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Billa (Tamil/1980)をYTで。 

久しぶりの字幕なし。アジットのリメイクを見た記憶とWPDの粗筋とで類推して鑑賞。さすがに古色蒼然とした部分もあるが色々興味深い点があった。ギャングのドンに入れ替わる後半の主人公が、流しの芸人で、effeminateと評される女性的なメイクや振りをする人物であること。しかし、この時代のストリート・シンガーはまだダップやウルミを従えてはいない。北インドのものを思わせる両面太鼓が主な伴奏。そのキャラ名ラージャッパンを、芸人の同僚であるマノーラマだけは「ラーサッパン」と発音する。チェンナイを舞台にしたカーチェイス・シーンが何度かあるのだが、出てくる車は皆アメ車みたいなシェイプをしていて、アンバサダーとかは全くいない世界線。メインヒロインのスプリヤーはどっしりと横に広がっていて、ちょっとどうかと思うのだが、お約束で水着姿も披露している。ヘレンもまたちょっとキモいメイクで胸の谷間を見せるためにだけ出てきた感が濃厚。室内シーンの多くがゴージャスというよりはガランと大きい場所で、もしかしたら「バーシャ」と同じくムンバイのホテルか何かで撮ったのかもしれない。

Do Bigha Zamin (Hindi - 1953)を国立映画アーカイブで。 

邦題は『二エーカーの土地』。題名から察せられるところはあるものの、ほぼ予習なしで見に行く。昔の字幕の長閑さ。田園の描写の美しさ。純朴な農夫が、資本家からの土地売却圧力に抗して、現金を稼ぎにコルカタに出ていくが、都会のありとあらゆる悪に洗われて全てを失うという話。いわゆるリアリズム映画で、日本の映画アーカイブに所蔵されているくらいだから各地の映画祭を席巻したのだろうが、ソングはきっちり入り、ミーナー・クマーリーのアイテムソングまである(やや無理のある挿入)。そしてインターミッションの表示も。後から調べて知ったが、インディアン・ニューシネマの先触れの作品と位置づけられているそうだ。ヴィットリオ・デシーカの『自転車泥棒』に直に刺激を受けて作られた作品。主人公がコルカタでベンガル語で話しかけられ戸惑うシーンがあるが、元々の出身がどこなのかはよく分からない。主演のバルラージ・シャーフニーは『熱風』の老紳士役の俳優と同一人物と知り驚くなど。当初は彼が上層の人物ばかりを演じていたことからスタッフの間で疑念があったとか。

それだけが、僕の世界(그것만이 내 세상、2018)をオンラインで。 

韓国文化院の「韓国映画特別上映会」ドラマ特集の第三回。うっかりして第二回を逃してしまった。イ・ビョンホンと並んだパク・ジョンミンのデカ頭が凄い(もちろんサヴァン症候群の患者としての演技、吹き替えなしの演奏も凄いのだが)。母親以外の女性キャラクターの「すぐにお店にでられそう」な雰囲気の統一感。弟に惚れる家主の娘の蓮っ葉な外見や言動と、対照的な人を見る目の確かさとが印象的。貧困を背後に持っていそうなDV話と、目もくらむような財閥系の富の分かりやすい表示、難病、母子もの、芸道もの、異能の障害者、などなど色々取り込みながら、最後はチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番で華麗にまとめた。父親の存在に代表される封じ込めた過去の貧困の記憶と、大富豪の富の現実離れした描写、穏やかで余裕のある街の様子とが、曰く言い難い余韻を残した。

