Virus (Malayalam/2019)をDVDで。
これについては(自分は行けなかってた)上映会用のプレビューを書くために鬼のように現地レビューを読みまくったのでほとんどストーリーを知っていた。それでも実見して面白かったのは、やはりマラヤーラム映画界が誇る渋い脇役と渋い主役格が一体となって、スターエゴを出すことなく役になり切っているのを目にできたからだろう。ただし、現地レビュー百万遍をやらないで観る人には結構分かりにくい点もあると思う。ヴィシュヌの妻が堕胎を打ち明けるシーンなどがそれ。それからバーブラージ医師の破綻した結婚生活に何か展開があるのかと思うとそれはどこかに消えて行ってしまうとか、ドラマチックにするのを抑制しようとする気遣いが各所に見られる。基本的にはリアリティがある演出だが、デリーからやって来た役人がマラヤーラム語を喋るというのは観客のための方便なのだろうか。それから、地方都市であるコーリコードで、なおかつ救急病棟であるというのを割り引いでも、それでもあの病院のどんよりとした薄暗さと不潔感は恐ろしいと感じる。無菌室みたいなセットにしなかったのもリアリティ追求のためか。
Bigil (Tamil/2019)をイオンシネマ市川妙典で。
518席がフルハウス。タミル人が500人はいたか。アトリ監督は自分には相性が良くない方だが、今作はこれまでのベストだった。スクリーンを支配するのはヴィジャイだが、女性のエンパワーメントを大きくフィーチャーした。アジットにしろヴィジャイにしろタミルの大スターはこうした流れをうまく取り入れてる(それに比べるとテルグのスターさんたちは…とほほ)。ただ、北チェンナイのドンをやってた親父の役までヴィジャイがやる必要はなかったんじゃないかというのが周りの意見。マス映画というのは、ともかくいつも主役が画面にいなきゃいけないモノなのだと再認識。あと、決勝当日にビギルが警察署に連行されて以降のエピソードのロジックが分からないのと、大量のヘロインを打たれて云々の落とし前がよく分からず。多分アトリの手抜きなんだと思う。親父への襲撃にしろアシッド・アタックにしろ、先の見え過ぎた展開ではあるが、そこは突っ込みどころじゃないんだろうね。客席の盛り上がりは、ヴィジャイ>ナヤン=ヨーギ=ARR>カディールという感じだった。ワルシャ・ボッラッマちゃんが良い。
Sanju (Hindi/2018)をインド版DVDで。
ラージクマール・ヒラーニーは苦手だが、本作はかなり良かった。仮に完全なフィクションだったとしても楽しめたストーリーだと思う。実在でなおかつ現役のセレブの伝記とは相当にトリッキーだし、普通に考えてイタいゴマスリになる危険は十分にあったが、独房で便器の中身が逆流シーンや入所時の身体検査のシーンが物語るように、映画の上いく劇的な人生が面白くない訳がないのだ。とはいえ各方面への気遣いもバッチリで、主要テーマは、父子の愛、友情、マスコミ批判に絞られ、男女間の生臭い話は抑えられた。インド映画に特有だと思うのだけど、この映画という虚構の中への現実のリフレインの混ぜ込み方は凄い。他の国なら躊躇して避けるだろうことを意識的にガンガン入れてきてる。癌のサバイバーであるマニーシャーを末期癌のナルギス役で起用したり、役者業でのスランプ突破口としてヒラーニー監督のMunna Bhai MBSSを出してきて劇中でそれを再現するとか。ラストのソングで当人が出てくるとか。手前味噌と言われかねないものをドーンと打ち出してそれを見せ場にする。ジェットコースター感。
Thackeray (Hindi/2019)をDVDで。
