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Nenu Local (Telugu - 2017)をYTで。英語字幕付き。 

批評家筋からの評価は低く(これは日常的なことなので参考程度にしかならない)、興行的にはかなりのヒット、数少ない日本人鑑賞者には好評だった一作。しかしあまり楽しめなかった。ナーニのような、名家の御曹司でもなく、並外れたアクション適性もない俳優が主役を張る映画は、「小洒落た脚本」という一点突破で行くというのがテルグ界のお約束。脚本的にはアッと驚くクライマックス直前の種明かしがあるけれど、それ以外はただもう定型をなぞるだけの様式美。衆人環視下での「俺の女だ」宣言から始まり、ストーカー的求愛、グーンダとの格闘、友人の恋路の手助けなどなど。これをいわゆるトリックスター型の主人公が行うのだが、そのキャラ造形に説得力と一貫性が感じられない。引き比べてみれば、アッル・アルジュンのこのタイプの描写の巧みさを思い知る。とはいえ、テルグ映画界でこれまで浮かんでは消えてきた、非御曹司「覇気のない若いの」系ヒーロー(ラージャー、ウダイ・キランなど。それより古い時代にもきっといたのだと思う)の1人としてナーニ君にはこれからも注目していく。

PeriploEiga さんがブースト

映画.now 映画名で検索すると、どのサービスで単品レンタルできるか?どの定額制サービスで観られるか?がわかるので便利。 eiganow.com/movie/83636 eigadon.net/media/2NxccWeGVudi eigadon.net/media/pbmv4PU6-HlJ

Sathamanam Bhavati (Telugu - 2017)をYTで。英語字幕付き。 

これも昨年評判の良かった一作。感想は微妙。SVSCなどに連なる、家族で楽しめる縁起物系の作品。アーンドラ地方の田園(ここではゴーダーヴァリー沿岸地域)地帯の礼賛、大家族の人間関係、華やかな宗教儀礼などのお約束がてんこ盛り。ナンドゥ演じる主人公(一応)の田舎の素晴らしい好青年ぶりは興味深いがやや平板。見てないけどRangasthalamではこれがもう少し掘り下げられたのではないか。 彼が恋愛を諦めるくだりがちょっと分からない。アヌパマは素晴らしい、今のこの時期にしかできない演技。肝となるプラカーシュ・ラージの祖父役が、好演であることは認めるもののどうも馴染まない。実年齢で祖父を演じられるオーラある俳優をテルグ映画界はもう持っていないのか。それから、絵にかいたような美しすぎる田園風景、見事な豪農の大邸宅にも、若干興ざめする。作り物臭さに耐えられないのだ。実際に現地に行き、目を疑うような光景も見てしまっているので。タイトルになっているマントラが唱えられる宗教儀礼については、もう少し調べること。

Fidaa (Telugu - 2017)をYTで。英語字幕付き。 

昨年のテルグ映画の中でも傑作の呼び声が高かったので、どうやって見るかと思案していたところ、太っ腹公式動画がYTに。シェーカル・カンムラらしい、じっくりと丁寧に描く恋愛もので、SKトレードマークの、NRIの母国での生活実感をも描く。明らかに相思相愛の男女が距離を縮めたかと思うと反発して離れていくシーソーゲームが楽しい。ヒロインが事実上の主役であること、愛する相手に受け容れられないフラストレーションから、内に秘められていた階級差別を口にしてしまうヒーロー、というのはAnandと同じ。ただし、Anandはその差別心が顕わになったあと、物語が失速しておかしな方向に行ってしまっていた。本作ではさらに、男・女、アメリカ・インドの田舎、富裕層・中間層、アーンドラ・テランガーナという対立軸を詰め込みながら、confidentでone pieceなヒロインの自己認識によって、糸の切れた凧になってしまうのを逃れた印象。A Aaでのアヌパマといい、本作のサーイ・パッラヴィといい、ケーララの女優がテルグ映画で田舎美女を演じるのは感動的。

Kaalaが、傑作でありながらうっすらと落ち着かない気にさせるのは、 

政治家ラジニがこれから向かいそうなスピリチュアリズムを掲げた曖昧な政治姿勢と、映画の持つストレートな階級闘争性とのあいだの乖離からなのじゃないだろうか。

Kaala (Tamil - 2018)を川口スキップシティで。二回目。 

やはりスキップシティの超絶映像t+音響でもう一度体験しておきたかった。一回目を見てから気になっていたところはかなり確認できたので満足。シヴァージ・ゲークワードとカーラ、この映画でラジニは二度も死ぬのだ。本作が激しい攻撃にさらされて、興行収入も思わしくないという情報も耳にする。そりゃそうだ、かつてない本格的な階級闘争映画なんだもの。ある種の伝統芸能として判で押したような極左映画を作り続けてきたナーラーヤナ・ムールティなんか真っ青で息してないんじゃないだろうか。ダリトが主人公なのに、「可哀そうなダリト」じゃない&ダリトが主人公なのに痛快でカッコイイというのが、本作の真に革命的な本質。二回目に見ても最後の5分ちょっとのネクストレベルのアジテーションには鳥肌が立った。イデオロギーの先進性に追いつき、メッセージをこれ以上なく効果的に表出するテクニックの洗練が圧倒的。

