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『人間機械』(Machines、2016)をユーロスペースで。 

東京最終日最終回上映にやっと行けた。モーディーのお膝元で発展著しいグジャラートに、UP、ビハール、オリッサ、ベンガル、チャッティースガル(劇中で挙げられていた地名は多分これが全部だと思う)からやって来て、1シフト210ルピーで働く職工たち。組合ができるとリーダーが殺される。職工たちは会社のトップを知らず、周旋業者が全てを牛耳る。明らかに低カースト&おそらく部族出身者がほとんどの中に、聖紐をつけた人物も交じる。工場内の様子がランダムに映るが、サリー作りのための度の行程なのかが分かるのは半分以下。建て増しをし続けて奇妙な構造になった温泉旅館が無理を重ねて何とか機能してるのと同じようなものを感じる。印象的なのは、製品である布が無造作に床に積み上げられたり、その上で倒れ込むように寝ている労働者がいること。不要な布を燃やしていると思しい大窯も。そして製品にはカバーがされず、大雑把に巻いたままで出荷されていく。つまり外側の2,3巻き分は売り物にならないこと前提のようなのだ。ここにこの工場労働のあらゆる矛盾が凝縮されているように思えた。

Pelli Choopulu (Telugu - 2016)をmersalaayittenで。 

画質最悪なものを我慢して観たのだけど、報われる面白さだった。若干の才覚はあるものの、ものぐさが全てを台無しにしてる男子と、「ホントは男が欲しかった」父との間で感情の行き違いを味わい続けてきた女子との間のラブストーリー。ダメ成分含有度の高い男子と、ソフトな抑圧に対して鬱憤を持つ女子というのはテルグのオルタナ系映画のつきもの。2人が出会ったところで大体ハッピーエンドは予測されるのだけど、そこに至る紆余曲折はかなりよく考えられていて、非常に楽しい。レビューを見てみると、gemだとか、breath of fresh air、realisticとか、そんな言葉が飛び交っている。Finally a Telugu film that is smart, sensible and responsibleなんていうのもあって、映画における進歩史観というものについて再び考えることになる。一方で、従来型のメディアの何も考えてないレビューはlack of mass elementsなどと評していて馬鹿じゃないかと。

Gharana Mogudu (Telugu - 1992)をDVD+YTで。 

兄弟リメイクであるMannan (Tamil - 1992)を字幕代わりに見て、その記憶も新しいうちにと急いで観た。しかしDVDは途中で止まり、やむなく画質の劣るYT全編動画で。南インド映画ファン茨の道あるあるだ。タミル版と比較すると、字幕がないにも拘わらずスピーディーな編集で、するすると一気見できた。神話的引用はごく僅かしか見つからず、ストーリーも途中から色々と変えてきてる。母は死なない。エロいソングは増し増し、クライマックスの脱出シーンは度肝を抜くビジュアル、これがブロックバスターになったというのも頷ける。全編においてチランジーヴィに漲るサバルタンなパワーが凄い。街頭での賭けレスリング→掛け金持ち逃げの性悪女追跡→船乗りや港湾労働者が一丸となって群舞という流れは、息子主演のMagadheeraにそのまま引き継がれた。それにしてもこの時代の「高慢な富豪の女を労働者階級のマッチョなヒーローが矯めて従順な妻にする」というフォーマットの破壊力は凄い。HYDが舞台だが有名なランドマークは一切登場しない。

