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『スターリンへの贈り物』(The Gift to Stalin/Подарок Сталину)をTUFSシネマにて。英語字幕付き。 

2008年のカザフスタン映画だが、大部分の台詞を同国の公用語であるロシア語が占める。カザフ語は国家語という位置づけ。通常のTUFSシネマと違い、上映開始前に15分ほどのレクチャーという変則。ネタバレにならずに必要な基礎知識を開示するのにはかなり神経を使ったと思うが、ありがたかった。多元的な文化の中でのユダヤ人少年とカザフ人イスラム教徒老人のバックグラウンドを超えたふれあいという、見る前から想像がつくテーマとは別に、本作にはもっとショッキングな要素があるのだが、最後の瞬間まで予測しておらず、やられたという感じ。劇中であからさまに予告するイメージが一瞬現れるのだが、シュールな感じに却って目隠しされて気づかなかった。ドゥンガン人と呼ばれる回族の存在に目を見張る。否応なしにニキータ・ミハルコフの『ウルガ』や昨年見た『河(草原の河)』を思い出した。前者は内モンゴル、後者は青海省で、随分と大雑把な類推であるのは分かってるけど、草原を舞台にした映画は今のところ外れなし。

Aravindha Sametha Veera Raghava (Telugu - 2018)を川口スキップシティで。 

例によってプレビューのために現地の各種レビューを読んだんだけど、読むごとに期待は低くなってったのが正直なところ。今はやりの社会性に気を配ったアクションなのだけど、それらの多くは社会性がトッピングにしかなってない。本作はもう少し踏み込んで、ストーリーの主軸に暴力の連鎖を止めるための模索を持ってきたのだが、晦渋で後味がスッキリしない。そして理屈を捏ね回したために、ジュニアのダンスは実質的に2本になってしまった、167分もあるのに。予測した通り「もうファクション映画はやめにしないか」というトリヴィクラム監督のメッセージを強く感じた。しかし劇中はそれで収まっても、劇場の血に飢えた観客はそれで納得するのか?歯止めの効かなくなったファクショニスト(狂信的テロリストに近い、あっち側に行ってしまった人)をその手で殺し、その妻に正直にそれを打ち明け、しかし妻はそれを許し、地域内の融和のために彼女自身が選挙に出るというのは、よく考えられたプロットだが、カタルシスとしてはどうなんだろうねえ。

ムトゥ 踊るマハラジャ(4K&5.1chデジタルリマスター版)を試写で。 

20年ぶりの劇場公開にはやはりいろいろ去来するものがある。今試写では残念ながら音声の更新が間に合わず、モノラルのまま。そもそもARラフマーンの事務所の片隅に当時の素材が残っていたことから、今回のデジタル・リマスターが可能になったのだという。そして、この企画自体が、日本とインドの共同プロジェクトで、現地でよくあるリバイバル公開に乗っかって日本に持ってきたのではない、1年以上をかけた労作なのだという。つまり『バーフバリ』の大ヒットに乗っかった急ごしらえの企画ではないということ。これまではそう思ってた、申しわけないことながら。ロケ地についてはこれまで知り得たものに加えて、カルナータカのメールコーテでも撮られていたことが確認できて嬉しい。グルヴァーリ・ソングの冒頭の変わった衣装が、部族民のそれからのインスパイアードだとか。それから、1995年の本作中で登場した老人バージョンのラジニと、今年2018年のKaalaでの若作りメイクなしのラジニとを比較するのも楽しい。23年前のラジニの老人メイクはかなり良くできたものだと思った。

Junoon (Hindi - 1978)をDVDとEinthusaで。n 

途中で止まるDVDは如何ともしがたく、グレーだとも言われるEinthusanに手を出してしまった。2000年過ぎのシャーム・ベネガルのオワコン感から、初期の有名作以外のものに手を出すのに何となく及び腰になってたけど、これは名作。イスラミケイト映画としても傑作になるのではないか。作中で主人公が英国人から「パターン人」と呼ばれており、大雑把な蔑称となっているのかとも思ったが、後から自称としてもパターンの語が出てきた。インドのムガル朝末期におけるパターン人の位置づけについてはよく分からない。今度調べること。1857年のインド大反乱に加わったシャージャハーンプルのムスリム名家が舞台。主人公は鳩の飼育に情熱を燃やすが、一方でデリーの宮廷ほどの文化的爛熟と頽廃の気配はない。このあたりが、よくある「栄光のムガル帝国ノスタルジー」の作品群とは違う。しかしガザル風のソングは壮麗そのもの。それからアングロ・インディアンが英国人とほぼ同等の社会的地位を保っていたという描写もやはり気になったところ。原作を読まないと。