ずっと見たいと思ってた謎映画。右翼の超大物の伝記でナワーズが演じるというの、いきなり巨大な疑問符。アート映画のように問題のある人物にスポットライトを当て何らかの批判的なメッセージを発するというのではない、だってシヴ・セーナー公認の伝記映画なんだから。当然ながらなぜこの役を受けたのかというのは何度もインタビューで尋ねられたようだが、役者としてのチャレンジという以上のことは答えていない。出版界の片隅の一漫画家から、政治団体の首領へ、そして結党して連立によって州与党の一翼を担うまでになる道筋を描く。描写は淡々として激情的なところはどこにもない。たとえば、ボンベイをムンバイに変えさせたことひとつとっても、分厚い歴史があるはずなのだが、それは法廷での二言三言に圧縮されている。映像はかなり作り込んだ感じで、冴え冴えと冷たいけれど目に心地よい。筋を追いながらも、いつもの疑問「タ―クレーとラージクマールの違いは政党政治に乗り出したことだけだったのか?」が再び去来した。ラージクマールのファンとして、BJPの批判者として違いを見つけたいところだけど。
Super Deluxe (Tamil - 2019) をDVDで。
辛い時期に暇ができたらこれを見るんだと言い聞かせてた念願の一本。3時間たっぷりで、なぜかインターバル表示なし。途中お昼寝を挟んだりして贅沢に鑑賞。人間の営みを昆虫観察のように上から冷酷に見下ろし、下町の汚濁の風景を凝りに凝った(南欧の街並みのような)映像美で撮るこの作風、Aaranya Kaandamに近いものがあると思ってたら、同じ監督だった。妻の浮気を発端にしたあれこれから死体処理を試みる若夫婦、ポルノを見たい悪ガキたち、長らくの不在の果てに性転換して我が子の前に現れる父親、3組の無関係なグループが微妙に影響し合いながらもがく様子。VJSはさすがだった。「女装は気持ち悪くてナンボ」という信念があるので、最初の登場部分ではやや不満があったが、途中のとある開示のところで大満足。女性の出演者はみなそれぞれにセクシー。サムは名家の若奥様となった余裕が感じられた。ラムヤが口走る哲学的な台詞もカッコいい。バガヴァティ・ペルマールの悪役ぶりもなかなかにエグ味があっていい。正常と異常との区別の曖昧化、神の意志と無常の自然との対比。
Uyare (Malayalam/2019)をDVDで。
アシッド・アタックに関する作品とは読んでいたので、犯人も何らかの描写がされるとは思っていたが、まさかのアーシフ・アリだとは吃驚。よくこの役を受けたもんだ。恋人に別れを告げたところで、用意してあった酸で攻撃を受け、パイロットになる夢を絶たれた女性の絶望と再起をオーソドックスな手法で描く。奇を衒わない真っ直な語りが主題にマッチしている。パールヴァティは正にはまり役。アーシフ・アリも、十分な時間が割かれていた訳ではないけど、こうした犯行に走る平凡で弱い男をそれなりの説得力で演じていたと思う。トヴィノのキャラクターは若干王子様寄りだが、最後に経営者として温情主義を排したことで何とかバランスを保ったか。ヒロインが勤務中に起こしたある行動を責められ「もう一度同じ状況になったとしても、自分は同じ行動をする」と言うところは大変いい。唯一弱かったのが、クライマックスの非常事態への導入。ハイジャックでも起きれまた別だが、ああいう大型機は、たとえチーフ操縦士が絶命したとしても副操縦士一人でリカバリできるようになってるはずで、それがないのはどうかと思う。
Kammara Sambhavam (Malayalam/2018)をDVDで。
182分の長大な中二病作品。新人監督より脚本のムラリ・ゴーピの作風がプンプン。本作封切りの時期にディリープは性犯罪教唆で一番ヤバい状態にあったはずだが、シッダールトの客演が救いになったか。それにしてもよく引き受けたもんだ、この脚本を。怯懦で腹黒い小者が、汚い手を使って激動の時代を生き延びたことを前半で語り、後半ではそれを英雄化した映画として見せる。政治風刺であるだけではなく、タミル語映画も思い切りディスってる。まさかの日本語多出作品。つまらない小者を独立運動の志士に仕立て上げてイメージアップというの、元になった政党というのはどこなのだろうか。冷酷無比な女領主としてのシュウェータ・メーノーンが相変わらず美しい(間違いなくOzhimuriの影響下)が、前半部での役割がよく分からず不発。戦闘のシーンは巧いとこと雑なとこが混じって落ち着かない。気取って「歴史とは合意された嘘の集合体である」というナポレオンの言葉が引用されるが、もっと簡潔に「死人に口なし」でいいような気がする。チャンドラボースとガーンディーの関係も?
