Lokah Chapter 1: Chandra (Malayalam - 2025)をオンラインで。
ややブレードランナー的に作り込まれたバンガロールを舞台にしたスーパーヒーローものファンタジーアクション。活劇の中に古譚を薄っすら重ね合わせる作劇なのかと思ったら、伝説のヤクシがそのまま生き続けて現代に暮らしているというものだった。しかも起源にトライブの抑圧の問題があることになった。人の首に噛みついて生き血を啜る、心臓を一突きされなければ基本的に不老不死、属性を伝染させるというのは西欧のヴァンパイヤから借りてきた属性か。あどけない顔のカリヤーニが、陰のある女性と、一転しての闘士としての女性とを巧みに演じ分けていて見事。お馬鹿な奴を演じ続けるナスレンも情けなくていい。終盤のドゥルカルは、作り過ぎ、その割にはアクションが雑で感心しなかった。忍者をやりたければもっと研究せいと言いたい。全5部作の第1作で、よく分からないまま終わる要素も多いが、きっちり作り込まれた感触があり、やりっぱなし感はない。真の意味でのユニバースになりそう。現代っ子としてのリードペアにスタジャンを着せる意表を突いた衣装も。
Nanpakal Nerathu Mayakkam (Malayalam - 2022/2023)をNTFLXで。
近年のLJP作品は見た後に解説を読み、さらに作品を見返したく(可能なら脚本と突き合わせて)なってしまう。本作も解釈・考察が山盛りで、①憑依説②夢落ち説③多重人格説など。タイトルが「午後の夢のように」と英訳されたこともあり②が有力だが、直訳は「白昼のまどろみ」だ。自分は①と、劇中登場人物が言っていた「芝居してる」説の中間をとりたい。純粋な夢落ちなら、スンダラムの家族や隣人のリアクションなどスンダラムの関与しえない第三者の描写をあそこまで細かに描かないはず。主人公は何者かに命じられるままに、24時間近い時間を別の人格を演じていたのだと思う。命じた何者かの目的は分からない。主人公は役になりきって完璧に演じたが、自分を認めない隣人など現実との齟齬により苦しむことになる。午睡から醒め、幕が下りたことを知った瞬間、彼はそそくさと舞台衣装を脱いで帰路に就く。劇中では映画音楽や名台詞が流れ続け、運転手は「人生は芝居」と嘯き、ラストではダメ押しで「Oridathu」 (ある場所で) とある。
Churuli (Malayalam/2021)をオンラインで。
TIFF以来。2回目以降は理論武装してから見るべき。冒頭のアニメで語られるバラモンと彼が頭に載せた籠とセンザンコウの古譚、あれはリジョーからの精いっぱいのヒントだったわけだ。お尋ね者捕捉のため身分を隠しチュルリ村に来た2人の警官が、奇妙な村人たちに翻弄される。2人のうち、特にお人好しの巡査はだんだんと性格が変わっていき、あり得ない犯罪まで犯すようになる。最後に行きついたお尋ね者は全身不随で床に臥すが、2人組は彼を捕えてジープで下山しようとする。そこで異変が起き、3人はこの世ならぬ光に包まれる。監督自身が述べた「煉獄」の2文字と、現地のブロガーによる詳細な解説がなければ最終シーンで何が起きているのか全然分からない。幾ら芸術映画とはいえ、不親切すぎるのではないか。居酒屋の主が巡査を違う名前で呼ぶところ、最後のシーンで車の助手席と後部座席の人間が変わっていることなど、意味不明と思われるものから色々読み取るのは無理。たぶん実際にはエメラルドの爽やかな森林であるものを、どこまでも忌まわしく妖しい波動に満ちた地として捕えたカメラの妙。
Jallikkattu (Malayalam/2019)を日本語字幕付きDVDで。
以前に映画祭で観た際には気にも留めなかったけど、確かオープニングでは「ジャッリカットゥ」という語の説明で始まっていた。しかしオスカーに出品すると決まったからか、「ヨハネ黙示録」からの引用に変えられ、DVDもそのバージョン。撮影地はイドゥッキ県カッタッパナ周辺。舞台設定も同じと考えていいだろう。となると、村人たちが移住してくる前に住んでいたのはクッタナード地方だろうか。完全に映画祭向け仕様なので、前作にあったインターバルの文字は全く出ない(現地での上映では無理やりぶった切ったのだろうが)。また、BGMというレベルですらソングはなく、プラシャーント・ピッライのサウンドは環境音楽的。肉屋のヴァールキは元に住んでいた土地では名家だったと噂されるが、それは今は意味がなくなっている。これは前作にあったカースト言及とはまた別の世界観であることを示すか。手持ちで疾走する男たちを追うカメラワークはお見事で、Nayakanからここまで来たかとの感慨。長回しも自然に取り込まれる。ヒーローが群衆に溶け込んで視界から消えるラスト。
