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Maadeva (Kannada/2025)をオンラインで。 

不幸な生い立ちから人間らしい心を持たずに成長し、死刑執行人となった男が、受刑者の肉親の女性とかかわりを持つことにで徐々に感情を取り戻し、幸福をつかむが、それは長くは続かなかったという話。それなりに評価されているようなのだが、古臭すぎる。そういうキャラ設定のものなら、『Pithamagan』という金字塔があり、『Anatharu』としてカンナダ・リメイクもされている。死刑執行人の物語としては、性格は違えども『Nizhalkuthu』という繊細なものがあった。あと、中途半端に神話と結び付けたエピソード。ムルデーシュワラの者と思しきシヴァ神像が何度も写るが、主人公の怒りを表しているだけ。牛が線路に立ち入ったのをどかせるエピソードは何のためだったのか。アッバラゲレ村はシモガ県に実在するが、あの鉄道はバンガロールとタルグッパを結ぶものという設定か。マーラシュリーのカメを出演は文句なしのカッコよさ。それ以外にも悪役のシュルティとか女性キャラが充実している。しかしそれだけにヒロインが型にはまった「冷蔵庫の女」パターンであることが惜しまれる。

Veera Chandrahasa (Kannada/2025)をオンラインで。 

予備知識なく、アクション映画のクライマックスを神話っぽいタッチするために箔付けでヤクシャガーナがトッピングされるのかと思って臨んだら、斜め上行くガチのヤクシャガーナ映画で、伝統衣装・伝統演目をプロの役者(一部に映画俳優も)が演じるのをアニメやCGを交えながら撮ったものだった。映画的洗練には欠けるものの、舞台の正面にカメラを固定して撮った記録映画ではない。ちゃんとドラマとして面白く撮ってあって、2時間半も一気見できた。ただし音声はあまりよくなかった。スタジオではなく同録だったのかも。現地では誰もが知っている話だからか、筋の飛躍や人名の分かりにくさなどはあった。そしてパート2の予告も末尾にあり。ラヴィ・バスルールが過去に何作か監督をやっていたとは知らず、またクンダープラ出身だったことも忘れていた。曰く「ヤクシャガーナを世界に広める」という目的で内容に妥協することなく製作したとのこと。その割にはラージクマール家ハコ推しだったり、「母なるカルナータカ礼賛」が入っていたりするが。パラシュラーマのイメージが気になった。

Elumale (Kannada/2025)をオンラインで。 

2004年を舞台にセーラム出身タミル人富裕家庭の女子とチャーマラージャナガル出身の孤児のドライバー男との恋愛とその逃避行を描く。二人はマイスールで出会ったので女子のほうがカンナダ語も喋れる。しかし少なからぬタミル人が登場してタミル語で喋るのでカンナダ語の字幕がつく。男は駆け落ち決行の日もウーティーに行く行楽客にチャーターされていて、帰りが遅くなり、しかも途中の山道で猪をはねてしまうトラブルで、恋人と合流できない。女子は仕方なくセーラムからММヒルズ行きバスに一人乗る。追う親族、そして同じ夜にММヒルズ森林からスリランカに渡ろうとする人物、それを支援する元LTTE、暴力的な警察官、特殊部隊隊長、これらの人々の運命が夜の大森林で交錯する。遠くチェンナイで電話を待つあの人も。ハイパーリンク映画だけどお洒落では全くない。『尋問』で見たあれ、『囚人ディリ』で見たキャラ、『Kaadhal』で見たプロットがあるが独創的。2023年に建立されたマハーデーシュワラ像がタイトルロールに現れるがそれ以上の神懸かりはなし。地名をいちいち追いたくなる。

