Dear Comrade (Telugu - 2019)を川口スキップシティで。
難しい映画だった、アンガー・マネージメントに問題を抱える男子が失恋でどん底に落ちて、そこから這いのぼる、それだけなら明解なんだけど、そこにセクハラで人生の目標を失った元カノを助けるという要素が絡まり、その助け方について色々と議論が出たようだ。ロジックとして弱いのは、インド北辺旅行で男子が立ち直るプロセスがイージーなところ。それから精神病棟に隔離されている女子を男子が攫って連れ出して、ごくごく短い旅行で回復させるとこ。テルグ映画らしいオプティミズムと言ってしまえばそこまでだが。生きる目標を失った女子が結婚を求めるのを断るあたりは新時代的価値観を反映したヒロイズムの発露なのだろう。ただその後、女子の望みを打ち砕いたのがセクハラだったということを知って相手のオフィスに討ち入りに行くというの、克服したはずの暴力的性向が戻ってきたのはいいのかいと思ってしまう。そして公の場での裁定にまでもちだして、最後の土壇場で女子の気持ちを知って自分の問題提起が虚偽だったというあたり、もう遅すぎじゃんと言う気がしないでもなかった。
『ザクロの色』The Color of Pomegranates (USSR-1969) をBDで。
これを見たくてBD再生環境を整えたようなものなのに、心の用意ができずしばらく放ってあって、やっと見られた。30年ぶりぐらいか。ズル剥けのインド映画に鼻下まで浸かった自分が、本作の中二病大爆発に再びまみえてどんな化学反応を起こすか気になってたけど、ただもう静かな瞑想的な時間を過ごせた。全ての芸術映画の頂上に君臨する一作、全ての映像詩的作品はこれの後追い。回顧上映の機会は何度かあったけど、観るために色々ハッスルするのが嫌で足を運んでなかった。もうこの先はこのBDを繰り返し見るだけでいいような気がしている。『ザクロ』と言ったらソフィコ・チアウレリだけど、彼女が登場する前の幼年期の部分が映像としては最も美しいものだと思う。サヤト・ノヴァ物語は古譚の世界だと思ってたけど、ライナーノーツを読んだら18世紀の人だと。そんなに「最近」の人だったとは。それにしても、アルメニアという一国のイメージが自分にとってはこの作品しかないというの、凄いことに思える。これ以上色々知ろうとしない方が良いような気がしてる。
Prem Ratan Dhan Payo (Hindi - 2015)をDVDで。
これもまた純粋な興味からじゃなく商売がらみで。しかし同じレトロ系ボリ映画でも昨日のRNBDJよりずっと良かった。あり得ない虚構の組み立てが上手いのと、信じられないくらい豪華絢爛なのに重苦しさがないビジュアルゆえか。ラスト30分(サッカー以降)をもう少しスピーディーにまとめていたら大傑作だったかも。ダンスの振付(画面構成・編集・美術も含め)も卓越していた。二役のサルマーンは、片方が強面、片方が純朴で、両者の区別のためのマーカーは髭しかないんだけど、RNBDJがあらゆる工夫を凝らして一人二役に説得力を持たせようと無駄なことしてたのに比べ、「替え玉なんだから似てて当然」で押し通すのが潔い。ソーナムは場面によって、やんごとなきプリンセスだったり安っぽい化粧お化けだったりで安心して見られなかった。しかし藩王国の跡目争い(それも異母兄弟の間での)というの、よく考えればこれは無理やり舞台を現代にしてるだけでフォークロアそのものだな。邦題はかつての映画祭での長々しいのじゃなく「踊るマハラジャ2」で良いような気がしてきた。
Rab ne Bana di Jodi (Hindi - 2008)をDVDで。
