Dharma Durai (Tamil/1991)をDVDで。
邦題は『ダルマドゥライ 踊る!鋼の男』。80~90年代のあのもっさりとしてややくどいアクションが続く158分。前半は典型的耐える長兄もの。弟が不始末をしでかすと火消しに回るが、性的に乱暴した相手と結婚させる下りは今の価値観からするとアウト。兄貴が苦労し下の子たちはお気楽というのは実情を反映しているのだと思う。田舎者丸出してマドラスに赴くシーンの衣装は『詐欺師』から、囚人服の番号786は『Coolie』からか。弟思いのお人好しも極まり収監されるだけでなく、父を悶死させ、家を失い、子供も死に、妻は家政婦となったあたりで、彼はハリシュチャンドラ王なのだと分かる。そしてその名前からはダルマラージャであるとも明示される。基本的にはクリシェの連続なのだが、パーティーで笑い者になるシーンや妻との再会のシーンなどでの芝居には胸を打つものがある。しかしメッセージばかりではなく、ラジニの七変化コスプレショーもしっかり組み込まれている。ガウタミは若い娘役には無理があるけど、老妻役になるといい。「蛇を育ててしまったその罪は重い」というのはいい台詞。
The Family Star (Telugu/2024)を池袋ヒューマックスシネマで。
ヴィジャイDファンと思しき数人のインド人女性以外はインド人は見当たらず、全体で20人ちょっとの観客。現地評は芳しくない。インドで一般にミドルクラスと称されるロウワー・ミドル(家はあるが金に困っている)の男の苦労話と、下宿人のふりをして彼と家族を観察してミドルクラスに関しての文化人類学論文を書きあげた女性との関係を描く。経済的に逆毛の関係の男女の恋の成就までのハードルの数々が幾つも繰り出されるが、最大のものが「女の方が男を動物園の動物扱いした」というもの。それに怒った男の復習がいかにもイージーだけど、やはりチープな復讐は簡単にひっくり返される。その先の男の成功も含めて、雑ではあるけど、突然の無双も含めてテルグの味わいか。ただ、ラスボスにあたる悪徳政治家の出し方が下手で説得力がない。アル中の兄の更生話も中途半端。「お前は障碍者と結婚することになるだろう」という呪いを伏線として出すのも感心しない。NYで男娼になりかけるシーンも分かってない感横溢。ヴィジャイDはいつも通り色悪をやってた方がいいのではないか。
DJ: Duvvada Jagannadham (Telugu/2017)をオンラインで。
17年に見て以来の2回目。6年前の感想は僅かに「バラモン映画を謳いながら肉の串刺しを沢山ふるまわれてしまった(まあだいたい予想どおりだったけど)」とだけ残ってた。ヴィジャヤワーダのシヴァ派の婆羅門コロニーに生まれ育った少年が、その正義感の強さゆえに悪を見逃すことなく力で徹底的に懲らしめるのを見た警察官が、彼を超法規的な仕置き人に仕立て上げ、20年間もエンカウンターをやらせていたという、テルグらしい荒唐無稽で、なおかつ司法不信で実力制裁に喝采する土壌を反映したストーリー。スタイリッシュなAAが、ただスタイリッシュに仕置き人をやるだけじゃつまらないと考えたのか、その表の顔が坊主だというギミックを加えた。それが生かされたかどうかは疑問。尤もらしいルドラ―クシャとかも婆羅門設定のなかでの小ギミックでしかないし。まあ、憎み、おちょくっていいことになってる唯一のコミュニティーである婆羅門風味をコメディーに生かしたかったということか。しかしNTRジュニアの婆羅門ぶりと比べると作り物臭くダサさが足りない気がする。
Salaar: Part 1 - Ceasefire (Telugu/2023)をオンラインで。