Iraivi (Tamil/2016)をキネカ大森で。 

邦題は『女神たちよ』。先日の『マーリ』に続き、安定の画質と音質。2017のSIFFJでの、インド国内の安手のDVDを無理に流してるみたいな酷い粗画像と割れる音とがトラウマになってたけど、やっと克服できた感じ。ストーリーを既に知ったうえで改めて眺めると、適材適所の俳優たちの芝居に引き込まれ、初見時と同じく引き込まれるし、惨たらしいシーンの前兆の盛り上げ方に体がこわばる。「カンナギを悪魔の手から救い出せ」はやはりよく分からない。カンナギの前半生の「耐える妻」像はメタファーとして有効だが、後半の最も重要な「正義の裁きを求める女傑/滅びの女神」というのが充分に生かされていない気がした。男たちは強いきずなで結ばれていたのが無残に崩壊するのだが、女たちは余りお互いに関わりなく、男との関係性だけで描かれる。おそらくそれは現実的なのだろうけど、エンディングのソングでの檄はちょっと虚しく響く。とはいえ、そのことだけで、女性映画に名を借りたホモソーシャル映画と批判するのはおかしい。逆にホモソーシャル的部分がいかに魅力的に映るかということなのだろうけど。

「むかつく」とか「しんどい」「胸糞」とか体調を表現する言葉で映画評をするのは、便利だけどほどほどにしないといけないと思った。

Maari (Tamil/2015)をキネカ大森で。 

邦題は『マーリ』。ダヌシュはもちろん一定の評価をしてるのだけど、なぜここまで日本で受けたのかが完全には分からずにいる。最初期のKaadhal Kondeinを代表とする病んだ奴、VIPを代表とする等身大の若者像、Aadukalamあたりからのリアルなダリトもの、この辺はかなりくっきりキャラが立ってたけど、それ以外がどうもとりとめがなくて、でも現地でもどんどんスターになっていってるのは横目で見てた。本作はまあ大スターに許されるお気楽な歌って踊って大暴れ路線の代表作か。ただ、他のスターがやるその手の作品と違ってペーソスが前面に出ていて、やはりそこはさすがと思った。ラストの格闘シーンなど、CGの安っぽさとかがどうかと思うのだが、本当の山場はその前のお祭りソングで終わってしまっていたのかも。カージャルは「マガディーラ」でのションベン臭い小娘のイメージがなかなか抜けなかったが、本作あたりから艶が出てきたのかもしれない。ヴィジャイ・イェースダースはこういうお祭り映画に相応しい半端悪人ぶり。敵方の小者まで、キャラの立った顔が揃っているのが好もしい。

『ジャッリカットゥ 牛の怒り』をシアター・イメージフォーラムの試写で。 

昨年9/24にアジアフォーカス福岡国際映画祭で見たのに続き2回目。後から聞いた話では、映画祭上映版と細かく編集を変えてきたものなのだそうだ。映画祭版では冒頭に「ジャッリッカットゥ」の語義が示されたが、今回版ではヨハネの黙示録に変えられたりしてた。限界集落はイドゥッキのどこか。ほとんどがクリスチャンの村。おそらくは南ケーララのクリスチャンベルトであるバックウォーター地帯のから移民してきた人々の2世3世が暮らしている。マス・フレンジー映画に役者の善し悪しはあまり関係ないようにも思えるが、メインのキャラであるアーントニを演じたアーントニ・ヴァルギースはAngamaly Diraryの時よりもグッと男臭くなって肉体派(ただし6パック系ではない)になった。出番は短いものの村のエロい女役のシャーンティ・バーらチャンドランはねっとりしたケーララ娘の路線の正当な継承者のようで良かった。音と映像のモンタージュをつなぐテンポが絶妙で映像詩的な味わいも。マラヤーラム語映画で理性ゼロの男たちが罵り合いド突き合うのを眺めるのは謎の快感がある。