Agnyathavasi (Kannada/2025)をオンラインで。 

ヘーマント・ラーオのプロデュースということはただものじゃないと予感。謎めいた導入部がかなり長く続く。時系列は行ったり来たり、繰り返したりで、ちょっと思わせぶり過ぎると思えた。ストーリーラインが単純すぎなのをごまかそうとしてるかのよう。1997年のクールグの村で起きた殺人事件。タイトルの意味は「囚われの人」というあたりか。突っ込みどころとしては、ローヒトの動機が分からなすぎる。散乱した書類から遺言作成と判断して、アルンが帰国するのを阻止しようとして犯行に及ぶが、結局帰国を早めることになるんじゃないか。薬剤と注射はネットで調べてどこで買ったのか。それから、スーパーな毒草のことを希死念慮のある親が知らず、子供だけが知っているとか。まるで八百屋お七だと思いながら見ていたヒロインを演じたパーワナ・ガウダはよかった。2000年問題という単語を久しぶりに思い出した時代設定。パソコンが起動して、インターネットにつながった時のトキメキの描写に涙。BGMはところどころ調子外れだった。インスペクターはこれからも罪を背負って生きていくのか。

Bad Girl (Tamil/2025)をオンラインで。 

話題のガールズムービー。チェンナイのロウワーミドルのバラモンの家に生まれ、勉強ができない女の子が32歳になるまでを描いた“Coming of Age”もの。ロウな語り口は心地よいが、共感があるかというとそれは別。まず、異性遍歴以外がほぼ描かれていないので、ヒロインが何をしたい人なのか分からない。ほんの一瞬だけグラフィックデザイン系の職場に勤めているらしい画が現れるが、勉強が嫌いな子がどうやってそこにたどり着いたのかがもう少し描かれないとリアリティーがない。そもそも複数の異性と恋をしてだんだん大人になり、人生の伴侶を見つけたり、独りで生きていく決意をしたりというのは、欧米や東アジアではごく当たり前で、タミルでそれをやることにどれだけの価値を見出せるかが評価の鍵であるように思える。それよりも、避妊をしないとか、猫の多頭飼いにはまるとか、感情の暴発をしてしまう危うさを、ヒロインの魅力として描けたのかというのが引っかかる。「不思議少女」とは上手い言い方だけど、インド人に通じるだろうか。ごく一部の批評の実が「ナルシシズム」を指摘していた。

Choo Mantar (Kannada/2025)をオンラインで。 

シャラン主演のホラーコメディー。そもその何でこれをリストに入れたのかも分からないB級作。主演するシャランは初めて見たかも。主演男優が色々おかしなことをして笑わせるのかと思ったら、当人はいたって真剣に沈痛な面持ちのヒーローを演じていて、ただもう痛い。冒頭など、仲間3人組を従えたラスベガス風ダンスまでやっていてひっくり返りそうに。突飛もない行動をしているかに見えて実は裏の裏まで読んでいる憑きもの落としというキャラクターならラメーシュ・アラヴィンドが適役だっただろう。雪に閉ざされたヒマーチャルの高地の英国統治末期の洋館で強欲から身を滅ぼした現地妻の怨霊が祟るという設定。実は因縁の近過去の物語が織り込まれていたとか、憑きものが憑いてるのは少女ではなかったとか、“その家”がデュアルタイプだったとか、どんでん返しはまあ面白いけど、ダラダラしすぎだし、お宝ハントという設定も弱い。そうは言っても2回ある女性への憑依のシーンは力を入れて撮られていてそこはよかった。しかし調伏の怪しげな儀式を加え最後にハヌマーンを登場させるとかはやりすぎ。

「鯨が消えた入り江」BDの発売自体は個人的には無関心なんだけど、〈通常の字幕とは異なり登場人物たちのセリフをできる限り省かずに翻訳した“まるわかり日本語字幕”を収録〉というのが気になる。
natalie.mu/eiga/news/646749