『ロボット』(Tamil - 2010)をDVDで。
ちょっと必要があって要部だけ見直すつもりが、やっぱり最後まで見てしまった。2.0と比べるとやはり人間の体温が感じられる。アイシュワリヤー・ラーイは美貌の最盛期を既に過ぎていたが、シャンカル好みの人形みたいな造形がはまっている。カラーバワン・マニやコーチン・ハニーファなど、もうこの世にいない人たちが目について何とも言えない。端役(難産をチッティに助けてもらう女性)としてデーヴァダルシが出ていたのでびっくり。’96で彼女が妊婦役。(二人目の子なの)で出てきたのはこれへの引用なのだろうか。2.0というのは、続編になって初めて登場した概念かと思い込んでたけど、ちゃんと本作中でもツー・ポイント・オーというバックコーラスが使われていた。こういう細部はやっぱそのつど確かめていかないとと思った。
『サルカール 1票の革命』 (Tamil - 2018)をイオンシネマ市川妙典で。
大スクリーンで見るのは2018年11月10日に書いた時以来。テクスチュアルな部分については随分とこねくり回して若干食傷していたので、ヴィジャイの長い長い手足を愛でて楽しんだ。そうは言っても台詞ももちろん読んだ。その中で一番ジーンときたのは「“飯に塩かけるか?” 俺は漁師の生まれだ」というとこかも。それから、選挙事務所に立候補の届け出をするシーン。延々と届け出書類に漏れがないことを説明する背景に、ナディガル・サンガム執行部選挙でのヴィシャールの届け出問題があり、しかも反対勢力にはサラトクマールやラーダー・ラヴィがいたことなどを考えると、かなりすれすれギリギリのところを突いたお笑いだったのだということを改めて認識した。
Oru Kuprasidha Payyan (Malayalam - 2018)をDVDで。
マドゥパール監督、トヴィノ・トーマス主演ということで、高い期待で臨んだけど、色々残念。一番の敗因はミスキャスト。トヴィノをDQNでボケナス役で起用というのに無理がありすぎる。いくら演技力でカバーしても、色白すぎ、ガタイが良すぎ。そしてコマーシャル・エレメントを求める声に押し切られたのか、浮きまくりのサービスショット連発がイタい。二ミシャ・サジャヤンとスジート・シャンカルは快演。悪役のネドゥムディ・ヴェーヌも良かった。なんだかんだ言ってほとんど途中休憩も入れずに見れたんだから、ストーリーは悪くないのだ。ただし冒頭のジャッリカットウもどきの意味はよくわからない。二ミシャが演じる新人弁護士とヴェーヌ演じるパワハラ野郎との対決を前面に出したらスッキリしたのに。実話に基づいた警察によるフレームアッップの告発がメインテーマだが、警察の手法が雑過ぎないか。それから、52歳の熟年女性が名誉殺人の犠牲者というのも意表を突くもので、ここも実話ベースなら背筋が寒くなる。マドゥパル監督前二作に合った風格がないのが残念。
Unda (Malayalam/2019)をDVDで。
久々の傑作。これはどう考えても『ニュートン』と対で見られるべき一作。『ニュートン』で主役だった選挙管理委員が後方に退き、投票所警護の警察官を描く。しかもそれがケーララから来た警官たち。言語のギャップもリアルに描かれる。マオイストが出没する僻地での活動に付きものとされる各種の慣用句(英雄的な殉死、残してきた家族との交情、ゲリラとの接近戦)は注意深く取り除かれ、とはいえ設定が設定だから、和やかなシーンの中に突然の襲撃が起きる可能性は常にあり、安心して見ることを許さない。若手から隊長まで、全員に実戦の経験がなく、隊長には健康問題までが忍び寄ってくる。ケーララ州警本部は頼りにならない。最後に訪れた緊迫状況の中で、彼らが手にしたのは、故地での通常任務において使い慣れた武具だった。へっぽこ射撃手の笑える武勇。そしてゲスト出演のアーシフ・アリが演じるキャラの謎具合。チーム内の不和のリアルさ。チャッティースガルの常住の自然の澄み切った空気感。マンムーティが演じる中年の隊長の、超人的マスキュリニティとはかけ離れた人間味、けれど芸術作品ではない風合い。
