キネカ大森で『ベルボトム』。
映画館では半年ぶりぐらい。ほわんとした呑気空間に癒される。インド映画の常で、謎ときは脱力するほどに単純で、推理マニアを喜ばせるものでは全くない。それから、主人公の憧れの対象としての探偵&諜報部員というのが、それぞれ職能としてはかなり隔たっているのに、一緒くたにされているところもインドらしい。他の人の感想にもあったけど、IMWの他の上映作の高密度ぶりに対して本作の盛り上がりのなさは特筆ものなんだけど、それでも飽きずに見せる、これが不思議。これは天然ボケではなく、知的に緻密に組み立てられたレトロおとぼけワールドなのだ。80年台ファッションは見れば見るほどイケてるけど、これもそのまま持ってきたのではなく、今日のデザインセンスでの再構成を感じる。それからリシャブ・シェッティの顔の魅力。何年も芽が出なかった人だけど、そしてこれ見よがしの男前ではない(まあ、カンナダスターは皆だいたいそうだ)けれど、目が離せない不思議な磁力を持っている。そうしたもの全てが相まって、タメになることは何一つなく、劇的な盛り上がりもないのに、訳もなく楽しい130分という得がたい1本となった。
メモ:第五世代の登場における中国の映画産業と 制度の変化が果たした一側面について(山本律)
”1980年当時、政府の批准を受けていた映画製作所は全部で14あった。その中でも特に大手であったのが、1949年の中華人民共和国成立直後に設立された、上海・北京・長春のいわゆる三大映画製作所である”
三大映画製作所が渋滞して新人が活躍できないでいた状況下で、広西電影製片廠や西安電影製片廠が第五世代の揺籃になったと。
https://core.ac.uk/download/pdf/144431642.pdf
キネカ大森で‘96。自分にとってIMW初作品。
観客は30人ほど。しばしば字幕を忘れてリードペアの演技に見惚れた。SKIPシティ常連にとってキネカはややショボいハコで、特にサウンドは物足りないけど、やはり大画面はいい。皆がVJSを絶賛するけど、トリシャーも一世一代の名演という認識を新たにした。スラリとした立ち姿が本当に美しい。恋愛映画というのはインドには目新しいジャンル。幕の内弁当スタイルのファミリーorアクション映画の中で恋愛は必須アイテムだけど、それは往々にして様式化されていて、ストーリーを回すための動因扱い。恋愛感情自体をじっくり描くことは比較的珍しいし、また描くのが上手いと思えるものも少ない。本作は揺れ動く心そのものがテーマ。ただ、映像作家の心には、常にオーバーアクトを抑制する強いストッパーがかかっていたものと思える。2人が最後に見交わす搭乗シーンを入れなかったのもその一例か。心の叫びは表情とBGMで表現される。そして冒頭ソングを除きほとんど全曲が女の側の心象を歌う。2人の物理的距離が縮まるにつれ男は別れを見据え冷静になっていく。やっぱりAnthaathiは映像化して欲しかった。
Ulidavaru Kandante (Kannada/2014)をDVDで。
ちょっと確認したいことがあって部分チェックだけするつもりが、面白くて全編見てしまった。羅生門スタイルと言うことだが、最終的に観客は神の視点を持つことになる。それよりも面白いのは、ねっとりとベタつく潮風の感触、ジャンマシュタミの祭事を祝う人々の常ならぬ興奮の気配、といった芸術映画的な何ものか。魔術的リアリズムといってもいい。正義を体現する人物が一人として登場しないことによってもそれが強まる。カルナータカ沿海部は内陸部の保守的・内向的な気性に対して開放的との印象が一方にあるけれど、何本か見た沿海部もの映画には、それを打ち消すような陰惨さや狭量さもあって、一筋縄ではいかない。カンナダ語、トゥル語、コダグ語その他の言語が飛び交い、影を内包する強烈な日差しに照り付けられるうちに物事の意味というものが溶けていくようなあの感じは中二病的なロマンを掻き立てるものがある。一連の流血の原因となった眩いお宝というのが何なのか、クリシュナ神話の最後の方に出てくる、岸に流れ着いてそれを見た人々を狂わせ、相互の殺戮に導いたアレのような。
Evaru (Telugu - 2019)を川口スキップシティで。
アディヴィ・セーシュという俳優は、これまでに目にしてもあまり印象に残らなかったし、日本での知名度を上げた『バーフバリ』での役にしても、あまり丁寧に作られたキャラではないこともあって、ポジティブな印象は特になかった。今回上映のプレビューを書くにあたって若干調べて分かったのは、育ちが米国であること。それで何か腑に落ちることがあった。つまりアニーシュ・クルヴィッラやシュリーニヴァーサ・アヴァサラーラ(それから、NRIじゃないけどカマル・カーマラージュ)などに連なる「アメリカ帰り系」俳優だったのだ。NRIに特有のあの独特の臭みが確かにある。これまではそうした連中はシェーカル・カンムラ近辺の意識高い作品に集結して、仕事がなくなると大衆映画で脇役をしたりしてた。しかしセーシュはどうやらもう少しメインストリーム寄りのところを目指しているらしい。そのチャレンジがどうなるか、多少は関心を持って眺めるようにしていきたい。映画の感想としてはムルリ・シャルマ―の容貌の毒抜きの完了が印象的。初登場の頃は顔にモザイクかけんとヤバすぎだろと思ってた。
