『天国と地獄』(1963)をDVDで。
もう止まらなくなってギフト用に買った黒澤は全部見てしまいたくなった。この作品は映画館で一度だけ見た記憶がある。とても多くの人が引っかかるらしい、列車は新幹線という記憶の修正に自分も陥っていた。143分のこの作品、途中で露骨なほどにインターミッション的な区切りがあって、封切り時にこれがどのように扱われたのか気になる。横浜、鎌倉の実在の地名がバンバン出てくる。で、検索してみると詳細なロケ地同定をしている人が複数いた。しかし、前世紀に一度だけ黄金町に迷い込んだことがある経験からして、あの黄金町のシーンはほとんど現実を反映してない。それに先立つ伊勢佐木町のシーンから黄金町の魔窟に至る部分が、ファンタジックに創造された地獄の詳細描写として一番の見せ場であるように思われた。それに比べると丘上の天国は無味乾燥で退屈。なので、そこを舞台とした前半には、張り詰めた人と人とのドラマが、計算し尽くされた人員配置で展開されなければならなかった。この対比の妙には唸る。
カンヌ国際映画祭でのインド映画に関する記事。
インド映画が時に謳い文句にする「カンヌに出品」云々は、ほとんどがマルシェへの出品でコンペではないこと、などなど色々面白い記述が多い。特に終盤の、インド映画は字幕(この場合英・仏の)で伝えきれない要素が多すぎて、それが評価の足を引っ張っているというくだり。映画祭向けに作られない、ローカル娯楽映画の本質を言い当ててる。それから本公開前に作品を人目にさらすことを極端にいやがる映画人の心性などについても。https://timesofindia.indiatimes.com/home/sunday-times/cannes-con-how-filmmakers-spin-stories/articleshow/64334979.cms
『あまねき旋律(しらべ)』を試写で。
ナガランドの民謡に日本語の訳詞がつくなんて、まあありえないことだし、これは稀有な経験。伝統的な野良の労働歌「リ」がキリスト教の影響によってどのように存亡の危機に陥り、またそこからどのように復活したのか、そのあたりがもっと知りたくなった。それだけじゃなく、キリスト教そのものと人々がどのように折り合いをつけているのかも。作中に写る村の風景は、ただもう質素で愛想のない、インドの辺境地帯そのものといった趣で、そのなかで聳え立つ教会が異様なインパクト。意識したのかどうかは分からないが、ノイシュヴァンシュタイン城(あるいはDLのシンデレラ城か)のダークなパロディのようにも見えた。インタビュー的部分では、メインランドとは異なる、農作業における両性間の平等のようなものが透けて見えた。ナガランドだけではないけれど、インド北東地方の、インド英語じゃないバリバリ米語によるレベルの高いロック、ヒップポップ、ジャズ(非マサラ風味)の源流は何なのかさらに探求したくなる。
『酔いどれ天使』(1949)をDVDで。
昔浴びるようにモノクロ日本映画を見ていたと自分では思っていた時代にも、どうも戦後の40年代後半のものはスルーしていたようだ。これも初見。50年代のものとは違い、ここにはダイレクトな焼け跡文学がある。結核を患い自暴自棄になったヤクザと気概あるスラムの医者という、今日の目からするともう類型的で見ていて気恥ずかしいようなキャラクターを、芝居力でねじ伏せて見せる。そしてのちの香港ノワールにも通じるようなアンダーワールドの粋の世界(焼け跡なのにもかからわず)も見事。本作、『野良犬』から『天国と地獄』の山崎勉まで、黒澤は犯罪者の瀬戸際での劇場の迸りを描くことに特別な情熱があったように思われる。
『野良犬』(1949)をDVDで。
先日来ギフト用日本映画(英字幕付)の手に入りにくさについてぼやいていたけど、黒澤―三船コンビの何だこれというほどのお買い得4枚組が手に入った。『野良犬』は前世紀の名画座入りびたり時代にも見てなかった一本で嬉しい。熱帯夜に酷暑の映画を見るという偶然。まるで香港映画を見ているような錯覚にもおそわれた。1948-49年の東京にノスタルジー爆発。自分が生まれていたわけじゃないのに、それでも分かるあの空気感。主役の刑事が復員兵に扮して歓楽街を歩き回るシーン、キャバレーの踊り子たちがへたり込む楽屋のシーンが秀逸。ほんの数分のシーンに千秋實が出てきて、役作りに唸る。演技を始める以前に癖があり深みがある表現力高い顔が多くて、詮無いことながら、昨今のツルんとした顔の役者たちと比べてしまう。戦後という時代を感じさせる沢山の顔の中で、やはり三船のそれは表現力と共にスターのカリスマを併せ持っていたものだというのを改めて確認。明日も続きを見よう。
Magalir Mattum (Tamil - 2017) をHeroTalkiesで。