わざわざ観ようとしなくともそのうち向こうから来るだろう、ぐらいに思っていた有名作、若干学術的な理由から急遽鑑賞。Dil Chahta Hai (2001)と同じく、観るタイミングが早ければもっと感動していたかもというものだった。こういうことは時々ある。まあしかしこれは2008年時点でも既にレトロなものになっていたんだろう。そのあたり、当時の現地観客の進歩派系からは、旧式なご都合主義を非難されたようだ。少女漫画的なヘアスタイリングとメガネと髭と服とによる別人への変身という点。しかしもっと非現実的なのは外見を変えただけで朴念仁がチャラ男になれるのかというところではないか。しかしこういうのをつべこべ言うのはそのそもレベルが低い。SRKの演技は相変わらず眠気を誘う。アヌシュカの役はむっつりした顔を要求されるものだったけど、それにしても退屈な顔(ただしダンスが上手いことは分かった)。本物のゴールデン・テンプルのシーンが、開始後30分で先行きが見えるストーリー展開に深みをもたらしており、映像的にも清涼剤となっていた。
「ガリーボーイ」を試写で。
英語字幕で見た時とラップの歌詞のイメージがかなり変わった。特にapne time ayegaのそれ。二度目なので幾つか気づいたことがある。サフィーナの家はダーラーヴィーに近接してるのかもしれないけど、スラム内ではない。父は医者で中流の下ぐらいの経済状況にある。それからムラドが家を出て母と共に移り住むのは市内の別のスラム(たぶんBhandup)だとか。スラムの3文字のインパクトのせいで忘れがちになるけど、主人公は大学生なんだ。これがムンバイのスラムの特質なのか、それとも他にもそういうところは多いのか分からないけど、中産階級に手が届くくらいの暮らしをしてるけど住む場所だけがないというクラスの人々が分厚い層をなしているということ。傑作と称賛されているが、トントン拍子のラストにはあまり感心しない。一番感じ入ったのは、富裕階級のパーティーに運転手として随伴するシーン。車のボディーに眩い電飾が反映して、何者でもない自分を思い知らされるところ。「こいつみたいな運転手だって大学を出てる」と説教のつまみにされるところ。泣いている女主人に慰めの声をかけられないところ。
Manto (Hindi - 2018)をTUFS Cinemaで。邦題は『マントー』。そのために来日した監督による舞台挨拶と質疑応答つき。
追記:ムンバイの映画プロデューサーのオフィスで、女優志望の2人の娘を肥えたプロデューサー(まさかリシ・カプールがこんな役で出てくるとは思わず)が上衣を脱がせて検分するシーン。プロデューサーが色白の方がいいなと言うのはまあ想定内だけど、色白娘の方がどことなく西欧的な顔立ちをしており、またオフィスへの来客にも動じることがないというあたりに、演出の細かさを感じた。
Sir (Hindi - 2018)を試写で。邦題は『あなたの名前を呼べたなら』。
追記:メイドの方が菜食主義で、雇い主のために我慢して肉を調理する&未亡人となったら再婚は絶対に認められない、この二点からして、メイドは実はバラモンである、あるいはバラモンではないがアッパーカーストであるという可能性がある。肉を普通に食べる雇い主は、伝統的アッパーカーストであるかどうかよりも、現代のパワーエリートであるというのが肝なのだと思った。
Sir (Hindi - 2018)を試写で。邦題は『あなたの名前を呼べたなら』。
サウスファンなのにここのところ良質なムンバイ映画を立て続けに見ている。行きたくなってしまうではないか。ムンバイの最高級フラットに住む金持ちの独身男と、マハーラーシュトラの田舎から出てきて住み込みメイドとして働く若い未亡人との交情。女性の方も極貧というわけではない。けれど、両者の間には絶望的なまでの隔たりがあり、二人が男と女として向き合うことを阻む。その隔たりが、体格、肌の色、話す言葉、話し方、その他諸々に結実化して、どんなもの知らずにもハッキリと感得できるように画面に示される。カーストではなく、社会的な階層の違いなのだ。彼女が洒落たブティックから追い出されるシーンはかなり刺さる。旦那様とメイドとの間の恋愛あるいは火遊びというのは、インド映画で繰り返されてきたモチーフだけど、往々にしてメイド役をシュリーデーヴィーのようなゴージャスすぎる女優が演じることによって、意味が薄められてしまうことが多かった。結末は少し楽観的すぎるように思ったがどうだろう。二人がアメリカに逃れるなら、まだ現実味があったかもしれないが。
