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Unda (Malayalam/2019)をDVDで。 

久々の傑作。これはどう考えても『ニュートン』と対で見られるべき一作。『ニュートン』で主役だった選挙管理委員が後方に退き、投票所警護の警察官を描く。しかもそれがケーララから来た警官たち。言語のギャップもリアルに描かれる。マオイストが出没する僻地での活動に付きものとされる各種の慣用句(英雄的な殉死、残してきた家族との交情、ゲリラとの接近戦)は注意深く取り除かれ、とはいえ設定が設定だから、和やかなシーンの中に突然の襲撃が起きる可能性は常にあり、安心して見ることを許さない。若手から隊長まで、全員に実戦の経験がなく、隊長には健康問題までが忍び寄ってくる。ケーララ州警本部は頼りにならない。最後に訪れた緊迫状況の中で、彼らが手にしたのは、故地での通常任務において使い慣れた武具だった。へっぽこ射撃手の笑える武勇。そしてゲスト出演のアーシフ・アリが演じるキャラの謎具合。チーム内の不和のリアルさ。チャッティースガルの常住の自然の澄み切った空気感。マンムーティが演じる中年の隊長の、超人的マスキュリニティとはかけ離れた人間味、けれど芸術作品ではない風合い。

Kaappaan (Tamil,2019) をイオンシネマ市川妙典で。 

KVアーナンド監督作とのことで前評判は高かったけど、公開後ボコボコに。まあそれはわかる。KVは娯楽と社会正義との匙加減が絶妙で、さわやかで気持ちいい作品を作る人と思っていたけど、キャンバスを州政治から国家レベルに広げたせいでバランスを失った。ソングは全部が心ここに在らず感。デリーとTN州との距離感が無茶。スーリヤを農民の味方にするためにわざわざ農民に設定する必要はなかったはず。デリーのシークレットサービスとTNの有機農法百姓とは両立するとは思えん。クライマックスでのセキュリティチェックのムラとかも杜撰。00年代の有望な若手監督がこんなにも早く擦り切れてしまうとは。監督の寿命はスター俳優よりずっと短い。同時に、00年代のヴィジャヤカーント映画なら、こんなもんだろと言って観てただろう自分自身の不寛容化にも驚き。唯一斬新だったのは、新婚のアーリヤとサイェーシャを両方引っ張ってきて嫁の方をヒロインにしてスーリヤとイチャイチャさせたことぐらい。PM役ラルさんのネルージャケット案件として格納し、後は忘れていいような気がする。

『カーラ 黒い砦の闘い』をキネカ大森で。 

大きな画面で見るのは3回目。平日昼間で50人ぐらいは埋まっていたか。鑑賞後に知り合いと話をしていた際に、女番長プヤルが最終シーンに顔を出していなかったことを指摘され、うむむと思った。しかし近年この作品ほど演技者としてのラジニをたっぷりと見せてくれるものは無かったのではないか。前衛的なラジニ歌舞伎であると同時に、時折芸術映画のような風合いで、追い詰められていく還暦過ぎの男を超リアルに映す。この演技者ラジニの爆発は、やはり敵役に稀代の演技派ナーナー・パーテーカルを持ってきたことによるのではないかと思う。ナーナー演じるハリがカーラと握手したすぐ後に手をふらふらとさせるあの箇所は、何度見ても息をのむ。ラジニの方も、たとえば警察にしょっ引かれたシーンで、ちゃらんぽらんな受け答えをしながら、突然「黙って引っ込んでろ!」と一喝し、小者を文字通り吹っ飛ばすシーンなど、迫力がある。ラストのあれは北インドのホーリーの色粉掛けから着想しているのだということ、観ている人に伝わっただろうか。カラフルな色粉を投げ合っているうちに、いつしか真っ黒になってしまうというあの逆説。

これまでインド映画の恋愛もの、 

その中の1パターンである、引き裂かれて別々の相手と結婚させられたカップルのストーリーを見てきて、姦通を絶対的に避ける不文律にどうよと思ったことは多々ある。逆に肉体関係を持たなければ心は結婚を裏切ってもいいというロジックに何か現金なものを感じたりもした。結婚を裏切らずに恋愛を成就させるためには、離婚するか、あるいはそれぞれの配偶者が都合よく死ぬのを待つしかないわけだが、これも事実上脚本としては禁じ手。まあでも、インド語の、少なくともタミル語の文学的コンヴェンションからすれば、心は主体から離れて勝手な動きをするということになっている。心を責めるなかれというのはここから来ているのか。