2時間53分の巨大なイントロ。前情報としてUgrammの拡大的焼き直しだと監督自身が言明したことを知っていたけど、Ugrammの美点であるスピーディーでスリックな筋運びとクライマックスでの爆発的な力の示現が一片もなく、おどろおどろしいコケおどかしの凄みばかりが続く。劇終でやっと「友情か復讐か」の二律背反がテーマだと分かる。3時間の前編での動きは「母の戒めからの解放」だけ。複数のクリミナルトライブが往古より大いに栄える架空の土地で、封建制と立憲君主制をミックスしたような連合王国が101の封土をもって存在する。その政体の説明が長々しく、しかも無法者集団なのになぜか憲法だけは絶対的に守られるのが理解できない。女性はモノ扱いだが国王の娘だけは巫女的な権威を持つ。ギャンギャンのBGMが常に流れ、高原状態で悪い夢を見ているよう。キャラの中では、ヴァダラは相当に強い奴だが、まっとうな理性があるため屈服を強いられる。デーヴァには狂気があり、そこが2人の間の相違点。プラバースが狂気を演じきれたかどうかは疑問。
Aadujeevitham (The Goat Life) (Malayalm/2024)を川口スキップシティで。
相当な人出、埋まり率は65%程度、日本人は20人程度か。実話ベースのサバイバル映画。1990年代(推定)にマラバールの田舎から半ば騙されてサウジ(推定)に連れていかれて奴隷労働を強いられた男の脱出記。最初から騙されたのか、単に杜撰な受け入れ態勢と運の悪さが重なったのかはよく分からない。アラビア語もヒンディー語も英語もできずに出稼ぎに行く根性は凄いと思うのだが、まともに行けば現地ケーララ人に囲まれてそこそこやっていけるのだろう。緑のケーララとアラブの砂漠の対比はあざとい。故郷が美化されすぎている気がするが、誰に向けて作られた映画かを思えばやむないか。ヒロイズムの欠片もない主人公がマラヤーラム語映画的。彼を助ける人々はイブラヒーム、富豪、マラバール食堂の主人と、まるでリレーのように現れる。神がまるで割り当てたように、自身のできることだけをやって去っていく。ストーリーは一直線といっていいくらいのもので、演技とカメラワークだけで見せる。こういう作品がヒットするケーララはやはり特殊。
Anjaan (Tamil/2014)をオンラインで。
スーリヤの連続鑑賞だが、先日のSingam IIといい、2010年を挟んだ10年ほどのこの人は実は地味にスランプだったのではないか。Kakkaa~やAayiram~もそうだけど、マチズモが極端すぎる。カニヤークマーリからムンバイに列車でやってきた足の不自由な男が、兄の行方を探していると言う。その兄ラージュはかつてはムンバイを我が物顔でノシていた若手のドン。親友のチャンドルとつるんで大物のイムラーン・バーイにも不敵な挑発をするが、やりすぎて命を狙われるまでになる。この不用心さが脚本の弱いところ。二人の友情は爽やかすぎて学園ものみたい。ムンバイ暗黒街ものだから当然殺し合いと裏切りがプロットのメインになる訳だが、緊張感は低い。裏切りそうな奴は大体顔でわかるし、いきなりズドンというのもない。ラスボスは最初から予想がつく。人は沢山殺されるが意外性がないので怖くない。小道具が爪楊枝というのはちょっと笑いたくなる。サマンタとの恋路の描写はソングを加えるための付け足しでしかないけど、強面が恋に目覚める描写が案外細やかでむしろこちらの方が独創的かも。
Singam II (Tamil/2013)をオンラインで。
2010年パートワンを見てから多分10年以上経ってたのではないか。今回も舞台はトゥティコリン。港湾都市であり、製塩業も盛んであると本作によって知った。さらに特徴的な教会建築も目につき、ただの田舎町じゃない感が印象的。訳あって恋人カーヴィヤと結婚できないシンガム。内相からの特命を帯びて警察を辞職したことにして、インド陸軍付属高等学校(NCC)の教員としてチェンナイからやってくる。そこで小者(ラージェーンドラン)から始まって徐々にラスボスまでを追い詰めていく。そこに行くまでにトゥティコリン街路はもちろん、海上、ケーララの森、果ては南アのダーバンとチェイスしまくり、踊ってるか怒鳴ってるかしてる以外はほぼドンパチやってる印象。純粋アクション映画に近い。三下グーンダを集めてボコボコにするシーンで自分をダイヤ―准将になぞらえるのはどうかと思ったが。全体的に超法規的捜査活動やエンカウンターを真正面から礼賛する内容で、古びた価値観を感じさせる面も。パツパツのカーキで肩で風を切って街をのして歩くスーリヤを眺めるのが最大のアトラクションではある。
