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K.G.F:Chapter 1(Kannada/2018)をチネチッタ川崎で。 

それ以外は、まあ良識派が非難してやまないトキシック・マスキュリニティの特濃原液。ボリウッドが柔弱になるのが気に食わない北インドの大衆にバカ受けだったのはよく分かる。

成人したロッキーが画面に現れてから最初のソング(確か)で皇帝と讃えられるのは、学者が言う「まだ何事も成し遂げていないヒーローがリーダーとして讃えられる」の見本だ。その讃仰の重圧に耐えられるカリスマを持つ役者だけがヒーローになる資格を持つ。

貧しかった過去への復讐はストーリーの中心だし、メタな視点ではダサいと馬鹿にされ続けてきた過去に血涙で叩き続ける絶縁状のようなところもある。

そしてあの「ロッキーの野望のテーマ」と勝手に呼んでるあれがアラビックな旋律なのは、伝説のボンベイ・ムスリム・ギャングへの憧れなんだと思う。

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K.G.F:Chapter 1(Kannada/2018)をチネチッタ川崎で。 

<LIVEサウンド×RGBレーザー>なるものに期待して、488席の大型スクリーンで。16時始まりで20人ほど。どっちを見るか多少考えたがアナント・ナーグの出てくる1と決めた。スクリーンでは5年前にたった一度見たきりなので新鮮だった。2の公開前の配信鑑賞と、こないだの仕事での仮ミックス通し見とがあったけど、まだ発見があった。バンガロールがベンガルールになってた、さらにマリ女神がマリアンマになってたし。一番わからないのはヴィラート。このキャラのお付きの眼鏡がアンドリュースらと連絡を取り合ってた。つまりガルダ暗殺の黒幕なのか。そして親父が死んだという連絡を受けて走り、病床で改めて親父の顔に枕を押し付けて殺すというのがいまいちわからない。それから冒頭で撮影も録音も禁止と言っていながらビデオ撮影してるのはなぜなのか。ストーリー全体の印象はそう大きくは変わらず。終盤のあの儀式のシーンも馴染んだと言えば馴染んだ。あれは何というか、あそこだけPaathala Bhairaviオマージュなんだと思う。(続く)

ランガスタラム(Telugu/2018)を新宿ピカデリーで。 

FDSSだけど入場者特典は終わってた。とあるレビューで主人公が補聴器を拒否するエピソードを脚本の瑕疵であるかのように書いていて、そりゃ違う、主人公の至らなさを表すための周到な脚本なのだと憤ったり。それはともかく、一般の人々の感想を読み、「不完全な主人公」というものへの付き合い方がどうも変わってきている感じを改めて持った。上記とは別の突込みは、①村長が逃亡した理由、②助手はあの夜何してたのか、③なぜあんな寂しい場所で車から降りてしまったのか、④最初の襲撃の黒幕は誰か、⑤最初の事故は本当に事故だったのかという5点。そしてああいう終わり方をするなら、だれでもあの後どうなったのかを考えると思う。①死刑になる、②長期の服役となる、③ナクサライトに合流するあたりか。たぶん復讐を成し遂げた時点で彼はもう死んでしまったのだと思う。ただ、実質的な新婚初夜に惨劇が起き、夫が妄執の人になってしまったヒロインは可哀そうな役回り。僻地に暮らし歴史の渦に埋もれて消えた無名の運のない人々、彼らにもあった歓喜の瞬間を荘厳する歌というのがまたしても確認できた。

Balagam (Telugu/2023)をオンラインで。 

テルグ人の知人激賞のテランガーナ映画。Rajanna Sircilla県、コーナラーウペータというところが舞台。爺さんが死んで集まった親戚のてんやわんやを描く。このフォーマットはManjadikuruやThithiのパターン。他にもあったはず。それらに比べて本作が優れているかというとちょっと微妙。最終シーンが情緒的すぎやしないかという感想。監督自身が演じた仕立て屋のキャラ、最後に投げかけた言葉のせいで爺さんが死んだのではないかと怯えるプロット、これも何かで見たが何だったっけ。それに、主人公の「あれこれ事業を起こしてみたけど総外れ」みたいな境遇も。弔いの式次第を詳細に見せてくれるところがいい。葬式関連で読んでこられる3種の芸能、太鼓叩きによる葬列の先導、通夜のような場でのハリカタの弔歌、供養の食事をカラスに食わせる儀式に呼ばれた民謡歌手の歌唱、いずれも素晴らしかった。迷信や利己心、くだらない敵愾心や村八分という旧弊な制度の残存などなどが提示されながらも人生は続いていくという醒めた視線、家族のメンバーの情動の波うちが同時に示される。