男と女(남과 여、2016)をオンラインで。 

韓国文化院の「韓国映画特別上映会」ドラマ特集の第一回。もしも「隣の女」のリメイクとかだったらどうしようと懸念があったがそれはなかった。フィンランドとソウルの高級住宅地とが舞台で、さらりと透明な感じにまとめた不倫もの。主演の女優は最初に登場してきたところでは、なんか薹が立ってるし、ヤンキーっぽくも見えてどうしたものかと思えたのに、中盤以降しっかり感情移入させる。男優の方も、トッポい学生風なのでストーカーの生々しさがない。純粋な恋愛感情を描こうとするときはとりあえず現実感のない場所に舞台を移す&登場人物に生活の心配をさせない程度に裕福にするというのはセオリーか。まあ、じれったい進行なんだけど、こういうテーマの場合は観客にじれったさを感じさせれば勝利なのかもしれない。

「僕の名はパリエルム・ペルマール」 

についてふっと思ったんだけど、あのカルッピの死は、スパイク・リーの「マルコムX」での主人公の父の死のシーンにインスパイアされたものなんだろうか。「マルコムX」見てないんだけど。

ヒンディー語映画の研究者が何かのきっかけで地方語映画を見るようになったらしく、 

その過程で思いついたことを書いているのがかなり酷い。「プロダクションバリューや演技の技術にギャップがある」と書きながら、言い訳がましく「必ずしもヒンディーの方が勝っているというわけではない」とか注釈して、結局何が言いたいのか分からない。地方語俳優がヒンディーに何本か出ただけで終わっていることを、「ヒンディーへの挑戦に敗れた」としか見ない典型的なボリウッド原理主義。こういう発想の人間はやっぱりインドにもいるんだ。
madhulikaliddle.com/2021/04/28

The Disciple (Marathi/2020)をNetflixで。日本語字幕付き。 

邦題は「夢追い人」。チャイタニヤ・タームハネー作品だから、予定調和の芸道ものにはなる訳ないのは分かっていたのだが、なんとも心ふたがれる一作。ヒンドゥスターニー音楽についてよく知らなくとも、主役の男の「ダメなアーティスト」オーラが凄くていたたまれなくなることも。24~36歳の変貌と合わせて凄い演技。リアリティーショーの優勝者である女性の挿話によって、旧時代の求道的古典芸術と現代のポップカルチャーの対比は非常に明快に描写される。しかし純粋を求める古典芸術において、どうしてもブレークスルーできず、一家をなせない者はどうしたらいいのかという話。歌において霊感の降りてくる無我の境地を達成できない主人公だが、ムンバイの街をバイクで移動する時だけは、全てから解き放たれ浮遊する境地を味わう皮肉。最後に彼は音楽家としては半端なまま、アールワール派の伝統遺産の管理人的なところに落ち着くことが暗示される。彼を叱咤する実在のグルもまた、老いて衰えていくことが示され、声を聞いたこともない伝説の女性歌手の教えだけが残される。

Goliyon Ki Raasleela Ram-Leela (Hindi/2013)をDVDで。 

タミルが誇る天才カメラマンのラヴィ・ヴァルマンが手掛けた作品であることを思い出しやっと鑑賞。SLBについてはもう全く合わない監督だから期待せず。ロミオとジュリエットからインスパイアされたと冒頭で謳われる。まあしかし、後はどのくらいオリジナルから遠ざかるかに勝負どころを見出したようにも思えた。舞台はグジャラート(ロケ地の一部はラージャスターンだが)。嬉しいと言ってはぶっ放し、悲しいと言ってはぶっ放す、DQNだけが住む架空の街が舞台。DQNだらけの中で特に蓮っ葉な男女が出会って一目惚れ。映像が美麗に作り上げられるほどにストーリーの空虚さが浮かび上がる。美男美女がお互いをうっとり見つめ合うだけでは「運命の恋」とはならない。ヤンキー同士の惹かれ合いというなら、もっとざらついた演出にして欲しかったが、どこまでもDQNな不条理劇のよう。例によってディーピカーに不満。静止画像だと﨟󠄀たけて高貴なのに、どうがになると妙に薄っぺらい。場所の設定から衣装、儀式まで全てがそれっぽく作られた架空のインドに見えた。