Al Massir (Arabic/1997)をイスラーム映画祭で。
前説と事後のレクチャー付き。邦題は『炎のアンダルシア』。娯楽的な作風のものであっても、これは大変にありがたいものだった。さらに帰宅してからパンフも読んで大充実。冒頭のフランス・ラングドックのエピソードが大変に気になった。フランスでは人が焼かれても、イスラーム世界では書物だけで済んだということがいいたかったのか。ストーリーラインは『神に誓って』とかなり似ていて驚いた。そして本に対する迫害のスリリングな展開には、アレクサンドリア図書館の炎上が何度も想念のなかに浮かび上がった。そしたら監督がアレクサンドリア出身(しかも東方カトリックの出身)と知って吃驚。そして原理主義への勧誘の手口。あれが12世紀に本当にあったのなら人は全く進歩していないことになるのだが。イスラーム教徒、ジプシー、(アラビア語を話す)キリスト教徒が普通に共存するコルドバは、バグダートに比肩しうる西方イスラーム世界の中心地だったとのことで、アラブ人の立場から見た歴史映画の舞台となるのにふさわしいのだろうなと思った。肝が据わり、世話焼き型の恰幅いい女性が印象的。
Hamid (Hindi/Urdu - 2018)をイスラーム映画祭で。
邦題は「ハーミド~カシミールの少年」。昨年2/19以来2回目。この間色々調べたりして多少は知恵がついたけど、感想にはあまり影響しなかった。例のエッセイで批判されている諸々のことはよく分かった。特に子供を過激派に勧誘するシーンのまずさが目についたが、山を越えて戦士になりに行こうというあのリフレインは効いていた。ラスト近く、少年が父の遺物を「埋葬」する前、ひたすらに走るのは、山に行こうとしていたのかどうなのか。子供と母の愁嘆場はちょっとダレた。しかしあのエッセイの批判点を末梢的なものとして作品をかばうという姿勢も当然あると思う。ただし、そうした末梢的なところでの甘さが、全体的なメッキの塗り方の問題点が露呈するというのはあると思うし、細部の嘘の上に構築された物語に、志の高さからお目こぼしをしていいのかと思う。そしてこれは本作だけの問題ではない。最初の方で夜道で父を尋問するのがアバイだったか確認しそびれたが、たぶんそうだったのだろう。そして電池を買いに出た父を捕えて連行し、場合によっては死に至らしめたもの彼の可能性がある。
Shaitaan (Hindi/2024)をイオンシネマ市川妙典で。
半分弱の埋まりでインド人率高かった。期待低く臨み、その期待値通りの出来。オープニングロールのぬいを作ってるビジュアルは嫌すぎてよかった。中盤ぐらいまでヒンドゥー教系黒魔術かと期待したけど、ラストまで見ると曖昧ながら耶蘇教っぽい仕上がり。黒魔術の男は徐々に家族を崩壊させて行くのかと思いきや、早々に正体を表す。ラッドゥーだか何だか一口で娘を完全支配する。そこからのいたぶり芸は見せ場。感じいいけど妙に図々しいオッさん、そしてサディズム全開になるマーダヴァンは良かった。このいたぶりは性的なものの隠喩なのかとも思った。これならR18で攻めても良かったのに。クライマックスのメイクアップあたりからマディのいい人ぶりが目立って若干お笑いに。いわゆる「動機」がハッキリしない系の邪悪なので、悪の結晶と化してほしかった。132分とコンパクトなのは良かった。ビジョーイ・ナンビヤール監督の同名作と被って検索汚染になるのは感心しない。リメイクになりふやけたと評しているレビューもあり、オリジナルが見たくなった。掌に刺さったナイフはイエス様の降臨か?
