C/o Kaadhal (Tamil/2021)をNTFLXで。
C/o Kancharapalemで十分満足してたのだけど、様々なモチーフがどのように翻案されていたかを知りたくて見た。ヴァイザーグはマドゥライに、オディシャはケーララに、独立記念日に歌われる歌はMundhanai Mudichuのもの(1983年封切り作がここで出てくることによって年代が分かってしまう)。ロケ地はどうやらThiruparankundram周辺のようだ。ミーナークシプラムというのは恐らく架空。なのでカースト別の街区の存在を暗示していたオリジナルほど社会階層が仄めかされていない。Pazhamudhircholai寺、Kochadai寺などがロケ地。ほぼカーボンコピーのリメイクなのにゆるゆるで締まりがない。多くのレビューで「ハートウォーミング」との評があったが、本来はヒリヒリとしたものになるはずなのだ。まず主人公の中年男が、色白で肌艶もよい中産階級の満ち足りた人物に見えてしまう点。そして彼の無神論を説明する台詞が端折られている点、子役がやはり上流の指定に見えてしまう点、オディシャ語ではなくマラヤーラム語だとか。
Oka Oori Katha (Telugu/1977)をYTで。
ダリトを扱った映画と聞いて、観ておきたかった。ムリナル・セーンの唯一のテルグ語映画。当然アートハウス。『芽ばえ』が74年でこれが77年。この時期のテランガーナにはアート系作家を惹きつける絶対的貧困の結晶があったのか。なにぶんアート系だから、最初の方は休み休みトロトロ見てたんだけど、終盤のデモーニッシュさに慄然とした。ダリトが主役であっても、社会改革のメッセージを(少なくとも表面的には)もたないリアリズム文芸作。比較的豊かだった過去の記憶を持ち、現在の窮状の原因をザミンダールへと見なし、ルサンチマンをもつ父は、働けば働くほどザミンダールを利するので、労働を嫌っている。息子もまた、日雇い労働を気が向いた時だけ行うが、時には農作物や薪などを盗んで、捕まると哀願するというのを繰り返す。父子、特に父はパンクなのか哲人なのか、それとも単なる人間の屑なのか。陣痛に苦しむ妻が見殺しにされる最終場面で、ダリトの中での内なる抑圧の構図が炙り出される。ザミンダールが祭りを催す場面でランバーディ・トライブの女性たちが大挙して現れる場面があった。
Achhut Kannya (Hindi/1936)をYTで。
インド映画百科事典ではランタイム142分となっていて、YTの動画は145分。つまりカットされていないはずなのだけど、終盤の展開がよく分からなかった。目をあけたまま寝てたのだろうか。昔の映画は台詞がシンプルで、従って英語字幕も読みやすく、非常に快適な鑑賞。しかしラストがよく分からないのと、フレームとなっている現在のカップルの逸話が余りにも唐突で、何だこれはとなる。初期ボリウッドなので、ポスターから何から全てがヒーローではなくヒロイン中心に展開する。今日の言葉でいうところのダリトが主役だが、ヒロインには生活感というものが全くない。サリーの着付けをはじめとした風俗描写はマハーラーシュトラのものなのだろうか。ヒーロー、ヒロインの父同士の友情というのも御伽噺風。それから重婚のしきたりというのも取り入れられて、ストーリーが一つの問題に収斂していかない。ソングはどれも古典をベースにしているというのがよく分かる。薪を運ぶ(現世の重荷を意味するのか)女が歌う「船が沈む、船頭はどこに行った」など象徴的な表現も印象的。アショーク・クマールが美男。
色々言いたいことがあり過ぎる
記事で精神衛生に悪いけど、ひとまずリンクだけ保存しとく。
https://www.filmsaagar.com/index.php/2021/08/10/item-girl/
C/o Kancharapalem (Telugu/2018)をオンラインで。
