Simhadri (Telugu/2003)を池袋ヒューマックスシネマで。
デジタルリマスター&英語字幕で。座席選択を誤り、川口の感覚でA列に座ったら、ちょっと外した。しかしまさかのおデブ時代ジュニアを劇場で英語字幕付きで見るという奇跡。見上げる角度でジュニアの太腿ばかりを凝視していた。やはりあのMGRや長谷川和夫などを彷彿させる旧時代の軽肥満体のねっとり&どろりとした色気が20歳のジュニアに宿るという信じられないビジュアルを前に唖然とする快感。そしてまた不遜さと赤子のような無垢とが交互に現れる様は口を開けて眺めるしかない。この若者をスターとして受け入れたテルグ人の高度な審美眼。例のガートでの祭礼は、ゴーダーヴァリ・ハマー・プシュカラルということなど、字幕付きで初めて分かった点も多数。しかしシンハードリのケーララにおける対としての「シンガマライ」はよく分からない。冒頭のリンガみたいなヴィシュヌのシンボルに王冠をかけるというのも意味不明。こうした現地観客にしかわからない文化的背景をどんどんそぎ落としていったのが今のラージャマウリなのだと思う。その削ぎ落しが一番過激だったのがEegaだった。
Boudi Canteen (Bengali/2022)をオンラインで。
ベンガル語の課題の一環として。衝撃的だったのは、課題を課す際に言われた「ベンガルでは夫は公務員、妻が教師というのが理想の家族とされている、妻が専業主婦というのは後進的と見なされている」という説明。『グレート・インディアン・キッチン』と真逆。ストーリーとしてはほとんどが対話の中で進行するテレビドラマみたいな小編。バラモン家庭の中で姑が一番の権力者。この人物がNGO活動に熱心で炊事は女中にやらせて「意義ある活動」に邁進している。教師として勤めているヒロインにさらにNGO参加をさせるなど、無茶ぶりが激しいが、それは社会的な虚栄心から来ているらしいことが分かる。ヒロインは料理が大好きで、外で働きながらも自分と夫の弁当を作る。ある意味スーパーウーマンなのだが、あり得るのか。対話劇なので、対立も対話で終わり、カタルシスはない。ヒロインを演じたスバシュリー・ガングリーが、ベンガル語映画でしかありえない、豊満かつ気品を湛えた見た目。映画の中に登場する料理はたぶん菜食+魚だと思うのだが、バブル役のソハム・チャクラボルティが良かった。
Custody (Telugu/2023)をイオンシネマ市川妙典で。
観客は20人いなかったかも。チャイ太には期待薄だったけど、ヴェンカト・プラブであることをタイトルロールで思い出す。今回はA Venkat Prabhu's HUNTだ。チャイ太は地方都市の巡査の役。テルグ御曹司に付き物のヒロイック演出は最小限に留められたのがクレバー。脇役が皆良かった。プリヤーマニの格好良さは特筆もの。アラヴィンド・スワーミはDhruvaの時ほどのかったるそうな感じはなかった。インターバル前の狭い警察署内でのプラン・セカンスは凄かった。ただ技術を見せつけるだけみたいな無意味さに痺れ。アクションとしては最後までダイハード的大車輪が続いて面白いのだが、結婚式場でラージュを逃がす経緯と、祭りの場で父が死ぬシーンにはロジックのほつれが見られた。エージェント・フィリップのシーンには笑った。あれはもう、コメディアンが最新のヒット作を真似て笑わすのと同じなのではないか。キールティ・シェッティは、初めの頃はアヒルちゃんみたいなのが嫌だったが、どんどん美しくなってる。ある種のストックホルム症候群みたいなものを描いていた。
『クイーン・シャーロット ~ブリジャートン家外伝』(Queen Charlotte: A Bridgerton Story、米、2023)をNTFLXで。
『ブリジャートン家』(Bridgerton、米、2020-2022)のスピンオフで全6話。ストーリーとしてはこっちのほうが断然いい。テーマは相変わらずの愛とセックスに加えて王室の尊厳。アメリカ人は本当に正直だなあと思う。本編でなぜか30年ぐらい前のファッションで通す王妃が不思議だったけど、その訳は結局分からず。後から調べ、王の狂疾や姑との確執は実話だったと知る。黒人や東洋人が宮廷社会にいる並行世界の発端は、このメクレンブルク王室が黒人で、英王室はそれを取り込む「大いなる試み」を行ったからだと説明されるが、気持ち悪い感じは消えない。また別の黒人登場人物は英国植民地だったシエラレオネ出身だと明かされる。本編のインド人登場回ほどではないものの架空の世界観と現実の歴史がコンフリクトを起こしてしまう。王夫妻のそれぞれの侍従がゲイカップルという設定。王とこの2人だけが鬘を被っていない。偉い人はどんな無作法をしても許されて、クールと見なされる掟も。