Fidaa (Telugu/2017)を川口スキップシティで。 

大好きな一作で、プレビューを書くために先日配信で半分程度を再見していた。その前半は本当に良い。本作に関しては良い記憶しかなかったのだけど、後半はやや失速した印象。特にヒーローがキレてブチかます「田舎住みアベレージの女が、俺みたいなスーパーエリートを袖にするとは何だ」という台詞。Anandの時もあった。この身も蓋もない台詞で揺れ動いていたLoveがHateに変わるのだが、うっかり口にしていい台詞なのか。これは劇終までの間にキチンと総括すべきだったろう。それから、緊張感があるはずの2人が北米ドライブ観光旅行を楽しむくだりも弛緩した。まあ、前半の悪党退治のアクションといい、若干妥協した面はあるんだな。雨が常に降り注ぐ雨季の表現の美しさ。ただし、Avakai Biryaniで描写されたような、トイレの普及の遅れから村の広場がすなわちトイレであるというような状況は暗示すらされていなかった。ロケ地のバンスワーダはちょっとした観光地になったらしい。主演のペアは現実離れしてるけど、兄夫婦のキャラは本当に自主上映会に来てるNRI風で感心した。

Brindavanam (Telugu/2010)を川口スキップシティで。 

十数年ぶりの鑑賞。大流血映画の嵐の中で心休まる経験。全体のフォーマットは、三角関係恋愛++ファクション映画まれびとが大邸宅を訪れての人間関係修復というところ。しかし最初の2つにしてもあまりマジになることなく、ファミリー映画としての表現に徹した。アクションも相手を殺さないタイプのもので、その分やや短調だったかも。主人公の父親が、完全にファン代表の役割を担っていた。コメディアンはブラフミーとヴェーヌ・マーダヴで、00年代から比べると絞ってきた感じ。ロケ地はポッラーッチ、アディラッピッリ滝、ウドゥマライッペーッタイの風車、それからイドゥッキあたりの湖沼(またはパランビクラム)で田園風景を撮っている。シュリーハリはラーヤラシーマ・ファクショニストなのになぜかヒンディー語交じりで喋る。田園が舞台だが、土の香りは全くしない。主人公は二人のヒロインに好かれてしまい慌てる(ご愛敬でしかないが)こと以外は全能全知。まるでプニート映画だが、プニート映画と一線を画すものは何だろうと考えると、やはりジュニアの器量しか思いつかないのだ。

自分が大切に思っているあるタミル語映画の 

ヒンディー語リメイクを見て、その空疎さに憤慨している友人の愚痴に付き合った。しかし自分はもうその類のガッカリは幾度も経験済み。何なればサウス圏内でのリメイク(特にマラヤーラムから他の3言語への)のガッカリ感も十分に知ってる。そのガッカリをなくすためにラージャマウリは多言語展開をおっ始めたのではないかとも思っている。しかし多言語展開には、コンテンツを最初からリメイクの薄まった感じにしてしまう危険も十分にある。それならばむしろガッカリなリメイクの山の中にある燦然と輝くオリジナルを見たいのだが。

Maamannan (Tamil/2023)を川口スキップシティで。 

着席率は4割程度か。タミル人はさほど多くなかった。マーシャルアーツの恩師役はカラテ・ヴェンカテーサンに見えたが確認できず。Dojoという語が字幕にあった。ヒーローが乱闘になると滅法強い合理的な理由が示されるのは新鮮。前半の父と子の葛藤の物語は見ごたえがある。自分は椅子に座らない父が、しかし負い目を持っている息子に対しては座れという、しかし自分だけが座ることを拒否する息子との葛藤が暴力沙汰に発展する。このハイライトが中盤で使われてしまったのがちょっと惜しい。例によって象徴的な事物(馬に乗るファハド、豚を逃がす少年期の主人公など)が多いが、嬰児がつるされた夜の木の情景は、心象風景なのか実際に起きたエピソードなのか判断つかず。後半に登場するラール演じるCMは人格者というあつかいだが、これはウダヤニディの父への忖度か。そもそもウダヤニディが本作に主演することの危うさというか現実と虚構との紙一重感が落ち着かない気にさせる。『パリエルム』と同じく、ヒロインはカーストの格差など聞いたこともないような無辜の存在。セーラムの風景が新鮮。