王の預言書(흥부: 글로 세상을 바꾼 자、2018)をオンラインで。 

韓国文化院の「韓国映画特別上映会」の第4回。劇中の「興夫(フンブ)伝」というのは実在の書物だと知った。で、また劇終後に出演者の顔を画像検索してどひゃーとなる年中行事。人気者の●●がカメオ出演と解説サイトに書いてあっても劇中の誰だったのか全然分からないとか、何度も連呼される登場人物の名前が覚えきれなくて心許なくなるとか、役職名がさっぱり分からないとか、そもそも人名を聞いて男なのか女なのかも分からないとか、あと見覚えのある顔だけど過去の映画で見た俳優なのかそれとも整形で同じ顔になってるだけなのかとか、五里霧中感を楽しむ。自分が普段見ている地域の映画を始めてみる人はこんな感じなんだろうというのを噛みしめる。「朝廷」と「王宮」が混在しているなど、字幕は多少腑に落ちない点あり。クライマックスの御前上演の踊りと歌は現代舞踊みたいでカッコいい。これまで見てきたかぎりの時代物では、王の正当性は絶対だった。悪役は全て大臣。あとなんだろ、歴史的背景などを解説したきちんとしたレビューがないかと探してみたんだけどなぜだか見つからなかった。

Chekka Chivantha Vaanam (Tamil/2018)をDVDで。 

昨日の投稿に途中で文字飛びが起きてた。そこで書いていたことを再現する。
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久しぶりに途中で止まるDVDだった。なだめながら何とか見通した。まだ感想がまとまり切れない。途中は「あれ、これシェイクスピアの翻案だったっけ?」というくらいの根源的な人間ドラマに見え、ところどころでマハーバーラタにも見え(ジャヤスダーとクンティーが重なった)、最後はタミル・ニューウェーブになった。ジャヤスダーとプラカーシュ・ラージ、アラヴィンド・スワーミがシェイクスピア的な世界を支えている。

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Chekka Chivantha Vaanam (Tamil/2018)をDVDで。 

久しぶりに途中で止まるDVDだった。なだ最後にダーは時にクンティーにも見えた。疑いなく、彼女とプラカーシュ・ラージ、アラヴィンド・スワーミがシェイクスピア的な世界を支えている。最後に全部持ってくVJSはひとりだけ「血の抗争」的なざらついた世界にいる。アルンとシンブは血気盛んで軽薄な若いのという役どころなんだから薄っぺらくても構わないのだが、今一つ。これをファハドとドゥルカルでやっていたらどうなっていたか。アルンの根城がドゥバイというのは、富と享楽の巷の典型として分かるが、シンブの方のセルビアというのはロケの都合意外に必然性があったか。なんか寒々しい。ジョーティカは悪くないけど、もう少し鉄火なシーンがあってもよかったと思う。極妻軍団は気の強さというのはあっても、あまり内面的な肉付けはない。スリラーではあるが、最後のあれ以外にはどんでん返しはない。アクションシーンもあるが、銃を向けられた人間はやはり死ぬし、奇跡の脱出とかはない。あくまでも人間ドラマ。ARRのソングは驚くほどに引っかかりなく何も残らなかった。

Perumaan (Tamil/2012)をYTで。 

奇妙な体験。Speedの公式動画は字幕なし。Indian Movies With English Subtitlesなるチャンネルに英語字幕付きがあるが、なぜか音声が無関係な映画のものになっている。IMWESから字幕データをDLしてSpeedの動画に被せたが全く同期せず。しかたなくDLした字幕テキストをタブレットに表示して横眼で追いながらSpeed版を見るという変則に。それにしても誰が何のためにIMWES動画のような妙なものを作ったのか。1:47しかない作品ながら、ソングはいっちょまえに4曲ほど入り、一曲などはシンガポールでロケしている。ストーリーはありがちな若者と犯罪との間の緩く、付かず離れずの結びつきを描いたもの。犯罪は思いもよらず簡単に成功し、その後の場当たり的展開によって若者が揺れ動き、良心の呵責と新たなる犯罪の誘惑とがせめぎ合う様子を微かなシュールレアリズムを交えて語る。タイトルはシヴァ神の意味で、ソング中にもシヴァの名が繰り返されるが、あまり意味は分からない。アルジュン・ダースは顔と声の立派さと体の貧相さとがアンバランス。