Ee.Ma.Yau. (Malayalam/2018)をDVDで。
前回見た時よりも背景が分かってきた。舞台はコッチ南郊のチェッラーナム漁村。エラナークラムから20km。この地域の労働者はプラヤ・カーストが多く、16世紀以降ラテン・カトリックに改宗した者も多い。劇中で島の連中と呼ばる島はKakkathuruthuか、あるいはヴァイッピンか。そしてポルトガルの影響下でラテン・カトリックの間で発達したのがチャヴィットナーダガムだと。不穏で何やら霊的なものまで感じさせる曇天・あるいは驟雨の中で物語は進む。リジョー印の一つである周辺的な人々の無駄口はかなり抑え目で、篩に残ったものは効果的。父を亡くした男が葬儀のあれこれのトラブルに見舞われ自制心を失っていく物語には、どうしてもソール・ベローの『この日をつかめ』を思い出してしまう。周囲の人々の立ちすぎキャラも申し分なく、「集団的熱狂と個人の精神状態の共鳴」という、次作にもつづくテーマが追求されている。陋屋の内外を行き来する長回しも効果的。葬儀とは生き残った者が納得するために行うもので、生を全うした故人はそれと無関係に安息が訪れるというのがテーマか。
Angamaly Diaries (Malayalam/2017)をDVDで。
公開時に川口で見て以来の2回目。あの時は、クライマックス長回しについては予備知識があり、包み込まれるような圧倒感にスクリーンで観たことの幸福を噛みしめたのだった。ギャング抗争映画と評するレビューが多いが、実際は活気あり雑駁で荒くれた街で起きる青年同士の若気の至りの競り合いのようなもので、ボンベイギャングものなどにある、組織暴力に加わった者の矜持や覚悟や悲壮はない。主人公は抗うすべもなく暴力の世界に引き込まれるが、最後には幸せになるというのが人を喰っている。そして大人げない争いに加わる「青年」には中年の親父も混じる。しかし人死には割と簡単に起こり、その償いを金で解決するメソッドまでもが確立されている。技法的には初期のものに見られた手持ちカメラ、コマ落としなどの動きのある被写体を捕える際の特殊効果が復活したが、より洗練・円熟を感じさせ、技法に淫した印象はない。抑制のきかないフレンジーという点ではJallikattuを予言するが、具体的な特定の場所に徹底的にこだわった点で空前絶後。汎インド映画的なものと完全に逆。
Double Barrel (Malayalam/2015)をDVDで。
リジョーを年代順に見直すシリーズで、これだけほとんど記憶がなくスキップしたのかと思ってた。再見して分かったけど、ほとんどストーリーらしきものがなく、これじゃ忘れるわけだ。ライラとマジュヌという一対の宝石を求めて国際的なギャングやケーララのコーテーション・ギャング、小悪人たちが右往左往して殺し合うギャング映画のパロディー。様々な映画的引用を散りばめてあり、『炎』、『マッド・マックスFR』、『パルプ・フィクション』、カンフーもの、見鬼ものなどなど。ハイパーリンク映画でもあるが、登場人物のほぼ全員が最後に一カ所に集まって弾けるのはむしろ古典コメディー的展開も。メインの俳優たち全員がほぼ全編グラサンなのは、スターのグラマーを減じるという意図か。トンチキで間抜けなクールネスと間合いで笑いをとろうとする高度なコメディーには、適切なランタイムというものがあったのではないか。ネオン街からアラビア海沿いの丘までを見事に収めたカメラは見事。一番笑えたのは、ラチャナ・ナーラーヤンクッティ演じる知らずにギャングと結婚した嫁のブチ切れ具合。
Amen (Malayalam/2013)をDVDで。