Sarkari Hi. Pra. Shaale, Kasaragodu, Koduge: Ramanna Rai (Kannada - 2018)を川口スキップシティで。バンガロールでの鑑賞に続き英語字幕付き2回目。 

後半部分に否定的な感想を持ちながらも2回目を見てしまい、結構楽しんでしまった。文字数が多すぎの字幕なんだけど、読み取りが初見時よりもややできたので、笑わせる部分のおかしさがより良く理解できた(それでも全体の半分ぐらいか)。会場はバンガロールのシネコンとは比べ物にならないほどどっかんどっかんウケてた。マラヤーラム語とカンナダ語の使われ方も分析的に見ることができた。片方がマ語、もう片方がカ語で会話というシーンが非常に多い。つまり、大人は基本的にバイリンガル、マイスールから来たアナントナーグのキャラですらそう。法廷のシーンで、「カーサラゴードにカンナダ語が理解できない住人などいるわけがない」なんて台詞もあった。あと、アナントナーグの「P for Peacock」という口癖と、監督自身が演じるシャバリマラ信徒の警官との緩い連関など、イメージのボキャブラリーの豊富さも印象的。

Mother India (Hindi - 1957)をDVDで。 

今頃これを見るかという感じだけど、見ないよりいいだろう。予想に違いカラー作品。開始前のセンサー認証は1977年の日付になっていた。後から調べること。基本的にはメロドラマであり、建国後のインドの理想主義的農本主義が鮮明に表れている。「生まれたからには生きなければならない」という昔何かで読んで印象的だった台詞はここから来ていたのか。それにしても、有名な十字架を背負ったようなイメージといい、マザー・インディアという大きく出たタイトルといい、今日では考えられない気概を持った作品。極めてシンプルな語り口で、善も悪もクッキリとしているが、なぜか飽きさせずに172分が一気見できてしまう。2人の子供はインドとパキスタンの象徴なのではないかと思える瞬間も何度かあった。突き詰めるとそれでは辻褄の合わないストーリーになってしまうので途中でその考えは放棄するのだが。水牛に乗るなどの、農村のイメージの幾つかにはラージクマールの主演したカンナダ映画のあれこれと連関があるのではないかと思われた。これも課題。

Kalyug (Hindi - 1981)をDVDで。 

全くこれを今まで何で放っておいたのかという1本だけど、ともかく見られてよかった。二大叙事詩下敷きの現代劇と言うのは、人物やエピソードがどのように翻案されているかを追うだけで興味が湧くので狡いと言えば狡い。パーンダヴァ5兄弟は3兄弟に、5兄弟共通の妻は長男の嫁となった。ドラマの中心はカルナに相当する人物(あの膝を抱えて横たわるポーズ!)。クリシュナはアムリーシュ・プリーが演じるがこれのキャラは極めて弱く、クリシュナではなくバララーマなのかとも思える。結局最後に一番印象に残るのは、ドラウパディーに相当するレーカーとアルジュナに相当するアナントナーグの、微妙な関係性で、これはこの脚本(ギリーシュ・カルナードも参加している)の独創。クンティーに相当する女性家長の過去といい、このドラウパディーの過去のカルナとのいきさつ、現在の夫との関係性などなど、明示的に示されない、こうした女性たちの感情のドラマに色々かきたてられるものがある。それにしても、不倶戴天の仇敵が肉親だと知った時、人はあそこまで懊悩するものだのだろうかとは思う。

Crossroad (Malayalam - 2017)をDVDで。 

なかなかDVDが手に入らず、現地でやっと見つけたのはやる気の無さそうなボール紙カバーの簡易包装ディスク。字幕付きだと思わなかったがプレーヤーに放り込んだら字幕が出た。カバーに書いといてよ。マラヤーラム映画としては久しぶりのオムニバス。a celebration of womanhoodと銘打ち、10人の監督が女性が主役の映画を一本ずつ持ち寄った。その中のマドゥパールとレーニン・ラージェーンドランが気になって鑑賞を切望していたのだが、肩透かし。辛い2時間47分、これまでに見たオムニバスの中では最低の出来、搾りかすみたいな作品群だった。アショークRナートの"Badar"が最も印象に残った。逆に酷すぎて忘れられないのが、アルバートの"Mudra"とアヴィラ・レベッカの"Cherivu"、それからシャシ・パラヴールの"Lake House"。文芸的な雰囲気で煙に撒こうとして失敗した&既存のアイディアを劣化コピーした見本のよう。芸達者揃いのマラヤーラム映画界のはずが、"Kodeshyan"主演の婆ちゃん以外はあまり感心できず。