ヴァイザーグのカンチェラパーレムという地区での人間模様を描く。冒頭の街頭スナップのコラージュを見るだけでここが「若いもんには辛い」系の街区であることが分かる。様々な登場人物が紹介されてしばらくはとりとめがないが、やがてそれが4つの恋物語だということが分かる。明示されたダリト性はないが、解説を読めば、カーストまたは社会的ステータスにおいて女性が高位、男性が低位という組み合わせ(微妙な1ペアを除き)ということが分かる。各ペアの男性は特定の時点で信仰と決別する。最も中心的な49歳の用務員が、女性講師に対して「自分は神を信じない」といってお寺参りを拒む(同時に講師の参拝を親身になって助ける)のは、最後の最後になって種明かしがされる。4つの物語は同時並行ではなく別々のものだったのだ。70年代の少年、80、90年代の青年、現在の熟年という風に。70年代の少年が現在の熟年と同一人物なのは様々な符号から分かる。80、90年代の青年たちは必ずしも同一ではなく、象徴的な次元での系譜なのだと思う(しかし二人の外見は結構似ている)。
Navarasa (Tamil/2021)をNTFLXで。
Roudhramのロケ地が分かった、エンディングに①Pattinapakkam、②Srinivasapuram、➂Mullaima Nagarと記載があった。①は魚市場のシーンか。➂は②の一部で、立ち退き問題が起きたらしい。②についてはウィキペディアに短いエントリーあり。Srinivasapuram is a slum located in Chennai... It has a large population of fishermen. The slum was seriously affected by the 2004 Indian Ocean tsunami.
つまり北チェンナイではなく、南チェンナイの漁村でありスラム地区であるということになる。
Navarasa (Tamil/2021)をNTFLXで。
例によって低品質な日本語字幕で。マニラトナムが音頭を取った9作オムニバス。しかし各編が30分前後とは知らず。4時間超えの超大作じゃん。監督はベテランと新進の混成で、明らかに新進の方が力がある。ただしベテランのヴァサントによるPayasamは、クンバコーナムのバラモンの婚礼式次第が興味深かった。絶賛の声が寄せられているInmaiはイスラーミケイト映画、監督はこれまで短編ばかり撮っていたらしいラティーンドラン。シッダールトの顔が良い。一番の驚きはアラヴィンド・スワーミ監督によるRoudhram。30分余というのは微妙な時間で、多くの映像作家が文芸的な一筆書きや象徴的な寓話にしてくるところ、このセグメントは時間一杯を使って起承転結と最後のどんでん返しも入れた正統的なスリラー映画にした。これは凄いと思った。それからサントーシュ・シヴァンによる撮影の相変わらずの冴え。舞台は北チェンナイと思うのだが、もう少し検索すること。主演のシュリーラームが子役から確実に脱皮しつつあるのを見て感銘。〆のガウタム・メーナン+スーリヤのセグメントはグダグダ。
Palasa 1978 (Telugu/2020)をオンラインで。
ずっと気になってたのをやっと観た。どんより暗く、説教調、にもかかわらずストーリーに何か所か飛躍がある。けれどまあ大変に勉強になったし、パンデミックの最中、それもテルグ映画としてこれを公開するのはさぞかし大変だったろうと思う。スブラマニヤプラムや血の抗争を思わせる流血サーガ。カットバックの手法を一部採用しているが、それでも直線的なナレーション。この辺り、パー・ランジットやマーリ・セルヴァラージの巧みさには及ばない(昨日のUppenaやColor Photoにもそれを感じた)。演技者には一人も知った顔がいなかったが、皆達者な演技。脚本で首をひねるのが、バイラギの唐突さ、それにセバスチャンの性格の定まらなさ。それと、主人公の家が代々芸能に携わってきたというのが余り生かされていないこと。ソングにはダップ太鼓がフィーチャーされる。ウルミの音も聞こえるが画面には現れない。物語の所々にナクサルの影がちらつくのが興味深い。英訳でアンタッチャブルとされている語は特に問題なく流されている。敵役のアッパーカースト一家はブラーミンなのか調べる。
