Oru Adaar Love (Malayalam - 2019) DVDで。
昨年早々のトレイラー発表からの紆余曲折、今年のバレンタインの4言語同時公開、その後の光速での話題消滅まで、何ともエポックメイキングな一本だった。マラヤーラム映画でよく言われるところの、文芸的ストーリーやリアリズム、演じ手の高い表現力etcといったものから百億光年ぐらい離れたところにある自主制作風のイタい仕上がり。ストーリーは、通常のロマンス映画の開始後20分程度で語られるものしかない。ミュージックシーンとスキットを延々と繋げて一本の映画にしたようなもの。ストーリーテラーとしてのオマル監督は前二本と比べて明らかに劣化している。ただし、ローティーン観客にとっては、むしろ見たいところだけを寄せ集めたイイトコどりである可能性は否定できない。そうしたマーケットが育ちつつあるなら、これからもこうした作品は作られ続け、その度にハイブラウ観客は憤激し続けることだろう。作品としてはフロップで終わったけれども、主演の3人はまさに一夜にして名声の頂点に押し上げられたことになり、この先どうなっていくかが大変に楽しみ。
Petta (Tamil - 2019)をNTFXで。邦題は『ペッタ』。
字幕が酷すぎるというのを聞いて、どれどれとアクセスしてみたら結局最後まで見てしまった。現地語が分かる学識者による校閲はもちろんのこと、文字のすっぽ抜けを正す程度のチェックもしていないという手抜きははっきり分かった。英語字幕付きで見た初回と印象はそれほど変わらないけど、最後の最後にどんでん返しがある本作、結果を知ったうえで見ると色々味わいどころが出てくる。シムランのエピソードなど、ほぼ不要なものだが、かつて懐妊のためにラジニとの共演を泣く泣く諦めた彼女の個人史を知ってると、胸に迫るものがあるし、製作者もそれを分かってキャスティングしてる。人情と、学生たちの馬鹿っぷりと、グーンダの人間味(そのうちの一人が「アディポリ」と口走る箇所があった、マラヤーリーという設定が細かい)などなどを一通り見せた後、最後にはマフィアの非情で〆るのがカッコいい。それにしても空白の十数年間、ペッタは何してたのか。あと、監督自身がナワーズッディーンの吹き替えを担当(しかもカライ・アラサンと共同で)というクレジットが出てきて吃驚。深い訳がある?
Eeda (Malayalam-2018)をDVDで。
以前に現地で字幕なしで見てただならぬものを感じながらストーリ理解という点で歯が立たなかった一本。字幕付きで見返して満足したけど、ちょっと引っ張りすぎかとも思った。所謂ロミオとジュリエット型ラブストーリー。インドでは大抵の場合カップルの邪魔をするのは宗教、カーストで、ラーヤラシーマならそれにファクションという要因も加わるが、カンヌールを舞台にした本作では、支持政党による対立。共産主義とヒンドゥー原理主義のイデオロギー対立が党派性を極端な形まで押し進め、血みどろ抗争と仇討ち合戦に至っている状況。識字率100%を誇るケーララでマジかいなと思うのだが、実際にこうした殺し合いについてニュースなどで読んだこともあるので、そうした事件のリアルな背景を二時間半かけて丁寧に見せられてぐうの音も出ない。リードペアの生活感ある佇まいにも好感。それから、マラヤーラム映画におけるマイソールの位置づけについてもさらに情報を得た。Kismathでもそうだったけど、シェイン・二ガムはこういう難儀を被る役が妙に多い。対立勢力の間では左派に対してより手厳しい描写かも。
August Club (Malayalam - 2013)をDVDで。
