Kantara (Kannada/2022)をイオンシネマ市川妙典で。3回目。おそらくこれがスクリーンではラスト。
2回目でもまだ分からなかったことが解明した。地主の工場は恐らくサンダルウッドの加工場。前半終わり近くのあわや強制執行という場面での溝は、土地の境界を示すために掘られたものか(これはあまり確信がない)。1970年代の地主の隣の人物が誰なのかはまだはっきりしない。湿気の高い森の描写は森林浴をしているように心地よい。霧とも雨ともつかない降水は、きっと生暖かいのだろうと思わせるものがある。GGVVでのあの雨の冷たさとは対照的に。森と火と黄色いメイクの精霊の取り合わせはうっとりする美しさ。けれどもこれは、映画だからこそ成しえた美で、現実とは微妙なずれがあるんだろうなとも。部族民の穢れへの禁忌の描写も、現代劇では見られないものだったので興味深かった。①地主からシヴァが駄賃を受け取るところ、②シヴァの仲間が地主宅に足を踏み入れて揉めるところ、③シヴァの肩をたたいて唆した地主が後で手を消毒するところ。④地主が躊躇うグルヴァをジープに乗せるところ、⑤グルヴァのお悔やみに来るところは逆の表象。
Good Luck Sakhi (Telugu/2022)をオンラインで。
114分しかないが、日曜の夜のせいか繋がりが悪く無限回停止しながら観た。バンジャーラ・トライブが主役の芸道ものとミスリードされてたけど違ってた。キールティ演じるヒロインは元々はテランガーナのバンジャーラ・トライブだけど、親の代にラーヤラシーマの農村に移住してきたという設定。2回ある結婚式シーンの正装以外ではトライブ文化への言及はなし。トライブ出身ゆえの差別なども描かれず。幼馴染のゴーリ・ラージュというキャラクターは巡回演劇のヒーロー役者だが、このキャラ造形が決定的に良くない。映画界入りを究極ゴールのように思っている、舞台を途中で放っぽり出す描写が3回も出てくる。10数年ぶりに村に戻ってきて定住するという設定なのか。ラーフル演じる悪役にしても、普通のテルグ語映画なら絶対流血展開へのトリガーになるはずだが、何となく和解してしまっているし、途中までのリアリティあるキャラ造形が活かされていない。HYDブルースのナーゲーシュ・ククヌールの初のテルグ語作品ということだが、オルタナ系であるにしても、観客のパルスを掴んでいない。
Mukkabaaz (Hindi/2017)をオンラインで。
AK作品と知ってればもっと早く見てた。ヒンディー地方都市ものに特有の空気感の中で展開するリアリティー溢れるボクシング・スポコン&カースト桎梏&ロマンス。試合の迫力で言えば、Sarpatta Parambaraiの方がずっと上なんだけど、スポコンの定番である数々の困難に打ち勝って最後に勝つという「勝利の方程式」を完全に裏切るラストに唖然とした。イスラミックなテイストも感じる♪Bohot Dukha Mannが素晴らしい。悪役のバラモン政治家とそのカースト観の描出が印象的。ボクシングという接触型スポーツの主催者でありながら穢れの感覚を強く持つ。そして自宅では肉を食しているにもかかわらず、聖牛自警団をバックアップしてムスリムを攻撃している。また、スポーツ・クオータでの就職でも、スポーツに専心できない雑用係としての雇用もあることを知った。スポーツ・クオータからあぶれた者は、政治家のボディーガードという道があるというのも。あのラストは、引退が決まっている試合で、妻への愛を示しただけでなく、友である対戦相手に勝利を贈ったとも考えられるか。
アンニョンハセヨ(안녕하세요/Good morning、2022)をオンラインで。