Kaappaan (Tamil,2019) をイオンシネマ市川妙典で。
KVアーナンド監督作とのことで前評判は高かったけど、公開後ボコボコに。まあそれはわかる。KVは娯楽と社会正義との匙加減が絶妙で、さわやかで気持ちいい作品を作る人と思っていたけど、キャンバスを州政治から国家レベルに広げたせいでバランスを失った。ソングは全部が心ここに在らず感。デリーとTN州との距離感が無茶。スーリヤを農民の味方にするためにわざわざ農民に設定する必要はなかったはず。デリーのシークレットサービスとTNの有機農法百姓とは両立するとは思えん。クライマックスでのセキュリティチェックのムラとかも杜撰。00年代の有望な若手監督がこんなにも早く擦り切れてしまうとは。監督の寿命はスター俳優よりずっと短い。同時に、00年代のヴィジャヤカーント映画なら、こんなもんだろと言って観てただろう自分自身の不寛容化にも驚き。唯一斬新だったのは、新婚のアーリヤとサイェーシャを両方引っ張ってきて嫁の方をヒロインにしてスーリヤとイチャイチャさせたことぐらい。PM役ラルさんのネルージャケット案件として格納し、後は忘れていいような気がする。
『カーラ 黒い砦の闘い』をキネカ大森で。
大きな画面で見るのは3回目。平日昼間で50人ぐらいは埋まっていたか。鑑賞後に知り合いと話をしていた際に、女番長プヤルが最終シーンに顔を出していなかったことを指摘され、うむむと思った。しかし近年この作品ほど演技者としてのラジニをたっぷりと見せてくれるものは無かったのではないか。前衛的なラジニ歌舞伎であると同時に、時折芸術映画のような風合いで、追い詰められていく還暦過ぎの男を超リアルに映す。この演技者ラジニの爆発は、やはり敵役に稀代の演技派ナーナー・パーテーカルを持ってきたことによるのではないかと思う。ナーナー演じるハリがカーラと握手したすぐ後に手をふらふらとさせるあの箇所は、何度見ても息をのむ。ラジニの方も、たとえば警察にしょっ引かれたシーンで、ちゃらんぽらんな受け答えをしながら、突然「黙って引っ込んでろ!」と一喝し、小者を文字通り吹っ飛ばすシーンなど、迫力がある。ラストのあれは北インドのホーリーの色粉掛けから着想しているのだということ、観ている人に伝わっただろうか。カラフルな色粉を投げ合っているうちに、いつしか真っ黒になってしまうというあの逆説。
これまでインド映画の恋愛もの、
その中の1パターンである、引き裂かれて別々の相手と結婚させられたカップルのストーリーを見てきて、姦通を絶対的に避ける不文律にどうよと思ったことは多々ある。逆に肉体関係を持たなければ心は結婚を裏切ってもいいというロジックに何か現金なものを感じたりもした。結婚を裏切らずに恋愛を成就させるためには、離婚するか、あるいはそれぞれの配偶者が都合よく死ぬのを待つしかないわけだが、これも事実上脚本としては禁じ手。まあでも、インド語の、少なくともタミル語の文学的コンヴェンションからすれば、心は主体から離れて勝手な動きをするということになっている。心を責めるなかれというのはここから来ているのか。