Mannan (Tamil - 1992)をDVDで。 

本作はAnuraga Aralithu (Kannada - 1986)のリメイクで、本当は兄弟リメイクであるGharana Mogudu (Telugu - 1992)を見たいのだが、カンナダにもテルグにも字幕がついてないため、テルグ版の字幕代わりにこのタミル版を見た。南インド映画ファン茨の道あるあるだ。前半は恐ろしく退屈で、結局見通すのに3日かかった。しかしラストの1/3の面白さは出色。特に神話に絡めたシーンの入れ方が面白かった。1つ目は悪漢に襲われたヒロインがサリーを脱がされそうになるのを助けるところ、そして2つ目は、母の絶命シーン。主人公の名前はクリシュナン。ヒロインの無茶なキャラ造形も神話の中の人物みたい。しかし誇張の多い展開でありながらも、高慢なヒロインの改心に至る流れにはそれなりのロジックがあって感心した。見終わってネット上に資料などを探していたら、ローレンスが本作をリメイクすることを計画中などという3年まえの記事が複数見つかった。しかしまあ、全編がミソジニーに満ちた本作、ちょっとそれは無理じゃないかと思う。

Koode (Malayalam - 2018)を川口スキップシティで。 

アンジャリ・メーノーンらしい美しい、美しすぎてちょっと白ける危険性もはらんだ一作。早く世を去った妹の幽霊が、縁の薄かった兄にだけは見えて(ただし、祖母にも見えていたことを薄っすらと暗示する)、暗い隅に向かっていた兄を陽だまりに連れ戻すというストーリー。なぜ兄にだけしか見えないのかは説明されない。そして、生前乗っていたバンの中と周辺でしか動き回れないとか、病気の苦しみは消えたけど腹だけは減るとか、兄のスマホを使ってネットショッピングはできちゃうとか、ディテールが面白い。不思議少女とまではいかないけど、朗らかで時に素っ頓狂でフレンドリーな幽霊が、自分に気付かない父母や恋人をバンから眺める時のやるせない顔、ラストでの涅槃の微笑み、これらはナスリヤがいなかったらひどく安っぽいものになっていたと思うと、奇跡のキャスティングに感謝しかない。ワンコと鉄道模型はややあざとい感じ。しかしファンタジーだけじゃなく、ペドの叔父とか出戻り娘をいたぶる親族とか、苦いものも交えるアタリがアンジャリ監督の本領発揮だと思う。

Magadheera (Telugu - 2009)をDVDで。 

これを最初に見てから7~8年は立っているから、その後の経験から感想も違ってくるかと思ったのだが、あまり変わらなかった。何度も繰り返し現れる落下のシーン、あれはどう考えてもスカイダイビングのプロモーション用に撮られた気持~ちイイ(そしてありがち~な)動画から着想されたと思われるのだが、それをこういう場面に使うというのは天才的。それから初っ端の(そして一番の見せ場でもある)ソングBangaru Kodipettaは、初見時はお約束として流してみてたが、引用元である親父様の同名曲と改めて対照して見てみるとやはり感慨深いものがある。返す返すも悪役を丁寧に造形しなかったことが惜しまれる。

センサー・スクリプト・ライターで思い出したけど、 

インド映画のサントラではtrack singerという人々がいるというのも、初めて知った時はかなり抉られる心地がした。ゆっくりと譜面を吟味して歌を作りこんでいく暇のない売れっ子シンガーのために、作曲家の指示のもと譜面代わりに歌を録音する専任の歌手がいるというのだもの。売れっ子シンガーはそれを何回か聞いて(譜面の吟味はスキップして)本番録音に臨むのだという。用済みになったトラックシンガーの録音を集めて供養祭でもしたい気持ちになった。

この間、ひょんなことからインド映画のセンサー・スクリプトというのを落手して、 

実際の映像との照応をつぶさにチェックする機会があった。第一印象は、かなりとっ散らかってるというもの。ト書きと台詞とが整然と分かれていない。そしてやはり実映像とは完全に一致していない。実映像の字幕でモーハンダースとしている(実際の台詞もそう聞こえる)をスクリプトではフェルナンデスとしていたり。あるいは十数行の文章が突然次ページにミス配置されてたり。センサー・スクリプトはそれ専門のライターがいるようなのだが、結局のところ世に出ることがない文章ではあるので(検閲の人間だって全編に目を通すとは思えない)、ライターは実はかなりやさぐれちゃってるのだろうか。映像作品の文章化と言えば楽しそうにも見えるが、誰にもチェックされず(監督や脚本家が一字一句を確認してるとは到底思えない)、誰にも読まれない数十ページに渡る文章を書く仕事というの、どんな気持ちなのだろうか。同じ作業であっても、劇場売りパンフにシナリオ採録をする仕事ならまだニュアンスも違うか。そもそも監督や脚本家が几帳面に台本を作っていれば必要ない仕事ではあるのだが。

