Victoria & Abdul (2017)をNTFLXで。邦題は『ヴィクトリア女王 最期の秘密』。
米英合作作品でインド映画ではない。気になってたけど映画館に行くほどでもなかったのをやっと見られた。それにしてもアリ・ファザルの起用の意味は何だったのか。歴然と色悪の顔をしてるんだけど、その実在人物とは全く似てない色悪顔が、アブドゥルというキャラクターの解釈を難しくしている。低い身分からのし上がるためになんでも利用する策略家なのか、生まれや育ちとは無関係に天性の詩人だったのか。そして、女王が認めたウルドゥー語の日記が後世にアブドゥルの回想録と照合されてその裏付けとなるとか、どれだけ女王の語学力が凄かったのか、アブドゥルの教え方が上手かったのか。とはいえ、二人の交流は中断を挟みながらも10年以上続いたのだからあり得ることか。元になったノンフィクションの方がよっぽど読みたくなってきた。とはいえ、女王の臨終シーンは迫真的で感動的。「落ちていくよう」という女王に対して「身を任せて落ちればいいのです。安息に向かって」という意味の言葉を返すアブドゥルには、確かに師に相応しい洞察と不動の精神があった。
Mandela (Tamil/2021)をNTFLXで。英語字幕。
寓話風とリアリズムが入り混じったメッセージ映画。村のこまごまとした描写にはリアリティがあり、たとえば「ようこそサッジャンプルへ」のような作り物めいた予定調和感は少ない。まず村落のトイレ問題、それからダリト差別、カースト間抗争、そこからの地方自治レベルでの選挙の腐敗が語られ、最後には拝金主義への戒めまで盛り込まれる。しかしカースト間抗争を語るのに、北村と南村という言い換えはやはり解釈を難しくしているのではないか。か細いヒントは南村の若者が壁に貼るシャシクマールの写真(さらっと調べたところではヤーダヴァだそうだが)。最も胸を打つ描写は、選挙騒動が起きる前の主人公の生活の描写。黙々と仕事をこなすが、対価をばっくれられることもある。配給食材の各戸への配達など、本来の職能とは無関係なことまで無給で奉仕させられる。緊急のトイレ掃除に呼ばれるが、車に乗ることすら許されず、後を走ってついていく。ヒロインが体現する郵便という制度の近代性。終わり方もうまいが、結局カースト・ファナティックな候補者のどちらかが勝ったことになるのはどんなものか。
小公女 (소공녀/MICROHABITAT、2017)をJaiHoで。
JaiHo無料期間最終日に駆け込みで。韓国インディーズというのは初めてかもしれない。豊かな社会の中での孤独な貧困の描写が、ヒリヒリとして身につまされる感覚でありながら、全体としてはファンタジーであるという不思議さ。韓国高度成長期の皆が貧しいという社会背景とは全く違う。ミニマリストというと、ついフリーライダーという言葉がセットになって思い起こされてしまうが、ヒロインは盗まず、騙さず、借金もせず、有能な家事代行として一人で自立して生きている。お気に入りタバコから賃貸住宅まで、手が届かない物は多いが、それによって社会への怨詛を募らせることもない。ここが一番真似できないファンタジーの部分。稼ぎはまず酒とタバコに使うという点で、ドヤ街のおっちゃんに近いと言えば近い。ただ、中年の入り口の単身女性がそれをやるということは、普通はありえないような鋼鉄のメンタルが要るはず。でなければどこか情緒が欠落しているか。学生時代の友人を次々に訪問するというプロットは「舞踏会の手帳」に近いか。旨そうにのむウィスキーと、旨そうに吸うタバコが羨まし。
Girlfriend (Marathi/2019)をオンラインで。
