『パターソン』は主人公パターソンのバス運転手へのブルーさはあきらかにジャームッシュの盟友アキ・カウリスマキをも意識している。
カウリスマキ映画で言う『パラダイスの夕暮れ』が最も近く、『街のあかり』にも多少通じる。いわゆる、『タクシー・ドライバー』のイズムを持つ作品。
清掃局員と警備員、タクシー運転手にバス運転手。決してヒーローとは程遠い、日陰者、ブルーカラー達。そんな彼らの共通口は“女性”がキーワード/キーポイントになる。それぞれ女性の使い方は違えど、これらの映画を語る上で欠かせないキーになっている。
『パターソン』のパターソンと彼の妻を見る時のポイントはお互いの性格・行動。まさしくパターソンの“静”に対して、妻の“動”。パソコンも使うし、物も買うし、活発的にバザーでケーキを売ったりする。しかもインド人。いったい、どこにパターソンが彼女と仲良く暮らせる要素があるのかとも思うが、性格が違うからこそ仲が良い、と考えるしかない。夫婦喧嘩を拒否し、排除した点で小津の『お茶漬けの味』や成瀬の『めし』とは逆位置でもあり、より日常的である。
#映画 #パターソン
『パターソン』を観て思い出したのは、行動のパターン化という点では小林政広の『愛の予感』にそっくり。
あと、タクシーをバスに変えた『タクシー・ドライバー』とも。映画館で映画を観るシーンもあるし、『タクシー・ドライバー』といろいろと比べるとほとんど逆位置の映画になっている。
トラヴィスの孤独・独身に対してパターソンには異文化の嫁がいて仲が良い。
トラヴィスの社会への不満に対してパターソンには特に不満はない。
トラヴィスの夜を生きるタクシードライバーの世界に対して、パターソンは日中を生きるバス運転手。
けど、そんなパターソンにも詩人として大成したいささやかな野望があるが、10歳ぐらいの女の子にも負ける絶望的なセンス。
逆位置でありながら、トラヴィスに感じるブルーさをパターソンには感じ取れる。
『パターソン』に永瀬正敏が出てるのは『リミッツ・オブ・コントロール』の工藤夕貴の起用と同様のものを感じる。
つまり、『ミステリー・トレイン』のつぐないで、このカップルに『リミッツ・オブ・コントロール』、『パターソン』のそれぞれで知的な役をやらせている。
『パターソン』は『ストレンジャー・ザン・パラダイス』の系譜とも言われてるが、ボクから見れば処女作『パーマネント・バケーション』の応用で、これに『ゴースト・ドッグ』と『リミッツ・オブ・コントロール』で見せた行動のパターン化を加えている。主人公パターソンが妙にアナログだったり携帯電話を持たないのも『ゴースト・ドッグ』や『リミッツ・オブ・コントロール』に通じる。
結婚や家に誰かが来る、旅行などがなく、老人がでない点などにおいて『晩春』、『東京物語』、『彼岸花』、『秋刀魚の味』以上に日常を描いていて、小津映画にさえあった日常における引っ掛かり・興味ごとを排除し、徹底して仲が良いパターソン夫妻の日常を描いたことで小津安二郎でさえ描けなかった・描かなかった究極の日常映画を作り上げた。
これジム・ジャームッシュの極意なり。
パターソン
ジャームッシュの作品って、特にストーリーが無くても登場人物達が、話してるのを見てるだけでも絵になるけど、この作品もその系譜でした。
無駄を配した構成で淡々と主人公の日常を見せる所は、とても良かった。
但し、永瀬正敏登場のパートは特に無くても良かったのではと感じてしまった。
セットや登場人物達の衣装なんかも雰囲気があって、そこは流石ジャームッシュという感じがしました。デジタルガジェットを登場させなかった点は作品の雰囲気を保つのに好印象でした。
見ていてふっと思い出した作品が2本ありました。
8mileとスモークです。
8mileでは、エミネムがバスの中で、紙に詩を書きつけていた場面。
スモークで、H・カイテルがアルバムを見せながら独白するシーンとか思い出しました。
また、21世紀からの助言は、コピーは別に用意しましょうという所でしょうか。
映画版『ナラタージュ』の不満 4
映画版『ナラタージュ』の不満 1