最近知り合いになった人物の監督作で、しかも唯一の監督作というので義理もあって見てみた。わずか6年前のものだというのに亡くなった俳優が複数出ていてノスタルジックな気分。一方で無名時代のトヴィノ・トーマスもちょい役で顔を出してて吃驚。身も蓋もない表現をするならば、夫に放って置かれた人妻のヨロメキドラマ。もちろんインド映画なので心が揺れるだけで決定的な背徳はない。というか、心の揺れを背徳と見做さないならばの話だけど。作品の結論としては、心の揺れだけなら許されるということのようだ。洒落た海辺のコテージ、ヒンディー語歌謡曲が好きな夫、英語の詩を引用する若い男、チェスの名人でやはり英語の詩を嗜む妻、ビッチな若い友人、全体を覆う中産階級の気取った世界観。その割にはヒロインの欲求不満の表現はうんざりするほどに陳腐。ただし、演じるリマの渇えの表現にはゾクゾクするものがある。それだけに、予定調和の凡庸なエンディングにはこちらが欲求不満になる。なんでもパドマラージャンの息子の小説が原作なのだそうだが、その文芸作品もこんな不発だったのか。
Awe! (Telugu - 2018)をオンラインで。
ずっと気になってたニューウェーブ作品を串挿して鑑賞。最初はお洒落な都市生活の断片のオムニバスかと思わせ、次には中二っぽいファンタジーに飛び、暗黒街もちょっと出てきて、ホラー風味が加わる。この辺りで各断片がなにやら繋がっていることが分かって来て、それを繋ぐのが女性に対する暴力とか、LGBTへの偏見などなど、社会問題であると察せられる。そしてクリシュナ神話、シヴァ・パールヴァティ神話からの縦横な引用による形而上的世界。しかし全体として、何が言いたいのかはよく分からない。だけど、通俗娯楽映画でよく見知った面々(必ずしもスターとは言えないが)が思わせぶりなあれこれをやってくれるので楽しいし飽きない。最初と最後をきっちり締めるカージャルは薄メークで余裕の女王ぶり。ニティヤのレズビアンぶりは上手すぎ。レジーナのボディーペインティングしたヤク中ぶりも保守的なタミル娘には見えない本格派。作中でタイムトラベルを繰り返す人物の、どうしても止められなかった両親の死とは何だったのか、それだけがちょっと気になる。吹き替えのナーニとラヴィテージャが豪華。
Jersey (Telugu - 2019)を川口スキップシティで。
正直なところ、この類の生真面目な作品はいまひとつ乗り切れないのだが、まずまず綺麗にまとまった一本。スポーツ映画なので最後はある種の勝利で終わるだろうことは予想でき、それは予想通りになるのだけど、クライマックスでちょっとしたサプライズがあり、それはとても良かった。ただ、全然違う映画だけど『カーンチワラム サリーを織る人』なんかでも感じたのと同じく、子供の望みを叶えることに親が常軌を逸するほどに全てをなげうってしまうというの、まるでバクティ映画で信者が体の一部を神にささげる行みたいに思えて、若干気持ちが悪い。貧乏な家という設定の中で、それでも妻が綺麗な服を着る言い訳をちゃんと用意した設定が良かった。ジャーナリスト役で登場するサヌシャ(後から調べて分かった)が凄かったな。10年前のReniguntaの少女とは別人みたいな育ちっぷり。そしてラストシーンで27年後のジャーナリストとして登場するところではホントの小母さんになってた。なんだなんだという感じ。
Lucifer (Malayalam - 2019) を川口SKIPシティで。
今回もまたプレビューを書くために現地レビューをアホのように読んだので、既視感たっぷり。特にモーハンラールの繰り広げるあんなことやこんなことはほとんど想定内。なのでどちらかといえば脇役の方に目が行った。ヴィヴェーク・オーベーロイは悪役転向からこっち情けないのばっか見てたけど、今回は迫力があった。吹き替えのヴィニートに賞賛の声が上がってるが、確かに凄い。吹き替えの重要さを今更ながらに痛感した。トヴィノ・トーマスは最初は賑やかし用イケメンとしての起用かと思ったけど、見せ場が用意されており、それに応える芝居だった。それにしても亡父に似せたメイクであれこれというのには笑った、というか唸った。マンジュ・ワーリヤルの役どころには例によってバイオグラフィカル・リフェレンスがあるかも。どかんどっかん盛大にバトルをする場面があるが、スティーファンにしろマスードにしろ、そんなに戦闘力高いなら、最初からマフィアを根絶しときゃよかったじゃんていうのはあるんだけど、それ言っちゃおしまいか。ムラリ・ゴーピの脚本は中二病が若干キツかった。