韓国文化院提供の映画特集で。ネット接続が悪く、後半はちょこちょこスキップしながら何とか見た。またしてもほんわかラブコメを予想してたらキャンサードラマだった。ホスピスが舞台なので、初めから分かっているキャンサードラマ。なので泣きの波状攻撃。ただ、養母役の女性のバックストーリーは今一つ説得力がなく、無理に付け足された印象。死に行く人とそれを見送る人の絶対的な立場の違いを長々と述べたのは、ドストエフスキーの『白痴』のイッポリート・テレンチェフだった。本作はそれをひたすら見まいとして様々なドラマを仕掛けているように見えた。ホスピスのスタッフの中に自身が闘病中のキャラクターも加えられ、その境界が見えないようにされていた。人が死ぬとどうして悲しいのだろうと思いながら何人かの死とその周りの人々を眺めた。名前を失念したが、最後の望みをかなえるための救急車というのがあり、したかったことを全部するという制度、実際にあるものなのかどうかわからないけど、それはあってほしいと思った。2年後には誰もいなくなったというラストは怖い。
おひとりさま族(혼자 사는 사람들/Aloners、2021)をオンラインで。
韓国文化院提供の映画特集で。ほんわかラブコメのようなものを予想してたら全然違ってた。大都会で単身暮らす熟練労働者(ただし社会的な地位はない)の砂をかむような日常を描いた文芸の香りのする作品。「小公女」を思い出しもするが、あれほどの詩的な飛躍はなく、リアリティに寄っている。コールセンターでのオペレータとして、面倒な客への応対を淡々とこなしながら、実生活での他人との触れ合いは水のように薄いヒロイン。その代わりに仕事以外のすべての時間に、イヤホンをしてスマホで動画を見ている。食事中も食べながら意味もなく料理番組を見ている描写が印象的。彼女がこうなった理由は語られないのだが、その最大の原因は亡母を苦しめた父にあるらしいことが察せられる。父に対し感情を爆発させた後、距離をとることを言明した後に、彼女が徐々に孤立的な安定を取り戻していくことが暗示されて物語は終わる。明らかに他人を拒絶するオーラを放つ彼女に新人研修を任せた上司の女性が「私たち頑張りすぎてたかも、もっとテキトーでいいのかも」という意味の台詞を吐くのが印象的。
Opium (Hindi/2022)を東京国際映画祭で。
邦題は『アヘン』、会場は銀座の丸の内TOEI。上映後は監督QAセッション付き。①暴動(ヒンドゥーvsムスリム)、②盲目、③木材(クリスチャン)、④焼き飯(ムスリム)、⑤花びら(ヒンドゥー&ムスリム)の合計五編からなる。ハードなストーリーからハートフルな寓話へという構成。久しぶりの芸術映画。①暴動はQAでも言及されていたがマントー的な苦さを持つ。②盲目は芸術映画でしかお目にかかれない中二病的映像世界だが、深みはない。QAで監督は自身を無神論者的と言っていたが、いかにもな作劇。⑤花びらの撮影地となった寒そうな町の名前を知りたい。少年が毎日8時に耳にする騒音と叫び声は何だったのか最後まで分からず。③木材が一番良かった。あの吝嗇な壮年の男はクンチャコと呼ばれていて、ケーララのシリアン・クリスチャンがルーツと思われる。葬儀を簡素に済ませるために改宗するという発想が非常に笑えた。それは言い換えれば彼の地のリベラルが口にする「すべての宗教は同じところをめざしている」と響き合うのだ。しかもそれを「パパが地獄に行かずに済むように」と言いくるめる妙。
Saawariya (Hindi/2007) をNTFLXで。
日本語字幕付きだが字面が変。邦題は「愛しき人」。ドストエフスキーの『白夜』の翻案。同作の映画化はこれまでフランス映画で2回見ている。いずれも2時間以下のものだったと思うのだが、本作は140分もある。全体としては米国映画のミュージカルをインド映画もやってみたという趣き。ソングへの導入やソングの質感がハリウッドミュージカル的。ランビールはあの変顔に口紅をつけたりして、ピエロを意識しているのかと思った。ソーナムは非の打ち所がない美貌なのだけど、不思議なほどに眺めているのが退屈。セットは室内の幾つかのシーンのものを除いては、マカオのヴェニーシャンそっくりで笑えるほど。照明や雨や降雪などをいくらSLB節で華麗に演出してもヴェニーシャンなので、シュールなペラペラ感は拭えない。そしてここでも娼婦たちがモブで出てくる。SLBはどうしてこんなに娼館が好きなのか。リードペアと比べてサルマーン・カーンは貫禄があった。しかし「国のために働いているが明かすことはできない、1年後に戻る」って、裏で『タイガー 伝説のスパイ』で派手にやってたんかい?とか。