一人も知った顔がないと思いながら見ていたが、主人公はAiyaaの弟君だったか。ストーリーは全然違うし、そもそもAiyaaはヒンディー語映画だが、監督がマラーター人のせいなのか、良作の雰囲気は驚くほど似ている。本作の主人公がそうなのか分からないが、マラーティーお得意のバラモン・コメディーの雰囲気が色濃い。素っ頓狂なADHD気味の人物が前面に現れて、そのやることなすことがかなり痛い。そしてヤケクソみたいにハイテンションなソング+ダンス。古風なインド映画のソング+ダンスのパロディーをやろうとしてるかのよう。別に超自然的な何かを描いてるわけじゃないのに、シュールさが漂う筋立て。とは言ってもラブコメとしては非常に丁寧な作りで、ヒーロー+ヒロインの心理の綾の描き方にも説得力がある。デビュー監督のものとしてはかなりの完成度。特にじっくりとキャラを確立した前半から、嵐のような中盤への切り替わりが凄い。ただリードペアのどちらもが個性的すぎる顔立ちなのはマイナスではないかと思った。ヒロインは絵に描いたようなかわい子ちゃんでもよかったのでは。
Velaiyilla Pattathari 2 (Tamil/2017)をSGAPで。
あまりよい評判を聞いてなかったが、行きがかり上見てみた。監督・脚本がサウンダリヤ・ラジニカーントで、ストーリーがダヌシュ。つまり身内の馴れ合いで作ったということか。ダヌシュとカージョールという驚異のキャスティング、評価の高い前作のお馴染みのキャラ群をもってしても退屈。メリハリのない語りが最大の要因。お約束のソングとギャグとファイトを定量ずつ粛々と繰り出すが、スパークがない。クライマックスで悪役との間でどんな落としにするかは興味津々だったが、「災害という極限状況下で一緒に酒を酌み交わして仲良くなった」というのは脱力。現実の出来事でなら最も望ましい解決だったと思うが。しかしまあ、あのチェンナイの大水害をうまく使ったとは思う。カージョールは彼女でなければ出せない高ビー演技で素晴らしいが、ファッションが微妙にダサいのはなぜなのか。そうは言っても土建屋の社長ということでなのか。アマラのガミガミ屋女房への変貌はなかなかに面白かったが、稼ぎのいい歯科衛生士が結婚と同時に専業主婦というのは現実味に書けるのではないか。
Enai Noki Paayum Thota (Tamil/2019)をSGAPで。
151分、ガウタム・メーナンの悪い所の集大成みたいだった。Neethaane En Ponvasantham (2012)みたいな延々たる恋愛模様の描写にオーバーラップで「ビースト・モード」のアクションも加えてきて、しかもお得意の自分語りモードでぼそぼそとナレーションする。ソングが無闇に多い印象があったが、後から見たら全9曲で全部バラード。誰も止めなかったのか。キスシーンを入れ、ベッドシーンも暗示するのもいつもの作風。悪役に強烈なキャラを配置せず、団体戦にしたのはリアリティの追及だったのか。その割にはIT野郎の主人公は無痛症で超人的身体能力という設定になってるが。一番悪いことになってるクベーラというキャラがぼんやりと曖昧。ティーンエージャーで家出した兄がムンバイで優秀な警察官になってるというのは映画の中だから分かるが、内通者に仕立て上げられた経緯が曖昧、それとヒロインの救出とを繋げるロジックが弱すぎる。主人公の絶体絶命からの奇跡の脱出が3回もあるのだが、余り説得力無し。まさにtedious watch。
Kodi (Tamil/2016)をYTで。
30分あたりから字幕がどんどんズレていき、ほとんど使えない状態に。つまり字幕完成後に本編を編集し、字幕と同期させなかったということか。ダヌシュのB級作を潰すシリーズのつもりで見たけど、これは現地では案外評価が高かった模様。しかし字幕のせいで評価3割減なのを差し引いても宜えない。ポリティカルスリラーとは政治そのものの仕組みがスリリングで恐ろしいものであることを描写してこそと思うのだが、ここでのスリラーはごくごく粗暴に邪魔者を消すということでしかなく、しかも最大の悪役であるヒロインが、なぜか自分の手を汚すことに宗教的意味でも見出しているかのように、危うい橋を自ら渡り、そういう意味で全く冷徹さがない。彼女がどの時点で最初の犯罪を犯すことを考えるようになったのか、説明がないのがマイナス。無闇と謀殺のプロットが出てくるが、後先考えない粗暴犯罪という感じで理解できない。かといって「スブラマニヤプラム」みたいに、政治的な争いが人間の業を炙り出すというものにもなってない。ダヌシュの一人二役の演じ分けといい、硬派なトリシャといい、演技は申し分ないだけに、残念。