Adi Shankaracharya (Sanskrit - 1983)をDVDで。 

初のサンスクリット語映画。監督はカンナダ人のGVアイヤル。いわゆる芸術映画フォーマットなのに160分もあった。8世紀に生きたインド最大の宗教哲学者で僅か32年の生涯だったシャンカラを描くってんだから、通常のバイオピックのフォーマットでは無理なことは観る前から分かってた。全編にわたってシュトロートラが流れる映像詩。ウパニシャッドを勉強している人には色々意義深いものがあるのだろうけど、まあ凡人には何となくありがたい雰囲気しか分からない。じゃあ退屈かというとそうでもなく、妥協のない画面作りに感銘した。特に幼少期のケーララのパートが素晴らしい。こマラヤーラム映画みたいになってる。字幕が面白くて、シュトロートラはほとんど訳してくれないのに、「ここで父は自分の死期を悟った」みたいな画面外からのコメンタリーが入る。これは監督の意図したものだったのか。どうせならもっと饒舌に入れてほしかった気がする。ともかく面白い体験だった。

Njan Marykutty (Malayalam - 2018)をDVDで。 

トランスセクシャル(トランスジェンダーではなく)の人物が社会の偏見と闘いながら自己実現を目指すという物語。説教臭い語り口だが、ジャヤスーリヤの芝居で見せるものになっている。「女装物は気持ち悪くてナンボ(だからレモは全然ダメ)」が自分の価値基準だが、まあそういう見世物としての女装ショーの範疇では全くなかった。こうしたジャンルで不思議なのは、性同一性障害に悩む者が本来の性を取り戻すために、社会が考える最も保守的なフェミニティのアタイアを取り入れるという点。これがよく分からない。本作ではそれを見せておいてから、一方で主人公が警官のカーキを着ることに憧れるという、さらにひっくり返った転換を示すのだ。こうなるともう、社会派メッセージよりも、「男優が女を演じ、劇中でその女が男に扮する」という、古典的なシチュエーションを再現したかったのではないかと思わざるを得ない。ジャヤスーリヤも名演だが、悪役警官のジョジュ・ジョージが凄い。これだけ憎める悪役を久しぶりに見た気がする。

Meera (Hindi - 1979)をDVDで。 

ヒンディーのバクティものも適当に見とくか、ぐらいのつもりだったのだけれど、これは割と有名作だったのだと後から知った(ただし興収は今一つだったらしい)。監督はグルザール。なのでやはり全般的に知的な指向性。奇跡やダルシャンを一切描かず、むしろ歴史・文学に重点を置いている。ただもう華麗に極楽絵巻と法悦を追求するサウスのバクティ映画とはだいぶ違う。ミーラ―その人の描写にしても、ただもう傍迷惑でしかない頑迷な嫁という側面が否応なしに浮かび上がる瞬間もあって、感情移入を促すような作りになってはいない。同時代人の脇役として大変興味深いのはアクバル帝と宮廷音楽家ターンセンで、特にアクバル帝のキャラクター描写は深みがある。このことによって「イスラームの侵略によって危機に瀕したヒンドゥー諸侯の、宗教的アイデンティティーをかけた抵抗」というありがちなパターンも相対視される。こうした脱慣用句的な世界観が本作を大衆的ヒットから遠ざけたのかもしれない。それにしても妹の自死に至るエピソードは意味がよく分からなかった。後で調べること。