10年以上ぶり鑑賞。これまでの2作品の後でパッと視界が開けるような気分。都市が舞台の前2作に対し、クッタナードの絶景を舞台にして、ビジュアルに自然美が占める割合が格段に上がった。そしてそれまでの不安定に揺れ動く(しかし絶妙に臨場感を醸し出す)手持ちカメラはほぼなりを潜め、代わりに現在のリジョーの特徴の一つである水平線や地平線できれいに区切られた遠景の中での人物のアクションが出てきた。これまでリジョーが憑りつかれていた疾走シーンや狭い室内での乱闘の描写はない。そしてこれも特徴の一つである仰角ワイドショットの多用。凝りに凝ったオープニングロール。本格的なリジョー節完成と言っていい。バイオレンスアクションからファンタジーに転じたのもくっきり。主人公を静の存在とし、周りの超個性的な人々をリアルに描く群像映画。バクティ映画との類縁性は以前から気づいていたが、芸道ものに典型的な脱帽するライバルの描写もあることに気付いた。そして欧米のミュージカル映画的な音楽の使い方を交えて虚構性を高め、群衆の熱狂も加え、人間ドラマよりは昆虫観察日記風味を高めた。
City of Gods (Malayalam - 2011)をDVDで。
これも10年以上ぶり鑑賞。Nayakanと同じく技巧が勝り過ぎあまり評価しなかった。初期ニューウェーブのハイパーリンク・ムービーの代表作の一つだけどTraffic(1/7公開)と比べこちら(4/23公開)はずっと忘れてた。相変わらず人物間の関係性は分かりにくいが、Nayakanと比べると登場人物のエモーションの演出には格段の進歩が見られる。この後のリジョーに見られる田舎の寂しく広漠とした景色をロングショットで撮ることはなく、都市の不穏さを描く方に力点がある。タミル人に対する上から目線は2023年NNMに引き継がれる。アッパー&ロウワー・ミドルクラスのケーララ人の退廃と出稼ぎタミル人コミュニティーのエネルギーと楽観性を対比させて昆虫の観察日記風の突き放し方で描く。アクションなど動きのあるシーンを人間以上に激しく動く手持ちカメラで撮る特異さ。登場人物の後ろについて肩越しに眺めるような臨場感。後半の木賃宿の一室での格闘などがその典型。また長回しへの指向性も芽ばえ、結婚式の宴で踊るローヒニを仰角で追うシーンなどが典型的。
Nayakan (Malayalam/2010)をDVDで。10年ぶり以上2回目。
「あのリジョー」のデビュー作ということで心して観たが、初回と印象はさほど変わらなかった。凝れば凝るほどにストーリーや演技の粗が目立つ。タイトルロールからその映像美学は見て取れる。冒頭の車や親族の死を知った主人公が家に駆け付ける場面など、疾走するものを追うカメラの独特の動きはかなりの凝り方。唯一記憶に残っていたあの銃撃のシーンはハチの巣にされた男の頭部を後ろから撮り、穴の向こうに銃撃者の姿を見せるというものだった。これはスタイルというよりもある種のユーモアなのだと思った。インドラジットの抑えたものなのかぎこちないのか判断できない。ジャガティとティラカンという名優を揃えながらも、何か薄っぺらい。シッディクに色悪をやらせたのは意表を突くキャスティングで造形も巧いが、それもまた安手感をさらに増していることは確か。コッチとKLを舞台にクールな大都会をやるのは苦しいがうまくやった。対立する2つのギャング組織と謎のマジシャンJSとの関係を整理して説得力を持って描くことができれば、ストーリーにも引き込まれたのではないか。
Alappuzha Gymkhana (Malayalam/2025)をオンラインで。
Bisonに続きスポーツドラマだが、全くテイストが異なる。同作が超正統派の下克上アスリートのドラマにダリト・パースペクティブを加えたものだったのに対し、本作はチャイ屋台でのタメぐちとストリート・ファイトを合わせたようなもの。しかしヒトがヒトとぶつかり合う本源的な面白さは共通していて、結構引き込まれて観てしまう。12年生の試験に落ちた4人組の中のジョジョがスポーツクオータでの進学を思いつき、他の3人と共にジムに入門する。4人は結局バラけるが、後から加わった者たちと共にゼロから特訓を受ける。コッチで行われる県対抗の大会にアレッピー代表として出場する。ジョジョの俄かクオータでの進学を思いつくようないい加減さは、異性関係でも同じで複数の女子に粉をかけるが結局実らない。こいつらが、試合では散々なのに、私闘になると俄然強いのが笑える。Premaluに続いてのナスレンは、まさに自分のためにあるような役を得て強運。ルクマーン・アヴァラーン演じるコーチが面白い造形だった。下手な奴のボクシングをハラハラしながら観る快感。
