All We Imagine as Light (Malayalam/2024)を試写で。邦題は『私たちが光と想うすべて』。 

マラヤーラム語の芸術映画。文学的アート作品なのでトップレス、排泄、性交などすべてでてくるが、エグい暴力がないのが救い。獣医からの求愛のシーンや、若いカップルの秘め事などがバイオレンスに展開するのではないかとヒヤヒヤ。ムンバイで働く2人のマラヤーリ看護婦(ルームメイトでもある)の日常を描き、その中で微かに幻想を忍び込ませる。その忍び込ませ方がさり気ないものなので、幻想か現実かで議論になりそう。文句としてはその部分がヒロインの幻覚なのか突飛な現実なのかはっきりと描いてほしかった。家を追われる年配のパールヴァティも含め、ある意味で限界状況にある女性たちなのに淡々としてる。あと差出人不明のドイツ製炊飯器は何だったのか。雨季のこの上なく鬱陶しいムンバイと、彼岸を思わせるラトナギリとの対比も鮮やか。マラヤーラム/ヒンディー/マラーティーとなっているけど、冒頭の誰とも知れない語りの部分ではベンガル語もあった。ラストの方で出てくるシヤーズの出身地のDで始まる地名が思い出せない。

フォロー

All We Imagine as Light (Malayalam/2024)を試写で。邦題は『私たちが光と想うすべて』。 

最初のシーンで、プラバが世話する老婦人が夫の幻影を見るシーンは予言的だったのだな。監督の言うようにプラバは複雑なキャラクターだが感情移入しやすいとも言える。謹厳で自己抑制的。本能のままのように振る舞うアヌに苛立つこともある。アヌが獣医に馴れ馴れしくしたのを叱責するのは、自身の内心の欲望をさらけ出されたように感じたからなのか。勤務態度、金銭の管理、恋人との付き合い方などあらゆる点で隙があり、しかも身勝手な(ラトナギリに来たのも恋人との密会のためだった)アヌとの間での友情は普通はあまり考えられないと思うのだけれど、なぜ多くのレビューがシスターフッドの映画と評するのか。プラバは夫との“再会”においてすら看護師。常に世話をする側に置かれる人間はいるものなのだ。劇中でやり取りされる様々な言葉の中で印象深いのは中心的キャストではなく、それ以外の人々のムンバイ評。「時間を吸い取られる」あるいは「底辺を生きるものとして諦めが必要」といった意味の言葉。シヤーズの出身地はワヤナード。

All We Imagine as Light (Malayalam/2024)を試写で。邦題は『私たちが光と想うすべて』。 

それから、今更ながらだけれど、3人の女性がそれぞれの事情から男性に依存せずに生きている。しかしそれはフェミニズムのお手本的な自立のイメージではなく、あくまでも気が付いたらそうなっていたとでも言いう風な「マラヤーリ・ナース・オン・ザ・ムーン」の一人として。一般に保守的なケーララで、なぜ女性看護師の出稼ぎだけはあれほど盛んなのか。

スレッドを表示
ログインして会話に参加
映画ドン-映画ファン、映画業界で働く方の為の日本初のマストドンです。

映画好きの為のマストドン、それが「映画ドン」です! 好きな映画について思いを巡らす時間は、素敵な時間ですよね。