Kantara (Kannada/2022)を川口スキップシティで。
2度目。スキップシティが7割程度埋まっていて吃驚。字幕は良くないが、2度見で多少理解が進んだ。森林保護官ムラリは、一体を自然保護区として部族民の居住を特例で認めさせるプロトコルを用意していた。シヴァと回りの人々は部族民で、上位カーストからは触れるのも汚らわしい存在だが、リベラルなふりをする地主からは友達扱いされている。村はずれのシヴァの隠れ家には「カイラース」という屋号がある。最初の水牛レースで「走るのは水牛だが、メダルを受け取るのは乗り手だ」という意味の言葉がヤク中の刀研ぎ(だったっけ?)の口から出るのが象徴的。1970年代の場面で「そのお告げはダイヴァのものか、憑子のものか?」にも呼応する。ダイヴァのうち、黄色いPanjurliは恵みの神、黒づくめのGuligaは祟る神であるらしい。何度か登場する神の遣いである猪はどちらに属するのか。そしてシヴァが猪猟をすることは何を意味するのか。先日RRRを見たばかりだけど、これから南インド映画はダリトだけではなくトライブにもハイライトをあてて行くことになるのだろうかと思ったり。
RRR (Telugu/2022)を池袋グランドシネマサンシャインで。
劇場で見るのは2回目。IMAXで見ておくべきという声が多かったので、無理して行った。IMAXは『2001年宇宙の旅』以来で数年ぶり。劇場自体が一種異様な高揚感を演出するようにできてるんだな。通常DCPとの違いはよくわからなかった。違いとされるものは劇場自体の構造の差からくるもののように思われた。それでもまあ、どんぐり眼のジュニアの顔が、数メートルのアップになるのを眺めるのは心地よい。Sea of Humanityのシーンは冒頭のLala Lajpat Raiの釈放を求める群衆、ソングの組体操や胴上げ、そしてビームの鞭打ち刑と、3回繰り返されることが分かった。シンボルイメージである重ね合わされた手は、橋上での救出からのタイトル出現シーン、ラーマと父親の戦場での別れ、それに懲罰房からのラーマの救出のシーンか。ラージャマウリのアクションは、跳躍系だけでなく、総督がバランスを崩した車の上で銃を構えるシーンに代表される絶妙な小技の効いた小気味のいい振付にある。もうひとつサンプル的なものを見たのだけど、どこだか失念してしまった。
Sardar(Tamil/2022)をイオンシネマ市川妙典で。
7割程度の客の入り。国防アドバイザーの重要人物を殺害した裏切り者の諜報部員の息子が、警察官になり、街頭示威行動へのスマートな対応などで街の人気者となる。実はその国防アドバイザーの方が裏切り者で、その巨大陰謀は現在まで続いていた。バングラデシュのチッタゴン刑務所に収監されて生き延びていた父と息子とが最後には力を合わせて陰謀を葬る。分かりにくすぎるプロットの連続。ペットボトルの容器の汚染と、亜大陸全体の給水システムとの関係がよく分からない。それと、そんなに致命的な物/人ならさっさと消しておけよ、という「お間ぬ系悪役」なプロットが多すぎて、字幕からまともにロジックを追う気が失せる。カールティのファンとしては1人2役で二倍楽しめるのでいいのだろうが、純スリラーとしてはループホールとご都合主義が多すぎ。バングラデシュやパキスタンとタミルナードゥの距離感も無茶苦茶。隠れ諜報員の父親が普段は村芝居の役者という設定も凄いが、そこでやっているのがムルガンとヴァッリの恋物語で、父シヴァクマールとカールティの命名と両方への言及であるのは良かった。
Prince(Tamil/2022)をイオンシネマ市川妙典で。