Bison Kaalamaadan (Tamil/2025)をスキップシティで。
インド人は10人以下だったかも。いきなりの日本ネタに吃驚。あの建物は赤坂見附あたりで見覚えがある気がしたが、探すと見つからず。グッゲンハイムあたりをイメージしてVFXにしたか。実在のダリトのカバディ選手のフィクションを交えた伝記。神のご加護なのか何か、基本的に彼の望みは全て魔法のように叶うが、その過程で目にしてしまうものが凄い。コートの中でだけでなく、バスでストリートで田んぼで全身で格闘する。仁義なきカースト抗争を続ける2人のボスも、なぜか彼に対しては援護する。主人公がカルナーニディやMGRのポスターを背にするショットがある。3年ぶりカムバックのドゥルヴはポスターでは、親父の顔のパーツを全部受け継ぎながら顔の面積が狭すぎるチンピラ顔で、あまり感銘を受けなかったが、動いているのを見ると実に素晴らしかった。ステロイド系じゃない体づくりもいい。MDのニヴァース・K・プラサンナーも、これまで全く気にも留めていなかったがグッドジョブ。ティルネルヴェーリの赤土が目に眩しい。ヤギがひどい目に遭うところにセルヴァラージ味。
Rekhachithram (Malayalam/2025)をオンラインで。
タイトルは「レーカの写真/映画」とも、「線画」つまり「犯罪捜査のためのスケッチ」ともとれる。実業家の奇妙な自死の現場から何十年もたった人骨が出土する。実業家の最後の告白から彼の犯罪には3人の共犯がいたことが分かる。その一人で、最も成功しているアリス・ジュウェリーの社長ヴィンセントは露骨に捜査を妨害する。その白骨化遺体の主のレーカは1985年のマラッパッカラで行われたバラタン監督マンムーティ主演の映画に修道女役でエキストラ出演していた若い女性だった。マ映画の伝統というか何というか、スリラーとしての捻りやトリックはほとんどなく、地道に捜査を進めていって真相に至るという作劇。だいたいマノージKジャヤンが出てきたところで悪い奴というのはダダ洩れだし。クライムの形を借りて何か別の訴えたいものがあることが分かるのでそこに文句はない。1980年代のマ映画黄金期の映画界へのノスタルジーで横溢したストーリーで、その時代を生きた映画界セレブが何人も登場する。最も中心的なKathodu Kathoramはディスク持ってる、観ないと。
Narivetta (Malayalam/2025)をオンラインで。
2003年のムッタンガ事件を題材にした告発もの。州政府庁舎前での抗議活動により勝ち取った土地返還の約束がいつまでも実行に移されないとしてワヤナードの部族民がその土地(野生動物保護区)を占拠して抗議を再開する。やがて武闘の火ぶたが切られ、丸腰の抗議者に銃弾の雨が降りそそぐ(このシーンはVasthavamでも見た)。そこに派遣された警察隊の中の新人巡査が目にした内幕というストーリー。中央から派遣されたHASTが陰謀論を展開して過激な手段に出ようとするというのはVirusと同構図。悪辣なDIGをタミル人にしたのもあれか(チェーランがなかなかに上手く演じていた)。出だしのクッタナードゥのパートで、めそめそ泣き虫でなおかつ我儘、精神年齢の低い主人公というのを見せ、スーパーヒーローものになるのを回避した。ナクサルは一切登場しないにもかかわらず、主人公のヴァルギーズという名前、そして抗議活動かのシャーンティの姿には、あのヴァルギーズとアジタの姿が重なる。エンディングでのラッパーのヴェーダンのイきり気味のソングだけはいただけなかった。
19(1)(a) (Malayalam/2022)をオンラインで。
女性監督インドゥVSのデビュー作。オープニングクレジットでニティヤ、VJSの後に字幕のヴィヴェーク・ランジットが表示されて吃驚。Thattarambalamでコピー店の切り盛りをする女性がある時男性客からまとまった量の文書のコピーを依頼され預かるが、その男性は成果物を取りに現れず、彼女はニュースで遠いダルマプリで彼が射殺されたことを知る。その男性ガウリ・シャンカルは著名な社会改革運動家で、タミル語・マラヤーラム語・英語で活発に著述する言論人。彼女は預かった原稿を(おそらくコーッタヤムの)出版社に持ち込むが門前払いされ、ガウリの故郷のイドゥッキにも赴く。タイトルは言論の自由を保障したインド憲法の条項。名前のないヒロインはかなり長いこと原稿を抱えたままでいるのだが、その理由が今一つはっきりしないし、最後の行動に彼女を駆り立てたものもよく分からない。ガウリ・ランケーシュの殺人に想を得たことはよく分かるが、その活動家が主に何を訴えていたのかは最後の象徴的な画像でやっと分かる。演説や文章にもっと印象的な言葉を散りばめてほしかった。
