All We Imagine as Light (Malayalam/2024)を試写で。邦題は『私たちが光と想うすべて』。 

それから、今更ながらだけれど、3人の女性がそれぞれの事情から男性に依存せずに生きている。しかしそれはフェミニズムのお手本的な自立のイメージではなく、あくまでも気が付いたらそうなっていたとでも言いう風な「マラヤーリ・ナース・オン・ザ・ムーン」の一人として。一般に保守的なケーララで、なぜ女性看護師の出稼ぎだけはあれほど盛んなのか。

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Retro (Tamil/2025)をイオンシネマ市川妙典で。3回目。 

3回目になっても読み切れない字幕は相変わらず読み切れず。今回は暗闇でメモを取りながら観た。途中には例によってKS特有のおもちゃ箱をぶちまけたようなあれこれがあって目を奪われるが、最後の方に行くに従いシンプルになっていくストーリーに思えた。つまり貶められ虐げられた下層民が指導者を得て決起する革命であり、ブルジョワジー勢力が外から兵力を動員して反撃してきたとしても人民の団結により撃退するというもの。そして現代的に形を変えた植民地主義もそこに重なる。島はインドの暗喩なのではないかという思いはより一層強くなった。「暴力が俺を愛してくる」というのはまさにインドの現代史そのもの。監獄でのパーリがルクミニへの償いとしてしばらくの間自分に降りかかる暴力に対しされるがままの自罰=苦行をしたのに彼女の写真を渡されたところで突然Uターンして暴力で支配するようになる。これと同じことは後半の闘技場でも繰り返される。例の長回しは単に長いだけじゃなく、腕を切ったりする凄い刃傷を組み込んでること。それから、後半のジャダムニ覚醒の海のシーンの美しさ。

All We Imagine as Light (Malayalam/2024)を試写で。邦題は『私たちが光と想うすべて』。 

最初のシーンで、プラバが世話する老婦人が夫の幻影を見るシーンは予言的だったのだな。監督の言うようにプラバは複雑なキャラクターだが感情移入しやすいとも言える。謹厳で自己抑制的。本能のままのように振る舞うアヌに苛立つこともある。アヌが獣医に馴れ馴れしくしたのを叱責するのは、自身の内心の欲望をさらけ出されたように感じたからなのか。勤務態度、金銭の管理、恋人との付き合い方などあらゆる点で隙があり、しかも身勝手な(ラトナギリに来たのも恋人との密会のためだった)アヌとの間での友情は普通はあまり考えられないと思うのだけれど、なぜ多くのレビューがシスターフッドの映画と評するのか。プラバは夫との“再会”においてすら看護師。常に世話をする側に置かれる人間はいるものなのだ。劇中でやり取りされる様々な言葉の中で印象深いのは中心的キャストではなく、それ以外の人々のムンバイ評。「時間を吸い取られる」あるいは「底辺を生きるものとして諦めが必要」といった意味の言葉。シヤーズの出身地はワヤナード。

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All We Imagine as Light (Malayalam/2024)を試写で。邦題は『私たちが光と想うすべて』。 

マラヤーラム語の芸術映画。文学的アート作品なのでトップレス、排泄、性交などすべてでてくるが、エグい暴力がないのが救い。獣医からの求愛のシーンや、若いカップルの秘め事などがバイオレンスに展開するのではないかとヒヤヒヤ。ムンバイで働く2人のマラヤーリ看護婦(ルームメイトでもある)の日常を描き、その中で微かに幻想を忍び込ませる。その忍び込ませ方がさり気ないものなので、幻想か現実かで議論になりそう。文句としてはその部分がヒロインの幻覚なのか突飛な現実なのかはっきりと描いてほしかった。家を追われる年配のパールヴァティも含め、ある意味で限界状況にある女性たちなのに淡々としてる。あと差出人不明のドイツ製炊飯器は何だったのか。雨季のこの上なく鬱陶しいムンバイと、彼岸を思わせるラトナギリとの対比も鮮やか。マラヤーラム/ヒンディー/マラーティーとなっているけど、冒頭の誰とも知れない語りの部分ではベンガル語もあった。ラストの方で出てくるシヤーズの出身地のDで始まる地名が思い出せない。

こないだ自主上映で観たRetro初日は、 

「次に見る時にここの字幕を見逃さないようにすること」を心に刻むだけみたいなところがあった。タランティーノ的なオモチャをぶちまけたような作品で、一つ一つのモチーフに意味を見出すことに意味があるのかどうか、それぞれのモチーフの連なりに何らかの秘められた言説を読み取ることに意味があるのかどうか。

