もっと見る

Don (Tamil/2022)をNTFLXで。 

もう二度と見ないつもりでいたのに、事情あって再見。劇場初見で字幕が追いきれなかったところは少し解明したが、安いものを見せられたという感想は相変わらず。特にブーミナーダンのキャラの突然の変貌は意味が解らない。打ち所が悪くて突然いい人になったという解釈しかできないが、シリアスになる展開の中でそれはないだろう感が満載。ブーミナーダンと父のキャラクターをパラレルに並べて語ることを意図したからなんだろうが、単なる思い付きの範囲を出ず、効果がない。専制的に振る舞う父親が実は慈愛に溢れながらも不器用でそれを表現できないというパターンは、Ozhimuriでもあったが、本作でのそれは後だしジャンケンが過ぎる。親に行き先を決められて窒息する子供の悲哀と、身を粉にして働き子供に教育を受けさせようとする親の犠牲、それに規律ばかりを求める硬直した教育、3つの相容れないテーマのコンフリクトは、父の死と主人公のとんとん拍子の成功によって棚上げされてしまい、本質的な解決を見ないままにセンチメンタルな洪水によってあいまいにされて終わる。演技が素晴らしくても後味は良くない。

大好きだから(사랑하기 때문에、2017)をオンラインで。 

韓国文化院提供の映画特集で。コメディーと銘打っているけど、フィールグッドなロマンス。交通事故で幽体離脱した男が、記憶をなくして様々な人間に乗り移ってしまい、乗り移った先の人間の愛を体験するというファンタジー。妊娠中の女子高生、妻と離婚協議中の警察官、冴えない大食い教師、認知症の老婆、これら人々に乗り移り、それぞれの愛の物語に関与するうちに、少しづつ記憶を取り戻していく。次の乗り移りで友人の体に入り、自分が交通事故で意識不明のまま入院していることをやっと知る。事故前にプロポーズする直前だった相手の女性が歌手としてデビューするのを、友人の体を借りて助けて成功させる。しばらくして成功した女性がステージで歌声を披露するステージ、客席には体を借りた人々全員が来ていて、彼の姿も見えるが、その笑顔には不思議な光が射している。認知症の老婆が、昔彼女に嘘をついて恋人との間を引き離して結婚したことを悔いる夫を許して言うセリフ「あなたとは縁があったから結婚したの」、末期の主人公の頭の中での「君のせいじゃない、これは運命だったんだ」に東アジア的運命感。

Nna Thaan Case Kodu (Malayalam/2022)をオンラインで。 

繋がりが悪く2回に分けて。久しぶりのマ映画、しかも法廷ものに脳みそがついてくのが大変だった。コソ泥としての前歴のある男が、MLAの屋敷に疑わしい状況下で転がり込み、番犬に咬まれて大怪我をしたが、逆に家宅侵入と窃盗の疑いで起訴される。だが男は無実を主張し、逆に敷地内に入ったのは路面の陥没でよろけたオートが向かってきたための咄嗟の避難だったと主張、陥没を放置した公共事業大臣の責任だとして反訴し、同大臣を被告にして同時に審議する、という回りくどい話。典型的なロウワーをクンチャーコ君が見事に演じるのを見るのは複雑な気分。訴えられた大臣が属する与党は共産党系、しかし反骨の気概に満ちた裁判長は構わず法廷に召喚して、裁判の場でも特別扱いしないという点が強烈な印象。しかし村の祭りで周りの目も構わず勝手にトランスダンスするややヤバめのおっさんが途中から賢くなっていくのは分かるような分からないような。ケーララのおっさんというのはそういうものなのかもしれない。思わせぶりに挿入されるガソリン価格の推移には意味があったのか。

