Mathilukal (Malayalam/1989)をYTで。
久しぶりにアドゥール先生の芸術映画。名作の誉高いのにこれまでDVD化されたことがなく、諦めてたら、YTに英語字幕付きで画質も悪くなくアップされていた。何がどうなってんだか。バシールの原作は読んでいるのでストーリーは折り込み済み。ディスク化はないものの、ケーララではインド独立記念日にこれがTV放映されたりしてるのを知ってるが、何とも心優しい独立闘争譚(いや、闘争してないな)。まず驚くのは独立闘争時代の英領マラバール・カンヌールの牢獄の人道的で長閑な佇まい。この間「サンジュ」で見た独立後のムンバイ監獄とえらい違いだ。獄衣や寝具がパリッとしてお洒落、独房も清潔で、まるで僧院の宿坊みたい。トイレは共同で、独房内にはないことが台詞で分かる。これらは映画的脚色なのか、史実に即しているのか。ともかくそういう設定から予想外の映像美があった。一番の期待はKPACラリタの声の出演だが、これは判断に迷う。あの声を聞けば、誰だって彼女の顔を思い浮かべる。つまり彼女を映しているのと同じなのだが、本当にそれでよかったのか、それが原作からの最大の改変。
Antony Firingee (Bengali/1967)をDVDで。
Jaatishwar (Bengali/2014)があまりにも好きすぎて、先行作としての本作も見てみたかったので。アントニー(1786–1836)の伝記的事実について、両作に共通の要素によって、伝承の骨格について分かるところがあり、また映像作家が自由に創作した部分も分かった。本作ではアントニーはポルトガルから来訪したのではなく、ポルトガル人の父とベンガル人の母の間に生まれたという設定。ポルトガル系なのに在地の西洋人社会では英語で話している、また混血として蔑まれながらも一応西欧社会の一員となっている、等々が興味深かった。最大の見せ場はやはりカビガーンのパート。あの闘争的な性格は両作共通。不思議な芸能だ。どうやら詩だけが残り、メロディーは消えてしまったようだ。そもそもが歌舞というよりは即興の詩作合戦というのが基本のようだし。音楽はどれもいい。極めてシンプルな楽曲に思えるのに、ハウラー川の川面やコルカタの古建築などの映像にのるとジーンとする。19世紀初頭のバラモン未亡人がサティーを強制されるという箇所は心底恐ろしかった。
Nadi (Malayalam - 1969)をDVDで。
クリスマス・ソングのあるミュージカル映画ということで。しかしここでのミュージカルは「名曲揃い」という程度の意味だった。確かに、ぬるい感じのバラードが並び全部同じに聞こえることが多いマラヤーラム映画ソングとしては出色のものが揃っていた。ストーリーは大体先が見えるメロドラマなのだけど、前史の説明がもっと欲しかった。2つの家の不仲の原因はなんだったのかとか。それからリードペアは明かに映画開始前の時点で心を通わせているのだけど、その発端や恋心を押し殺すようになった経緯が不明。まあともかく若い頃のシャーラダの美しさが堪能できて良かった。プレーム・ナシールの男前ぶりも良く分かった。一番魅力的だったのは悪役のマドゥーだったが。この人のドラマティックな容貌からは本当に目が離せない。欧化の度合いが少ないクリスチャンの風俗描写も凄い。バックウォーターに停泊したハウスボートで暮らすというのにはどんな意味があるのか。どう考えてもトイレは備えていない船に見える。しかし水上生活者が必ずしも貧民ではないことが劇中の設定から分かるのだ。これについて調べること。
いつか晴れた日に/Sense and Sensibility (UK-USA/1995)をNetflixで。
連日のインド映画漬けの箸休めでサラッとしたものを見ようと手を出してみたら140分もあった。まあメモを取らずに見れたという点で気晴らしにはなったけど。普段あまり邦題にはガタガタ言わない方だけど気の抜けたタイトルだ。それにしてもこの作品、ロマンスなのか、お笑いなのか、告発ものなのか、場面場面で変わって見えてまごついた。ロマンスとしては、見かけや如才なさや財産とかに惑わされずに真実の愛を見つけなさいという教訓話か。お笑いとしては、ヒロインの母の世代にあたる人々までもが恋愛の風向きの行ったり来たりに翻弄されて落ち着かない様子がシュールなレベルなのがおかしい。告発としては、この時代の女性の極端な男性依存と結婚依存、そして男性のモラルのなさが、現実性が感じられないほどどぎつく描かれる点。結婚の可能性が曖昧な眼差しや思わせぶりな言葉だけで交わされ、後から裏切った裏切られたの騒ぎになるというのが阿呆臭く思えてしまう。ガッツリ親が決めた相手と見合い婚するインド人が素晴らしく見えてしまうではないか。