『RRR』の日本語吹替版はまだ見てないけど、吹替え翻訳は、 

SNSでの感想を見る限りは、字幕翻訳の字数制限でやむなく削ぎ落としたものを復活させるとかじゃなく、字幕のテキストに冗長性を持たせる(「何だ?」を「何だってんだ?」にするとかそう言う類の)だけじゃないかと推測。おそらく字幕の監修者は関与していない。もったいない気もするけど、費用対効果を考えたらそうなるか。

Pathaan (Hindi/2023)をオンラインで。 

ヒンディー語映画界が起死回生で「これでダメならもう終わりだ」ぐらいの勢いで作ったというのがよく分かる。ディーピカーはどこまでもサービス精神発揮でお色気開陳を躊躇わない。『バンバン!』と同じく、ロジックは脇に置いといて、ともかく見せ場を術繋ぎにする。しかし最初のドバイの街路での車上アクションなど、どうも作り込みが浅い気がする。モスクワの高層ビルの金庫なども、CGのペラッペラ感がなんとも。ジェットパックまでもが登場したあたりから「SRK版サーホー」という言葉が脳内に明滅し始めた。なんかプレステのコントローラみたいなので操ってたし。サルマーンの登場でやっと体を張ったアクション演技が戻ってきた感じ。任務中の大怪我から復帰した諜報部員と闇落ちして営利誘拐殺人などに手を染めた元諜報部員との対決。そこにパキスタンの女性諜報部員も加わって、国家の枠を超えた人道に対する犯罪への闘いとなる。SRKのルーツを巡る話、370条廃止、ロシアの友好国としてのインドの立場などなどが上手く組み込まれている。エピローグの2カーンの楽屋落ち会話が一番の見どころか。

2018 (Malayalam/2023)を川口スキップシティで。 

久しぶりのセルロイド上映。インド人が圧倒。サバイバル系感動ストーリーとして見事。これはしかしTKFなどの手法の裏返しではないかなどとも微かに思った。それでもジーンとくるのは確か。助走にやたらと時間をかけるのは時にマラヤーラム語映画の欠点となりうるのだが、本作の場合はそれが上手く機能していた。降り続ける雨と鉄砲水の描写の迫力。ヒロイズムの表出はトヴィノとアーシフのキャラクターに集中していて、期待したチャッコーチャンは、あまり起伏の無い役でもったいなかった。全員が全員すごいことをするストーリーでは逆にリアリティーがないという判断だったのかも。アパルナ(なんという肥え方か)のキャラクターも同じ。それから何にも考えてないアホな外国人ツーリストの登場では過去の自分を見ているようで胃がキリキリしたが、最終的には彼らにもそれなりの尊厳を付与したストーリーにはバランス感を感じた。敢えて言うと憎しみを向けるべきキャラクターがないのだが、意図したものだろうか。タミル人のトラック野郎の逸話には説明が欲しかった。5年前の厄災を見事に映像化した。

RRRのオープニングは、 

無闇と謝辞や注意書きが連なるインド映画の慣例に反して、いきなり本編が始まるのだが、インド国内で上映されたバージョンでは、「インスピレーションをくれた」作家への謝辞があるのだと本日某所で聞いた。そしてその同じ作家への謝辞がKGFにもあるのだとも。RRR / KGF movie opening acknowledgementなどで検索してみたが見当たらず。後日確認すること。