Mayaanadhi (Malayalam - 2017)をオンラインで再見。
昨年の1月に旅先で字幕なしで見て以来の再鑑賞。やっぱり唸るわ。以前に書いたことをすっかり忘れてまた「これは灰とダイヤモンドじゃん!」と発見して興奮した。特に好きなのがエルナクラム北駅そばのメトロ高架下のCalimiro Restaurantでヒロインがお持ち帰りを注文するとこ。ヒンディー語で注文してた。これなんかもう、仕事帰りの疲れたOLがコンビニで弁当買って帰るところと同じに見えて訳もなく感動した。クライマックスもどこぞのマックだし、徹底的に平凡な都会を描こうとしているようだ。あと駆け出し女優のサミーラがごくごく些細な肌の露出に拘って変な笑いを誘いながら、ラストになってその意味が分かるところ。サウビン・シャーヒルが完璧な悪役として登場し、その笑いを一瞬でひっくり返す、その見事さ。あと、見た目は典型的なタミルの田舎警官3人組がが、それでもそれぞれに違ったものの見方をしていて、後ろ暗い任務に対して意見を戦わせるところ。やっぱりアーシク・アブからは目が離せない感じ。
Avan Ivan (Tamil - 2011) をDVDで再見。
感想は初見の時とそう変わらないのだけど、細部で分からないことが出てきてしまった。ハイネスと称される旧時代の領主の末裔だが、最初の方の台詞では、「かつて妻子、それに大勢の側室がいた(しかし没落と共に親族に見捨てられた)」というように描写されるのに、後半では「結婚を勧められたがしなかった(なので現在は孤独である)」と独白するところがあることに気付き、どちらを採ればいいのか迷う。後者の独白を採るならば、この人はゲイだという可能性すら出てくる。自分は7年前に書いたレビューで「60歳を迎えた土地のラージャー…二人の妻と幾人かの愛人に生ませた15、16人もの子供達は誰一人寄り付かず」とやけに詳しく書いているが、これはどこから来たのか、ちょっと検証してみなければならない。それから「クリミナル・トライブ」の問題、「牛肉の食用」問題などの改めての洗い直しが必要かもしれない。今から8年前の作品、改めて見ると一々禁煙・禁酒広告が入らない画面は、確かに清々しい。
アテネフランセで『仕立て屋akaサイゴン・クチュール』(Viet Nam - 2017)をレクチャー付き上映で。
サイゴンで代々続くアオザイ仕立ての大店の一人娘が、伝統服を嫌い、当主である母と対立しているうちになぜか2017年にタイムスリップするというファンタジー。タイムスリップものなのにベトナムの現代史を一切感じさせないという点が娯楽映画の娯楽映画たるところ。プロットの一々がイージーで、思わせぶりに登場しながら消えてしまうキャラなど、文句を言い出せばキリがないが、ベトナム産のガールポップ映画を見るという稀有な体験の前に不問に付したくなる。陥落前のサイゴン、タリバン以前のカーブル、ホメイニ以前のテヘラン…。先日の2本を見ても思ったのだけど、どんなテーマを扱おうと、映像のインスタ映え的な美しさが半端ではない。これはフランスの置き土産なのか、もともとの民族の感性なのかはよく分からない。尖がった人々の喋る言葉に1969年にはフランス語が、2017年には英語が混じる。レクチャーによれば越映画には南北問題や暗黒期、空白期など様々あり、それ自体が波乱万丈で個別作品よりも興味をそそられるものがあった。
Kumbalangi Nights(Malayalam - 2019)をGalaxy Paradiseで。