Junior (Telugu/2025)をオンラインで。 

カンナダ・テルグのバイリンガルだけど、本籍はカンナダらしい。バッラーリが地盤のBJP政治家・鉱業バロンの息子のデビュー作。その辺りの事情を知らずに見たので魂消た。テルグでフロップ、カンナダでは興収第5位につけてるけど、チケットのばら撒きでもやったんじゃないか。3分の1ほどはストーカー型求愛を含むカレッジ青春もの、次が村のアドプトで都会の若いIT屋が田舎の農民に教えを垂れるプロット、ラストが御涙頂戴の父子もの。キリーティはパルクール的アクションをこなし、ダンスもキビキビ踊るが、それ以上のものは何もない。ジェネリヤの復帰は目を引くけど、ミスキャストというか設定ミスというか。シュリーリーラはヒロインだけど、途中から存在を消して、アイテムソングでギラギラになって登場する。よくこんなのを受けたな。ラヴィチャンドラン演じる父はエモーショナル要素の核となるキャラだけど、そのセンティメントの行き先が、実の母、妻、娘に分かれて不発。歳をとってから授かった子供が恥だとか、古臭い価値観をそのまま肯定するようなもの。スマホ音痴の農村などというのもどうか。

Kantara: A Legend Chapter-1 (Kannada - 2025)をオンラインで。 

と形容される。リシャブはヒーローしぐさをしすぎとの批判も読んだが、ヒンドゥーと部族民とが互いに伯仲勢力であった時代との解釈だろうか。神にまつわる用語ではeshwar、ullaya(almighty)、Chavundi、Swami Sathyole、Varaahamoorthiとかが出てきて分かりにくい。Rudra Guligaから始まる8つものグリガの名前ももっともらしいが根拠はあるのか。祭礼の名前としてBrahmakalashaというのもあった。しかし、ブラフマーラークシャサというのには魂消た。あれで一気に雑な戦隊&怪獣映画になってしまった。PN化の悪しき影響があそこに出た。悪役の造形は素晴らしく、特に王女がよかった。明らかにPSのナンディニの面影がある。ただ、悪役に回る動機などはややわかりにくい。秘薬を作って親父を強化しリモート操作というのは何だか笑っちゃうけど。文化の盗用議論については判断できない。ヒンドゥー教が部族の宗教を取り込んで成立した大伝統だというのは否定できないから。

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Kantara: A Legend Chapter-1 (Kannada - 2025)をオンラインで。 

166分の大作、それでもやはり続き物。ただし話としては完結しており、満足感はある。ただし、カンナダ語ニューウェーブ映画として作られた前作とは異なり、最初から汎インド展開前提の本作、色々と夾雑物も多く入り、プラシャーント・ニール化した。これってLuciferと同じじゃん。まあそれはともかく、気に入ったのはいわゆる大航海時代のトゥルナードの小王国の再現。(PSみたいに)豪華すぎもせず(ウルミみたいに)モダンすぎもせず、辺境感のあるしつらえ。それから善と悪の2者の対立ではなく、カダパ族という第3者も絵の中に加えたこと。前回の批判を受け、シンクレティズムというか、ヒンドゥーと部族の宗教の融合のいきさつをフィクションとして描こうとしたようにも思える。ダイヴァの憑依は後半の半ばぐらいのところで最強出力してしまい、この後どうなるのかと思っていたら、クライマックスでは別の憑依(ちょっとPushpa2を思わせる)を持ってきた。争いの焦点はスパイスの貿易ということになり、カーンターラがシヴァ神の花咲く園