Kutty Story (Tamil/2021)をオンラインで。
近頃流行りのアンソロジーで30分ほどの4編からなる。一般に短編は、長編映画のミニチュアでは成り立たないので、文芸的・芸術映画的になる傾向がある。それを見た娯楽映画漬けのインド人がgemとか言って感激するのを何度か見たけど、甘いと思う。結構気の抜けたもの、言葉足らずなものが多いという印象。ガウタム・メーナンの第一話は、台詞にエスプリがあってかなり良いと思った。ガウタム・メーナンの演技は相変わらず固いが、かつて大根だったアマラは味が出てきた。GMの青年期を演じるヴィノード・キシャンの顔の似かたに驚き。ALヴィジャイの未婚の母ものは捻りがなく退屈。ヴェンカト・プラブのゲーマーの恋物語は結末がただのキャンサードラマでつまらない。ナラン・クマラサーミのよろめきドラマは、ヴィジャイ・セードゥパティとアディティ・バーランというまさかの組み合わせですでに100点。浮気をしてるつもりの相手が実は妻だったというのはどこかで見たような話だけど、VJSの画面上での存在感がとてつもなく、通俗的な美人ではないアディティとの火花の散らし合いが良かった。
Madras (Tamil/2014)をオンラインで。
5年ぶりぐらいの再見。もっとずっとメランコリックな作品と思っていたけど、お笑いもあるし、終盤にはかなりのアクションシーンも。ただ、カメラが引いて例の肖像画を見せるシーンが繰り返されるたびに、何とも言えない寂寥感が立ち上ってくる。そしてこれこそが本作の最大の魅力。肖像画に加えられたあの文字については調べること。真面目なメッセージ映画ではあるのだけれど、カールティの魅力が全開ではある。少し抜けたところもあるけど、勉強ができて、爽やかにホワイトカラー職をこなし、友情に厚く、堪え性がなく、異性に対しては純情そのものでもある。そういう割といそうなトッポいニイちゃんを皮膚のようにまとい、うつろう感情の流れで観客を釘付けにする不思議な力がある。キャサリンも、自立して相手を正面から見据えて話す女性だが、ロマンチックでもあり、慎ましい美しさが際立っているリアルなキャラで、普段の化粧オバケとは別人のよう。他カーストとの軋轢の描写に行く前の完全に閉じたダリト宇宙の物語として前作Athakathiと共に貴重な作例。ヴィヤーサプラム住人はどう評価したのだろう
Sankarabharanam (Telugu/1979)をDVDで。
これは下手すると20年ぶりぐらいの鑑賞だったかも。かなり状態が悪い(特に音声)のはオーサリングがなってないのか、元フィルムが悪いのか。デーヴァダーシーの女性がバラモンの声楽家に信仰に近い尊崇を捧げているが、自分からは何も言えず遠くから眺めている。彼女が水揚げされそうになり逃亡するのを助けたところから、声楽家は誤解を受け、至高の地位から転落するが、誇りを失わない。それと同時に声楽家の一人娘の恋路が描写される。これを初見した時は、ヒロインの美しさと劇的なラストに感動するばかりだったが、その後の見聞から色々見えてくるものもあった。まず、古典音楽の純粋さとそれが面している危機が強調されていること。舞台がゴーダーヴァリ沿岸地方であること。中産階級が決めつけたデーヴァダーシー制度の「罪悪」が、ヒロインの母親に収斂して単純化されていること。カーストによる偏見を持たない偉大な主人公が全面に描かれているとは言え、やはりバラモン文化の礼讃的なテイストが強いこと。踊りよりも歌の方が高等であるという無言の了解が前提にある作劇であることなど。