Junga (Tamil - 2018)を川口スキップシティで。 

VJSにしてはスッキリしない、金の使い方を間違えた系の騒々しい凡作。ニューウェーブの申し子VJSは人気が上昇するにつれて、そのうちコテコテ・ヒーローものをやるに違いないと噂され、だが大体においてそれを裏切ってきたけど、ここで初めて「歌って踊って大暴れ」をやることになったか(全部見てないので断言はできない)。まあ、ヒーローと言っても正義漢では全然ないところは評価できる。ただコメディーにもアクションにもキレがなく、限りなくかったるい鑑賞だった。笑えたのはパリとParrysを取り違える下り、ラーダーラヴィの疲れたギャング組合長、主人公の父と祖父のエピソードか。あと、婆ちゃんもよかった。チョイ役のマドンナはテルグ人という設定で律義にテルグ語を喋ってたな。フランス・ロケ部では、冬という設定なのに女性が半袖とか(男は厚着)、ギャングのアジトがシャンボール城とか、ひと昔前感満載。例によってカーチェイスやってるのに壊すのはゴミ箱だけなんていう遠慮っぷりも。タイガーでダブリンで市街地のトラムを壊しまくったカビール・カーン監督が凄いのか。

『用心棒』(1961)をDVDで。 

偶然に始まった夏の黒澤・三船祭りもこれでいったん休止。前世紀に初見した時には思い至らなかったけど、これは時代劇・剣戟のモダニズム化の試みなのだな。洒脱な音楽と切れ味のいい編集とで、スタイリッシュな侍コメディを作るという。そしてヴィジュアル的には、同じころ萌芽し始めていた劇画のヴィジュアルを先取りしている。クライマックスの対決場面で、仲代を中央にした悪役が雁首をそろえる場面などが強烈に劇画を想起させる。絵柄優先の演出の一方で、刀で切られた人間が「痛いよお」と叫ぶようなヘンテコなリアリズムもある。インド映画好きとして眺めると、やはり本作の三船がパワン・カリヤーンを魅了したのであろうことがよくわかる。懐手で顔を顰めながら顎を擦るあの仕草、パワンは時々意識してやってるように思う。絶対に鏡の前で三船の真似の練習してるに違いない。eigadon.net/media/O5xdeFgWAZMw

『天国と地獄』(1963)をDVDで。 

もう止まらなくなってギフト用に買った黒澤は全部見てしまいたくなった。この作品は映画館で一度だけ見た記憶がある。とても多くの人が引っかかるらしい、列車は新幹線という記憶の修正に自分も陥っていた。143分のこの作品、途中で露骨なほどにインターミッション的な区切りがあって、封切り時にこれがどのように扱われたのか気になる。横浜、鎌倉の実在の地名がバンバン出てくる。で、検索してみると詳細なロケ地同定をしている人が複数いた。しかし、前世紀に一度だけ黄金町に迷い込んだことがある経験からして、あの黄金町のシーンはほとんど現実を反映してない。それに先立つ伊勢佐木町のシーンから黄金町の魔窟に至る部分が、ファンタジックに創造された地獄の詳細描写として一番の見せ場であるように思われた。それに比べると丘上の天国は無味乾燥で退屈。なので、そこを舞台とした前半には、張り詰めた人と人とのドラマが、計算し尽くされた人員配置で展開されなければならなかった。この対比の妙には唸る。