Manto (Hindi - 2018)をTUFS Cinemaで。邦題は『マントー』。そのために来日した監督による舞台挨拶と質疑応答つき。
外国語大学での上映として、コンテンツ選定から、事前学習のための特設サイト開設、終映後のレクチャーまで、その特性を生かし切ったものだった。ほとんどの観客に馴染みのない文人の伝記映画として、やはりあれは必須なものだったのだろう。もちろん、過度に教養主義的という批判もあるだろうが。内容は、マントーの生涯のうちの、文人として最も脂ののり切った時期の描写に、シームレスに作中世界の映像化が混ざるというもの。決して本作の独創ではないものの、映像の洗練に舌を巻く。分離独立の巨大な影。「悩める画家がカンバスを引き裂く」に近い中二病的なプロットもあるものの、優れた演技者と洗練された映像が、深みを持ったものにしている。技術陣で特筆すべきはカールティク・ヴィジャイのカメラと、ラスール・プークッティの音響か。そう思って臨んだせいか音はともかくエッジが立っていたように思う。劇中で「これは何の音か?」と不審に思う箇所があったのだけど、もう忘れてる。DVDで確認しなければ。
Filmistaan (Hindi - 2014)をNTFXで。邦題は『映画の国』。
物凄く評判が良く、しかも6月末日までの公開だというので(そういう予告がどこかに出るようになってるの?)、とるものもとりあえず見てみた。「ボロ泣き」とか「圧倒的感動」みたいな評言を目にしていたけど、う~んどうなんだろ。「映画の国」を題名にするからには、もっともっと映画的でシュールでドラマティックなものを期待したいところだった。海賊版文化についての言及の部分、パキスタンでは俳優が重んじられていないと淡々と語られるところなどが面白かった。映画好き民を刺激するそうした部分はいくつかあって面白いのだけど、うねるようなドラマがあるかというとそうでもなく、ちょっと弱いと思った。
〈芸道物〉の時代 ——「残菊物語」を中心として——
この論文に日本映画の主要な芸道ものタイトルが挙げられている。ありがたい。ただし『殺陣師段平』のように重要なもので抜けているのもある。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjstr/56/0/56_39/_pdf/-char/ja
『残菊物語』(1939)をYTで。
印度芸道ものについて布教しようとしていながら、日本の同ジャンルでの著名作を見ていないことにハタと気づき、慌てて鑑賞。忘れないうちに書いておきたいが、主人公が東京に戻って晴れ舞台を踏むが、その演目がよく分からない。洋風の衣装が気になる。所作はほとんどカタカリ。レビューなど沢山あるのにどれを読んでも記載なし。ストーリーは折り返し地点前からくっきり見えてるけれど、その裏にある価値観が興味深い。若旦那としての地位を投げ打ち苦しみながら芸を磨く主人公だが、「役者の成功は家柄あってのもの」と諭されて古巣に戻る。そして都落ちして脇役を演じていた大阪の芝居小屋からも解雇され、旅回りへの参加を進められるシーン、はっきりと旅回りへの嫌悪感を表す。実際に一座に加わっても、「ちょっと見得を切るだけで大喜びするような客」と、大衆演劇の観客を見下す。騒々しい客席との交感によって高められる芸はないということか。明治の時点で歌舞伎はそこまで高級なものとなっていたのか。一方、ヒロインのお徳は、子守りの奉公女でありながら、菊之助の芸の良しあしをはっきりと見極めて苦言を呈したりもしている。
Kabir Singh (Hindi - 2019)をイオンシネマ市川も妙典で。