Uri: The Surgical Strike (Hindi/2019)をDVDで。
邦題は『URI/サージカル・ストライク』。例のプロジェクトの一環で義務として見たのだが、気づけば先日のArticle370と連続でダール監督のものだった。意外な知人が、戦争ものとして「技術的には最高峰」と言っていたのもあり。歴史の教材ビデオのように時系列をテロップで示すやり方はここからか。事務方と最前線とを並列するのも同じ。それから悲惨な最期を遂げるキャラクターには最初からしっかり死亡フラグが立ってる親切設計。冒頭のミヤンマー・サージカル・ストライク(2015年)再現の場面、他の映画でもそっくりなのを見た記憶があるが思い出せない。某氏の言う通り、技術的には大したものだが、成功した作戦の後追いなので緊張感はあまりない、劇場で見たら違っていただろうか。たとえばOkkaduのあのアクションの、目を見張るようなあの感覚は全くない。この監督は、いうなれば「プロジェクトX」のようなものを常に追求している人なのか。軍事作戦ものなので、カシミール現地人はほぼ出てこない。代わりに認知症の母を出してきて、人間味を加えた。
Article 370 (Hindi/2024)をシネ・リーブル池袋で。
仮邦題『憲法第370条』。あっぱれなまでの選挙用プロパガンダ映画。冒頭ナレーションでカシミール小史が語られるが、「マハーラージャはインド帰属を望んだ」というところでもうアウト。ただ、そっくりさんショー(Mehbooba Mufti、Farooq Abdullah)から始まり、ブルハーン射殺、プルワーマーのCRPF40人を道連れにした自爆攻撃など、事実の織り込み方が上手い。そしてモーディー、アミト・シャーを陰で支えたのは超優秀な実務官僚とコマンド―、その両方が女性だったという設定はキャッチー。実務官僚はタミル人(2回ほどタミル語を喋るシーンあり)、コマンド―はカシミール人ムスリムで、過去に政争で父を殺された人物。Raaziと同じく、カシミール人女性に愛国的行動をさせるというメソッド。それにしても、ファックスを受け取らなかったことにするなどの姑息な戦術が堂々と描かれるのはすごい。JK憲法の書き換え痕跡を求めて現地図書館にというエピソードは創作なのかどうなのか。末尾で平和をアピールするのに初のシネコン開業をいれるあたり。
Villu (Tamil/2009)をオンラインで。
プラブデーヴァ監督作。ダンスが全部で7曲もあって(体感では10曲だが)クライマックス近くまでみっちり詰まっている00年代仕様。物語の舞台とロケ地がてんでバラバラなのも同上。不敵なコンタクト・キラーが実は愛国的な軍人の息子だったというよくあるパターンながらいちいちが過剰でサービス精神たっぷりな演出。この時期のヴィジャイはトレードマークの童顔にある種の精悍さが加わり、目がさめるような効果。上半身をはだけてギリギリの線を狙った下ネタもやっている。ヴァディヴェールの痛いコメディーは全開。あほくさいアニメと相まって唖然とさせる。ナヤンはまだ初期のぽってりした造作が残っている時代で、これまたサービス全開モード。ともかくカラフルな色彩の洪水。むしろヨーロッパ・ロケ部分で落ち着いてしまうくらい。しかし設定がヨーロッパの部分でも「チャイナ・ゲート」なるポイントで東アジア格闘家と闘ったりする。一番すごいのはラスト30分での赤土。軍人の父役の役作りは髭の形だけ。「アフリカの猿」や大柄女のギャグは今日的にちょっとまずいか。Daddy Mummyソングは名曲。
Veera (Tamil/1994)を日本版DVDで。