タミル映画にとって2017年は振り返るとフェミニズム的傾向の強い年だったらしい。1994年の同名作は女性中心のソーシャルの先駆けみたいなものだったが、大団円のところで、それまでのカッコいい展開が腰砕けになってしまう残念賞だった。2017年の本作もストーリーラインは全く異なるながらその腰砕け感があった。登場人物を20前後の女性から孫もいるような主婦たちに変え、その困難な現実をリアリスティックに描いた。しかし落としどころに困ってフェアリーテール的なリアリティ・ショー(変な言い方だ)に落とし込んでしまったのには感心しない。「若い世代」の狂言回しとして登場するジョーティカーは、未婚という設定だが、伝統的な「乙女」像からかけ離れた図太い存在感がいい。3熟女も、現実の同年代女性と比較したらやはり華がある。結果的にお気楽作品だったが、女性が自分の意思を通すと大流血の惨事が起きるというストーリーラインを数多く見ているので、楽しい逃避旅行の次の瞬間に惨事が起きるのではないかと気が気じゃなく、変な緊張感があった。
Kaatru Veliyidai (Tamil - 2017)をHeroTalkiesで。
マニ・ラトナムの近作らしく、手放しで絶賛できず、といって駄作と切り捨てもできない微妙な一本。マニには、歴史の大激動の中で翻弄される男女の大河ロマン・タイプと、平凡な男女の間の揺れ動く心の機微みたいなのと二系統があるが、本作は両方を一つにしようとする試みか。しかしマクロの大活劇には現実感がなく、チェイス・シーンなども全然ハラハラしない。面白いのはミクロの方。ヒーローが完全なクズ男、ヒロインはそれを十二分に承知しながらも惚れた弱みで関係を断てない。極限状況を経たとはいえ、クズ男の改心が充分に描けているとは思えない。2人がグダグダする舞台背景がインド北辺の絶景というのがずるい感じ。ラストシーンなんて昔のシルクロード番組で見た火焔山みたいだったもの。最近のボリで流行ってるダルい自分探し系ロマンスものにも近い。触ると壊れそうなアディティの美貌が一番の見どころ。いかにも地に足の着いてないガラス細工のヒロインを華美な衣装を着せて絶景の中に配置するところに、マニのややオールド・ファッションな娯楽映画魂があるか。
『英国総督最後の家』を試写で。
『ベッカムに恋して』と同じ監督だと覚えていたらもっと期待値低かったかもしれないけど、いい具合に忘れていてよかった。9割がたが英語台詞の英国映画ながら、ほぼインド映画として鑑賞。ルイス・マウントバッテンのイメージが違うのとアンベードカル博士が出てこなかったことを除けば満点の読後感。歴史に翻弄されるインド人カップルの恋模様も面白かったが、やはり醍醐味は密室のパワーゲーム。夫が軍人で妻が左翼的なマウントバッテン家内のディベートから、深く静かに始まっていた東西冷戦構造とチャーチル戦時内閣の秘密報告書まで、政治劇が鮮やかに描かれる。分離独立をどうしても阻止したいガーンディーが初代首相をジンナーにすべしと主張し、ネルーが猛反対したというエピソードは史実なのだろうか。プレスに記述のあったThe Shadow of the Great GameとFreedom at Midnight(今夜、自由を)が読みたくてたまらなくなったが読む暇があるだろうか。
Nenu Local (Telugu - 2017)をYTで。英語字幕付き。
批評家筋からの評価は低く(これは日常的なことなので参考程度にしかならない)、興行的にはかなりのヒット、数少ない日本人鑑賞者には好評だった一作。しかしあまり楽しめなかった。ナーニのような、名家の御曹司でもなく、並外れたアクション適性もない俳優が主役を張る映画は、「小洒落た脚本」という一点突破で行くというのがテルグ界のお約束。脚本的にはアッと驚くクライマックス直前の種明かしがあるけれど、それ以外はただもう定型をなぞるだけの様式美。衆人環視下での「俺の女だ」宣言から始まり、ストーカー的求愛、グーンダとの格闘、友人の恋路の手助けなどなど。これをいわゆるトリックスター型の主人公が行うのだが、そのキャラ造形に説得力と一貫性が感じられない。引き比べてみれば、アッル・アルジュンのこのタイプの描写の巧みさを思い知る。とはいえ、テルグ映画界でこれまで浮かんでは消えてきた、非御曹司「覇気のない若いの」系ヒーロー(ラージャー、ウダイ・キランなど。それより古い時代にもきっといたのだと思う)の1人としてナーニ君にはこれからも注目していく。
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Sathamanam Bhavati (Telugu - 2017)をYTで。英語字幕付き。