GRRR.. (Malayalam/2024)をオンラインで。
配信で見られるKUBOラスト。失恋で自暴自棄になり泥酔し、トリヴァンドラム動物園のライオンエリアに入り込んでしまった男と、救出のためエリアに入り出られなくなった職員の男を巡るコメディー。園長、獣医、警察、消防、猟友会的な人物、2人の友人、家族、グンダーが巻き込まれて大騒ぎになる。レビューは例によって最低だが、KUBOとスラージのおかげで例によって結構楽しく見られてしまう。特に酔っぱらい演技がいい。大団円のShoopara Daは、ダンスと映像が低予算だろうになかなかにセンスがあって、KUBOの踊りコレクションが増えて得した気分。ヒロインの父でカースト主義者で共産党系の大物政治家でもある男が一番の悪役で、敵対者を暴力で黙らせるタイプだが、これを演じたショービ・ティラガンが非常に上手かった。ずっと声優をやってたらしいが、親父様に似ていて、シャンミよりも断然怖い。ワインショップのある空き地で酔って踊る男たちはBheeshmaParvamの曲で盛り上がる。最後のオチは選挙前の政治家としての弱みを握ったということだろうが分かりにくい。
Enthada Saji (Malayalam/2023)をオンラインで。
久しぶりの本格的クリスチャン映画。Pranchiyettan & the Saint (2010)に重度の影響を受けて、作中でもそれを認めるような描写がある。イースターの祝日公開。レビューはボロボロで、そもそもレビューが少ない。それは無理もないんだけど、本来の意味での辺境映画(14億人を市場とする大作を無神経にこう形容する人物もいる)として大変興味深く観た。婚期を逃しつつあると焦っている女性サジモールが教会で聖ロックと話し合いながら人生を切り開いていくという主筋に、村のおかしな人間関係を織り込んだ(しかしその辺りは全部理解しきれなかった)。地名のIllikkalは、イドゥッキに近いイッリッカル・カッルからのものらしい。「聖書占い」という教義に反する風習を思い出すが、ヒロインに何かあるたびに聖書の一節が章番号とともに引用される抹香臭さ。しかし同時に9年ぶりにマ映画に復帰のニヴェーダ・トーマスが押しも押されぬ主役の女性映画でもある。しかし動きのないストーリーで、聖人の導きでボトルアートで急に成功するとか、無理がある。
Rendagam (Tamil/2022)をオンラインで。
マラヤーラム版はOttu、字幕がないのでタミル語版にした。何とKUBOのタミル語映画デビュー。アラヴィンド・サーミにとっては26年ぶりだかのマ映画復帰らしい。インド人の好きな記憶障害をめぐるスリラー。ムンバイからマンガロールへのロードムービーでもあり、バディものと思わせて最終的にはギャングスタものとなる。開始早々にChapter2と出て、エンディングではChapter1/3と表示されるが、ただの洒落で実際は1話完結というがする。KUBOは終始丁髷みたいなけったいな髪型で都会的なふざけた奴を演出。ゴアのシーンでガンガンに踊るのも嬉しい。しかしこれはジャヤスーリヤが演じるべき役ではと途中までは思っていたけど、最後にこのキャスティングの理由が分かる。レビューは散々だが、KUBO+アラヴィンドで結構楽しめてしまうファンの欲目。ただまあそれ以外のキャストは安っぽく、ロマンス描写はダサすぎ。ジャッキー・シュロフの使い方だけは間違えていないが。KUBOのタミル語についての評価は見当たらなかったが、マラヤーラム語よりも軽薄な若者風が感じられた。
Mangalyam Thanthunanena (Malayalam/2018)をオンラインで。
静かなクライマックスでのKUBOとニミシャの、演技派同士の芝居はビリビリとしたものが感じられるほど見事だった。前回観た時には何も感じなかったのか、自分。そういう意味では2度見してよかった。