邦題は『ヴィーラ 踊る ONE MORE NIGHT!』。カーヴェーリデルタ地帯の農村に住む無責任な男が、色恋目当てで古典声楽家のもとに入門して師匠の娘にアプローチするが、彼女から打算をたしなめられ、真面目に音楽に精進する。娘もついに心を許し、男はマドラスに因縁の借金を返済するために出かけていくが、戻って来た時には彼女は洪水で流され死んでいた。マドラスでは彼は音楽会社の社長令嬢に惚れられていた。母の願いで彼は令嬢と結婚するが、そこに死んだと思われた師匠の娘が現れる、というタイプのコメディー。モーハン・バーブのテルグ作品のリメイクと知った。主人公の性格は定まらず、回想の初めの方では浴女の衣を盗むなどクリシュナの子供時代が再現され、デーヴィとの出会いによって、より大人になったエロティックで犯罪的なクリシュナとなる。謙虚な田舎者から人気絶頂のポップ歌手となり、悪王を誅殺し、何のかんのと口実をつけ2人の女性と結婚してしまう、壮年期の神となる。神様ギャラリーでの解説は笑える。それから「ゴーヴィンダ―」の用法についても学べる。全盛期のミーナ―。
Arunachalam (Tamil/1997)を日本版DVDで。(2/1)
邦題は『アルナーチャラム 踊るスーパースター』。20年ぶりぐらいに見たのではないか。字幕翻訳者のクレジットは見たところなし。不思議な素人字幕で、改行位置がアバウトで、さらに「制約」と「誓約」を取り違えるレベルのタイプミスが多数あり。一方で例えばヴェーダ―ヴァッリのような人名は怖ろしく律義にカタカナ化していてしつこい感じ。しかもところどころミスタイプ。監督はデビューから2年後のスンダル・C。前半と後半がほぼ別の映画なのだが、後半の面白さ、風刺の効き具合が比類ない。前半のカンナダ語ソングは今になって聞くと感慨深い。後半に登場するランバーの肉体美と童顔の対比はこの時代ならではのものに思える。使っても使っても減らない金を必死に減らすシュールな状況は庶民の夢だが、その裏に「巨額の遺産を受け継ぐ相続人は、まず金を嫌いにならなければならぬ」という逆説的なロジックが潜み、『ムトゥ』のソングや『バーシャ』の前半で語られたラジニ哲学がここでも見える。浪費作戦で映画製作→政党立ち上げと続く部分にはどうしても現実とのリンクがちらつく。
Kalpana (Hindi/1948)を京橋の国立フィルムアーカイブで。
大ホールは40%ほどの集客だったか。150分を休憩なしで。結構ショックだったのは途中何度も舟を漕いだこと。しかし、何とも言えない凄い作品だった。ストーリーは薄々。芝居は旧時代の大げさ&演出はシュール。あくまでもダンスの口実としてのストーリーと分かるのだが、夢落ちを多用しながら何とも茫洋としたスケールを感じる果てしない物語(破綻とも言える)。印象的だったのは、額縁エピソードとしての映画界批判、そして作中に現れる「映画は(舞踊に比べて)劣る不道徳なジャンル」という価値観。いわゆる創作ダンスがメインだけど、上手いのは分かっても、バリ島などからエッセンスを借りているのが分かりややシラっと見てしまう。カタカリで演じたBhakta Prahladaと、マニプリ風ダンス、それにゴーピ―の輪舞が印象に残った。ウマー役の女優の円熟の美しさ。三角関係描写は何だかは煮物が挟まったような不完全燃焼
感。独立の志士を列記するシーンでガンディー、ネルーに続いて「ラーマとビーム」と上がっていたと知り合いが言っていたが、どういう意味だったのか。
Manu Man (Telugu/2024)を池袋ヒューマックスシネマズで。2回目。
それなりにインド人もいる観客は80人ほどだったか。ファンを沸かせた映画の引用シーンは、英語字幕では固有名詞を出していなかった。プラバースのアレ、マヘーシュのAthadu、カリヤーン・バーブの何とか、それにバーラクリシュナのことをチェンナ・ケーシャヴァと形容していた。おばちゃんたちのアヴァカーヤ・ソングはとてもいい。それから宝玉をマニバーブと呼んでたな。主催者夫人によればカリユガを救うために現れる7人のうちの二人がハヌマーンとウィビーシャナだそうだ。見ながらぼんやり考えていたのは、ソシオ・ファンタジーの批評性と罰当たりが嫌われてスーパーヒーローものになったのだろうかということ。一般のアクション映画のヒーローは画面に登場した時からすでに驚異の身体能力を持っているが、スーパーヒーローものは元々頼りない奴がチートによって超常能力を得る。それが面白いと思えるかどうかが鑑賞の鍵のような気がする。それと、やはり俳優の身体性が左右する。科学技術(怪しげだが)を信奉する悪役がクリスチャンというのには何らかの意味があるか。
