All We Imagine as Light (Malayalam/2024)を試写で。邦題は『私たちが光と想うすべて』。
最初のシーンで、プラバが世話する老婦人が夫の幻影を見るシーンは予言的だったのだな。監督の言うようにプラバは複雑なキャラクターだが感情移入しやすいとも言える。謹厳で自己抑制的。本能のままのように振る舞うアヌに苛立つこともある。アヌが獣医に馴れ馴れしくしたのを叱責するのは、自身の内心の欲望をさらけ出されたように感じたからなのか。勤務態度、金銭の管理、恋人との付き合い方などあらゆる点で隙があり、しかも身勝手な(ラトナギリに来たのも恋人との密会のためだった)アヌとの間での友情は普通はあまり考えられないと思うのだけれど、なぜ多くのレビューがシスターフッドの映画と評するのか。プラバは夫との“再会”においてすら看護師。常に世話をする側に置かれる人間はいるものなのだ。劇中でやり取りされる様々な言葉の中で印象深いのは中心的キャストではなく、それ以外の人々のムンバイ評。「時間を吸い取られる」あるいは「底辺を生きるものとして諦めが必要」といった意味の言葉。シヤーズの出身地はワヤナード。
All We Imagine as Light (Malayalam/2024)を試写で。邦題は『私たちが光と想うすべて』。
それから、今更ながらだけれど、3人の女性がそれぞれの事情から男性に依存せずに生きている。しかしそれはフェミニズムのお手本的な自立のイメージではなく、あくまでも気が付いたらそうなっていたとでも言いう風な「マラヤーリ・ナース・オン・ザ・ムーン」の一人として。一般に保守的なケーララで、なぜ女性看護師の出稼ぎだけはあれほど盛んなのか。