テルグ語映画でカースト問題を扱ったとされる6作のリストのうちの
3本を見たけど、今のところ目覚ましいものはない。残りも早く見ること。
'Palasa 1978' to 'Colour Photo': Six Telugu films addressing social discrimination
Color Photo (Telugu/2020)をオンラインで。
テルグ映画としては珍しくカーストの問題を扱っていると読んだので。しかし全編を通して「カースト」の語は一か所のみ抽象的な言明の中に出てくるだけで、残りは全部「肌の色差別」となっており、ちょっとこれは腑に落ちなかった。「肌の色」がカーストを意味していることは全体の文脈からはほぼ明らかなんだけど、どこまでも肌の色論法で通し、例えば「インドを支配したイギリス人が白人ではなく黒人だったら、我々は今日色白を崇めていただろうか」という演説が入り、カースト問題と人種問題のロジックが混同されている。まさにスキンディープというか。語りはもっさりしていて、特に前半は忍耐が試される。ほぼ結末が見えてしまう異カースト間恋愛の道行きに変化を持たせようとしてだと思うが、倒叙的なナレーションを導入したようだが、あまり効果があるとは思えなかった。この辺り、タミルのダリト作家たちの巧みすぎる話法とつい比べてしまう。アクションシーンで自身の尾のプラミッドの上に座るハヌマーンのエピソードを重ね合わせたのは良かったが、ハヌマーンの位置づけへの掘り下げはなかった。
Paava Kadhaigal (Tamil/2020)をNTFLXで。
質の低い日本語字幕付き。邦題は『不徳のアンソロジー』、これも酷い。名誉殺人をテーマにした4作品で、1作目は性的少数者、2作目は異カースト婚、3作目はレイプ被害者、4作目は異カースト婚、それぞれの当事者に家族が加える暴力を描く。いずれも印象的なストーリーで、配された役者も適材適所でいい芝居をしている。ただ、特に第1話でのエクゼキューションのもたつきが気になり、ちょっと醒めてしまった。役者では、体を絞ったおかげでまともになったシャンタヌ、普段は好きじゃないけど、これ以外の人材はあり得ないと感じたカルキ・ケクランが見つけもの。安定の上手さはアンジャリとプラカーシュ・ラージ、サーイ・パッラヴィ。ガウタム・メーナンはやはり演技はしない方がいいのではないか。全盛期を知る者にとってはシムランの姿に痛々しいものを感じざるを得ないが、一番怖いキャラクターだった。カルキとアンジャリの長々としたキスシーンは、タミル語映画においては革命的だったかも。種明かしの部分に若干無理なものを感じたが、暗く血腥いストーリーの連続の中では救いになった。
Karnan (Tamil/2021)をBDで。
見終わってから24時間近くたったのだがまだ考えがまとまらない。色々読みたくなるタイプの作品。感覚的に言えるのは、マーリ監督の前作からさらに映像の美と迫力が強力になったこと。音楽の一つ一つが見事に彫琢されていて、ゆっくり味合わなければいけない気にさせる。それからダヌシュの演技者としての見事さ。人気者のダヌシュがスクリーン上にいるというようりは、役を皮膚のようにまとって物語世界の中にいる感じ。神話をそのまま現代に移し替えたストーリーでは全くない。神話と照応する名前はむしろはぐらかしのために使われているのではないかとすら思える。足を縛られたロバなど、象徴的な事物は多く、象、仏像(?)、魚、宝剣、馬などなど、一々深追いしたくなる。もっとも印象的で美しいのは、死者の霊がまとう仮面。あの造形は発想源があるのかどうか。また馬には、夜に徘徊する騎馬の神との関係があるのか。それから北チェンナイものでよくある壁面に直描きする肖像も印象的だった。棒で殴るというバイオレンスは通俗映画の中ではほとんど準備体操のようなものだが、実際には致死的なものだと思い出させる。