Lokah Chapter 1: Chandra (Malayalam - 2025)をオンラインで。 

ややブレードランナー的に作り込まれたバンガロールを舞台にしたスーパーヒーローものファンタジーアクション。活劇の中に古譚を薄っすら重ね合わせる作劇なのかと思ったら、伝説のヤクシがそのまま生き続けて現代に暮らしているというものだった。しかも起源にトライブの抑圧の問題があることになった。人の首に噛みついて生き血を啜る、心臓を一突きされなければ基本的に不老不死、属性を伝染させるというのは西欧のヴァンパイヤから借りてきた属性か。あどけない顔のカリヤーニが、陰のある女性と、一転しての闘士としての女性とを巧みに演じ分けていて見事。お馬鹿な奴を演じ続けるナスレンも情けなくていい。終盤のドゥルカルは、作り過ぎ、その割にはアクションが雑で感心しなかった。忍者をやりたければもっと研究せいと言いたい。全5部作の第1作で、よく分からないまま終わる要素も多いが、きっちり作り込まれた感触があり、やりっぱなし感はない。真の意味でのユニバースになりそう。現代っ子としてのリードペアにスタジャンを着せる意表を突いた衣装も。

Nanpakal Nerathu Mayakkam (Malayalam - 2022/2023)をNTFLXで。 

近年のLJP作品は見た後に解説を読み、さらに作品を見返したく(可能なら脚本と突き合わせて)なってしまう。本作も解釈・考察が山盛りで、①憑依説②夢落ち説③多重人格説など。タイトルが「午後の夢のように」と英訳されたこともあり②が有力だが、直訳は「白昼のまどろみ」だ。自分は①と、劇中登場人物が言っていた「芝居してる」説の中間をとりたい。純粋な夢落ちなら、スンダラムの家族や隣人のリアクションなどスンダラムの関与しえない第三者の描写をあそこまで細かに描かないはず。主人公は何者かに命じられるままに、24時間近い時間を別の人格を演じていたのだと思う。命じた何者かの目的は分からない。主人公は役になりきって完璧に演じたが、自分を認めない隣人など現実との齟齬により苦しむことになる。午睡から醒め、幕が下りたことを知った瞬間、彼はそそくさと舞台衣装を脱いで帰路に就く。劇中では映画音楽や名台詞が流れ続け、運転手は「人生は芝居」と嘯き、ラストではダメ押しで「Oridathu」 (ある場所で) とある。

Churuli (Malayalam/2021)をオンラインで。 

TIFF以来。2回目以降は理論武装してから見るべき。冒頭のアニメで語られるバラモンと彼が頭に載せた籠とセンザンコウの古譚、あれはリジョーからの精いっぱいのヒントだったわけだ。お尋ね者捕捉のため身分を隠しチュルリ村に来た2人の警官が、奇妙な村人たちに翻弄される。2人のうち、特にお人好しの巡査はだんだんと性格が変わっていき、あり得ない犯罪まで犯すようになる。最後に行きついたお尋ね者は全身不随で床に臥すが、2人組は彼を捕えてジープで下山しようとする。そこで異変が起き、3人はこの世ならぬ光に包まれる。監督自身が述べた「煉獄」の2文字と、現地のブロガーによる詳細な解説がなければ最終シーンで何が起きているのか全然分からない。幾ら芸術映画とはいえ、不親切すぎるのではないか。居酒屋の主が巡査を違う名前で呼ぶところ、最後のシーンで車の助手席と後部座席の人間が変わっていることなど、意味不明と思われるものから色々読み取るのは無理。たぶん実際にはエメラルドの爽やかな森林であるものを、どこまでも忌まわしく妖しい波動に満ちた地として捕えたカメラの妙。

Jallikkattu (Malayalam/2019)を日本語字幕付きDVDで。 

以前に映画祭で観た際には気にも留めなかったけど、確かオープニングでは「ジャッリカットゥ」という語の説明で始まっていた。しかしオスカーに出品すると決まったからか、「ヨハネ黙示録」からの引用に変えられ、DVDもそのバージョン。撮影地はイドゥッキ県カッタッパナ周辺。舞台設定も同じと考えていいだろう。となると、村人たちが移住してくる前に住んでいたのはクッタナード地方だろうか。完全に映画祭向け仕様なので、前作にあったインターバルの文字は全く出ない(現地での上映では無理やりぶった切ったのだろうが)。また、BGMというレベルですらソングはなく、プラシャーント・ピッライのサウンドは環境音楽的。肉屋のヴァールキは元に住んでいた土地では名家だったと噂されるが、それは今は意味がなくなっている。これは前作にあったカースト言及とはまた別の世界観であることを示すか。手持ちで疾走する男たちを追うカメラワークはお見事で、Nayakanからここまで来たかとの感慨。長回しも自然に取り込まれる。ヒーローが群衆に溶け込んで視界から消えるラスト。