オリジナルのArjun Reddyが186分でこれが172分。どこをどう削ったのか分からないけっど、まあほぼカーボンコピー。予想はしていたのだけど、2017年オリジナルと比べて衝撃度が低い。最初のシーンに驚きが全くないのは逆に吃驚という感じ。本日初見の日本人観客には感情移入のできなさに戸惑っていた人も多かった模様。しかしまあ、凡庸だからこそ浮かび上がってくるものもある。計算高いインド人にあってLove Failureというのがどのくらいのインパクトを持っているか。大学時代というものが人生の中でどれだけ特別なものか。学園生活の中での主導権(番長ステイタス)争いの激しさ&学年による上下関係の無意味な過酷さ。男からの、強引という言葉では追いつかない一方的な求愛を受けて、難なく恋に落ちてしまう乙女心というもの。スタイリッシュかつリアリティある本作でこういうのが登場するということは、これらは民話的なクリシェなのではなく、現実にあることと考えていいのだろう。それからオリジナルでのカーストをリメイクでどう読み替えたのか。
Hindi Medium (Hindi - 2017)を試写で。
邦題は『ヒンディー・ミディアム』。字幕にいくつか不満。CMを州知事としていた。Hindi Teacherを国語教師としていた。どちらも、日本の観客にとっての理解しやすさを優先した意訳と言ってしまえるのかどうか分からない。「ヒンディー・ミディアム」の意味が明示されないのも問題。あと、ポスターデザインでHindi Midiumを示すのにஅだのறைの左側だの(あとテルグ語のబみたいなのもあった)、どう見てもタミル語でしかないものを洒落たつもりで使っているの、かなりイタい。よりによってHindiという語にこれを持ってきたのは、高度な皮肉にも見えて何ともいえない。ストーリーは、インド映画では時にある、「コテコテのユーモアでひとしきり笑かした後に、しみじみと考えさせる」フォーマットだけど日本人には強烈すぎて気持ちよく笑えない、というスタイルのコメディー。主人公の犯す不正が重篤すぎて、後から反省したところで許されるものなのかという、いつものあの感じ。これをあははと笑っていい映画じゃと他人に勧められるのは、血中インド人濃度がかなり高い人。
Anonymous(UK - 2011)をYTで。邦題は『もうひとりのシェイクスピア』。
ある種の芸道ものとして楽しく見られた。かなりの時間を割いて再現されるエリザベス朝時代の舞台の様子が素晴らしい。まさに演劇とは、コンセプトやストーリーではなく、役者の息遣いと雄弁、綺想を凝らしたビジュアル、インタラクションという言葉では追いつかない程に騒々しい客席との野卑なやりとりによって活性化されるものだというのがよく分かる。教養主義の誇示と中産階級の鼻持ちならない社交の場と化した現代の演劇とのあまりにも違う在り方が衝撃的。この芝居のシーンだけずっと見ていたかった。なんかこう、イギリス映画のエリザベス朝ものをもっともっと見たくてたまらなくなってきた。それに比べると、舞台の外で繰り広げられる宿命の物語はいまひとつパキッとしない冗長なものに思えてしまった。主役が誰なのか、誰に感情移入すればいいのか、絞り切れないためにノリが悪い。劇作家ベンか、オクスフォード伯か、エリザベスか、ロバート・セシルか。それにしてもシェイクスピア別人説というのは、学会の主流ではないものの、かなり根強くあるというのは初めて知った。
Secret Superstar (Hindi - 2017)を試写で。
予備知識として、保守的なムスリム家庭の子女が、人前に顔を晒すことを許さない父親の束縛から逃れるために、ブルカを被ったユーチューバーとなるという話だと思っていた。しかし実見してみるとその束縛の描写にイスラーム性はない。子女の芸術活動を認めない、女児を忌避する、DV、中東移住、勝手に子供の結婚を決めるetc.は、すべてヒンドゥー家庭に置き換えても成り立つ。それに悪役性を一手に引き受けている父親は、妻にブルカを強いていない。パーティーに出かける時は空気を読んでリベラル風な服を着るように命じたりもしている(もちろん妻が自分で着るものを選べないのが問題なのだが)。娘に対しても、勉強しないとダメだと発破をかけたりする。このあたりは社会問題を特定のコミュニティーの問題に矮小化しまいとする巧みな計算によるものなのだと思う。それはいい。ただ、こういうお膳立てがあるならば、芸道ものとしてもっと魅せて欲しかった。歌が少なすぎる。それから歌の道においてヒロインが苦悶したり成長したりする余地がほぼいない。芸道ものだと思ったら母子ものだった!