Qala (Hindi/2022)をNTFLXで。日本語字幕付き。 

プレイバックシンガーがヒロインと聞いて芸道ものを期待したが違ってた。芸道もの的要素を含んではいるが、サイコスリラーだった。メンタルヘルスの異常を放っておいてはいけないという今日的教訓と、悪事は必ず我が身に返ってくるという古くさいモラル説話とを含むメッセージ映画。しかし映像作家は全編を象徴的で耽美的な映像で埋め尽くすことに惑溺しているように思えた。毒親、男尊女卑、映画関連業界の中でのセクハラ構造、芸能カーストの閉鎖性などなどが盛り込まれるが物語はごく単純。女性の衣装などから1930年代と分かるが、当時の劇伴歌手の地位は憧れるようなものだったか疑問。舞台はヒマーチャル・プラデーシュで、ヒロインはトゥムリーの歌い手の家系。独特の装身具と衣装が気になった。ライバルのジャガンに打ち勝つ前のシーンで、洋装で幻想的なダンスが繰り広げられるソングがあるが、きわめて不穏な感情を掻き立てるもので、全編を象徴していた。陶酔的なトゥムリー、コケティッシュな映画ソングなどが素晴らしい。ディープティー・ディムリーのスレンダーさ、バービルの生っぽさ。

エクストリーム・ジョブ(극한직업、極限職業、2018)を韓国文化院で。 

5人の男女からなる落ちこぼれの麻薬捜査班が、外国から戻ってくるという麻薬王の逮捕のためにアジトの対面にある食堂で張り込みをするが、その食堂が暖簾を下ろすというので自分たちで買い取って経営者になったところ、店が繁盛しすぎて大騒ぎというコメディー。コメディーであることを第一命題としてドンとおっ立て、それにより血腥い殺人は一切描かないという筋の通り方。その上でどこまでハチャメチャなおかつスリリングにできるかということになるが、職人芸的な手腕でまとめられていた。笑える登場人物は多いが、麻薬王イ・ムベの下にいた中ボスの顔が非常に印象的だった。俳優の名は分からず。イ・ムベのボディーガードのソニというキャラクターも強くて大変良かった。「水原のカルビのタレ味フライドチキン」の絵面は垂涎で、レシピを再現したくなった。一方で対立するボスであるはずのピザ屋のテッド・チャンというキャラクターの面白味はよく分からなかった。ラストのボートの上での格闘はやや引きずり気味でクライマックスにはふさわしくないように思えたが、何かの引用だったのだろうか。

Devdas (Hindi/1936)をYTで。 

とある研究会聴講の事前学習として。英語字幕付きだが音声がところどころ途絶える。30年代トーキー作品を見るのは3、4本目になるか。最初に観たMala Pilla(Telugu/1938)もそうだけど、ほとんど書割を使用しない屋外撮影のシーンの多さに驚く。ストーリーは淡々と進むが、デーヴダースが最初の一滴を口にするシーンが見当たらない。いつの間にか依存症になっている。これまでの全バージョンを見て思ったのだけど、必死の思いでデーヴダースの寝室を訪れるパロを拒むデーヴダースの心の動きがよく分からない、怯懦なのか傲慢なのか。そしてそれを悔いてパロを思い詰めるようになる転換点もよく分からない。確か原作もその辺りは曖昧だったと思う。女性俳優は皆大変にやせていて、棒きれのように見える。パロとチャンドラの区別もつきにくい。妓楼の客は退廃した都会人士という設定だが、フリークス性の高い人物が混じっていたのが気になった。曲のリストは分からないが「クリシュナは来ない/黒い雲はそこに」というトゥムリ風の楽曲がよかった。一部しか残っていないというベンガル語版も見たい。

Dishoom (Hindi/2016)をオンラインで。 

典型的な2010年代ボリウッド娯楽作。スルッとしたのど越しで胃もたれしない作り。しかしこれよく考えてみたら、主人公二人がムスリムで舞台が中東で、珍しいくらいなムスリム・ソーシャルだわな。しかしそういうことをほとんど感じさせないセキュラ―な造りになっている。架空の無法国家アブディンでの礼拝シーンでのみ、若干の宗教的センティメントが現れる。アッキーとナルギス、パリニーティの登場はそれ者ならばおおと受けるところなんだと思う。アッキーの御団子髷のオネエというキャラには何らかのネタ元があるのかどうか。意味不明だけど、作中の有名人キャラとセルフィーを撮る時の仕草が妙に印象に残った。まあしかし、売れない役者を使って狂信的パ・サポーターの狂言をやるというプロットには若干無理がある。ただまあ、悪者パキスタン人を一切出さずに愛国メッセージを押し出す脚本はクレバーだと思った。ソングは例によって品がなくて聞いてるそばから忘れて行くようなものばかり。クライマックスのヘリと4WDのチェイスシーンなど、変にもたもたしていて、アクション映画としては小ぶりな印象。