客入りは半分以下。SKクオリティーには期待してなかったが、唖然とするほどの低劣な出来。これほど低レベルのディーパーヴァリ作品は初めて。ポンディシェリが舞台で、主人公は社会科教師。父は土地の衆に信望のあるプチ名士。リベラルな父は、息子に異カースト・異宗教の相手と結婚させようと考えている。思惑通り息子は英語教師のジェシカと恋仲になる。しかし彼女は英国人。父の祖父は独立運動闘士で英国人に殺された。したがって英国人の嫁だけは認められない。息子は村の衆を巻き込み、「ヒューマニティーかパトリオティズムか」の論争を繰り広げる。bottle gourdの意味がわからず知ったかぶりする長々しいギャグとか、ケンブリッジがフランスにあると思い込む無知とか、咀嚼できないユーモアの嵐。Jathi Ratnaluの監督だが、同作を見た時は、よく理解できないお笑い世界ながら、何か楽しそうな雰囲気を評価してたんだよな。低能ギャグでも使いどころを間違えなければ楽しめるはずだが。ポンディシェリという設定で出てきたトランキバールの景色に郷愁がかき立てられた。
Kantara (Kannada/2022)をイオンシネマ市川妙典で。
157席の8割以上が埋まっていた。字幕の出来はかなり悪く、また完成動画が支給されていない状態でつけられた感じ。従って理解度は低い。しかしストーリーはかなりシンプル。19世紀半ばに在地の王と森の神との間で交わされた協約によって部族民に下賜された土地を、1970年代になり王の子孫が取り戻そうとして神罰で死ぬ。その際に神の預言をしたブータは森に消える。90年代になり、そのブータの息子が成人し、再び対立が起きる。外の世界からやってきた森林行政官が村人を立ち退かせようとした。しかし本当の黒幕は王の末裔の地主。地主は最後に実力で村人の立ち退きを図るが、ブータとなった息子が神的なパワーによって地主を誅し、秩序を取り戻す。最後の憑依による神の怒りが金縛りだと評判になり、あり得ないほどの大ヒット。しかしそこに行くまでの村の日常の描写では、客席からかなりの笑いが起きていた。だけどどうなんだろ、GGVVと比べるとちょっと冷静になってしまう。ラージBシェッティは、あの憑依をメイクなしでやったんだぜと言いたくなる。美麗映像は特筆ものだったが。
Don (Hindi/1978)をDVDで。
行きがかり上の理由で、この際だからと見てみた。♪Khaike Paan Banaraswalは本作のものだったか。断片的な知識がやっとつながった。それから、クライマックスの墓地のシーンで、赤い手帳をパスし合って渡すまいとする長いシーン。どこかでパロディーを先に見てしまっていたけど、何だったか思い出せない(タミル・リメイクか?)。ドンと瓜二つのヴィジャイの登場シーン、Billaのラジニと同じく、口紅・アイラーナー、足鈴などをあしらい、effeminatedな仕上がりになっている。これはやはり当時のお約束だったのか。アミターブのファッション、ジーナトの野良猫ロックな細い眉など、ポップなビジュアルが横溢。これがさらに煮詰まって80年代末には毒キノコ調になっていくのだとわかる。元ギャングのサーカス芸人(なんだそれ、だが)という設定のプラーン、ドンの右腕ナラング役のカマル・カプールなどなど、いい感じの大顔おっさんたちがひしめき合って、ストーリーそっちのけで見とれてしまう。ストーリー展開は緩々でスリラーとしてはポットホールだらけだし。マック・モーハンも。
Ki & Ka (Hindi/2016)をオンラインで。
昨日こってりなものを見てしまったので、何を見ても腑抜けたものに感じられてしまうだろうと思ってたけど、あっさりした食後のデザートのような感じで気持ちよく見られた。いわゆるボリウッドのリベラルの絶好調の頃のもの。今公開したらボイコットに遭ってたかも。車の中で致しちまうとこなどは既に珍しくなかったけれど、妊娠が疑われ、それが杞憂だったと事が分かって大喜びなどという描写は保守派が眉をそばだてたことだろう。実は見ながら心配していたのは、妊娠を機にヒロインが命の尊さに目覚め、主婦に転じて「これが女の幸せ」などという結末になりやしないかということだった。しかしそうはならず、脚光を浴びる仕事とそうではない仕事との間での解決できない相克の方に行くのだった。ただ、逆転はしていても、男女共に担当する分野での能力は最高。それが御伽噺感を出していて、TGIKのような深刻な問題提起にはなっていない理由か。そのせいか、現地のレビューはあまり芳しくない。ヒーローがお洒落な鉄道模型マニアというのも吃驚設定。デリーの国立鉄道博物館がロケ地になっているのは初めて見た。