朝鮮名探偵 鬼<トッケビ>の秘密(조선명탐정 흡혈괴마의 비밀、2018)をオンラインで。 

韓国文化院の「韓国映画特別上映会」の第3回。『朝鮮名探偵』というシリーズ物の3作目だという。韓国時代物なので、鑑賞後に恒例の俳優名の画像検索をして「うそマジこいつが?」をやった。連続ものなのでいわゆる「お馴染みキャラ」が確立されており、ゆるいギャグにも殺陣にも安心感が漂う。祟り+ヴァンパイア+宮廷陰謀+推理で、まあ後半に入ると結末は大体見えてくるのだが、ギャグとセンティメントとを交えながら見せるものになっている。こないだの「王と道化師たち」でも思ったけど、厳密な時代考証に拘るよりは21世紀の欧化した現代の視点(微妙な西欧ホラー風味とか)も適宜入れ込み、楽しさを追求したものになってる。資料:twin2.co.jp/catalog/%e6%9c%9d%

Kettyolaanu Ente Malakha (Malayalam/2019)をオンラインで。 

昨日のTGIKを見てはたと気づいたんだが、ここのところのマラヤーラム映画ではミソジニー批判の作品がやたらと目立つ。Kumbalangi Nightsみたいに大ヒットしたのもある。それで本作が思い出されてやっと見た。図柄だけ見るとほのぼの田舎コメディー風、だが実際はドメスティック・レイプを扱うというので。これは凄い、途中3分の2ぐらいまでは傑作の予感に打ち震えてた。主人公が自然の中で覚醒するシーンで最高潮となり、その後失速。よくあるラブコメのハッピーエンドパターン(別れが見えて愛を悟る)に落とし込まれ、モラル的にも問題のあるエンディングに。カップルが受けたカウンセリングを描写しなかったのも気になる。ただ、アーシフ・アリの演技者としての覚醒ぶりにはこちらの目が啓かれた。田吾作であるが社交的、一方でインド男にありがちな極度の鈍感、マザコン、潔癖症、などなどの側面を見事に一つの人格にまとめ上げて演じた。見た目にも、臆病で繊細な青年と角刈りの農家のオッさんとが明滅して、目が離せないものになっていた。

映画も特定地域のものをかれこれ20年も見てると、 

個々のストーリーはもちろん気になるけど、その地域の映画界のより大きな集合的な物語として見てしまうというのはどうしてもある。

The Great Indian Kitchen (Malayalam/2021)をオンラインで。 

パワフルで、ヒリヒリとして、タフで、ハードコアなファミリー映画。ミソジニー批判が大爆発のメッセージ作品で、見事な出来だが、好きかと言われると全く宜えない教育的ドキュメンタリーに似た一本。この数年、マラヤーラム語映画で特に目立つtoxic masculinity批判のテーマ。Kumbalangi NightsやIshqなど秀作も多い。それだけ男性の側にも疲弊が募っているということなのか。家事労働マシーンとしての単調で過酷な昼と、セックスマシーンとしての同じく辛い夜の繰り返し。OTTリリース前提だったのかインターミッションに当たる部分がない。ただし後半に入ってシャバリマラ巡礼のモチーフが加わることによって一気に政治性と社会性が加わる。撮影はヒロインの背後に貼りつくような徹底的なリアリズム。開始間もなくの旨そうな料理の数々がやがて食べ残しと詰まるシンクと汚水溜めに取って代わられ、その臭気が感じられそうなほどになる。超保守的な人々の間にもFacebookが広まり、監視ツールとなっていことなど痛烈。

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