Cobra (Tamil/2022)をオンラインで。 

典型的な悪徳青年実業家が気に入らない者をドカドカ白昼に暗殺していく。その実行犯は新聞の数独を通じて指令を受け取り、巧みに変装して殺しを行う。犯行と同じタイミングでインターポールを始めとした機関のコンピュータがハックされる現象も。一方、チェンナイでは地味な数学教師マディに対してソーシャルワーカーのバーヴァナが結婚を求めていたが、彼は応じようとしない。しかし観客には彼が刺客であることは分かっている。次の標的はロシアの国防相。このあたりまではImaikkaa Nodigalの監督らしい、大雑把ながら緊迫したいい感じに持ってきていたけど、主人公が双子の片割れであることが明かされ、回想が始まるところからズッコケ。若い頃を演じる俳優が全然似てない。息子のドルヴを持ってこられなかったのか。現在に戻り双子が対決するシーン以降、一々メモを取らないとついていけないほどの入り組み方。唯一の識別子だった髪型も途中から一緒になってもう滅茶苦茶。故人や過去の自分の幻影が集団で現れるシーンは面白い。AnniyanやDasavatharamを意識している異形の怪作。

Idharkuthane Aasaipattai Balakumara (Tamil/2013)をYTで。 

気になっていたが無字幕DVDしかなく、放っぽらかしだったがやむを得ない事情から、ネット上の字幕データ(word)をDLしてチラチラ眺めながらの鑑賞。だらしない無職男と、エゴイスティックなホワイトカラーの男とが、無関係空間でそれぞれトラブルを抱えながらじたばたしているうちに、とある交通事故がきっかけで接点ができ、ホワイトカラーが無職を必死で探すことになる。そこに職場や市井の個性的すぎるキャラが絡み合ってストーリーが大渋滞になるドタバタ・コメディー。中には凶悪犯罪に手を染めた者もいるが、基本的には全員マヌケ。ハイテンションで脳みそ空っぽのVJSを楽しめるかどうかが評価の分かれ目。VJSがおバカを繰り広げる舞台はどうも北チェンナイの団地のようなのだけど確証が得られず。以前に「ハイパーリンク・シネマ」について「人々がそれぞれの事情でバラバラに営む生活の、不規則で無秩序な分子運動の中で偶然が連鎖し、まるで神の手によるかのようなストーリーが生まれる」と書いたことがあるが、これはかなりユルユル。

Kantara (Kannada/2022)をスキップシティで。 

まさかの4回目。また字幕で初めて分かったこと。1970年代の場面で若い地主が「今喋っているのはダイヴァなのか憑子なのか?」と失礼な問いをするのに対し、「憑子の言葉なら彼と再びまみえよう。ダイヴァの言葉なら再びまみえることはない」と言ってから森に消えるところ。これは地主がグルに言う「ダイヴァは数分だけ、その後は憑子」に対応する。例の哲学的な銃刀店のヤク中男はマハーデ―ヴァン。シヴァと彼ががラリッて刺客をなぎ倒すパート、クライマックスへの序曲として秀逸。部族民への接触の禁忌に関してもう一つ見つけたのだけど、もう思い出せない。問題の音楽はラストだけじゃなく冒頭でも使われてた。あれがないと締まらない。それ以外の楽曲も本当にしみじみといいのに、盗作疑惑は痛恨。アチユト・クマールは好々爺すぎる印象も所々にあるが、グルの下手人を尋ねるシヴァが「あんたが」と叫んだ瞬間はよかった。倒れたシヴァにダイヴァが寄り来り乗り移るところ、地主の手勢が箱乗りで夜道を走るところ、全てが美麗。憑依のシーンでポン菓子を食べるところはギリギリでコメディー回避。