Thodari (Tamil/2016)をYTで。
余りにも評判が悪くて気になりながらもほったらかしだった一作。いや、一般向きではないかもしれないけどとてもいい。ダヌシュの十八番であるロウワーな底辺労働者はもちろんいいが、キールティの「負けが込んでるのに全然気付いてない天然のバカの子ちゃん」が素晴らしい。マラヤーラム語とマラヤーラム語混じりのタミル語が話され、たぶんタミル人に意味がとれるように調節されているのだろう。最初の客車上の幻想ソングから始まり、全編の半分近くが走行中の列車の屋根で展開するというイメージ。特に前半、ドゥードゥサーガルの滝からしばらくの西ガーツ区間、実際の場所ではないのだろうが、プラブ・ソロモンお得意の霧に煙る緑の山地の風景が素晴らしい。ハリーシュ・ウッタマンのサイコ野郎のキャラはやや説得力に欠けるか。まあそれにしても、老朽化した橋を全速力で渡ったり、火災を沿道から消し止めたり、ヘリを投入したりと、凄いシーンをCGで撮った技術は大したもの。クライマックスのチェンナイ・セントラル駅突入のシーンには確かなカタルシスがあった。プラブ・ソロモンの鉄分含有量はかなり高いと見た。
チャンス商会~初恋を探して~(장수상회、2015)をオンラインで。
韓国文化院の「韓国映画特別上映会」ドラマ特集の第四回。いわゆる孤独な老人ものとして始まり、頑固で我儘な老人の地域社会の中での立ち回り、そしてある日目の前に現れた老婦人との交流の中でぎこちなく心を開いていく様子が丁寧に綴られる。それが丁寧すぎてある種痛くて、若干辛くなってきたころに、韓流の本領発揮のどんでん返しがある。まさかそれは~というのはあったとしても、やはり作劇術が上手い。冒頭の過去の夢幻的なまでに美しいシーンの描写と現代のソウル近郊の地域社会の中のフリークス性を帯びた人々の描写のコントラスト。これでもかと言うぐらいに癖のある人物が後から後から出てくる。スーパーの店長の愛人の女性が、少女を取り囲む不良を独りで蹴散らすシーンが面白かった。ああいうのをもっと見たい。
Purampokku Engira Podhuvudamai (Tamil/2015)をYTで。
字幕のずれがひどく、明らかに何人かで分担しているようで、読むのが大変だった。タイトルの意味はよく分からないが、直訳すると「共有地は皆のもの」ぐらいか。冒頭にゴミ問題が取り上げられ、そこから頭のねじが何本か飛んだ鉄道労働者のヤマリンガムの紹介。レバーを引いて線路のポイント切り替えをする仕事。しかし同時に代々の死刑執行人。レバーを引くというのが仕事上の共通点。ここでダイレクトに『シャド-・キル』が引用されるのだが、ほとんどのレビューワーは気づいていない様子。死刑執行に使用されるロープにまつわる民間信仰も同作そのまま。それから極左革命の闘士であるバルが現れるのだが、この人のイデオロギーがチグハグで現実感に欠ける。さらにその革命的作戦行動がバカみたいで、ここで一気に盛り下がる。革命同志を演じるカールティカは相変わらず大根。監獄のトップであるマコーリーを演じたシャームが収穫。前半はやや硬いと思ったが、その硬さが後半に生きた。この役名はトーマス・バビントン・マコーリーから来ているようだ。脱獄作戦も杜撰。
Jagame Thandhiram (Tamil/2021)をNTFLXで。