Dear Comrade (Telugu - 2019)を川口スキップシティで。
難しい映画だった、アンガー・マネージメントに問題を抱える男子が失恋でどん底に落ちて、そこから這いのぼる、それだけなら明解なんだけど、そこにセクハラで人生の目標を失った元カノを助けるという要素が絡まり、その助け方について色々と議論が出たようだ。ロジックとして弱いのは、インド北辺旅行で男子が立ち直るプロセスがイージーなところ。それから精神病棟に隔離されている女子を男子が攫って連れ出して、ごくごく短い旅行で回復させるとこ。テルグ映画らしいオプティミズムと言ってしまえばそこまでだが。生きる目標を失った女子が結婚を求めるのを断るあたりは新時代的価値観を反映したヒロイズムの発露なのだろう。ただその後、女子の望みを打ち砕いたのがセクハラだったということを知って相手のオフィスに討ち入りに行くというの、克服したはずの暴力的性向が戻ってきたのはいいのかいと思ってしまう。そして公の場での裁定にまでもちだして、最後の土壇場で女子の気持ちを知って自分の問題提起が虚偽だったというあたり、もう遅すぎじゃんと言う気がしないでもなかった。
『ザクロの色』The Color of Pomegranates (USSR-1969) をBDで。
これを見たくてBD再生環境を整えたようなものなのに、心の用意ができずしばらく放ってあって、やっと見られた。30年ぶりぐらいか。ズル剥けのインド映画に鼻下まで浸かった自分が、本作の中二病大爆発に再びまみえてどんな化学反応を起こすか気になってたけど、ただもう静かな瞑想的な時間を過ごせた。全ての芸術映画の頂上に君臨する一作、全ての映像詩的作品はこれの後追い。回顧上映の機会は何度かあったけど、観るために色々ハッスルするのが嫌で足を運んでなかった。もうこの先はこのBDを繰り返し見るだけでいいような気がしている。『ザクロ』と言ったらソフィコ・チアウレリだけど、彼女が登場する前の幼年期の部分が映像としては最も美しいものだと思う。サヤト・ノヴァ物語は古譚の世界だと思ってたけど、ライナーノーツを読んだら18世紀の人だと。そんなに「最近」の人だったとは。それにしても、アルメニアという一国のイメージが自分にとってはこの作品しかないというの、凄いことに思える。これ以上色々知ろうとしない方が良いような気がしてる。
Prem Ratan Dhan Payo (Hindi - 2015)をDVDで。
これもまた純粋な興味からじゃなく商売がらみで。しかし同じレトロ系ボリ映画でも昨日のRNBDJよりずっと良かった。あり得ない虚構の組み立てが上手いのと、信じられないくらい豪華絢爛なのに重苦しさがないビジュアルゆえか。ラスト30分(サッカー以降)をもう少しスピーディーにまとめていたら大傑作だったかも。ダンスの振付(画面構成・編集・美術も含め)も卓越していた。二役のサルマーンは、片方が強面、片方が純朴で、両者の区別のためのマーカーは髭しかないんだけど、RNBDJがあらゆる工夫を凝らして一人二役に説得力を持たせようと無駄なことしてたのに比べ、「替え玉なんだから似てて当然」で押し通すのが潔い。ソーナムは場面によって、やんごとなきプリンセスだったり安っぽい化粧お化けだったりで安心して見られなかった。しかし藩王国の跡目争い(それも異母兄弟の間での)というの、よく考えればこれは無理やり舞台を現代にしてるだけでフォークロアそのものだな。邦題はかつての映画祭での長々しいのじゃなく「踊るマハラジャ2」で良いような気がしてきた。
Rab ne Bana di Jodi (Hindi - 2008)をDVDで。
わざわざ観ようとしなくともそのうち向こうから来るだろう、ぐらいに思っていた有名作、若干学術的な理由から急遽鑑賞。Dil Chahta Hai (2001)と同じく、観るタイミングが早ければもっと感動していたかもというものだった。こういうことは時々ある。まあしかしこれは2008年時点でも既にレトロなものになっていたんだろう。そのあたり、当時の現地観客の進歩派系からは、旧式なご都合主義を非難されたようだ。少女漫画的なヘアスタイリングとメガネと髭と服とによる別人への変身という点。しかしもっと非現実的なのは外見を変えただけで朴念仁がチャラ男になれるのかというところではないか。しかしこういうのをつべこべ言うのはそのそもレベルが低い。SRKの演技は相変わらず眠気を誘う。アヌシュカの役はむっつりした顔を要求されるものだったけど、それにしても退屈な顔(ただしダンスが上手いことは分かった)。本物のゴールデン・テンプルのシーンが、開始後30分で先行きが見えるストーリー展開に深みをもたらしており、映像的にも清涼剤となっていた。