認証画面に英語字幕とあるのに字幕なし。事前に現地レビューを読みまくったので筋はほとんど頭に入ってたし、解釈までもが事前に分かってしまっていたのが残念。そんなハンデはあっても、ただもう美しい映画体験だった。カメラのシャイジュ・カリヤドの勝利。大自然の中にありながら小汚いあの半端な感じ、そんな景色を例えようもなく美しく撮る。例えば投げ網の場面の美しさ。演技賞はやはりファハドだが、大げさなBGMは不要だったのではないか。理容師の設定は意外だったが、仕事柄完璧なグルーミングをしてるのに、体型や着衣も含め全体としてどこかちぐはぐで不気味という役作り。初期のファハドの悪役キャラは神経質な奴というのが多かったように思うけど、本作ではある種のインド人にありがちな鈍感の塊。微かに潤んだ目で上から見下ろす余裕の笑みがその鈍感さを際立たせる。シェイン・二ガムはここにきて開花。NPCBあたりでは何とも思ってなかったのに、こうして最前列に出てくると確かにいい男。だけど筋トレとか全く考えてないのが好もしい。
Yajamana(Kannada - 2019)をナルタキで。
単館でマス映画で英語字幕付きに吃驚。後からこれもスレーシャ監督のこだわりポイントだったと知る。ダルシャンが食用油搾り一筋の奴ってのは微かに笑えるけど、これもカンナダ映画に連綿と続いてきた農本主義と巨大企業嫌悪のヴァリアントか。ともかく本作、二点で衝撃的。一つは、アート命の人だと思ってたスレーシャ監督が、よりによってダルシャンの、こてこてマス映画全部入り(一定の間隔で律儀に入る格闘、外国にワープするソング、笑うに笑えないコメディー)、何があったのか問い詰めたい。二つ目は、ダルシャン映画なのに何だか筋が通ってる(それこそがスレーシャ効果なのだが)という点。2011年のSaarathiは傑作と思ったが、それ以降の作品はただもう空疎なヒロイズム称揚に見えて敬遠気味だった。本作には大雑把だけどストーリーがあってロジックも一応ある。気になった点は、主人公の名前がクリシュナなのに、守り神がシヴァナンディであること。それから、村はずれの道祖神前での格闘シーンで背景にあった3頭の異形の神。多分テキトーにそれっぽく作ったってだけなのだろうけど。
Bell Bottom(Kannada 2019)をINOX Lidoで。英語字幕付き。
快作。リシャブ・シェッティは監督としてのイメージが強くて、おだてられて主演までしちまった痛い奴なのかと勝手に考えてたけど、バイオグラフィー見たら出発点では俳優(端役だけど割に重要作品)だったのを知った。今度見直してみよ。ハリプリヤーの方もメイクがこれまでと全然違ってて誰だか分かんなかったけど非常によろしかった。親父役のアチュート・クマールも含め、なんだか80年代のグラマラスがぴったりハマって、まったりといい感じ。不思議なもんだ、自分だって80年代を生きていて、インドに来たことすらあるのに、その時は自分がグラマラスな時代を生きてるとは全然思えなかったのに。リシャブの昔の巡査の制服にも痺れ。一応推理ドラマにはなってるんだけど、謎ときよりも時代性を大いに盛り込んだ即意妙答のやり取りに擽られて笑った。いや、笑えたのは現地人の2割程度でしかなかったと思うけど、その2割にやられた。田舎町の奇人変人の人間模様には、『マレナード物語』をちょっと思わせるところもあって、それがツボにハマった最大の理由かもしれない。
June(Malayalam - 2019)をシヴァージーナガラのサンギータで。