Simhadri (Telugu/2003)を池袋ヒューマックスシネマで。劇場では2回目。 

今度は後方席から全体を見渡すまともな鑑賞。呑気で楽し気な生活を送る主人公に時おり影が見え、インターバル前にビッグバン。そこから目くるめく長大な回想が始まって、それが洒落にならないトラウマ的な地獄絵、そして現在に戻ってラスボスとの対決、というある意味お約束の定式。ただしビッグバンが凄すぎる。ソングではChiraku Anukoが毛色が変わっていて耳に残った。しかしどこからから引っ張ってきた感があったが、Cotton Eye Joeからのものだと維基百科にあった。これは作曲家が公式に認めているらしいが、日本では公開できない理由になってしまうかも。そういう時代だったのだ。まあそれから女優の扱い。やがて世代が変わっていくと「こんな性的搾取を公然と楽しむとかありえない!」という観客が増えていくのだろうか。主演男優の突き上げるような露骨なマスキュリニティーを際立たせるためのギミックなのだが、これを「アザラシの赤ちゃん」NTRがやるというのがまた何とも形容しがたい前近代性を醸し出して、そこが堪らんわけなのだが。

Simhadri (Telugu/2003)を池袋ヒューマックスシネマで。 

デジタルリマスター&英語字幕で。座席選択を誤り、川口の感覚でA列に座ったら、ちょっと外した。しかしまさかのおデブ時代ジュニアを劇場で英語字幕付きで見るという奇跡。見上げる角度でジュニアの太腿ばかりを凝視していた。やはりあのMGRや長谷川和夫などを彷彿させる旧時代の軽肥満体のねっとり&どろりとした色気が20歳のジュニアに宿るという信じられないビジュアルを前に唖然とする快感。そしてまた不遜さと赤子のような無垢とが交互に現れる様は口を開けて眺めるしかない。この若者をスターとして受け入れたテルグ人の高度な審美眼。例のガートでの祭礼は、ゴーダーヴァリ・ハマー・プシュカラルということなど、字幕付きで初めて分かった点も多数。しかしシンハードリのケーララにおける対としての「シンガマライ」はよく分からない。冒頭のリンガみたいなヴィシュヌのシンボルに王冠をかけるというのも意味不明。こうした現地観客にしかわからない文化的背景をどんどんそぎ落としていったのが今のラージャマウリなのだと思う。その削ぎ落しが一番過激だったのがEegaだった。

Boudi Canteen (Bengali/2022)をオンラインで。 

ベンガル語の課題の一環として。衝撃的だったのは、課題を課す際に言われた「ベンガルでは夫は公務員、妻が教師というのが理想の家族とされている、妻が専業主婦というのは後進的と見なされている」という説明。『グレート・インディアン・キッチン』と真逆。ストーリーとしてはほとんどが対話の中で進行するテレビドラマみたいな小編。バラモン家庭の中で姑が一番の権力者。この人物がNGO活動に熱心で炊事は女中にやらせて「意義ある活動」に邁進している。教師として勤めているヒロインにさらにNGO参加をさせるなど、無茶ぶりが激しいが、それは社会的な虚栄心から来ているらしいことが分かる。ヒロインは料理が大好きで、外で働きながらも自分と夫の弁当を作る。ある意味スーパーウーマンなのだが、あり得るのか。対話劇なので、対立も対話で終わり、カタルシスはない。ヒロインを演じたスバシュリー・ガングリーが、ベンガル語映画でしかありえない、豊満かつ気品を湛えた見た目。映画の中に登場する料理はたぶん菜食+魚だと思うのだが、バブル役のソハム・チャクラボルティが良かった。

インド映画の登場人物が何語をしゃべるかというの、 

その人物の属性以上に観客が何語で映画を見たがっているかに左右されるんだよね。

Custody (Telugu/2023)をイオンシネマ市川妙典で。 

観客は20人いなかったかも。チャイ太には期待薄だったけど、ヴェンカト・プラブであることをタイトルロールで思い出す。今回はA Venkat Prabhu's HUNTだ。チャイ太は地方都市の巡査の役。テルグ御曹司に付き物のヒロイック演出は最小限に留められたのがクレバー。脇役が皆良かった。プリヤーマニの格好良さは特筆もの。アラヴィンド・スワーミはDhruvaの時ほどのかったるそうな感じはなかった。インターバル前の狭い警察署内でのプラン・セカンスは凄かった。ただ技術を見せつけるだけみたいな無意味さに痺れ。アクションとしては最後までダイハード的大車輪が続いて面白いのだが、結婚式場でラージュを逃がす経緯と、祭りの場で父が死ぬシーンにはロジックのほつれが見られた。エージェント・フィリップのシーンには笑った。あれはもう、コメディアンが最新のヒット作を真似て笑わすのと同じなのではないか。キールティ・シェッティは、初めの頃はアヒルちゃんみたいなのが嫌だったが、どんどん美しくなってる。ある種のストックホルム症候群みたいなものを描いていた。