ムアラフ 改心(マレーシア/2008)をオンライン特別上映で。
ヤスミン・アハマド監督の6本の長編劇映画のうちの5本目。原題はMuallaf。劇中で、クルアーン2-62に記述のあるサービア教徒、それはユダヤ教徒とキリスト徒以外で「本当にコーランを信じるもの、翻訳によっては改宗者とも」と説明される。これがよく分からない、ただし文脈からは中国系マレー人キリスト教徒であるブライアンのことであるのが分かる。鑑賞後に行われたセミナーで、マレーシアの異教徒間結婚事情の説明があり、男女が異教徒のままで結婚するのは事実上不可能に近く、どちらかの改宗が必要になること。イスラーム教徒にとって、同じ啓典の民であるユダヤ教徒やキリスト教徒との結婚は可能であるが、それはイスラームの成立以前から経典の民であった人々に限定され、マレーシアの中国系インド系人はこのカテゴリーに当てはまらないことが説明された。また同国ではムスリムの改宗も不可能であるため、クリスチャンであるブライアンがイスラームに入信する必要があるだろうとも。二人の華奢な姉妹が祈りの正装の白衣に身を包みながら頬ずりを繰り返すシーンは何ともいえず美しかった。
『不即不離―マラヤ共産党員だった祖父の思い出』(台湾/2016)をオンライン特別上映で。
監督インタビュー。後で読む。
http://jams92.org/pdf/MSJ07/msj07(004)_lau.pdf
『不即不離―マラヤ共産党員だった祖父の思い出』(台湾/2016)をオンライン特別上映で。
マラヤ共産党についての貴重なドキュメンタリー。20世紀前半に結党された同党は英領マラヤの華人が中心。当時の華人は英領マラヤの市民権は与えられず本籍は中国のままだった。英国の支配への抵抗から始まり、日本軍の進駐後は、英国からの渋々ながらの武器供与を受けて抵抗し、英国が去りマレーシアが独立した後は、政権から共匪として狩られ、処刑されるか、中国に強制送還されるか、あるいは受け入れを表明したタイに移住するかした。党員にはかなりの数の女性が含まれ、また少数ながらマレー人もいた。中国に強制送還された人々は、外国の親族からの仕送りを受けたことなどもあってスパイの容疑が掛けられ、文化大革命時代に殺されたり自殺した者もいた。彼らのほとんどが英領マラヤ生まれの2世3世で、故郷であるマレーシアへの里帰りを焦がれているが現実的には不可能に近いらしい。台湾で活動するマレー人監督ラウ・ケクフアットは党員だった祖父を追って本作を撮ったが、マレーシア国内での封切りは現在もないという。
http://yama.cseas.kyoto-u.ac.jp//film/report/2017awtl.html
Uppena (Telugu/2021)をNTFLXで。
予備知識なしで見て、主人公がカーキナーダ周辺のクリスチャン・ダリトの漁民だというのにびっくり。スクマールのストーリーというのには嫌な予感。設定自体は、身分違いの恋から娘の親の凄惨な復讐という流れで新味は全くない。主人公の吃音の設定とかはRangasthalamの焼き直しみたいだし。ただもう映像が無駄なくらいに美しく、マラヤーラム語映画以外でもこういうカメラを扱うものが出てきたかと感じ入ってたら、実はマ映画中堅のShamdat Sainudeenによるものだった。俯瞰アングルが異様に多い。ただし、テルグ映画で、田舎の描写に実態とかけ離れたこういう綺麗すぎる映像が出てくるとちょっと白けるところもある。ヴィジャイ・セードゥパティの悪役は彼ではなくてもよかった気がするが、吹き替えられた台詞以外での演技にやはり見どころがあった。ヴァイシュナヴはコニデラ家の顔をしているが、演技はこれからという感じ。キールティ・シェッティはまたしてもトゥルナードゥがらの大形新人の予感がする。前半は凡庸ながら美しい自然描写で魅せたが、後半のもたつきは感心できず。