『悪い奴ほどよく眠る』(1960)をDVDで。 

軽い逃避のつもりが止まらなくなってしまった黒澤祭り。黒澤の特質である、人と人との衝突をリアリティから離れた芝居がかったやりかたで、舞台劇のように大掛かりに演出するという特質が、くっきりと浮かび上がっている。こういう大激情のほとばしりの演出の上手さでは、いかなる時代・地域の監督にも匹敵する名前が思い当たらない。キャスト筆頭は三船だが、森雅之(最初は彼だとは気づかなかった)と西村晃(黄門様とは全然違う)に迫力があった。加藤武の終盤での絶叫もよかった。志村喬は珍しいことにあたりまえすぎて面白みがなかった。

カンヌ国際映画祭でのインド映画に関する記事。 

インド映画が時に謳い文句にする「カンヌに出品」云々は、ほとんどがマルシェへの出品でコンペではないこと、などなど色々面白い記述が多い。特に終盤の、インド映画は字幕(この場合英・仏の)で伝えきれない要素が多すぎて、それが評価の足を引っ張っているというくだり。映画祭向けに作られない、ローカル娯楽映画の本質を言い当ててる。それから本公開前に作品を人目にさらすことを極端にいやがる映画人の心性などについても。timesofindia.indiatimes.com/ho

『あまねき旋律(しらべ)』を試写で。 

ナガランドの民謡に日本語の訳詞がつくなんて、まあありえないことだし、これは稀有な経験。伝統的な野良の労働歌「リ」がキリスト教の影響によってどのように存亡の危機に陥り、またそこからどのように復活したのか、そのあたりがもっと知りたくなった。それだけじゃなく、キリスト教そのものと人々がどのように折り合いをつけているのかも。作中に写る村の風景は、ただもう質素で愛想のない、インドの辺境地帯そのものといった趣で、そのなかで聳え立つ教会が異様なインパクト。意識したのかどうかは分からないが、ノイシュヴァンシュタイン城(あるいはDLのシンデレラ城か)のダークなパロディのようにも見えた。インタビュー的部分では、メインランドとは異なる、農作業における両性間の平等のようなものが透けて見えた。ナガランドだけではないけれど、インド北東地方の、インド英語じゃないバリバリ米語によるレベルの高いロック、ヒップポップ、ジャズ(非マサラ風味)の源流は何なのかさらに探求したくなる。

『酔いどれ天使』(1949)をDVDで。 

昔浴びるようにモノクロ日本映画を見ていたと自分では思っていた時代にも、どうも戦後の40年代後半のものはスルーしていたようだ。これも初見。50年代のものとは違い、ここにはダイレクトな焼け跡文学がある。結核を患い自暴自棄になったヤクザと気概あるスラムの医者という、今日の目からするともう類型的で見ていて気恥ずかしいようなキャラクターを、芝居力でねじ伏せて見せる。そしてのちの香港ノワールにも通じるようなアンダーワールドの粋の世界(焼け跡なのにもかからわず)も見事。本作、『野良犬』から『天国と地獄』の山崎勉まで、黒澤は犯罪者の瀬戸際での劇場の迸りを描くことに特別な情熱があったように思われる。

『野良犬』(1949)をDVDで。 

先日来ギフト用日本映画(英字幕付)の手に入りにくさについてぼやいていたけど、黒澤―三船コンビの何だこれというほどのお買い得4枚組が手に入った。『野良犬』は前世紀の名画座入りびたり時代にも見てなかった一本で嬉しい。熱帯夜に酷暑の映画を見るという偶然。まるで香港映画を見ているような錯覚にもおそわれた。1948-49年の東京にノスタルジー爆発。自分が生まれていたわけじゃないのに、それでも分かるあの空気感。主役の刑事が復員兵に扮して歓楽街を歩き回るシーン、キャバレーの踊り子たちがへたり込む楽屋のシーンが秀逸。ほんの数分のシーンに千秋實が出てきて、役作りに唸る。演技を始める以前に癖があり深みがある表現力高い顔が多くて、詮無いことながら、昨今のツルんとした顔の役者たちと比べてしまう。戦後という時代を感じさせる沢山の顔の中で、やはり三船のそれは表現力と共にスターのカリスマを併せ持っていたものだというのを改めて確認。明日も続きを見よう。