Virupaksha (Telugu/2023)を川口スキップシティで。
本格的ホラーの触れ込み。スクマールのストーリーと聞いてよほど凄いものかと思っていたけど、オーソドックスなホラーの定石を重ねたものだった。昔の村社会、教育の不徹底による迷信などはランガスタラムと共通するところ。ギャッとなったのは鉄道のところだけだけど、まああれも鉄道が出てくる時点でフラグが立ってた。しかしあれは最後の種明かしによれば、超能力を得るため焼身自殺した男が見せた幻影だった可能性が高い。女神の前で男が死に、呪いか降りかかったと判断した村の僧侶がロックダウンを敷く。これはコロナ禍と重ねているのかとも思ったけど特にその後発展せず。怪異の深層にはまた尤もらしいヴェーダの科学が登場する。不慮の死を遂げた人間はしばらくその生き物としてのパワーを放射するが、その目を見てしまった他者に瘴気が移ってその人間も自死するというよく分からない現象。僧侶が典拠とする寺院に伝わる奥義書が忌まわしい呪いの書と差し替えられていたというからくり。愛の力で怨念を止めることができなかった主人公が、自身が傷つきながらも憑依された女にとどめを刺す。
Yaathisai (Tamil/2023)を川口スキップシティで。2回目。
粗筋を読んでから臨んだので、だいぶ理解が進んだ。冒頭とエンディングに出てくる二人連れは、パーンディヤ王と部族の娘との間にできた王子で、付き添う老人はコディが死んだあと皆殺しになった部族の中の生き残りだったことになるが、ここに至るまでも何かストーリーがあるはず。それからアラブからインドに戻る奴隷船(?)の中で看守が話す言葉はアラビア語で、そこにタミル語が被さっていた。例の坊主を演じたのは、サムソン・T・ウィルソンという人らしい。あのキャラクターを配することがそれだけでキョーレツなドラヴィダ民族主義。一方、グル・ソーマスンダラムの役はいま一つはっきりせず。最初から最後まで何度も出てくるஅதிகாரம்(authority)という語は何と訳せばいいのか。デーヴァダーシーの2人がいずれもどっしりとした体形なのは、敢えてなのか。振付師についても知りたい。1人は入水自殺するが、残った1人にも何か後日談があることが暗示される。 チョーラへの使者として出かけて、敵に囲まれなぶり殺しにされるトッティ役の俳優のファンクがトップ賞。
Ponniyin Selvan 2 (Tamil/2023)を川口スキップシティで。3回目。
結局今回もワーナティの玉座の誓いはよく分からなかった。いずれにしてもあの場面だけで分からせるのは難しいのではないか。唯一小説を読んでいる人間の補正に頼ったところである気がする。ワーナティとプーングラリのキャラの縮小は残念な気がする。横たわるアルンモリを上から撮ったショットの大仏感。大悲劇が始まる前の虎の皮の敷物の匍匐前進は笑わせる意図があったのかどうか。マニラトナム節の回るカメラは被写体の周りを回ったり、上からグルグルしたり。最後の裁きの場でパルヴェート侯がアーディタの死を説明するところで「パーンディヤの刺客の手に倒れた」としか言わないのは、自殺とかナンディニに殺されたとかでは武人として不名誉だからと判断したのか。それからパーンディヤの船で連れ去られたパルヴール侯を入水する直前のナンディニが解放するシーンがあるがロジカルか。最後の合戦でパルヴール侯はどうしたと敵方が言うが、本当にどうしていたのか。マドゥラーンダカ役にラフマーンを持ってきたのは、ラストシーンでそれなりに映える顔としてだったのか。
Shaakunthalam (Telugu/2023)を川口スキップシティで。
テルグ人の姿は全くなし。全体で40~50人の観客。予告編で見ていた印象とほとんど変わらない。「Okkadu]「Arjun」を撮ったグナシェ―カルがこうなってしまうとは。子供向けのTV番組のようなセットに造花とぬいぐるみの動物がてんこ盛り。さらにCGで蝶が舞う。シュールなまでのホンコンフラワー風造形は何か意図するものがあったのかどうか。スッバラージュとハリーシュ・ウッタマンはいいとこなしのバイキン役。あの肉欲棒太郎のカビール・ベーディーがカシャパ仙とは。「アルヴィ」のアディティ・バーランは何か特別な意味があっての登用なのかと思ったが、単なる女友達役だった。アッル・アルハは単なる思い出作りなのかそれとも将来への展望あっての出演なのか。メーナカー役のマドゥーとか懐かしいが何を考えてるのか分からない。役のイメージにぴったりなのはドゥルヴァ仙役のモーハン・バーブのみ。圧縮して何か別の現代劇に挿入するエピソードにすれば贅沢感があったのに。本作の作劇は過剰に説明的で、ただテキストを移し替えただけの心のこもらないものだった。