「ガリーボーイ」を試写で。
英語字幕で見た時とラップの歌詞のイメージがかなり変わった。特にapne time ayegaのそれ。二度目なので幾つか気づいたことがある。サフィーナの家はダーラーヴィーに近接してるのかもしれないけど、スラム内ではない。父は医者で中流の下ぐらいの経済状況にある。それからムラドが家を出て母と共に移り住むのは市内の別のスラム(たぶんBhandup)だとか。スラムの3文字のインパクトのせいで忘れがちになるけど、主人公は大学生なんだ。これがムンバイのスラムの特質なのか、それとも他にもそういうところは多いのか分からないけど、中産階級に手が届くくらいの暮らしをしてるけど住む場所だけがないというクラスの人々が分厚い層をなしているということ。傑作と称賛されているが、トントン拍子のラストにはあまり感心しない。一番感じ入ったのは、富裕階級のパーティーに運転手として随伴するシーン。車のボディーに眩い電飾が反映して、何者でもない自分を思い知らされるところ。「こいつみたいな運転手だって大学を出てる」と説教のつまみにされるところ。泣いている女主人に慰めの声をかけられないところ。
Manto (Hindi - 2018)をTUFS Cinemaで。邦題は『マントー』。そのために来日した監督による舞台挨拶と質疑応答つき。
追記:ムンバイの映画プロデューサーのオフィスで、女優志望の2人の娘を肥えたプロデューサー(まさかリシ・カプールがこんな役で出てくるとは思わず)が上衣を脱がせて検分するシーン。プロデューサーが色白の方がいいなと言うのはまあ想定内だけど、色白娘の方がどことなく西欧的な顔立ちをしており、またオフィスへの来客にも動じることがないというあたりに、演出の細かさを感じた。
Sir (Hindi - 2018)を試写で。邦題は『あなたの名前を呼べたなら』。
追記:メイドの方が菜食主義で、雇い主のために我慢して肉を調理する&未亡人となったら再婚は絶対に認められない、この二点からして、メイドは実はバラモンである、あるいはバラモンではないがアッパーカーストであるという可能性がある。肉を普通に食べる雇い主は、伝統的アッパーカーストであるかどうかよりも、現代のパワーエリートであるというのが肝なのだと思った。
Sir (Hindi - 2018)を試写で。邦題は『あなたの名前を呼べたなら』。
サウスファンなのにここのところ良質なムンバイ映画を立て続けに見ている。行きたくなってしまうではないか。ムンバイの最高級フラットに住む金持ちの独身男と、マハーラーシュトラの田舎から出てきて住み込みメイドとして働く若い未亡人との交情。女性の方も極貧というわけではない。けれど、両者の間には絶望的なまでの隔たりがあり、二人が男と女として向き合うことを阻む。その隔たりが、体格、肌の色、話す言葉、話し方、その他諸々に結実化して、どんなもの知らずにもハッキリと感得できるように画面に示される。カーストではなく、社会的な階層の違いなのだ。彼女が洒落たブティックから追い出されるシーンはかなり刺さる。旦那様とメイドとの間の恋愛あるいは火遊びというのは、インド映画で繰り返されてきたモチーフだけど、往々にしてメイド役をシュリーデーヴィーのようなゴージャスすぎる女優が演じることによって、意味が薄められてしまうことが多かった。結末は少し楽観的すぎるように思ったがどうだろう。二人がアメリカに逃れるなら、まだ現実味があったかもしれないが。
Manto (Hindi - 2018)をTUFS Cinemaで。邦題は『マントー』。そのために来日した監督による舞台挨拶と質疑応答つき。
外国語大学での上映として、コンテンツ選定から、事前学習のための特設サイト開設、終映後のレクチャーまで、その特性を生かし切ったものだった。ほとんどの観客に馴染みのない文人の伝記映画として、やはりあれは必須なものだったのだろう。もちろん、過度に教養主義的という批判もあるだろうが。内容は、マントーの生涯のうちの、文人として最も脂ののり切った時期の描写に、シームレスに作中世界の映像化が混ざるというもの。決して本作の独創ではないものの、映像の洗練に舌を巻く。分離独立の巨大な影。「悩める画家がカンバスを引き裂く」に近い中二病的なプロットもあるものの、優れた演技者と洗練された映像が、深みを持ったものにしている。技術陣で特筆すべきはカールティク・ヴィジャイのカメラと、ラスール・プークッティの音響か。そう思って臨んだせいか音はともかくエッジが立っていたように思う。劇中で「これは何の音か?」と不審に思う箇所があったのだけど、もう忘れてる。DVDで確認しなければ。