してるのかは分からない。ともあれ、回想シーンが始まり親父役ダヌシュがドーティーで華麗な技を披露する箇所には目の覚めるものがあった。スネーハーのアクションも結構決まってたのだから、もう少し暴れさせても良かったんじゃないか。英字幕がやたらと分かりにくかったが、後半に行くに従いどうでもよくなる。

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