Merry Christmas (Tamil/2024)を川口スキップシティで。
オール日本人で結構な盛況。ぬい持参の人も。クリスマスの夜にアルバートはムンバイに帰郷、レストランで子連れの女性と巡り合う。彼女の連れはなぜか慌ててその場を去ったところだった。それから二人は映画などを楽しみ、彼女の家に行って酒を飲み、その後再び出かけて夜の街を彷徨う。彼女のアパートに戻った時、そこには夫の死体があったという掴み。彼女が警察を呼ぼうとするとアルバートはそこにいた痕跡を消し去って逃げる。原作があるというのは知っていたがやはり語り口が巧い。主要登場人物がオールクリスチャンというのは、エキゾティズムに加えて前世紀からあるクリスチャンへの偏見を多少は残しているのか。VJSはごく普通に肉厚ないい男を演じていた。カトちゃんとのペアリングが非常にしっくり。タミル語映画なのにヒンディー語映画を見ている気分。ローカライゼーションとしてラーディカ・サラトクマールを出してきたけど、その必要はなかったような気がする。最後に遊び人ロニーのなけなしの正直と「クララが歩いた」的奇跡からカタストロフに落とし込まれるのは見事。
Manu Man (Telugu/2024)を川口スキップシティで。
ヒット街道驀進中、特に北インドで評判になっているとのこと。日本人の間でも好意的な感想がやたら目に付き、主催者までもが激賞している。しかし全くノレなかった。たぶんスーパーヒーローものの文法に慣れていないのが一番の原因。それから主人公の三下悪役顔が楽しめなかったこと。そしてスーパーヒーローものと神話もののロジックがどうも理解できなかった。ヒーローと最後の方で氷を突き破って出てくるあれとの関係は何なのか。なぜ辛気臭いウィビーシャナが狂言回し風に登場するのか色々分からなくてスッキリしない。例によって最終シーンで続きの予告がされる。やたらとサンスクリットのハムが流れる。ロケ地の一部はアラク渓谷。しかし海がそばにある設定。村が舞台だから資源開発の悪徳実業家でも出てくるのかと思うと、サウラ―シュトラ出身のマイケルは純粋にスーパーヒーローに憧れるメンヘラ。言及される映画はバーフ、プシュパ、バラクリが手をかざして列車を止めるChennakesava Reddy(だったっけ?), Superman (1980)など。トライブの村の設定。
Captain Miller (Tamil/2024)をイオンシネマ市川妙典で。
40人ぐらいの入りだったか。血腥そうな植民地時代の話、ぐらいの予備知識で臨んだら、あっと驚くトライバル闘争ものだった。村の寺院への入場を拒まれている部族民青年が尊厳を求め軍隊に入ったところが、与えられた仕事は独立運動集会での無差別発砲だった。彼は上官を殺して逃走するが故郷の村からも拒絶され、ダコイトと見なされている反英武装組織のメンバーとなる。同時期に故郷の寺院の秘宝が英国人に持ち去られ、それを奪還したいラージャーから雇われて銃撃戦の末に秘宝を得るがそのまま逃走する。彼を追う英国人+ラージャーによって村人が殺されたのを知った彼は帰還して最終決戦となる。ゲストのシヴァラージクマールにえらくカッコいい見せ場。主人公と兄が村の祭りで踊るシーンでは明らかに彼らが飲酒していた。これは反サンスクリタイゼーションとして重要。そして、恩寵としてではなく権利の奪還としての「寺院入構」の意味づけ。神自体がトライブから奪い取られたものだった。さらにうっすらと歴史上のキャプテン・ミラーとの重ね合わせも。続編がありそうななさそうな。