Thudarum (Malayalam/2025)をスキップシティで。2回目。 

客席は半分程度は埋まってたかも。今回は客のノリが良く、それは既に一度見てツボを押さえてたせいかもしれない。同行の一人が、子供の年の割に妻役ショーバナが老けていたと言って確かにそうだ。 というか、ショーバナの方がモーハンラールよりもちょうど10歳若いのだが。ジョージ・サーがこしらえた作り話の微に入り細を穿つ精巧さが理解できた。また退任にあたってのスピーチで「拍手は?」などと言う図々しさとか、巧い脚本。そしてアンバサダーが大事なのはパラニ先生から賜ったものだったからというのも分かった。「ムルガ―」と叫ぶのはシャンムハムという命名とも関係あるか。バーラティラージャーをスクリーンで見られるのは嬉しいけど、なぜあんな長々としたエピソードにしたのか。火葬場で遺体が炎に包まれるシーンまであって、何か深い意味があるのかと思ってしまったが多分何もない。有名ブロガーも書いていたけど、どうもここ数年、森の怖さを描いた作品によく当たるような気がする。最初の方に出てくる象の一家は主人公一家の重ね絵。ニュース画面にかかる字幕の無神経さ。

Thiruchitrambalam (Tamil/2022)をオンラインで。 

ロウワーミドルクラス向け団地に住む祖父・父・息子パラニの男3人の所帯。同じ棟にはテルグ人の一家もいて、娘のショーバナとパラニとは幼馴染で兄妹同然に付き合う。男はUberのドライバー、女は多分ITエンジニア。パラニは学生時代の片思いの相手と再会して親密になるが、プロポーズをするとすげなく振られ、アッパークラスの彼女との差も思い知らされる。男の父は厳格な警察官で、父子の仲は冷え切っている。それは父の不注意で過去に母と妹を失った事故に起因している。パラニはショーバナの後押して真剣に伴侶探しを試みる。友達と思っていた相手を異性として意識して云々という筋立てはもう目が腐るほど見てきた気がするけど、具体的に挙げようとすると出てこない。キャスティングはベストで、リードペアはもちろんのこと、バーラティラージャーの爺ちゃんもいい。ただキュンキュンさせてなんぼのロマンスなのに、胸キュンの瞬間がなかった。クライマックスの「後ろに立ってた」シーンもどってことなく。無理やり恋愛に落とし込むよりも男女の友情物語とした方が良かった気がする。

HIT: The Third Case (Telugu/2025)を川口スキップシティで。 

まあともかく、ビハールのナクサライトとダコイトを混同してるとしか思えないあの描写はどうかと思う。それから快楽殺人のサイコパスだと思わせた犯人が結局回春剤を作るビジネスに繋がっていたというの、その繋がりの描写が雑だった。リアルな世界に問題はごろごろ転がってるのに、何かというと悪魔教を出してくるのは怠惰としか思えない。カールティには期待したいが、結局同じ繰り返しだったら嫌だな。それから主人公の身体ダメージに対する反応が、最初は現実的(刺されたらナイフを抜こうとするな)だったのに、クライマックス近くでは非現実的な無双になったのもどうかと思う。そのクライマックスで同じところを2回ぐらい刺されてなかったか。編集ミスで同じシーンの異テイクが使われたのかと思った。

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Retro (Tamil/2025)を新宿ピカデリーで。2回目。 

KS作品は2回目からが面白い。WKPD粗筋は現状では不備が多い。冒頭の聾唖の男は回想で舌を切られた祭司だった。主人公はクリシュナと見せかけてカルキなのではないか。腹にある模様は槍と見せかけて三叉鉾。笑う仏陀とは布袋だろうが、インドでの受容は?笑いを失った主人公の周りに様々な笑いを配したかったのか。アンダマンの離島で戦い合うのは犯罪者と奴隷たち。島はインドの隠喩なのか。裏にいる一番悪い奴の名前がDharma、しかし主人公に対してはdhammaと呼びかけるシーンもあり。cut 'n right (righthu、ところどころでnightとも)の意味が不明。地理的広がりは、アフリカの自由港、トゥーットゥクディ、マドゥライ、アンダマン、ベナレス。そして登場人物の出身地のバラエティーはヒロインのカルナータカ、ラフィング・セラピー医師のケーララ、同房の謎の東アジア人。後半のThe CultのノリはマッドマックスFRだな。Jada Muniとはムニーシュワランと同じと分かった。主人公の名前はサンガム期の王Vēl Pāriから来たものか。

A History of Violence (USA/2005)をYTで。 

主人公が強い理由が律義に描かれているという点で目新しかった最近の作品は、Thudarum(Mal)、Retro(Tam)、Maamannan(Tam)あたりだった。