Maya Bazar (Telugu - 1957/2010)を仲間と一緒に。 

誰かと一緒にこれを見たのは初めて。ウケるところは時折予想外の箇所だった。ともかく、「綺麗な若い娘さんの中身がおっさん」というシチュエーションがどうしてかくも映画的に面白いのかを再確認。それから、レーランギのお笑いパワーもだ。演技する以前にその顔と体型で笑わせる。それから、退屈な親族の間の相談のようなシーンで、一々の台詞が「本筋」であるマハーバーラタへの言及になっており、そのあたりを噛みしめると味わいが広がる。問題はサンスクリット系の単語を多用した言葉遊びだが、こればかりはネイティブでないと味わい尽くせないものと諦めるしかない。しかし、それ以外の骨格だけ取り出してみても汲めど尽きせぬ娯楽要素の泉、細やかな芝居にも気づけるようになってきて、何度見ても飽きない。

また久しぶりに外国人へのギフト用の日本映画ディスク探し。廉価版DVDなら分かるけど、ブルーレイにもなって英語字幕なしって何なんだと思う。

Jodhaa Akbar (Hindi - 2018)を町屋の会で。 

3時間越えの空虚な超大作、通して見たらゾンビのようになってしまった。ちょっと信じられないストーリーラインの幼稚さと退屈さ、埋め合わせは着飾った美男美女だが、全く救いになっていない。ともかくドラマとして平板、教科書をなぞったような宗教間融和のお題目になぜこれだけの時間を費やさなければならないのか。ちょうど今から10年前の作品、その当時見ていたら感動しただろうか。今検索してみても出てくるレビューが軒並み高評価なのにも暗澹とした気持ちになる。ここのところ見ていた作品群が、3時間前後あっても全く退屈しない充実したものが多かったので、この落差で心身症になりそう。これが10年の歳月による風化なのかともちょっと思ったが、今から60年前の作品でも良作は何度見ても面白いのだから、それは当たらないはず。歴史の再現についてはあまり期待していなかったが、その杜撰さは予想を上回っていた。やはりこれも史劇というよりはフォークロアの亜種と考えた方が収まりがいい。伝説の名君の形成期とは言っても、優柔不断で判断力のないアクバル帝の描写にこれはないわと思

数年前、第二次あたりのインド映画ブームの中でディスク通販をはじめたと思しき日本人のサイト、 

その当時の無知丸出し書き込みがまだ記憶に残っていて、久しぶりに覗いてみたら、電波な方向にドライブがかかっていて、そっと閉じた。

TUFS南インド映画特集上映にてAstu - So Be It (Marathi - 2015)。邦題は『あるがままに』。 

アルツハイマーの老人がちょっと目を離した隙に行方不明になるというのは、GBSMそのままだが、病状の描写は本作の方が比べ物にならないほどに細やか。別に糞尿を垂れ流すようなシーンがあるわけではないのだが、老耄の悲しみを余すところなく描き尽くした感じ。自分の親のことが気がかりになるかもと予想していたが、なぜかむしろ将来の自分の発症が心配になってしまった。字幕の一部に「恍惚の人」というフレーズがあり、昭和時代の有名小説の造語パワーを再確認。それから、全く別の映画作品に出てきたastuという台詞の訳にしばらく悩んでいたのだが、気がつけば本作の題名だった。全く無関係なところでのコノテーションが、別の疑問を氷解させるというのは時々起こる。本作にはカンナダ語ネイティブのキャラが登場して、最後の決め台詞を口にする(それ自体はマラーティー語だが)が、その周辺性が胸に迫る。しかし前もって知っていなければ、カンナダ語が話されていること自体にすら気付かず終わった可能性がある。幸運だった。

ラジニと言えば「アルナーチャラム 踊るスーパースター」が1999年に日本で公開された際に、渋谷パルコPart2の壁面が同作の手書きペイントで埋め尽くされたことがあったのだが、ネット上をどんなに探してもその画像は出てこないのだ。