Kadhal Kottai (Tamil/1996)をオンラインで。 

近年の某作品に引用されていたのが気になって字幕がないけど見てみた。画面に集中したせいもあってタミル語が聞き取りやすい。脚本を架蔵していことも思い出したので聞き取りチャレンジをしてみたい。冒頭いきなり本編とは無関係な男女ダンサーによる抽象的な「愛の舞」このあたりに時代を感じる。恥ずかしいことこの上ないのだけど、一方で懐かしさを感じてもいる。文通だけで相思相愛になった男女が、そうとは知らずに現実で出会っても認識できないばかりか、女の方は男を毛嫌いする。このツイストをもっと掘り下げて欲しかった面はある。最後は手編みのセーターのおかげできれいにまとまるのだが、そのセーターのデザインもまたモッサリしてる。しかしそれを着用したラストシーンは、今日の用語で言うところのミームとなっていることが分かった。タライヴァ―サル・ヴィジャイが気のいいオートドライバー役でするのは如何にもだが、まるまる1曲運ちゃん群舞ソングで先頭に立って踊ってるのには吃驚。タミル語映画でこれまでに何回見たか分からない「あのバス停」が出てきてどこなのかが気になった。

群盗(군도: 민란의 시대、2014)をオンラインで。 

韓国文化院提供の映画特集で。「屠畜人は蛮族の子孫、奴婢も同然」「殺傷とは弥勒のご意志で哀れな民を救うために行うもの」「命より髪と髭を重んじた朝鮮社会で髷を切り落とすので女真族の子孫と噂された」「智異山のチュソルは九月山のモクタンソルと並び100年以上の歴史を持つ朝鮮の代表的な盗賊で義賊の誇りを持っていた。群盗と呼ばれた彼らは世の中に絶望していた」などなど勉強になるチップスが沢山。普段は韓流俳優の名前を覚えまいとしているのだがカン・ドンウォンの芝居と剣戟には強い感銘を受けたので記録しておく。あり得ないズルズルの衣装での殺陣での衣捌きと奸智冷酷の芝居が凄い。無敵の武官であるのだが、悪役性はむしろ地主としての貪欲さにあり、守られる嫡子も王族とかではないのは時代性か。不正と差別に満ち満ちた社会への強い批判があるにも関わらず、娯楽アクションであることに自覚的な作劇と音楽。ガトリング砲も出てきて吃驚。「マカロニウエスタンの古典『怒りの荒野』(1967)のスコアを引用」というのはこのレビューで知った。ex.star-ch.jp/special_article/

すずめの戸締り(Japan/2022)をイオンシネマ海老名で。 

新海作品を映画館で見るのは初めて。本作もまた3.11傷痕文学。宮崎、愛媛、神戸、東京、宮城と地霊を鎮め、常世を覗きながら遍歴する男女(ただし男は異物)の物語。本作もまた圧倒的な天空の描写で魅せる。しかし平板なアニメ絵の人体、というか顔の描写とのギャップが相変わらず。入道雲、浮揚する気圧の力、成層圏のプリズムの煌めき、パラシュートのないスカイダイビングのイメージ、などなどは前作『天気の子』の方がより目覚ましいものだったかもしれない。「鎮め」と「悼み」の物語としては、非常にシンプルで分かりやすい。『君の名は。』からの3作は、明確に民俗学作品と定義されていることを知る。第1作の民俗は取ってつけた感があり飲み下せなかった。第2作は、滅びの形象に震えた。そして本作はアポカリプス後と定義されるとのこと。アポカリプスの後も人生は続いていく。3.11を経験していないと味わえないとの批評もあるが、あれを体験した1億に近い人間に届けばそれは大したことではと思う。最近某国映画で受け手の属性により評価が全然違うものを見てモヤモヤしていたのもあって。