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Retro (Tamil/2025)を川口スキップシティで。 

話しを追うのが難しい。カンナダのAvane Srimannarayanaを思わせる異次元具合とレトロ具合。笑いを奪われた男が笑いを取り戻すまでの物語。ペルマールの化身クリシュナが最強と解説があり、またクリシュナ生誕のエピソードをなぞったプロットがあるが、一方で仏像の前での覚醒やシヴァの三叉鉾が重要なモチーフとして出てきたりもする。ムルガンもあった?Mahaanで展開された暴力と非暴力のせめぎ合い、Pettaなど幾つかにあった父子の相克も。父の右腕だったのに、足抜けの際に父の右腕を物理的に切り落とすのが象徴的。最近時々あるけど、主人公が強い理由が律義に描写される。それからKS監督作になぜか頻繁に現れるマイケルという名前。奴隷の村を滅ぼしに来る武装集団はJDXからか。昨日のHIT3に続きサイコパスのカルト集団が登場して何なのかと思った。舞台はマドゥライからアンダマン諸島に移るが、原住民の全くいないアンダマン諸島だった。レトロ映画としてラストには「subam」のテロップ。The Oneを始めとして気になる英語の評言が幾つもあった。

HIT: The Third Case (Telugu/2025)を川口スキップシティで。 

どえらいバイオレンス映画ということだけしか知らずに見た。例によってナーニにはデビュー当時のお気楽好青年のイメージがちらついて、どうも乗れず。回想シーンがカシミールで、サウスのカシミールものらしく現地人はゴミ扱い。その後ビハールのナクサル猖獗地に行き、見通しのいい大平原でのナクサルの襲撃の描写にオイオイとなる。その後ジャイプルでもひと暴れ、最終的にアルナーチャル・プラデーシュに行く。ダークウェブに入り込むために猟奇殺人を犯したのを咎められて、被害者は無辜の一般人ではなくその辺を泳いでる極悪人だというあたり、大雑把。ヒロインを贄としてヒーローの活躍の動機づけにする手法を取らなかったのは良かった。しかしロマンス描写はへんてこだった。贅沢な悪役はプラテーク・バッバルで、極端に嗜虐的なサイコパスという設定だが、主人公の頃しか他の方がバラエティに富んでいて、芸術点が高いというのがどうにも。しかし満身創痍で結構な致死傷だろうものを追いながら身体能力が向上していくかに見える主人公は絶対死なないという安心感はある。

A History of Violence (USA/2005)をYTで。 

グラフィックノヴェルという名のアメコミ原作を買うかどうか迷って、ひとまず映画版を見てみた。デイヴィッド・クローネンバーグがグロ表現で名高いのは聞かなかったことにして。まあしかし、本作に関してはどうってことなかった。問題の「暴力的過去」はコミックではこってり描かれるらしいが、本作は台詞で述べられるのみ。粗暴な凶悪犯をあっという間に返り討ちにしたことから、平凡な主人公の素性についての疑いが身近な人々の間に沸き起こる。本作の場合それがロジックあるものだけど、インド映画の場合、ヒーローが訳もなく強くて当たり前という通念がある。そこをどう処理するかはリメイクの映像作家の腕の見せ所だったんだなとわかった。スター映画のオーラを保ったままで、悪の勢力の来訪を波状攻撃に変え、コントラストを強調し、悪の過去にも強いエモーション要因を加えた。そして過去の封印の理由に社会的要因が付与された。本作はさらりとした一筆書きのように主人公の行動と表情の変化だけから実存的不安を炙り出す。ちょうどパドマラージャンのAparan(1988)のように。

Meenakshi Sundareshwar (Hindi/2021)をNTFLXで。 

昨日のKai Po Che!で異郷ヒンディー語映画が気になってしまったので。カラン・ジョーハルのプロデュースで、かつてヒットさせた頭文字略記系のロマンスのようなものを再び作りたかったのだと思う。しかし予想通り絞り滓みたいな一作だった。たぶんリードペアはシヴァ派のブラーミンという設定なのだろうが、住んでるのはチェッティヤール・マンション。登場人物がやや色白というのがそれで説明できるということか。全てにおいてアパレルメーカーまたは宝飾メーカーの広告映像みたいな現実感のない、目に心地いい絵が続く。テーマは遠距離恋愛なんだけど、どうしてこれをマドゥライ出身の男女で撮ろうと思ったのか不明。会話の出だしだけちょこっとタミル語だけど、後は全部ヒンディー語。二人が口論する場面で、NaangaとNammaの使い分けでもめるプロットがあったけど、それをヒンディー語でやってどうするという感じ。ラジニ映画の初日に両家の子女が一人で映画館に行ってフィーバーするとかありえない設定。既婚なのにバージンであるヒロインとか、意味不明。