〔Retrospective 18/08/30〕Mahanubavudu (Telugu - 2017)を機内上映で。多分短縮版。 

OCD(obsessive compulsive disorder)を患う若者を主人公にしたロマンス&シチュエーショナル・コメディー。そもそもインド人でOCDというのが想像を絶する存在だが、本当にいるのか。いるのだとしたら、毎日が極限状態の生活を送っていると想像されるのだが、そのあたりは映画はサラリと流す。本当に病気の者に寄り添う気がないのは明らか。というか病気と思ってないのかもしれない。シャラヴァナンドやナーニといったビッグバジェット系ではない、別の言葉で言うとアクションやダンスで大向うを唸らせることができない俳優にとって、脚本は本当に命のはずだが、こうした奇をてらった設定にすることで、それがクリアできたと思ってしまうことは多いように思う。そして、その設定が生かし切れずに後半に失速して糸の切れた凧になってしまうのも必然的。でも、奇をてらった系が好きな観客にはそこそこ評価されてしまったりする、その手の困った一本だった。

〔Retrospective 18/09/10〕Ranam (Malayalam - 2018)をPVR Kochiにて。字幕なし。 

修羅の街デトロイト舞台の作品と言うことで知り合いと変に盛り上がってた。予告編で気になったイスラーム系の描写は実見したところほぼなかった。色んなレビューで言われてることだが、実際にデトロイトにインド系やスリランカ系が多いのが事実だとしても、それでもなぜデトロイトなのか?というのは残る。ある種の中二病的な「メランコリーやニヒリズムへの憧れ」から、スタイリッシュネスを指向しているのは分かるが、技術が及ばないと感じられるところが多数。ラフマーンの悪役はカッコいいが迫力不足。冒頭のカーチェイス(逃走した先がカープールで、森の中に隠れた格好になる)のシーンの終わりにカメラが引くところ、うまく言えないがともかくヘタ、ヴィジュアルな驚きがない。同じ硝煙系のアンダーグラウンド映画でも、バンガロールを舞台にしたTagaruと比べると、いかにもヴィジュアル優先で無理にこしらえた設定感がぬぐえない。あと、灰とダイヤモンドも若干入ってたな。

〔Retrospective 18/09/01〕Tagaru (Kannada - 2018)をバンガロールSapnaにて。字幕なし。 

字幕なしは諦めるとしても、画面が暗く、音が割れてるのはどうにかしてほしいと思った。しかしアンモニア臭のする小屋でこういう映画を見物するのにはある種の旅情があるから困ったもんだ。ストーリーは全然違うにも拘らず、前に来た時に見たMuftiとだんだん境界がつかなくなってしまいそうだ。それにしても、こうした暗く情念的な地獄絵図が延々と続く2時間を楽しみ、ヒット作にしてしまうカンナダ人はやっぱりすごい。むっつり寡黙で腕っぷしの強い私服警官と、短パンの蓮っ葉娘の組み合わせというのは、ありきたりだが、SRKがやると引き込まれる。悪役のダナンジャヤもなるほどいい味がある。

〔Retrospective 18/09/02〕 Sarkari Hi. Pra. Shaale, Kasaragodu, Koduge: Ramanna Rai (Kannada - 2018)をバンガロールINOX Lidoで。英語字幕付き。 

リシャブ・シェッティ監督でかなり話題になってるのと、アナント・ナーグ出演というのとで見に行った。前の日に行ったサントーシュでもこれをやってたんだけど、同劇場名物のカットアウトがなかったのが印象的だった。前半の映像のキラキラした感じはただもう素晴らしく、今年の最高傑作に立ち会っているのではという興奮が抑えきれなかった。マラヤーラム映画Guppiも劇場で観たらこんなだっただろうというエッジの立った風景描写。後半に入り、アナント・ナーグが登場するところで、残念ながら失速。例の二色旗こそ出てこなかったが、わざわざ極小のコミュニティを舞台にして、遠慮なく地域ナショナリズムの雄叫びを上げるための設定だったというのが分かってガックリ。アナント・ナーグとラメーシュ・バットのコメディーの意味も今一つよく分からなかった。しかし現地では大評判。相変わらずの断絶感。

Sudani from Nigeria (Malayalam―2018)をDVDで。 

途中で止まる厄介なDVDだったけど、ネトフリで配信してもなおかつDVDにしてくれたのはありがたい。現地公開時に日本のマ映画上映団体が観たいか?というアンケートを取ってたけどあまりに反応がなさ過ぎて流れたものだった。そりゃあのポスターからじゃイロモノとしか思えなかったもの。ただし、この作品、粗筋を文字にすると馬鹿みたいに単純な話で、なんでこんな陳腐でお涙頂戴な話を皆が絶賛するのかは理解できなくなってしまう。これを面白くしてるのは、絶妙な配役と、非スター俳優の演技、それにコーリコード地方のさして裕福でもない家庭とその周辺を描く見事な空気感だと思う。特に主人公の両親のピタリとはまった佇まいが効いている。とことんの善意の人を演じて全く嫌味がない。この監督の演出力は驚異的だと思った。インド映画にアフリカ人を登場させると、それだけで剥き出しのレイシズムが爆発してやしないかと緊張するのだが、それは全くなかった。後から読んだレビューで、7人制サッカーのリーグにアフリカから選手をリクルートするのは現実にあると知り、吃驚。