Vada Chennai (Tamil/2018) をDVDで。
なんと二部作前提だったか、予備知識なく見て驚愕。細かいあれこれを消化するには少し時間がかかりそうだけど、ヴェトリマーラン印がくっきり刻印されたギャングもの。ただし、前作Visaaranaiでのような釘付けにするインテンシブさ(主演俳優が撮了後もしばらくハングオーバーから抜けられなかったというあれ)はなかった。Subramaniyapuramのように始まり、途中からKaalaのようになるのが若干不可解。90年代のスラムの大親分を演じる見慣れない俳優がアミール・スルタンだと後から知りビックリ。タイトル通り北チェンナイの漁村(実際には密輸業に転換)のバイオレントな年代記。ご丁寧に各エピソードには西暦年号が表示され、しかもそれが(例えばMGRの死のような)重大事件とリンクしている。にもかかわらず時系列は分かりにくくて、紙に書いて表にしたくなる。さっき獄中にいた人間がなんで娑婆にいるのか?みたいな混乱。しかし最初の方のハルタルからの電器店略奪のシーンはキツい。アンドレア・ジェレミヤーのまさかの鉄火女役は衝撃で、そこから引き込まれた。
Sufi Paranja Kadha (Malayalam/2010)をDVDで。約8年ぶりの鑑賞。
不当に無視された一作だと改めて思った。ヒンドゥーとムスリムの共存と融和みたいな分かりやすいテーマにすれば映画祭では好評だったかもしれないが、映像作家はそういう安易な道を取らなかった。むしろ19世紀前半のマラバールの社会の総体を価値観を交えずに描き、そこに時空を超えたマジカルな女性のパワーを現前させた。冒頭に登場するビーウィーとだけ称される女性の聖人は、ちょうどケーララの地母神がバガワティーとのみ称されることの対照か。また縁起を説くスーフィー(バーブ・アントニー)が、劇中で最後はサニヤーシーとなって登場するシャング・メーノーン(タンビ・アントニー)と同じ顔(そりゃ兄弟だから)なのにも意味があるかもしれないと気づいた。インドではクリスチャンもムスリムも先祖をたどれば大体ヒンドゥーという当たり前だが言いにくいことを認めたうえで、大伝統の神を遥かに凌駕する、土地の霊力と共にある古来の神の存在の根深さをクッキリと指し示した。性的な表現も厭わない本作だが、一番エロティックなのは女神像発見のシーン。
Ozhimuri (Malayalam - 2012)をDVDで。6年ぶりぐらい。
公開時に見て大変な感銘を受けた一作。男と女、タミル人とケーララ人、ブラーミンとナーヤル、老人と若者という幾つもの対立軸を展開して、旧トラヴァンコール藩王国の人間関係を描く。これら諸要素は対立しながら混じりあい、汽水域のように絶えずお互いを侵食しつつ濃密なレイヤーを作り上げる。初見時は納得できなかった結末も、今回はすんなり腑に落ちるものがあった。老境の夫婦の、夫は女性を恐れるがゆえに妻に対して専横となったこと、妻は夫の奴隷であり続けたこと、これらを断ち切るために二人は離婚という手段を選び、そのうえで一緒の生活を続けていくという終わり方は、この物語の結語にふさわしい。そこから、過去を恥じることなく(かといって栄光化することもなく)曇りない目で見つめなおし、同時に過去にとらわれることなくより良き関係性を模索しようというメッセージが感じられる。一方で、特定のカーストの人々の群像的肖像を描こうとするこの意思は、インド映画においては極めて特異なものに思える。もう少しきちんとした英語字幕が付いていればと惜しまれる。
Luka (Malayalam - 2019)をDVDで。
何かのついでに買ってあったDVDで、トレーラーすら見ていなかった一本。最近こういう白紙での映画体験は珍しい。監督はほぼ新人。構成力の弱さからくる150分の長尺。ただし、見覚えのあるフォート・コーチンの風景、そして醸し出される若者の解放区的な雰囲気には涙しかない。コーチンのビエンナーレが背景になった映画としては初ではないか。サブ主人公である警官の性的不能は非常に奥歯に挟まった言い方で暗示されて、どうだろうと思った。妻であるムスリム女性がヴェールを一切被っていないの印象的。ロマンスが絡んだマーダー・ミステリーで、殺人のトリックは古典的と言えば古典的。それが却って盲点となり、種明かしまで気づかなかった。一方で難病ものとしてのモチーフもあり、主人公にはネクロフォビア、タナトフォビア、アンガー・マネージメント欠如症などと色々盛りだくさん。それらと合わせ技でボヘミアン的アーティストというやや気恥ずかしいパーツもあり、しかしそれらを一つのキャラとして統合したトヴィノは凄いし、トラウマを抱えたヒロインをやったアハーナの個性的な風貌も生きていた。