キネカ大森で『ベルボトム』。 

映画館では半年ぶりぐらい。ほわんとした呑気空間に癒される。インド映画の常で、謎ときは脱力するほどに単純で、推理マニアを喜ばせるものでは全くない。それから、主人公の憧れの対象としての探偵&諜報部員というのが、それぞれ職能としてはかなり隔たっているのに、一緒くたにされているところもインドらしい。他の人の感想にもあったけど、IMWの他の上映作の高密度ぶりに対して本作の盛り上がりのなさは特筆ものなんだけど、それでも飽きずに見せる、これが不思議。これは天然ボケではなく、知的に緻密に組み立てられたレトロおとぼけワールドなのだ。80年台ファッションは見れば見るほどイケてるけど、これもそのまま持ってきたのではなく、今日のデザインセンスでの再構成を感じる。それからリシャブ・シェッティの顔の魅力。何年も芽が出なかった人だけど、そしてこれ見よがしの男前ではない(まあ、カンナダスターは皆だいたいそうだ)けれど、目が離せない不思議な磁力を持っている。そうしたもの全てが相まって、タメになることは何一つなく、劇的な盛り上がりもないのに、訳もなく楽しい130分という得がたい1本となった。

メモ:第五世代の登場における中国の映画産業と 制度の変化が果たした一側面について(山本律)  

”1980年当時、政府の批准を受けていた映画製作所は全部で14あった。その中でも特に大手であったのが、1949年の中華人民共和国成立直後に設立された、上海・北京・長春のいわゆる三大映画製作所である”

三大映画製作所が渋滞して新人が活躍できないでいた状況下で、広西電影製片廠や西安電影製片廠が第五世代の揺籃になったと。
core.ac.uk/download/pdf/144431

キネカ大森で‘96。自分にとってIMW初作品。 

観客は30人ほど。しばしば字幕を忘れてリードペアの演技に見惚れた。SKIPシティ常連にとってキネカはややショボいハコで、特にサウンドは物足りないけど、やはり大画面はいい。皆がVJSを絶賛するけど、トリシャーも一世一代の名演という認識を新たにした。スラリとした立ち姿が本当に美しい。恋愛映画というのはインドには目新しいジャンル。幕の内弁当スタイルのファミリーorアクション映画の中で恋愛は必須アイテムだけど、それは往々にして様式化されていて、ストーリーを回すための動因扱い。恋愛感情自体をじっくり描くことは比較的珍しいし、また描くのが上手いと思えるものも少ない。本作は揺れ動く心そのものがテーマ。ただ、映像作家の心には、常にオーバーアクトを抑制する強いストッパーがかかっていたものと思える。2人が最後に見交わす搭乗シーンを入れなかったのもその一例か。心の叫びは表情とBGMで表現される。そして冒頭ソングを除きほとんど全曲が女の側の心象を歌う。2人の物理的距離が縮まるにつれ男は別れを見据え冷静になっていく。やっぱりAnthaathiは映像化して欲しかった。

嫌味とか、通報するぞとかじゃなく、純粋な興味から思うのだけど、 

今年公開の外国映画の劇中歌の歌詞を、配給会社による字幕とは別に、勝手訳したものをネットで公開するのって、法的にはどうなのか。配給による公式字幕に物言いたいのか、劇中歌が好きすぎて我慢できずにやるのか、その辺りがはっきりしないのだけど。

Ulidavaru Kandante (Kannada/2014)をDVDで。 

ちょっと確認したいことがあって部分チェックだけするつもりが、面白くて全編見てしまった。羅生門スタイルと言うことだが、最終的に観客は神の視点を持つことになる。それよりも面白いのは、ねっとりとベタつく潮風の感触、ジャンマシュタミの祭事を祝う人々の常ならぬ興奮の気配、といった芸術映画的な何ものか。魔術的リアリズムといってもいい。正義を体現する人物が一人として登場しないことによってもそれが強まる。カルナータカ沿海部は内陸部の保守的・内向的な気性に対して開放的との印象が一方にあるけれど、何本か見た沿海部もの映画には、それを打ち消すような陰惨さや狭量さもあって、一筋縄ではいかない。カンナダ語、トゥル語、コダグ語その他の言語が飛び交い、影を内包する強烈な日差しに照り付けられるうちに物事の意味というものが溶けていくようなあの感じは中二病的なロマンを掻き立てるものがある。一連の流血の原因となった眩いお宝というのが何なのか、クリシュナ神話の最後の方に出てくる、岸に流れ着いてそれを見た人々を狂わせ、相互の殺戮に導いたアレのような。