日本語字幕付き。邦題は『トリッキー・ワールド』、翻訳は藤井美佳氏。とても楽しかったが、見終わってレビューを漁ると案外渋いものが多くて吃驚。スリランカ移民のエピソードはあまりにも図式的に思えたけど、主要ポーションであるイギリスの部分には、これまでのインド映画のエキゾチズム優先の観光客目線のものではなく、深々と冷え込む感じがしっかりあって、なおかつ絵としても美しくて非常に良かった。降りしきる雪の中でのダップ太鼓をたたく葬式が印象的。ダヌシュは最初から最後まで謎の戦闘力と強運をもったトリック・スター(ハードモードのマーリ)として描かれるのかと思いきや、180度の改心があってそこで物語が引っくり返る。子の改心がやや弱いか。そこで改心するならそもそもあんなことしなかったろう、という意味で。不勉強でしたで済むことと済まないこととがある。最後にはまたトリック・スターに戻るのだが、これが一番のスッキリしない点。ピーターの最終兵器に弾が装填されていなかったのはなぜなんだろう。リトル・インディアじゃなくマドゥライとしたのは天晴。
Billa (Tamil/1980)をYTで。
久しぶりの字幕なし。アジットのリメイクを見た記憶とWPDの粗筋とで類推して鑑賞。さすがに古色蒼然とした部分もあるが色々興味深い点があった。ギャングのドンに入れ替わる後半の主人公が、流しの芸人で、effeminateと評される女性的なメイクや振りをする人物であること。しかし、この時代のストリート・シンガーはまだダップやウルミを従えてはいない。北インドのものを思わせる両面太鼓が主な伴奏。そのキャラ名ラージャッパンを、芸人の同僚であるマノーラマだけは「ラーサッパン」と発音する。チェンナイを舞台にしたカーチェイス・シーンが何度かあるのだが、出てくる車は皆アメ車みたいなシェイプをしていて、アンバサダーとかは全くいない世界線。メインヒロインのスプリヤーはどっしりと横に広がっていて、ちょっとどうかと思うのだが、お約束で水着姿も披露している。ヘレンもまたちょっとキモいメイクで胸の谷間を見せるためにだけ出てきた感が濃厚。室内シーンの多くがゴージャスというよりはガランと大きい場所で、もしかしたら「バーシャ」と同じくムンバイのホテルか何かで撮ったのかもしれない。
Do Bigha Zamin (Hindi - 1953)を国立映画アーカイブで。
邦題は『二エーカーの土地』。題名から察せられるところはあるものの、ほぼ予習なしで見に行く。昔の字幕の長閑さ。田園の描写の美しさ。純朴な農夫が、資本家からの土地売却圧力に抗して、現金を稼ぎにコルカタに出ていくが、都会のありとあらゆる悪に洗われて全てを失うという話。いわゆるリアリズム映画で、日本の映画アーカイブに所蔵されているくらいだから各地の映画祭を席巻したのだろうが、ソングはきっちり入り、ミーナー・クマーリーのアイテムソングまである(やや無理のある挿入)。そしてインターミッションの表示も。後から調べて知ったが、インディアン・ニューシネマの先触れの作品と位置づけられているそうだ。ヴィットリオ・デシーカの『自転車泥棒』に直に刺激を受けて作られた作品。主人公がコルカタでベンガル語で話しかけられ戸惑うシーンがあるが、元々の出身がどこなのかはよく分からない。主演のバルラージ・シャーフニーは『熱風』の老紳士役の俳優と同一人物と知り驚くなど。当初は彼が上層の人物ばかりを演じていたことからスタッフの間で疑念があったとか。
それだけが、僕の世界(그것만이 내 세상、2018)をオンラインで。
韓国文化院の「韓国映画特別上映会」ドラマ特集の第三回。うっかりして第二回を逃してしまった。イ・ビョンホンと並んだパク・ジョンミンのデカ頭が凄い(もちろんサヴァン症候群の患者としての演技、吹き替えなしの演奏も凄いのだが)。母親以外の女性キャラクターの「すぐにお店にでられそう」な雰囲気の統一感。弟に惚れる家主の娘の蓮っ葉な外見や言動と、対照的な人を見る目の確かさとが印象的。貧困を背後に持っていそうなDV話と、目もくらむような財閥系の富の分かりやすい表示、難病、母子もの、芸道もの、異能の障害者、などなど色々取り込みながら、最後はチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番で華麗にまとめた。父親の存在に代表される封じ込めた過去の貧困の記憶と、大富豪の富の現実離れした描写、穏やかで余裕のある街の様子とが、曰く言い難い余韻を残した。