Master (Tamil/2021)を新宿ピカデリーで。 

FDFS。邦題は『マスター 先生が来る!』。ローケーシュ作品はお洒落でダークで、目の悦楽なんだけど、ストーリー理解は本当に難しい。本作を何度見たか覚えてないが、今回初めて分かったのは、JDの心理学の講義で学生にくるくる回ったりさせる恥ずかしいの、あれが学生会長選挙の後のグーンダの乱入シーンで生きてくるところ。少年院収監者の中に『囚人ディリ』のディーナーがいることもやっと確認。まだ不明なのは、終盤でバワーニが少年たちをトレーラーで移送するところ(それは分かる)で、同時にコンボイを組んで何らかのブツを移動する、これがよく分からなかった。それから「この映画は18才未満入場禁止、警備員が見張ってる」から「俺には無数のファンがいる」まで、JDが素のヴィジャイになる1分ほどがあって今更な驚き。これまで何を見てたのか。例のbiographical reference、「楽屋落ち」と訳すと意味が失われる。こういう作劇上で滑らかじゃないものを残したのがいい。髭を剃られながら怒ってるアルジュン・ダースが可愛い。髭ナシの方が男前なのに気づいていない。

Karishma Kali Ka (Hindi/1990)をYTで。 

先日のChhello Showの劇中映画と知り。2時間ちょっとしかなかったが多分トリミングされている。これが90年でAmmoruが95年、えらい違いだな。そしてJai Santoshi Maaが75年。本作までの間の15年に何があったのか探求しなければならない気分になる。レイプされ、殺人の濡れ衣を着せられた女性の復讐譚で、ほとんどホラーの手法。神々しさの演出はほとんどない。彼女の復讐を助けたと見えたタントリが、実は生贄を求めているだけだったというのは捻ったオチ。傷つけられた女性と装身具を盗まれた女神とが重なる。ディヴォーショナルソングは冒頭とエンディングで使い回しか。ショットガンのためのでれでれラブソングが2曲もあって邪魔くさい。悪役が催す酒宴でのアイテムソングをヒロイン自身が踊る(露出は少な目)のはいいが、曲名がInsiallahでバックダンサーがアラブのガトラを出鱈目にしたものを着用して、罰当たり極まりない(ソングとしてはこれが一番出来がいい)。CBI捜査官のヒーロー(一応)が体現する法の正義と女神の正義との対比。

Bang Bang! (Hindi/2014)をオンラインで。 

頭からっぽで楽しめるものと思ってたけど、予想以上に時代を感じさせるものだった。100カロール・クラブ競争が軌道に乗った頃の得意絶好調のボリウッド作品ではあるが。ファッションCMかMPVみたいな軽薄なイメージが、まさにそのために生まれてきたような2人によってフレームに収まる。アクションは確かに激しいものだけど、繋ぎがイマイチで華麗な飛翔感はない(RRR鑑賞後だと何でもチャチにみえるのかも)。パスポートもなく世界中を行き来するリードペアのご都合主義にはサウス映画も青ざめる。カトリーナのアクションシーンの熱演は相変わらず見上げたもの。そしてビキニになっても帰国子女特有の自然体(インド女子の場合、全身にこわばりがある)。当時の現地レビューはかなり悪い。もともと半端な原作をリメイクがさらに支離滅裂にしたと批判している。一方で日本人のレビューはどれも高評価で驚く。世界を股にかけた珍道中の転げるような疾走感がどうも感じらず、それに関しては『タイガー 伝説のスパイ』のほうが上と思った。コヒヌールを盗み出すとインドでは英雄扱いというのが発見。

Korangi Nunchi (Who will marry Thomas?)(Telugu/2021)をオンラインで。 

Indic Film Utsav2022で駆け込み鑑賞。Muthayyaを見た後だったので、映画らしい映画に見えた。舞台はAP州のどこか(おそらくはアラク渓谷)の小集落でバスの終点。部族民でクリスチャンの女性が切り盛りする茶屋。息子トーマスは適齢期になっても独身で、特に慌てることもなく暮らしているが、周りが結婚させようと大騒ぎする。長女は夫と暮らしているが、2人とも街に憧れている。血縁ではない(この辺りが不明)が共に生活している少女ラジは、バス車掌の色男イブラヒームに色目を使われ、これはマズい展開だと思っていると、当人もまんざらではないことが途中で分かる。部族出身者でも街に出て暮らしている者と山に留まる者の間では微妙に地位が異なるらしい。ライフラインのバスの便が廃止になることで、まとまりかけていた町の娘との縁談が破談となる。撮り方が違えば悲壮な家族離散の記録となるところだが、アルチャナおばさまのどっしりした存在感で力強いままで終わる。バンブーチキン作りのシーンが垂涎。