Kayamkulam Kochunni (Malayalam/2018)をDVDで。
畢生の超大作に見えて案外ひっそりと消えていった感のある歴史もの。堂々170分。19世紀前半に実在したとされる義賊を描く。昨今ブームの時代ものの中では、庶民視点という意味で画期的かも。きらびやかな歴史絵巻を繰り広げようという意思は感じられず、マラヤーラム映画特有の隙間の多い風景が展開して、世界の片隅の辺境感が強い。モーハンラールは文句なしの格好よさ。プリヤ・アーナンドはシュードラの娘には見えずミスキャスト。判断に困るのは主演の二ヴィン。身体を鍛え、乗馬やカラリの特訓をしたのは評価したい。ただ伝説の義賊としてはどうかと思う瞬間も多々あった。豪傑ではなくとても生真面目な奴に見えてしまうのだ。アウトローの孤独や開き直りは表現されず。物語は言い伝えを順々になぞりながら淡々と編年体で語られていくように見えながら、最後のシーンでひっくり返す。ここと、中盤の市(ヒンドゥーの祭?結婚式?)での格闘シーンはファンタスティック。歴史ものというよりは時代アクションとして吹っ切れることができれば、大成功になっていたんじゃないか。
Athiran (Malayalam/2019)をDVDで。
現地公開時からポスターの怪しい光を湛えたファハドの瞳にただならぬものを感じていたので、序盤で彼が冷静な医師であると分かりはぐらかされた。しかしラストでああそういうことかと納得。よく出来た組み立て(まあ、元ネタがあるらしいが)。ただし組み立ては良くともストーリーは冗長。ちっとも怖くないのはわかり切ったことながら、神秘的な情趣が全く感じられないのが問題。多くのレビューが映像美に言及しているが、凝った映像であることは認めるが美があるとも感じなかった。ゴーストハウスの造形などペラペラの安普請感がイタい。どうしてここで手を抜いたのかと疑問に苛まれる。脇役のナンドゥやレナも芝居が妙に安っぽい。しかしこれだけネガティブな要素があっても、ファハドとサーイ・パッラヴィの演技を見るのは無上の快感。無理のあるラブソングもしっかり決めて魅せるシーンにしている。自閉症児がカラリパヤットには特異な才能を見せるというのにリアリティがあるのかどうか分からないけど、舞踊家であるパッラヴィが行う立ち回りの美しさは、それだけずっと見ていたいと思わせるほどに魅力的。
Ishq not a love story (Malayalam - 2019)をDVDで。
シェイン・二ガム主演のスリラー。低予算映画だったらしいけど、やはり上り調子の俳優にはいい脚本が来るものだと感心。冒頭のコーチンのロケ地に涙。シェインはただでさえ頼りない甘えん坊風なのに歯列矯正の金具までつけていて、それが役作りなのか素のままなのか分からず不安。不安と言えば、インド映画の見過ぎで、わき見運転とか道路横断とかのシーンで一瞬先の惨劇を予想して身構えてしまう。なのでラブラブの二人に厄災が降りかかってきたところで逆にほっと安心した。モラル・ポリシングの恐怖と、ポリスの恐怖とを混ぜ込んだクレバーな脚本。134分の映画なのに、一部では冗長と批判された、二度にわたる嗜虐シーン、たぶんそれは最終シーンでのひっくり返しのために必要だったのだと思う。しかしモザイクは必要だったのだろうか。弱いものを見つけて執拗にハラスメントを行う悪人を演じるシャイン・トーム・チャーッコーは目の輝きがヤバすぎる。その妻を演じるリヨーナ・リショーイはもう随分出演作があるのに全く認識していなかったけれど、場違いにゴージャス。
『燃えよスーリヤ』Mard Ko Dard Nahi Hota (Hindi/2018)を試写で。