Iraivi (Tamil/2016)をキネカ大森で。
邦題は『女神たちよ』。先日の『マーリ』に続き、安定の画質と音質。2017のSIFFJでの、インド国内の安手のDVDを無理に流してるみたいな酷い粗画像と割れる音とがトラウマになってたけど、やっと克服できた感じ。ストーリーを既に知ったうえで改めて眺めると、適材適所の俳優たちの芝居に引き込まれ、初見時と同じく引き込まれるし、惨たらしいシーンの前兆の盛り上げ方に体がこわばる。「カンナギを悪魔の手から救い出せ」はやはりよく分からない。カンナギの前半生の「耐える妻」像はメタファーとして有効だが、後半の最も重要な「正義の裁きを求める女傑/滅びの女神」というのが充分に生かされていない気がした。男たちは強いきずなで結ばれていたのが無残に崩壊するのだが、女たちは余りお互いに関わりなく、男との関係性だけで描かれる。おそらくそれは現実的なのだろうけど、エンディングのソングでの檄はちょっと虚しく響く。とはいえ、そのことだけで、女性映画に名を借りたホモソーシャル映画と批判するのはおかしい。逆にホモソーシャル的部分がいかに魅力的に映るかということなのだろうけど。
Maari (Tamil/2015)をキネカ大森で。
邦題は『マーリ』。ダヌシュはもちろん一定の評価をしてるのだけど、なぜここまで日本で受けたのかが完全には分からずにいる。最初期のKaadhal Kondeinを代表とする病んだ奴、VIPを代表とする等身大の若者像、Aadukalamあたりからのリアルなダリトもの、この辺はかなりくっきりキャラが立ってたけど、それ以外がどうもとりとめがなくて、でも現地でもどんどんスターになっていってるのは横目で見てた。本作はまあ大スターに許されるお気楽な歌って踊って大暴れ路線の代表作か。ただ、他のスターがやるその手の作品と違ってペーソスが前面に出ていて、やはりそこはさすがと思った。ラストの格闘シーンなど、CGの安っぽさとかがどうかと思うのだが、本当の山場はその前のお祭りソングで終わってしまっていたのかも。カージャルは「マガディーラ」でのションベン臭い小娘のイメージがなかなか抜けなかったが、本作あたりから艶が出てきたのかもしれない。ヴィジャイ・イェースダースはこういうお祭り映画に相応しい半端悪人ぶり。敵方の小者まで、キャラの立った顔が揃っているのが好もしい。
『ジャッリカットゥ 牛の怒り』をシアター・イメージフォーラムの試写で。
昨年9/24にアジアフォーカス福岡国際映画祭で見たのに続き2回目。後から聞いた話では、映画祭上映版と細かく編集を変えてきたものなのだそうだ。映画祭版では冒頭に「ジャッリッカットゥ」の語義が示されたが、今回版ではヨハネの黙示録に変えられたりしてた。限界集落はイドゥッキのどこか。ほとんどがクリスチャンの村。おそらくは南ケーララのクリスチャンベルトであるバックウォーター地帯のから移民してきた人々の2世3世が暮らしている。マス・フレンジー映画に役者の善し悪しはあまり関係ないようにも思えるが、メインのキャラであるアーントニを演じたアーントニ・ヴァルギースはAngamaly Diraryの時よりもグッと男臭くなって肉体派(ただし6パック系ではない)になった。出番は短いものの村のエロい女役のシャーンティ・バーらチャンドランはねっとりしたケーララ娘の路線の正当な継承者のようで良かった。音と映像のモンタージュをつなぐテンポが絶妙で映像詩的な味わいも。マラヤーラム語映画で理性ゼロの男たちが罵り合いド突き合うのを眺めるのは謎の快感がある。