Magalir Mattum (Tamil - 2017) をHeroTalkiesで。 

タミル映画にとって2017年は振り返るとフェミニズム的傾向の強い年だったらしい。1994年の同名作は女性中心のソーシャルの先駆けみたいなものだったが、大団円のところで、それまでのカッコいい展開が腰砕けになってしまう残念賞だった。2017年の本作もストーリーラインは全く異なるながらその腰砕け感があった。登場人物を20前後の女性から孫もいるような主婦たちに変え、その困難な現実をリアリスティックに描いた。しかし落としどころに困ってフェアリーテール的なリアリティ・ショー(変な言い方だ)に落とし込んでしまったのには感心しない。「若い世代」の狂言回しとして登場するジョーティカーは、未婚という設定だが、伝統的な「乙女」像からかけ離れた図太い存在感がいい。3熟女も、現実の同年代女性と比較したらやはり華がある。結果的にお気楽作品だったが、女性が自分の意思を通すと大流血の惨事が起きるというストーリーラインを数多く見ているので、楽しい逃避旅行の次の瞬間に惨事が起きるのではないかと気が気じゃなく、変な緊張感があった。

Kaatru Veliyidai (Tamil - 2017)をHeroTalkiesで。 

マニ・ラトナムの近作らしく、手放しで絶賛できず、といって駄作と切り捨てもできない微妙な一本。マニには、歴史の大激動の中で翻弄される男女の大河ロマン・タイプと、平凡な男女の間の揺れ動く心の機微みたいなのと二系統があるが、本作は両方を一つにしようとする試みか。しかしマクロの大活劇には現実感がなく、チェイス・シーンなども全然ハラハラしない。面白いのはミクロの方。ヒーローが完全なクズ男、ヒロインはそれを十二分に承知しながらも惚れた弱みで関係を断てない。極限状況を経たとはいえ、クズ男の改心が充分に描けているとは思えない。2人がグダグダする舞台背景がインド北辺の絶景というのがずるい感じ。ラストシーンなんて昔のシルクロード番組で見た火焔山みたいだったもの。最近のボリで流行ってるダルい自分探し系ロマンスものにも近い。触ると壊れそうなアディティの美貌が一番の見どころ。いかにも地に足の着いてないガラス細工のヒロインを華美な衣装を着せて絶景の中に配置するところに、マニのややオールド・ファッションな娯楽映画魂があるか。

『英国総督最後の家』を試写で。 

『ベッカムに恋して』と同じ監督だと覚えていたらもっと期待値低かったかもしれないけど、いい具合に忘れていてよかった。9割がたが英語台詞の英国映画ながら、ほぼインド映画として鑑賞。ルイス・マウントバッテンのイメージが違うのとアンベードカル博士が出てこなかったことを除けば満点の読後感。歴史に翻弄されるインド人カップルの恋模様も面白かったが、やはり醍醐味は密室のパワーゲーム。夫が軍人で妻が左翼的なマウントバッテン家内のディベートから、深く静かに始まっていた東西冷戦構造とチャーチル戦時内閣の秘密報告書まで、政治劇が鮮やかに描かれる。分離独立をどうしても阻止したいガーンディーが初代首相をジンナーにすべしと主張し、ネルーが猛反対したというエピソードは史実なのだろうか。プレスに記述のあったThe Shadow of the Great GameとFreedom at Midnight(今夜、自由を)が読みたくてたまらなくなったが読む暇があるだろうか。

Kaalaを見て思ったんだけど(まだ言ってる)、 

敗者が結局勝つ、肉体は滅びてもその精神が遍く行きわたるというのは、全然関係ないはずのマラーティー映画Tukaramにも共通している。特にKaalaの場合、「ラーヴァナが首を刎ねられても、すぐに無数の首が再生する」というあの神話のシーンをなぞっている。

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