これも昨年評判の良かった一作。感想は微妙。SVSCなどに連なる、家族で楽しめる縁起物系の作品。アーンドラ地方の田園(ここではゴーダーヴァリー沿岸地域)地帯の礼賛、大家族の人間関係、華やかな宗教儀礼などのお約束がてんこ盛り。ナンドゥ演じる主人公(一応)の田舎の素晴らしい好青年ぶりは興味深いがやや平板。見てないけどRangasthalamではこれがもう少し掘り下げられたのではないか。 彼が恋愛を諦めるくだりがちょっと分からない。アヌパマは素晴らしい、今のこの時期にしかできない演技。肝となるプラカーシュ・ラージの祖父役が、好演であることは認めるもののどうも馴染まない。実年齢で祖父を演じられるオーラある俳優をテルグ映画界はもう持っていないのか。それから、絵にかいたような美しすぎる田園風景、見事な豪農の大邸宅にも、若干興ざめする。作り物臭さに耐えられないのだ。実際に現地に行き、目を疑うような光景も見てしまっているので。タイトルになっているマントラが唱えられる宗教儀礼については、もう少し調べること。
Fidaa (Telugu - 2017)をYTで。英語字幕付き。
昨年のテルグ映画の中でも傑作の呼び声が高かったので、どうやって見るかと思案していたところ、太っ腹公式動画がYTに。シェーカル・カンムラらしい、じっくりと丁寧に描く恋愛もので、SKトレードマークの、NRIの母国での生活実感をも描く。明らかに相思相愛の男女が距離を縮めたかと思うと反発して離れていくシーソーゲームが楽しい。ヒロインが事実上の主役であること、愛する相手に受け容れられないフラストレーションから、内に秘められていた階級差別を口にしてしまうヒーロー、というのはAnandと同じ。ただし、Anandはその差別心が顕わになったあと、物語が失速しておかしな方向に行ってしまっていた。本作ではさらに、男・女、アメリカ・インドの田舎、富裕層・中間層、アーンドラ・テランガーナという対立軸を詰め込みながら、confidentでone pieceなヒロインの自己認識によって、糸の切れた凧になってしまうのを逃れた印象。A Aaでのアヌパマといい、本作のサーイ・パッラヴィといい、ケーララの女優がテルグ映画で田舎美女を演じるのは感動的。
Kaala (Tamil - 2018)を川口スキップシティで。二回目。
やはりスキップシティの超絶映像t+音響でもう一度体験しておきたかった。一回目を見てから気になっていたところはかなり確認できたので満足。シヴァージ・ゲークワードとカーラ、この映画でラジニは二度も死ぬのだ。本作が激しい攻撃にさらされて、興行収入も思わしくないという情報も耳にする。そりゃそうだ、かつてない本格的な階級闘争映画なんだもの。ある種の伝統芸能として判で押したような極左映画を作り続けてきたナーラーヤナ・ムールティなんか真っ青で息してないんじゃないだろうか。ダリトが主人公なのに、「可哀そうなダリト」じゃない&ダリトが主人公なのに痛快でカッコイイというのが、本作の真に革命的な本質。二回目に見ても最後の5分ちょっとのネクストレベルのアジテーションには鳥肌が立った。イデオロギーの先進性に追いつき、メッセージをこれ以上なく効果的に表出するテクニックの洗練が圧倒的。
Maya Bazar (Telugu - 1957/2010)を仲間と一緒に。
誰かと一緒にこれを見たのは初めて。ウケるところは時折予想外の箇所だった。ともかく、「綺麗な若い娘さんの中身がおっさん」というシチュエーションがどうしてかくも映画的に面白いのかを再確認。それから、レーランギのお笑いパワーもだ。演技する以前にその顔と体型で笑わせる。それから、退屈な親族の間の相談のようなシーンで、一々の台詞が「本筋」であるマハーバーラタへの言及になっており、そのあたりを噛みしめると味わいが広がる。問題はサンスクリット系の単語を多用した言葉遊びだが、こればかりはネイティブでないと味わい尽くせないものと諦めるしかない。しかし、それ以外の骨格だけ取り出してみても汲めど尽きせぬ娯楽要素の泉、細やかな芝居にも気づけるようになってきて、何度見ても飽きない。
Jodhaa Akbar (Hindi - 2018)を町屋の会で。
3時間越えの空虚な超大作、通して見たらゾンビのようになってしまった。ちょっと信じられないストーリーラインの幼稚さと退屈さ、埋め合わせは着飾った美男美女だが、全く救いになっていない。ともかくドラマとして平板、教科書をなぞったような宗教間融和のお題目になぜこれだけの時間を費やさなければならないのか。ちょうど今から10年前の作品、その当時見ていたら感動しただろうか。今検索してみても出てくるレビューが軒並み高評価なのにも暗澹とした気持ちになる。ここのところ見ていた作品群が、3時間前後あっても全く退屈しない充実したものが多かったので、この落差で心身症になりそう。これが10年の歳月による風化なのかともちょっと思ったが、今から60年前の作品でも良作は何度見ても面白いのだから、それは当たらないはず。歴史の再現についてはあまり期待していなかったが、その杜撰さは予想を上回っていた。やはりこれも史劇というよりはフォークロアの亜種と考えた方が収まりがいい。伝説の名君の形成期とは言っても、優柔不断で判断力のないアクバル帝の描写にこれはないわと思