Kai Po Che! (Hindi/2013)をNTFLXで。 

最近グジャラートの例の暴動のことについて触れることが何度かあったので。傑作という扱いだけど、まあだいたい着地点の読める淡々とした話だった。暴動の描写は抑え目。前半での青春に讃歌にどれだけ感情移入できるか。タイトルのみがグジャラーティー語であるヒンディー語映画。ストーリーよりもそれが気になった。こないだ見たマラーター王国もの「Chhaava」、マドゥライが舞台の「Meenakshi Sundareshwar」、コルカタが舞台の「Kahani」、「カシミールもの」などなど他にも探せばあると思うが、言語的リアリティーを無視して現地に住む人間のドラマをヒンディー語でやってしまうというの。それに比べると異郷を舞台にしたサウス映画はいろいろ苦労しつつ、絶対に主人公をサウス人以外にはしない。断り書きを入れつつ、サウス人と現地人との会話をサウス語にしてしまったり、都合よくサウス人を登場させて周りを固めたりするけど、主人公自身を現地人とすることはない。このあたりに、「われわれ性」を無意識にも求める地方語映画の特色が出ているなと改めて思った。

浴びるように映画を見ていないから分からないんだけど、 

もしかして昨今の映画全般って質的には不振なのか。名画座旧作を中心に自分が浴びるように映画を見ていた時代、「侍」「教皇」レベルのものは結構あって、感心したり面白がったりしながらも「次!」という感じで渡り歩いていた。ひとつの作品を5回も10回も見ている暇はないという感じだったのだが、今は違うのだろうか。

Thudarum (Malayalam/2025)をスキップシティで。客席は7割以上の埋まりだったか。 

ベンツというあだ名シャンムガムのトドゥプラあたりに住む男。元はマドラスでスタントマンをやっていた。妻はタミル人。現在はアンバサダー・マーク1で白タクをやっている。息子の友人に傷をつけられた愛車を修理に出したのがきっかけでドラッグ疑惑に巻き込まれて警察の世話になる。悪徳警視に付け込まれて死体運びの手伝いまでをさせられるが、その死体が誰のものか知り、復讐の鬼となる。ラル様きゃわわから、シャワーのサービスシーン、重量感あるアクション、魂の奥底からの慟哭まで、満漢全席。しかし全体としては衒いのない一直線の作劇。フラッシュバックを多用したり象徴的表現を採ったりなどの凝り方をせずに、俳優モーハンラールの力を信じ切ったまっすぐなメッセージ。主人公の無双を説明するためにスタントマンの過去を設定する律義さ。マンムーティの踊りとはThuruppu Gulanのものか。家族を守るために戦う姿はDrishyamの反転画のよう。最後の回想部分でまさかのVJSが写真で出演。テイヤムの群れとの邂逅だけはやり過ぎか。

『バーラ先生の特別授業』の感想を読み漁ってるけど、 

逆に文系専攻で不遇をかこつ系はぽつぽつある。

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『バーラ先生の特別授業』の感想を読み漁ってるけど、 

誰も書いていないのは「インド映画の先生もの感動作、ほとんど全部が理系(あるいは文盲から識字への基礎教育)」ってこと。有用な人材とは理系であり、数字に表れる成果を出した者であることがはしなくも現れている。

Thangalaan (Tamil/2024)をNTFLXで。 

ることに気づく。アーラティの現世の生まれ変わりである女が襲来し、彼女は彼の前世の記憶を甦らせる。5世紀の彼はアーラティの夫であるアーラン王だった。アーラティはタンガラーンに金から手を引くよう求めるが、彼はトライブが尊厳を取り戻すためにどうしても金が要るのだと言う。戦いの中でクレメントは彼女の腹部を切り裂く。怒ったタンガラーンはクレメントを殺し、黄金はトライブのものとなる。パー・ランジト一味の仏教趣味が全開のファンタジー。仏教からヒンドゥー教への改宗を拒んだ者たちがダリトの身分に落とされたという空想的な学説にロマンを感じ結構信じてるっぽいのにむず痒さ。MHと違いサウスの場合ダリト改宗者の大部分がキリスト教徒になる状況下で、身近な生活の場での仏教信仰の実践を見ていないから、古代ロマンに走ってしまうのか。洋服を着て誇らし気なタンガラーンはやや滑稽に描かれるがあれはアンベードカルの三つ揃いスーツとは異なるのか、ナーガ族はトライブ、タンガラーンたちはダリトで、両者の断絶と再結集がメインテーマなのか。エンディングでKGFの歴史的な写真。

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