RRR (Telugu/2022)を新宿ピカデリーで。
監督主演の舞台挨拶回。一握りのテルグ人の行儀が悪かった。やはりNTRの夜の大サーカスはあがる。通し見は4回目だけど、分からないところはまだ分からない。毒蛇に咬まれて瀕死のラームが叩く音、セルに閉じ込められたラームを探すビームの叩く音。あれの伏線はあったっけ?もしかしてNaatu×2のリズムだったっけ。それから何度見てもイギリス人の衣装や室内装飾が気になる。アナクロニズムで1990年代を再現したというならまだ分かるけど、デザインに一貫性がない。英国側の描写の弱さはヒロインのジェニーにも。あの女優をわざわざ抜擢するならエイミー・ジャクソンで良かったじゃん。チャランをやや上手においた構成というのは変わらないが、彼が宝塚の男役に見えて仕方がなかった。特に赤い軍服。一方でNTRは新派の大芝居。それが同居してちゃんと調和しているのが凄い。クライマックスの例のラーマの扮装は、要するにシーターラーマラージュがあそこでコスプレの味を覚えたということなのか。ラーマが蛇に咬まれた時、および足を痛めつけられ独房に入れられた時の、ビームの薬草の驚異の回復力。
近年のインド映画の公開時の映画館の数②
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『王の凱旋』の劇場数は累計で90館程度で、完全版は全国73館で上映する予定です。
『バーフバリ』はテレビスポットも新聞広告も打たず、どちらかというとSNSの口コミで広げていった映画で、あまり宣伝費をかけていません。館数は少なく見えるかもしれませんが、宣伝の規模を考えれば、我々としては妥当だと思ってます。
そもそも、興行収入と館数はあまり関係ないんですよ。逆に館数を増やすと経費がかかるので、独立系配給会社はできるだけ経費をかけずに興行収入を上げようとしているんです。
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それが今度のRRRは200館超とは。
https://www.huffingtonpost.jp/2018/05/30/baahubali-twin_a_23446544/
近年のインド映画の公開時の映画館の数①
松竹が鳴り物入りで仕掛けた『チェイス!』が、「その数ざっと100館超」と形容されている。これでかなりの大規模展開だった(そして見事にコケた)。
https://blog.goo.ne.jp/cinemaasia/e/0620a58cf795b63e146053300a3ae65a
RRRの10/21の封切り、
劇場数を数えてみたら、212館にもなり、腰を抜かしている北海道7、東北17、関東75、中部42。関西29、中四国18。九州沖縄24。
https://rrr-movie.jp/
Ponniyin Selvan 1 (Tamil/2022)をユナイテッド・シネマ、アクアシティお台場で。二回目。
前回は固有名詞の洪水で溺れずについていくのが精いっぱい(少し溺れたか)。今回はコミカライズ原作を読んだりして多少は理論武装したが、はっきりしない点はまだ多い。ヴァンディヤデーヴァンとアールワールカディヤーンの間者としての位置づけとニュアンスがやや曖昧だが、この辺りはストーリーを最後まで見れば分かるのか。後半のスリランカの森でのチェイスのシーン、木を撓ませてから離して騎乗のヴァンディヤデーヴァンを倒すのはKaithiからの引用か。プーングラリとスリランカ沿岸の漁師たちとの関係は何なのか。ヴァーナティもまた小国の王女で、アルルモリとの結婚を期待するのは高望みではなく現実的なのか。ヴァンディヤデーヴァンは割と誰にでも惚れるタイプと見ていいのか。コットラヴァイ信仰をおどろおどろしいもの、パーンディヤ残党の悪役性と結びつけたものとしたのはどうなのか。貴婦人がマントラヴァーディを呼びつけるというのは何なのか。それからやはり地図を作らないと。適当なところまでコミックを読んでから着手する。