『クイーン・シャーロット ~ブリジャートン家外伝』(Queen Charlotte: A Bridgerton Story、米、2023)をNTFLXで。 

『ブリジャートン家』(Bridgerton、米、2020-2022)のスピンオフで全6話。ストーリーとしてはこっちのほうが断然いい。テーマは相変わらずの愛とセックスに加えて王室の尊厳。アメリカ人は本当に正直だなあと思う。本編でなぜか30年ぐらい前のファッションで通す王妃が不思議だったけど、その訳は結局分からず。後から調べ、王の狂疾や姑との確執は実話だったと知る。黒人や東洋人が宮廷社会にいる並行世界の発端は、このメクレンブルク王室が黒人で、英王室はそれを取り込む「大いなる試み」を行ったからだと説明されるが、気持ち悪い感じは消えない。また別の黒人登場人物は英国植民地だったシエラレオネ出身だと明かされる。本編のインド人登場回ほどではないものの架空の世界観と現実の歴史がコンフリクトを起こしてしまう。王夫妻のそれぞれの侍従がゲイカップルという設定。王とこの2人だけが鬘を被っていない。偉い人はどんな無作法をしても許されて、クールと見なされる掟も。

Virupaksha (Telugu/2023)を川口スキップシティで。 

本格的ホラーの触れ込み。スクマールのストーリーと聞いてよほど凄いものかと思っていたけど、オーソドックスなホラーの定石を重ねたものだった。昔の村社会、教育の不徹底による迷信などはランガスタラムと共通するところ。ギャッとなったのは鉄道のところだけだけど、まああれも鉄道が出てくる時点でフラグが立ってた。しかしあれは最後の種明かしによれば、超能力を得るため焼身自殺した男が見せた幻影だった可能性が高い。女神の前で男が死に、呪いか降りかかったと判断した村の僧侶がロックダウンを敷く。これはコロナ禍と重ねているのかとも思ったけど特にその後発展せず。怪異の深層にはまた尤もらしいヴェーダの科学が登場する。不慮の死を遂げた人間はしばらくその生き物としてのパワーを放射するが、その目を見てしまった他者に瘴気が移ってその人間も自死するというよく分からない現象。僧侶が典拠とする寺院に伝わる奥義書が忌まわしい呪いの書と差し替えられていたというからくり。愛の力で怨念を止めることができなかった主人公が、自身が傷つきながらも憑依された女にとどめを刺す。

Yaathisai (Tamil/2023)を川口スキップシティで。2回目。 

粗筋を読んでから臨んだので、だいぶ理解が進んだ。冒頭とエンディングに出てくる二人連れは、パーンディヤ王と部族の娘との間にできた王子で、付き添う老人はコディが死んだあと皆殺しになった部族の中の生き残りだったことになるが、ここに至るまでも何かストーリーがあるはず。それからアラブからインドに戻る奴隷船(?)の中で看守が話す言葉はアラビア語で、そこにタミル語が被さっていた。例の坊主を演じたのは、サムソン・T・ウィルソンという人らしい。あのキャラクターを配することがそれだけでキョーレツなドラヴィダ民族主義。一方、グル・ソーマスンダラムの役はいま一つはっきりせず。最初から最後まで何度も出てくるஅதிகாரம்(authority)という語は何と訳せばいいのか。デーヴァダーシーの2人がいずれもどっしりとした体形なのは、敢えてなのか。振付師についても知りたい。1人は入水自殺するが、残った1人にも何か後日談があることが暗示される。 チョーラへの使者として出かけて、敵に囲まれなぶり殺しにされるトッティ役の俳優のファンクがトップ賞。

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