Ee.Ma.Yau. (Malayalam/2018)をDVDで。 

前回見た時よりも背景が分かってきた。舞台はコッチ南郊のチェッラーナム漁村。エラナークラムから20km。この地域の労働者はプラヤ・カーストが多く、16世紀以降ラテン・カトリックに改宗した者も多い。劇中で島の連中と呼ばる島はKakkathuruthuか、あるいはヴァイッピンか。そしてポルトガルの影響下でラテン・カトリックの間で発達したのがチャヴィットナーダガムだと。不穏で何やら霊的なものまで感じさせる曇天・あるいは驟雨の中で物語は進む。リジョー印の一つである周辺的な人々の無駄口はかなり抑え目で、篩に残ったものは効果的。父を亡くした男が葬儀のあれこれのトラブルに見舞われ自制心を失っていく物語には、どうしてもソール・ベローの『この日をつかめ』を思い出してしまう。周囲の人々の立ちすぎキャラも申し分なく、「集団的熱狂と個人の精神状態の共鳴」という、次作にもつづくテーマが追求されている。陋屋の内外を行き来する長回しも効果的。葬儀とは生き残った者が納得するために行うもので、生を全うした故人はそれと無関係に安息が訪れるというのがテーマか。

Angamaly Diaries (Malayalam/2017)をDVDで。 

公開時に川口で見て以来の2回目。あの時は、クライマックス長回しについては予備知識があり、包み込まれるような圧倒感にスクリーンで観たことの幸福を噛みしめたのだった。ギャング抗争映画と評するレビューが多いが、実際は活気あり雑駁で荒くれた街で起きる青年同士の若気の至りの競り合いのようなもので、ボンベイギャングものなどにある、組織暴力に加わった者の矜持や覚悟や悲壮はない。主人公は抗うすべもなく暴力の世界に引き込まれるが、最後には幸せになるというのが人を喰っている。そして大人げない争いに加わる「青年」には中年の親父も混じる。しかし人死には割と簡単に起こり、その償いを金で解決するメソッドまでもが確立されている。技法的には初期のものに見られた手持ちカメラ、コマ落としなどの動きのある被写体を捕える際の特殊効果が復活したが、より洗練・円熟を感じさせ、技法に淫した印象はない。抑制のきかないフレンジーという点ではJallikattuを予言するが、具体的な特定の場所に徹底的にこだわった点で空前絶後。汎インド映画的なものと完全に逆。

Double Barrel (Malayalam/2015)をDVDで。 

リジョーを年代順に見直すシリーズで、これだけほとんど記憶がなくスキップしたのかと思ってた。再見して分かったけど、ほとんどストーリーらしきものがなく、これじゃ忘れるわけだ。ライラとマジュヌという一対の宝石を求めて国際的なギャングやケーララのコーテーション・ギャング、小悪人たちが右往左往して殺し合うギャング映画のパロディー。様々な映画的引用を散りばめてあり、『炎』、『マッド・マックスFR』、『パルプ・フィクション』、カンフーもの、見鬼ものなどなど。ハイパーリンク映画でもあるが、登場人物のほぼ全員が最後に一カ所に集まって弾けるのはむしろ古典コメディー的展開も。メインの俳優たち全員がほぼ全編グラサンなのは、スターのグラマーを減じるという意図か。トンチキで間抜けなクールネスと間合いで笑いをとろうとする高度なコメディーには、適切なランタイムというものがあったのではないか。ネオン街からアラビア海沿いの丘までを見事に収めたカメラは見事。一番笑えたのは、ラチャナ・ナーラーヤンクッティ演じる知らずにギャングと結婚した嫁のブチ切れ具合。