カルナータカ州でKaala上映阻止で民族派が荒れているの、 

どう考えても無理筋。もしもドクター・ラージのようなカリスマがいたらそいつらを諭すことができたかもしれないけど、今のカンナダ映画界の超級明星様たちじゃできないんだろうな。卑怯で怯懦な印象をどうしても持ってしまうけど、彼らにとっては第一のお客さんなわけだし。

KaalaでBeemjiと呼びかけられていた人物が誰だったのか把握できず気持ち悪い(=もう一度見たい)。ランジットのtwアカウント名がbeemjiだということにも今更ながら気づいた。

Kaalaの大衆的示威行動のシーンには、ひまわり学連とか雨傘運動とかの影響がある?それともそんな外国から持ってこなくともタミルでああいうのはある。

Kaala (Tamil - 2018)をイオン市川妙典で。ファーストデー・ファーストショー。 

パ・ランジットへの信頼から期待が膨れ上がっていた一作がだが、裏切られず。またしてもランジットは、タミルの地の外にタミル人を配置し、一見そうとは思えない抗争劇の中にダリト解放のメッセージを織り込んできた。さらには、南インドが得意とする『ラーマーヤナ』のドラヴィダ的読み直しを散りばめて、好戦的な仕上がり。「カーラ(黒)」には、ドラヴィダ人の肌の色、アナーキズムのシンボル、ダリトのサバルタニズム、スラムの汚濁などの様々な意味がこめられ、最後には物理的な(同時に抽象的でもある)攻撃の武器となる。ラームリーラ―やガナパティ・チャトゥルティ、ラーマーヤナ朗誦会が織り込まれ、そのいちいちがムラリGのカメラによって超絶的に美しく創出される。ラジニは孫も沢山いる正真正銘の老人役で、20歳の若い娘との恋愛遊戯のようなフォーマット的ポーションもなく、ひたすらに「カッコいいダリト」像をスクリーンに焼き付ける。ポーションは少ないとは言え、妻、かつての許婚、活動家の若いマラーティー人娘などの女性のポートレイトも好感が持て

そういや、昭和時代に京橋フィルムセンターでクロード・シャブロルの『いとこ同士』を見ようとしてたら、センターが火事になって避難させられたことがあった。

Mahanatiを日曜に見て、割と醒めた感想しかなかったのに、その後二日酔いのような症状が出て、月曜の出社をサボってしまった。

Mahanati (Telugu - 2018)を川口スキップシティで。 

いやもう自主上映がスルーされてしまったらしいのでどうやって見るべきかと頭を悩ませていたら封切り後三週間たってから奇跡の川口上映。期待の上に期待が膨らんでいた一作だったが、予想をやや下回る出来上がりだったか。やはりグラマラスな50年代(これは日本でもハリウッドでも、どこでもそうだった)の映画スターの肉厚な存在感を現代の(物理的にも)スマートな俳優が演る時に常に起きる問題だと思う。使い古された「スター誕生」のパターンを安易に取り込んで、その肉厚な大女優の濃い生涯を「愛だけしか目に入らず、愛に殉じた女」として、チャッチャとまとめてしまった感がある。そうは言っても、古映画の引用に満ち満ちた描写には、それだけで涙を誘うものがある。訳もなく感動したのは、クリシュ監督が演じるKVレッディ。実際の人柄を模したものなのかどうかは分からないけど、脚本を俳優に投げつけて怒鳴るタイプのおっかない感じと、いにしえの風格ある大監督の雰囲気が格好良かった。一方で、LVプラサードの神経質そうな見た目(これも伝記的に正確なのか不明)も良かった。

Aadhi (Malayalam - 2018)をDVDで。 

絶対に自主上映@日本でみられるだろうと思ったのにスルーされた一本で、DVD発売を待ち焦がれた末にやっと鑑賞。物語は単純、しかし色々な考えが頭の中をグルグルしてまとまりきらない。概ね好評と思い込んでいた現地レビューも、後から検索してみると結構酷評しているものもある。理由は単純で、映画はパールクールの見世物ではないということ。世界にはその分野で神のような達人がいるのは確かだが、単にこの曲芸をそこそここなすだけの俳優の二時間半の運動会を見る意味があるのだろうかというのだ。一方で、マラヤーラム映画の若手俳優たちのアクション映画に対する敬遠ぶりには何か宗教的禁忌でもあるのだろうかと思えてしまうような現状で、望めば幾らでも気取ったお膳立てをさせることができるスター俳優の息子が、あえて体を使った路線に出てきたことには深く考えさせられる。自分だけじゃなく、映画界全体のことまで考えてのものだったのか。まあただ、この路線を第二作目まで引きずることは難しいと思わざるを得ず、アクションをやるにしても次回はどんな方向性で来るのか、非常に気になるところ。

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