好みの問題でしかないけど、「推し」って言い方も嫌だな。 

昔風に贔屓と言いたい。推しって自分とスターだけじゃなく第三者がいるって前提だ。まあSNS的ではある。推し活よりもバクティをしたいんだ、自分は。

Evaru (Telugu - 2019)を川口スキップシティで。 

アディヴィ・セーシュという俳優は、これまでに目にしてもあまり印象に残らなかったし、日本での知名度を上げた『バーフバリ』での役にしても、あまり丁寧に作られたキャラではないこともあって、ポジティブな印象は特になかった。今回上映のプレビューを書くにあたって若干調べて分かったのは、育ちが米国であること。それで何か腑に落ちることがあった。つまりアニーシュ・クルヴィッラやシュリーニヴァーサ・アヴァサラーラ(それから、NRIじゃないけどカマル・カーマラージュ)などに連なる「アメリカ帰り系」俳優だったのだ。NRIに特有のあの独特の臭みが確かにある。これまではそうした連中はシェーカル・カンムラ近辺の意識高い作品に集結して、仕事がなくなると大衆映画で脇役をしたりしてた。しかしセーシュはどうやらもう少しメインストリーム寄りのところを目指しているらしい。そのチャレンジがどうなるか、多少は関心を持って眺めるようにしていきたい。映画の感想としてはムルリ・シャルマ―の容貌の毒抜きの完了が印象的。初登場の頃は顔にモザイクかけんとヤバすぎだろと思ってた。

俳優の名前に言及する際に、いちいちさん付けするの、最近のトレンドなのか? 

それともインド映画界隈だけなのか。なんだかなあと思うわ。さんつけるボクちゃん偉いでしょみたいな見当違いのレスペクトが嫌。

今年一般劇場公開された&公開予定のiインド映画、 

数年前と比べてとんでもない本数だし、作品について熱く語ってる人も多く目につくけど、なんか一様に「食べやすいように小さく切り分けて綺麗にお皿に盛った」感がある。別の言い方をすれば、一般の観客でもそれらしい感想を言語化できる作品とでもいうか。それにくらべると、IMWやIDEのオタクセレクションの作品群は、外の世界に対する配慮などほとんどなく作られた、スケール感が違う作品が多いように思われる。

Dear Comrade (Telugu - 2019)を川口スキップシティで。 

難しい映画だった、アンガー・マネージメントに問題を抱える男子が失恋でどん底に落ちて、そこから這いのぼる、それだけなら明解なんだけど、そこにセクハラで人生の目標を失った元カノを助けるという要素が絡まり、その助け方について色々と議論が出たようだ。ロジックとして弱いのは、インド北辺旅行で男子が立ち直るプロセスがイージーなところ。それから精神病棟に隔離されている女子を男子が攫って連れ出して、ごくごく短い旅行で回復させるとこ。テルグ映画らしいオプティミズムと言ってしまえばそこまでだが。生きる目標を失った女子が結婚を求めるのを断るあたりは新時代的価値観を反映したヒロイズムの発露なのだろう。ただその後、女子の望みを打ち砕いたのがセクハラだったということを知って相手のオフィスに討ち入りに行くというの、克服したはずの暴力的性向が戻ってきたのはいいのかいと思ってしまう。そして公の場での裁定にまでもちだして、最後の土壇場で女子の気持ちを知って自分の問題提起が虚偽だったというあたり、もう遅すぎじゃんと言う気がしないでもなかった。

過去に、字幕翻訳学校の生徒のやった翻訳を検品した時 

の経験。基本英単語のみを使った短文(文脈の理解がないと意味がとれない)の訳が滅茶苦茶で、学校の講師のチェックが入ってそれだったのであきれ返った。「意味が分からない箇所は雰囲気で適当に創作しとけ」と指導しているとしか思えなかった。知り合いのプロ翻訳家によれば、翻訳学校への入学にはTOEICの点数が求められるわけでもなく、育成するというよりはむしろ振るい落とす場だとのこと。でも、能力を欠いてるのにしがみつき、我流で翻訳家を名乗る諦めの悪い人間も一定数いるんだよね。

インド映画の現地でのレビューを大量に読んで感じること。 

そこそこのインテリだろうと思われる人間でも、粗筋の説明に、役名ではなく役者名を平気で使うこと。そのこと自体がインド映画における物語と演じ手との関係性を端無くも表していると言えばそうなのだが、書き手の雑さに腹が立つこともしばしばある。