Maya Bazaar (Hindi - 1959)をDVDで。 

これはデータが非常に少ない作品。公開年も多くの網頁が1958年としていたりするが、これはおそらく検閲通過の日付から。検索しても引っかかって来るほとんどが1957年のテルグ版の情報。しかも監督のバーブバーイー・ミストリーは80年代にセルフリメイクもしてるらしい。しかもDVD冒頭に出てくる認証カードには1979年の日付が書いてあり、パートカラーとの注釈もあるのに、本編にはカラーシーンが全くないという混沌ぶり。伝説的なテルグ版と比べてもあまり意味はないが、ヴァージョン違いを見る楽しみは大いにある。クリシュナを演じたマヒパール・バンダーリーはミソロジカルとフォークロアでそれなりに名声のある俳優だったようだが、NTRのあの深みはない。逆にNTRが神話映画デビュー作(当初自分がクリシュナを演じることに全く自信がなかったということだが)で確立したクリシュナ像がどれだけのインパクトを持っていたかを思い知る。チランジーヴィがSri Manjunathaで確立したシヴァ神のイメージについても同じことが言えるか。

Akilandakodi Brahmandanayagan (Tamil - 2018)をYuppflixで。 

Om Namo Venkatesaya (Telugu - 2017)の吹き替え版。オリジナルのテルグ版が容易に再鑑賞できるならばこれに手を出すことはもちろんなかったけれどやむを得ず。やはり吹き替えは全体的にチープな雰囲気。特にソングはぐっと落ちる。こういう神話・バクティものの場合、タミル映画であっても結構サンスクリット系の語彙がそのまま使われているんだということが薄っすらと分かる。映画自体としては、知り合いの入っていた「宝塚調」という評言がぴったりはまる。深い深い精神性と、そこでこれを入れるかという様式的な能天気ソングとが入り混じって、まさに大衆のための芸能という趣。劇場での鑑賞時よりも台詞を細かく吟味しながら見ていくと、これは温和な雰囲気の中で展開するバクタと神との出し抜き合いのゲームのようにも思えてくる。なぜ双六なのか、なぜサトウキビなのかなど、象徴として現れる事物をめぐる謎、そしてどこまでが伝承で、どこからが映像作家による創作なのかも調べてみたいものだけど。

Seemaraja (Tamil - 2018)をイオンシネマ市川妙典で。 

SK主演作だから最初から期待値は低めに設定してた。だから大きな失望はないが、となりに座ってたタミル人の兄ちゃんは本当に嬉しそうに笑いながら見てた。現地のボックスオフィスも悪くないものだとのことで、やはり理解できないものに当たった感はある。昔日の栄光を汚さぬように慎ましく生きる旧領主一族の中の若様のトリックスター的行状から始まり、途中でバーフバリのミニチュアが入り、Thevar Maganの線で〆る。SKの通常パックに豪華付録付き特別号完成といったところ。何をやっても心を揺さぶられる瞬間がない学芸会風。やはりRajinimuruganはまぐれ当たりだったのか。カムバックしたシムランについては悪夢を見ているようだったとしか言えない。どんな役でもカメラの前に再び立ちたいという役者魂なのだろうか。悪役は別に構わないが、見せ場のある作品に出てほしいと思った。ティルネルヴェーリ地方だというロケ地は大変に良かった。

Shuddhi (Kannada - 2017)を再びDVDで。 

まるで北欧映画のような色彩設計は、やはり完全に企図されたものなのだということが理解できた。そうでありながら、カルナータカ南部のバンガロール、マイソール、クールグ、マンガロールがリアリティを持って描かれている。字幕翻訳でかなり揉めた「何が起ころうと 構わない」についてはギーターの引用という解釈は現地人によって否定されてしまったが、仮にそうだとすると締まりがない感じがする。もっとベタにギーターの引用をちりばめてほしかった気もする。

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