Ponniyin Selvan 2 (Tamil/2023)を川口スキップシティで。2回目。
昨日と違い目的意識が変わったのでメモをとりながら見た。やはり鮮烈な絵の力に感銘。特にヴァンディヤデーヴァンがパーンディヤに捕まって供儀にされそうになるところ。滲んだ血と振り掛けられたターメリック水とが合わさって極美だった。水から現れるナンディニが水に沈むラスト。全体として、小説と比べPSのタイトルロールを形だけのものにしない工夫がされていた。水戸の御老公よろしく正体が割れると皆がひれ伏したり、強引な王位継承者変更を集まった民に力技で認めさせたり、徳治の王としての描写。バカ殿俳優としてのジェヤム・ラヴィの面目躍如。この人と言い、カールティといい、筋トレしないトップ俳優は見ていて気持ちがいい。おめえら分かったかと叫びたい。前作に引き続き、悪しき者を黒で演出するのはどうかと思った。例外はラーシュトラクータの謎の王女。とくに同じタミル人であるパーンディヤを迷信まみれの悪の集団にするところ。しかし諸宗教が併存していた古代を世俗のドラマとして描き切ったことは素晴らしい。ワーナティの玉座の誓いはよく分からず。
Ponniyin Selvan 2 (Tamil/2023)を川口スキップシティで。
去年の10/2以来の宿願成就。感想はまだまとまり切っていない。前半に歌と踊りの大半をブッ込んで、後半はアクションという南インド映画のある種の定式を2部作でやったという感じ。原作からの改変はかなり大胆。可哀そうなセーンダン・アムダン。原作では惨めな最期を遂げるはずだったあのキャラはピンピンしてた。コッティガとその娘というのは映画のオリジナルキャラか。目隠しプレーもなかった気がする。ナンビの鬘はかなり笑えた。アイシュの顔がフォトショ修正されてる疑惑は1の時からあった。オフショットでの弛み感が映画と違う。ちょっとやりすぎて詐欺サイトに載ってる中国の整形美女みたいになってしまってる箇所あり。事実上のクライマックスはナーガパッティナムの僧院から象で出発するシーンになるか。しかしギッシギシの詰め込み感はいかんともしがたく、3部作ならよかったのにと思った。1の方の悠揚迫らざるペースがちょっと懐かしく思えた。ジェヤム・ラヴィの殿様俳優としての天性のパワーに感じ入る。2部作は後半で爆上がりという定式だが、ちょっと違った。
Yaathisai (Tamil/2023)をイオンシネマ市川妙典で。
久しぶりに無印で凄いもの見た。PS2に向けて沸き立ってる今、これを公開する蛮勇印力。巨視的な観点からは部族民の映画におけるリアルな表現の潮流のひとつにあたるか。舞台が7世紀であるにも関わらずバクティのバの字もない。そして坊主は明らかな異人種として描かれる。CGはショボいがそれを補って余りある西ガーツ(それともコッリマライ?)の景観。部族民によるコットラヴァイ信仰とその生贄の儀式。あるいは出陣前のセルフ生贄。また戦死した者たちの埋葬に当たって胸に傷をつける風習。また、王家の子女の病を癒すための捧げものとして幾ばくかの金銭と引き換えに寺院に奉納される女児。デーヴァダーシーとなった女性の踊りと衣装は明らかに現代の「古典舞踊」とは異なる。その胸を覆う真珠は当然ながらコルカイのものだろう。それにヤールも出てきた。ストーリーは全くもって単純で、部族民がパーンディヤの山城の一つを占拠して王権を倒そうとするが、パーンディヤ王と部族民の戦士との一騎打ちで雌雄を決めることになり、パーンディヤ王に倒されてしまうという有害な男性性そのもの。
Aravindha Sametha Veera Raghava (Telugu/2018)をオンラインで。