痛みを感じない病気を持つ男が、幼児に体験した暴力に復讐するために格闘技の道に進むというストーリー。ジャンル映画という形容では足りない、全きオタク映画。モチーフのオタク的読み解きはプレスに詳細に記されていて、とても自分などが口を挟める世界ではない。冒頭のチル・オマージュには痺れたが。そういう細かいことを超えて、インド映画というものが持つ痛覚のなさが皮肉られているのではないかとも思ったり。「それ、絶対死んでるだろ」という身体的ダメージを負いながら、根性と情念だけで戦ったり歌ったりする登場人物というのは80年代を頂点に、普通のメロドラマなどにも全く断りなく現れていた。テルグやタミルなんて今でもそうだ。それに対して無痛症という合理的説明をつけたのは進歩なのか後退なのか。ともあれ、女性がカッコよく暴れる映画は気持ちいい。どこまでも昆虫の生態観察風なクールなナラティブはパスティーシュという意図を明確にするためか。ぞっとするような怪我のシーンでも、怪我を負った人物が痛がっていないと割と平気なもんなんだ。
『カーラ 黒い砦の闘い』でもう一つ思い出したこと。
カーラと妻はティルネルヴェーリの出身。劇中で故地のタミラバラニ川のことが言及されるシーンがあった。彼らは親の代からムンバイにいたので直接の関係はないのだが、1999年に、プランテーション労働者による労働運動への弾圧で、警察により多数のダリトが殺される事件のあったところ。
https://en.wikipedia.org/wiki/Manjolai_Riots
Aami (Malayalam - 2018)をDVDで。二回目。
最初に見た時はえらく評価してたな、自分。二度目の鑑賞はかなりかったるかった。カマラの生涯のシャレにならない部分を暗示だけであっさり流し、夫ダースのメンヘラをきちんと描かなかった。観客のほとんどは、既にインプットされているカマラの伝記的事実で補いながら見ることになるのだが、そうした作業を当て込んで、映像はただ蝶よ花よと、カマル監督らしい柔弱さが溢れていた。カマラの著作から想を得た詩的なスケッチと言い張ることもできたとは思うが、そういうものだとすると、詩的な飛躍が足りなくて俗っぽい夫婦唱和譚になってしまっている。しかし160分は不思議と長さを感じないのは確か。
https://eigadon.net/@PeriploEiga/13233407
Kaithi (Tamil - 2019)をイオンシネマ市川妙典で。
279席のスクリーン2は70%ぐらい埋まってたか。デビュー作以降あまりいい脚本に恵まれなかったカールティの代表作となることは間違いない。148分がほぼ全部夜、ソング・ダンスなし、いわゆるヒロインがいない、などなど異色づくしで、ニューシネマ風だけど、こってりしたファミリー・センチメントもあり、後半に行くに従い、非合理の瞬間というか、満身創痍で馬鹿力みたいなタミル・アクションの作風も濃度が上がって来る。そして最後に「それズルじゃん!」という最終兵器(中国製)が出てきて、しかし不思議なくらいの爽快感で終わる。カールティは持ち前の童顔にほとばしる怒りをうまく乗せることができた。つぶらな瞳が愛くるしいジョージ・マリヤーンは初めて顔と名前が一致。なかなかの見せ場を与えられていた。ナレーンは久々に見た感じだが、すっかり脇役に回った感じ。KPYディーナーは初めて見た。プロのコメディアンがこういう素っ頓狂な天然DQN役をやるのが新鮮。いかにも続編を構想中といった終わり方、ヴィジャイ64もいいが早くそっちを作ってくれ。過去作も観なくては。
And The Oscar Goes To..(Malayalam/2019)をDVDで。
『アダムの息子、アブ』のサリム・アフマド監督の最新作。『アダム』の日本での上映に伴う来日で、ちょっと話した際に、製作中の本作のタイトルを教えてくれて、「映画についての映画か~」と楽しみにしていた。それ以上の予備知識なく臨んで、監督のほぼ自叙伝というのに気づき吃驚。主演がトヴィノなんですけど、監督、これは…。ええと、これは自己のイケメン化じゃなく、客を呼ぶための戦術なんだよね、監督。ともかく、デビュー作『アダム』の撮影から封切り、国家映画賞主演男優賞獲得、オスカー外国語映画部門へのインドからの出品作としてのセレクション、LAに乗り込んでのプロモーション作戦、ショートリストに残れず敗退したところまでを時系列順に淡々と描く。所々楽しいトリビアはあるけど、色んなエピソードを詰め込みすぎてどれも掘り下げが足りない印象。ただ勉強になる一本であることは確か。『アダム』では、まるで現身の人間とは思えない崇高な「許し」をリアリティをもって描いていたが、本作のテーマは「どんな人間もグレーである(真っ黒ではない)」か。