Amen (Malayalam/2013)をDVDで。 

10年以上ぶり鑑賞。これまでの2作品の後でパッと視界が開けるような気分。都市が舞台の前2作に対し、クッタナードの絶景を舞台にして、ビジュアルに自然美が占める割合が格段に上がった。そしてそれまでの不安定に揺れ動く(しかし絶妙に臨場感を醸し出す)手持ちカメラはほぼなりを潜め、代わりに現在のリジョーの特徴の一つである水平線や地平線できれいに区切られた遠景の中での人物のアクションが出てきた。これまでリジョーが憑りつかれていた疾走シーンや狭い室内での乱闘の描写はない。そしてこれも特徴の一つである仰角ワイドショットの多用。凝りに凝ったオープニングロール。本格的なリジョー節完成と言っていい。バイオレンスアクションからファンタジーに転じたのもくっきり。主人公を静の存在とし、周りの超個性的な人々をリアルに描く群像映画。バクティ映画との類縁性は以前から気づいていたが、芸道ものに典型的な脱帽するライバルの描写もあることに気付いた。そして欧米のミュージカル映画的な音楽の使い方を交えて虚構性を高め、群衆の熱狂も加え、人間ドラマよりは昆虫観察日記風味を高めた。

City of Gods (Malayalam - 2011)をDVDで。 

これも10年以上ぶり鑑賞。Nayakanと同じく技巧が勝り過ぎあまり評価しなかった。初期ニューウェーブのハイパーリンク・ムービーの代表作の一つだけどTraffic(1/7公開)と比べこちら(4/23公開)はずっと忘れてた。相変わらず人物間の関係性は分かりにくいが、Nayakanと比べると登場人物のエモーションの演出には格段の進歩が見られる。この後のリジョーに見られる田舎の寂しく広漠とした景色をロングショットで撮ることはなく、都市の不穏さを描く方に力点がある。タミル人に対する上から目線は2023年NNMに引き継がれる。アッパー&ロウワー・ミドルクラスのケーララ人の退廃と出稼ぎタミル人コミュニティーのエネルギーと楽観性を対比させて昆虫の観察日記風の突き放し方で描く。アクションなど動きのあるシーンを人間以上に激しく動く手持ちカメラで撮る特異さ。登場人物の後ろについて肩越しに眺めるような臨場感。後半の木賃宿の一室での格闘などがその典型。また長回しへの指向性も芽ばえ、結婚式の宴で踊るローヒニを仰角で追うシーンなどが典型的。

Nayakan (Malayalam/2010)をDVDで。10年ぶり以上2回目。 

「あのリジョー」のデビュー作ということで心して観たが、初回と印象はさほど変わらなかった。凝れば凝るほどにストーリーや演技の粗が目立つ。タイトルロールからその映像美学は見て取れる。冒頭の車や親族の死を知った主人公が家に駆け付ける場面など、疾走するものを追うカメラの独特の動きはかなりの凝り方。唯一記憶に残っていたあの銃撃のシーンはハチの巣にされた男の頭部を後ろから撮り、穴の向こうに銃撃者の姿を見せるというものだった。これはスタイルというよりもある種のユーモアなのだと思った。インドラジットの抑えたものなのかぎこちないのか判断できない。ジャガティとティラカンという名優を揃えながらも、何か薄っぺらい。シッディクに色悪をやらせたのは意表を突くキャスティングで造形も巧いが、それもまた安手感をさらに増していることは確か。コッチとKLを舞台にクールな大都会をやるのは苦しいがうまくやった。対立する2つのギャング組織と謎のマジシャンJSとの関係を整理して説得力を持って描くことができれば、ストーリーにも引き込まれたのではないか。

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