5年前にスキップシティで見て以来。今回は背景が確認できた。どちらもレッディ、各村が1万人ほどの人口を擁する、発端は30年前の低レベルな小競り合い、両家は石炭で富を築き、そこから州の政界に転じた。ハイダラーバードの政界から彼らを傍観する者たちもレッディで、おそらく同郷。まあともかく、冒頭の大流血シーン以外はほとんどが苦渋に満ちた会話劇。そこで血に飢えた観客の欲求を満たし(ジュニアは例の太腿パーンもやってる)、そこから先は格闘でも相手を殺さない戦術に変わる。脅しも交えた話し合いで何とか開戦を回避しようということで、そのためには「(暴力をお前の方から再開してみろ)お前の息子を殺せるんだ」とも口走る。非武装・不服従とは違うんだ。そして最後に残った狂ったファクショニストは明らかに理性を失った状態なのだが、これはもうテルグ人が過去30年間慈しんできたファクション映画というジャンルの純粋結晶なのではないかと思われる結末だった。希望は女性にあるという意味でテルグ版の「有害な男性性」映画とも言える。
Rangasthalam(Telugu/2018)をイオンシネマ市川妙典で。
スクリーンで2度目。客は25人弱か。やっと個々のエピソードの連なりが分かってきた。前半ほぼ全体が、主人公が村社会にいながらも自分の難聴を知られたくなく、無理の上に無理を重ねることによって起きるコメディー。後半でブーパティが逃げ出した理由も。過去に秘密裏に行った殺人をシェーシャが口に出し、遺族に知られた&シェーシャを白昼堂々殺した&クマールの殺害に失敗して、目撃者チッティを取り逃がしてしまった、この辺りか。その富の源泉は公的な補助金や支援金を握りつぶして、自分の金貸し業を独占的に続けていることにある。兄弟バディものではなぜか父親の影が薄いとか、70年代ぐらいまでの理想化された田園ものへのアンチテーゼなのか、などと他作品とも比較も思い浮かんだ。またビジランテ・ムービーが席巻する現在の状況が、1947年の建国の理想の余波が60年代あたりで完全に死に絶え、当時アメリカで起こっていたニューシネマの暴力的性向と結びついたのだろうかなどとも。ビジランテ・ムービーについてはこちら。https://blog.goo.ne.jp/cinemaasia/e/cc82c4fb4b6f8df3e511090c118cfb01
Dil Dhadakne Do (Hindi/2015) をDVDで。
邦題は『鼓動を高鳴らせ』。富豪一家が社交界の仲間と共に豪華客船でトルコ~ギリシャのクルーズに出掛け、そこでこれまで蓋をして来た家族の問題が一気に噴出して揉め、子供たちは自立への道を歩み出すというもの。まああれだ、1964のSangamに始まり、00年代ぐらいまで盛んだった、外国の景勝地にワープして踊るというやつを全編通してやったという感じ。ランヴィール、プリヤンカー、アヌシュカ・シャルマ、ファルハーンと若手スターをふんだんにあしらったマルチスター作品。しかしまあ、いずれもありがちなキャラで、アヌシュカとプリヤンカーを、ランヴィールとファルハーンをそれぞれスワップしても違和感全くないだろうなという、役にピタリとはまった役者の底力を見るチャンスが無いという意味でのつまらなさがある。ZNMDと同じく、綺麗にまとめましたねという感想しかわかない。170分もあるのにずっしりとしたドラマを見た手ごたえがないのだ。家族や愛する人のためなら、どんなに横紙破りをしてもいい、むしろそれで絆の強さが感動を呼ぶだろうという作りはインド的。
Ravanasura (Telugu/2023) を川口スキップシティで。
RT主演作@自主上映は2012年以来。その頃ですらすでに下り坂は目に見えていて、この間のゲスト出演Waltair Veerayyaでも、頬がゲッソリ削げて(髭の剃り跡をわざと残してる?)、体も一回り小さくなったような、全体的に影の薄い印象を受けていた。前半にはコメディータッチもあるのだが、かつてのハイテンションお笑いはない。悪人として現れるヒーローが最後に正当な復讐者であることが明らかになるパターンの物語。少し前に見たGodseを思い起こすが、それと比べても悪人ぶりにやり過ぎ感。特にレイプシーンや恋人とのベッドシーンを執拗に描写したのは悪手だったと思う。客が呼べなくなったBクラス俳優がやりがち。他にジャヤラーム、シュリーカーント(タミルの)、スシャーントなどの微妙な線上にいる俳優が登場し、俳優人生浮き沈み双六を見ているような気になった。Swamy Ra Raで才気を見せたスディール・ヴァルマ監督とも思えない、メリハリが効いて飽きないが陰惨な出来。昔はご都合主義だった人の顔マスクは今や3Dプリンタで現実になったか。
Viduthalai Part 1 (Tamil/2023) をイオンシネマ市川妙典で。