『ザクロの色』The Color of Pomegranates (USSR-1969) をBDで。 

これを見たくてBD再生環境を整えたようなものなのに、心の用意ができずしばらく放ってあって、やっと見られた。30年ぶりぐらいか。ズル剥けのインド映画に鼻下まで浸かった自分が、本作の中二病大爆発に再びまみえてどんな化学反応を起こすか気になってたけど、ただもう静かな瞑想的な時間を過ごせた。全ての芸術映画の頂上に君臨する一作、全ての映像詩的作品はこれの後追い。回顧上映の機会は何度かあったけど、観るために色々ハッスルするのが嫌で足を運んでなかった。もうこの先はこのBDを繰り返し見るだけでいいような気がしている。『ザクロ』と言ったらソフィコ・チアウレリだけど、彼女が登場する前の幼年期の部分が映像としては最も美しいものだと思う。サヤト・ノヴァ物語は古譚の世界だと思ってたけど、ライナーノーツを読んだら18世紀の人だと。そんなに「最近」の人だったとは。それにしても、アルメニアという一国のイメージが自分にとってはこの作品しかないというの、凄いことに思える。これ以上色々知ろうとしない方が良いような気がしてる。

Prem Ratan Dhan Payo (Hindi - 2015)をDVDで。 

これもまた純粋な興味からじゃなく商売がらみで。しかし同じレトロ系ボリ映画でも昨日のRNBDJよりずっと良かった。あり得ない虚構の組み立てが上手いのと、信じられないくらい豪華絢爛なのに重苦しさがないビジュアルゆえか。ラスト30分(サッカー以降)をもう少しスピーディーにまとめていたら大傑作だったかも。ダンスの振付(画面構成・編集・美術も含め)も卓越していた。二役のサルマーンは、片方が強面、片方が純朴で、両者の区別のためのマーカーは髭しかないんだけど、RNBDJがあらゆる工夫を凝らして一人二役に説得力を持たせようと無駄なことしてたのに比べ、「替え玉なんだから似てて当然」で押し通すのが潔い。ソーナムは場面によって、やんごとなきプリンセスだったり安っぽい化粧お化けだったりで安心して見られなかった。しかし藩王国の跡目争い(それも異母兄弟の間での)というの、よく考えればこれは無理やり舞台を現代にしてるだけでフォークロアそのものだな。邦題はかつての映画祭での長々しいのじゃなく「踊るマハラジャ2」で良いような気がしてきた。

Rab ne Bana di Jodi (Hindi - 2008)をDVDで。 

わざわざ観ようとしなくともそのうち向こうから来るだろう、ぐらいに思っていた有名作、若干学術的な理由から急遽鑑賞。Dil Chahta Hai (2001)と同じく、観るタイミングが早ければもっと感動していたかもというものだった。こういうことは時々ある。まあしかしこれは2008年時点でも既にレトロなものになっていたんだろう。そのあたり、当時の現地観客の進歩派系からは、旧式なご都合主義を非難されたようだ。少女漫画的なヘアスタイリングとメガネと髭と服とによる別人への変身という点。しかしもっと非現実的なのは外見を変えただけで朴念仁がチャラ男になれるのかというところではないか。しかしこういうのをつべこべ言うのはそのそもレベルが低い。SRKの演技は相変わらず眠気を誘う。アヌシュカの役はむっつりした顔を要求されるものだったけど、それにしても退屈な顔(ただしダンスが上手いことは分かった)。本物のゴールデン・テンプルのシーンが、開始後30分で先行きが見えるストーリー展開に深みをもたらしており、映像的にも清涼剤となっていた。

「ガリーボーイ」を試写で。 

英語字幕で見た時とラップの歌詞のイメージがかなり変わった。特にapne time ayegaのそれ。二度目なので幾つか気づいたことがある。サフィーナの家はダーラーヴィーに近接してるのかもしれないけど、スラム内ではない。父は医者で中流の下ぐらいの経済状況にある。それからムラドが家を出て母と共に移り住むのは市内の別のスラム(たぶんBhandup)だとか。スラムの3文字のインパクトのせいで忘れがちになるけど、主人公は大学生なんだ。これがムンバイのスラムの特質なのか、それとも他にもそういうところは多いのか分からないけど、中産階級に手が届くくらいの暮らしをしてるけど住む場所だけがないというクラスの人々が分厚い層をなしているということ。傑作と称賛されているが、トントン拍子のラストにはあまり感心しない。一番感じ入ったのは、富裕階級のパーティーに運転手として随伴するシーン。車のボディーに眩い電飾が反映して、何者でもない自分を思い知らされるところ。「こいつみたいな運転手だって大学を出てる」と説教のつまみにされるところ。泣いている女主人に慰めの声をかけられないところ。

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