K.G.F:Chapter 1(Kannada/2018)をチネチッタ川崎で。
それ以外は、まあ良識派が非難してやまないトキシック・マスキュリニティの特濃原液。ボリウッドが柔弱になるのが気に食わない北インドの大衆にバカ受けだったのはよく分かる。
成人したロッキーが画面に現れてから最初のソング(確か)で皇帝と讃えられるのは、学者が言う「まだ何事も成し遂げていないヒーローがリーダーとして讃えられる」の見本だ。その讃仰の重圧に耐えられるカリスマを持つ役者だけがヒーローになる資格を持つ。
貧しかった過去への復讐はストーリーの中心だし、メタな視点ではダサいと馬鹿にされ続けてきた過去に血涙で叩き続ける絶縁状のようなところもある。
そしてあの「ロッキーの野望のテーマ」と勝手に呼んでるあれがアラビックな旋律なのは、伝説のボンベイ・ムスリム・ギャングへの憧れなんだと思う。