ヴェトリマーラン、長編としては2019年のAsuran以来。西ガーツ山中ティンドゥッカル地方の僻村でのナクサル対特別警察の闘い。巻き添えを喰らう部族民、外国資本による鉱物資源採掘と、全部お決まりなのになぜこうも面白いのか。主演のスーリの身体性が立ち上がっていることは、予告編を見た段階で分かっていた。コメディアンとしてはヘン顔と黒い肌だけが突出していたのが、主役となって一気に全身が立体的になった。中年の入り口に立とうとしている男のいがら臭さ、篤実さを物語る丸身を帯びた造作、風雪に刻まれたゴルゴライン、白シャツの下の立体的な体躯などなど、ドギマギするほどに具体性を持って迫ってくる。この身体性を獲得した後に再びコメディアンに戻れるのかと心配になるくらい。一方VJSのキャラは2では膨らむのかもしれないが、本作中では敢えてグラマラスな悪役ぶりになることを抑制しているように感じられた。冒頭の列車を狙ったテロ現場から始まり、村の粗末な診療所、大石を乗り越えるジープ、終盤の屋根伝いの八艘飛びまでリアリティーが凄い。
Love Today (Tamil/2022) をNTFLXで。
無印ながら随分話題になっていた。オープニングからスマホが話の中心にあるのが分かる。彼女のスマホが壊れたのでかなり奮発して新機を買ってあげた彼氏。二人の仲が彼女の気難しい親父にバレて結婚を前提とした話し合いになり、親父は二人のスマホをスワップして過ごすことを命じられる。お互いの過去のプライバシーが明らかになって荒れ模様の二人。並行して進む、男の妹の見合い結婚。妹がオーケーした容貌魁偉な男は、何事にも鷹揚で紳士的だが、自分の携帯を触ることだけは誰にも許さない。そのことで猜疑心を募らせていく妹。しかし自分の考えではインド人全般、スマホやメールのプライバシーが雑過ぎ。そういう領域まで家族・恋人・親友が立ち入っていいもんじゃないはず。触らせてくれないと怒るのは逆恨みじゃないか。それはともかく、ヴァーチャル空間とSNSに翻弄される若者を描いたものとしてLove Failureから格段の深化。スマホの功罪を印象的に描いた点で2.0をしのぐ。ヨーギ・バーブが演じるキャラは激シブ。巨大な体に静かな悲しみを湛えてただそこにいるのがグッとくる。
『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』(USA/2022)を池袋グランドシネマサンシャインで。
ヒロインの名前がEvelynなのは題名との頭韻なのか。ヒロインがADHD(注意欠如・多動症)の設定だというのは後から解説読むまで分からなかった。「2001年宇宙の旅」のパロディーだとはっきりわかるシーンがあるが、それ以上に黒いベーグルの含意するものに同作とつながるところがあるように思える。それから昔に星野之宣の漫画「クォ・ヴァディス」で見た絶対静止系の恐怖も思い出した。近ごろはやりのユニバースとマルチバースを理解したくて見たんだけど、マルチバースの方、単にボタンの掛け違いで、分岐点で別方向に行ってたらあったかもしれない別の人生というだけでスケールが小さくないか?マルチバースらしいマルチバースはお手々ソーセージ人間ぐらいだけど、おふざけでしかないし。まあそうはいってもおふざけは楽しい。あり得ないバカなことをするのが他のバースからの力を取り込むトリガーになるというのは楽しいし、画面にちりばめられたポップなアイテム(ギョロ目、アライグマ、ベーグルなどなど)も虚無的なアナーキーでよい。
Cirkus (Hindi/2022)をNTFLXで。
気分転換で何か軽いものというのと、たぶん例のアレでやることになるから先回りしとこうと思って見たんだけど大外れ。最後まで見てローヒト・シェッティ作品と分かって納得。1942年、同日に生まれた2組の双子の片方ずつの入れ替えを行うマッドサイエンティスト(という設定ではないが実際はそう)。これをムラリ・シャルマーがやるというのはAla Vaikunthapurramlooが意識されているのか。「人格形成には血統よりも育ちが重要」ということを証明するための実験だという。これもまたAVのモヤモヤさせるラストを受けていると思う。4人の赤ん坊、片方の組はバンガロールの財界人の家、もう片方はウーティのサーカスの家で育つ。成長した4人が込み入った成り行きからウーティで鉢合わせするというコメディー。実験の主旨からすれば、両家の間にはステータスの差がなければならないけど、その辺りきわめて曖昧。ランヴィールの二役にしても、見た目で区別がつかないのはいいけど、実見の主旨に反してもキャラはもっとコントラストを出すべき。ジョニー・リーヴァルの自尊式挨拶はよかった。