スクリーンが暗い上に字幕が無くて残念。Premamを裏返しにしたような、女学生の恋から結婚までの様々な遍歴を描く。男女を問わず、人は思春期から始まり様々なレベルの恋愛感情を経験するのが普通だが、伴侶は最終的にお見合いで決めても全然かまわないんじゃないか、という幾度も繰り返されてきたインド的な結婚観。主演のラジシャは可愛いけど、パドマプリヤーに似た魔女の鼻がそのうちハンデになりそう。ケーララ人だけどムンバイから来たせいで王子様に見えるサルジャノは、ハイスクール時代は輝いてたのに、成人してヒゲ面で再登場するとなぜだかつまらん奴に見えるのは、役づくりなのか。隠し玉のアーナンド役のアルジュン・アショーカンはただの端役だけど何となく二ヴィンに似てるなあと思って見てたら、後半に予想外の再登場をして、そこでも二ヴィンに似てるのだった。似てはいるけど多分スターにはなれない、本当にスターとその他との分かれ目は何なのだろうと思えてくる。ジョジュ・ジョージの父役が称賛を得ているが、一番美味しい役はこの子だったと思う。
Tik Tik Tik (Tamil - 2018)を機内上映で。
ジャヤム・ラヴィはThani Oruvanでいきなり開花してセクシーな奴っていう扱いになったようなんだけど、あれは脚本と演出の良さによる底上げなんじゃないかという疑念は常にある。本作でも、油断すると顔を覗かせる昔の垢抜けなさ、大味などん臭さが所々で感じられた。チェンナイ周辺に向かって飛来する巨大隕石(だっけ?)が直撃すると数千万人の死者を出すことになるので、それを核ミサイルで粉砕した上で軌道を変えさせる必要があるのだが、色々あってインド保有の核は使えない(何でだっけ?)ので、某国が不法に宇宙空間に秘匿する核を奪って使うという奇想天外作戦。その某国ってのがセリフに出るたびに音消しされてんだけど、ビジュアルでは五星紅旗がそのまま出てくるわ、ちうごくって漢字で書いてあるわで大笑い。その盗みをさせるために、民間人のマジシャン、それも犯罪者を宇宙飛行士として一から訓練するという壮大さ。敵役の中国人俳優は悪くなかった。綺麗なお姉さんも出てきたけど恋愛沙汰を盛り込まないところが潔くて良かった。まあ、おバカ宇宙映画の系譜に連なるものか。
『ボヘミアン・ラプソディ』(UK/USA - 2018)を機内上映で。
予告編を劇場で見てもあまり興味をそそられなかったけど、世に溢れるレビュー類を読みたいという欲から見て見ることにした。日本語吹き替え版。もちろんソングは吹き替えなしだけど。ソングシーンは極上で言うことなし。ソングそのものだけじゃなくパフォーマーとしてのフレディーの躍動する身体性と婆娑羅ぶりに目を奪われる感じ。まあそれにしてもこれは普段慣れ親しんでる芸道ものそのものだわな。この一言で全て言い尽くせてしまう。世の人々があーでもないこーでもないと書きまくってるあれこれも、ほとんどが言わずもがな、伏線だ回収だとか書かれてることも、それわざわざ説明要るかいという感じで。史実をゆがめたとか言われてるのも、インド映画に慣れきってると、何怒ってんじゃい?だわ。
Chalo(Telugu - 2018)を機内上映で。
ナーガ・シャウリヤは見たことなかった、アッキネーニ家の外戚かなんかだったっけなどと思ってたけど、後から調べたら家系じゃない一匹狼だった。それにOohalu Gusagusaladeも見てたし。あんまし印象に残らなかったのは確か。こうしてヒーローとして見てみれば、テルグスターの要件である高身長はクリア、くしゃっとした顔も悪くないけど、インパクトには欠けてるかも。ストーリーは奇天烈で、タミル・アーンドラ州境によって分断されてしまった村でのタミル人とテルグ人の争いの中でのロマンス。主人公はテランガーナ人、ヒロインはタミル人という設定。アチュート・クマールがテルグ人の長という設定。タミル人のトップはマイム・ゴーピで、明らかに野蛮人という演出。ドタバタコメディーにロジックを求めてもしょうがないけど、御都合主義によってタミル人がほとんどタミル語を喋らないので、訳が分からなくなる。一つだけ言えるのは、州境を挟んでいがみ合う村人たちというのは、明らかにアーンドラとテランガーナの隠喩であること。はっきりとは描けないものなのか、そこだけが気になった。