Muthayya (Telugu/2022)をオンラインで。 

Indic Film Utsav2022の最終日になって知り、慌てて鑑賞。テランガーナ州南部のチェンヌールという寒村(APとの州境、ヴィジャヤワーダが最寄りの都会)に住む60歳ほどの男の映画出演への見果てぬ夢を描く。映画館でかかる映画とYTなどのビデオは対立するものと見做されることが多いが、ここでは映画への夢をかなえるものとして登場する。全体に素人臭い造りで、据え置きカメラでずっと撮った感がある。ジミージブもドリーもクレーンも全く使ってないんじゃないか。それを補って余りあるのが静かで涼しげに見えさえする村の風景。緑に溢れているのに全体的に曇天下で撮ったようなクールな画面。これを撮りたくて映画を作ったのではないかとすら。途中の劇中劇でのダクシャの芝居は秀逸。俳優の口説だけで聴衆が魅了された村芝居の伝統はこのようなものかと分かる。しかし118分という通常のテルグ語映画と比べれば短尺なはずが、妙に長く感じられたのは確か。昔爺さんが手持ちの金をかき集めて出て行ったのはHYDじゃなくマドラス。早く出演したのは『ムトゥ』というのが何とも。

Natchathiram Nagargiradhu (Tamil/2022)をNTFLXで。 

168分の長編。止むを得ない事情で前半後半を数日開けてみることになってしまった。前半の印象はパッとしなかった。お洒落なポンディが舞台。演劇人グループの群像ドラマ風。白人、黒人、トランスセクシャル、ゲイ、柄物のクルタ着たインテリ演劇人などが高尚な芝居を作るために集まって、高尚な会話をしながらリハをして、一方若い男女はフワフワと自由恋愛でくっついたり離れたりしている。そこにやってきた異物としての俗物アルジュンが本当にイタイい。完全にデタッチで折り返し。ランジットもこんな思弁を弄ぶ方向に行ってしまったかと思っていたら、後半で完全にひっくり返し。上位カーストのアルジュンの結婚式に至る描写で吹いた。また謎の白衣の悪役のインパクト。そして、クライマックスのステージでの火柱。「演劇はリアリズム映画とは違う、希望を指し示さなければならない」というコンセプトで寝られた芝居の冒頭のダンスは本当に美しい(映画だから撮れる美しさでもあるが)。しかしそこに異物が侵入して、その美が破壊されることによって何かが完成したのだ。

Chhello Show (Gujarati/2022)を試写で。 

英題Last Film Show、邦題「エンドロールの続き」。零落したバラモンの家の男の子が映画に魅せられていくさまを描く。全体としてこの子は映画作りよりも映画上映に魅せられているのだが、ショッキングで厳しいイニシエーションを経て映画作りに向かっていくのだろうというラスト。あのトラウマ体験をポジティブに咀嚼するというのはまさに若いインドの底力としか言いようがない。リアリズムからシュールリアリズムに飛躍する美しくも無残なあのシーンは、『人間機械』を思い起こさせた。サウラーシュトラの自然と風物もたっぷりで、当たり前のように登場するライオンの群れに吃驚。シッディのキャラクターが2人も出てきた。鉄道を使って釘を矢尻に加工する野生児が、映画に魅せられ、自然の中でと同じく傍若無人に振る舞おうとして矯められ、やがて進むべき道を見つけて歩み出すという物語。芸術フォーマットだが、続編を作って欲しい一作。鉄道のゲージ転換が映画のフォーマットの転換とパラレルに語られる。カーストは無関係、夢をかなえる手段は英語しかないというのは、むしろ希望か。

もっと見る
映画ドン-映画ファン、映画業界で働く方の為の日本初のマストドンです。

映画好きの為のマストドン、それが「映画ドン」です! 好きな映画について思いを巡らす時間は、素敵な時間ですよね。