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Super Deluxe (Tamil - 2019) をDVDで。 

辛い時期に暇ができたらこれを見るんだと言い聞かせてた念願の一本。3時間たっぷりで、なぜかインターバル表示なし。途中お昼寝を挟んだりして贅沢に鑑賞。人間の営みを昆虫観察のように上から冷酷に見下ろし、下町の汚濁の風景を凝りに凝った(南欧の街並みのような)映像美で撮るこの作風、Aaranya Kaandamに近いものがあると思ってたら、同じ監督だった。妻の浮気を発端にしたあれこれから死体処理を試みる若夫婦、ポルノを見たい悪ガキたち、長らくの不在の果てに性転換して我が子の前に現れる父親、3組の無関係なグループが微妙に影響し合いながらもがく様子。VJSはさすがだった。「女装は気持ち悪くてナンボ」という信念があるので、最初の登場部分ではやや不満があったが、途中のとある開示のところで大満足。女性の出演者はみなそれぞれにセクシー。サムは名家の若奥様となった余裕が感じられた。ラムヤが口走る哲学的な台詞もカッコいい。バガヴァティ・ペルマールの悪役ぶりもなかなかにエグ味があっていい。正常と異常との区別の曖昧化、神の意志と無常の自然との対比。

今年も残り2ヶ月ちょっとになって、 

幾つかの理由から、思うように鑑賞作品数が伸びない年だというのがほぼ確定。年末までに100本行かないかもしれない。ニューカマーの愛好家たちの中の精鋭が、ニューカマー特有の貪るようなやり方で物凄い数を潰してるのを横目で見ていて辛かった。一番忙しかった日々に、ともかく時間が戻ってきたら(仮にメディアが多少高くついても)アレを見るんだと自分に言い聞かせていたものを、思い立ってリストにしてみたら、10本ほどしか無かった。こんなもんだっけ?という感じ。まあ、旬のもの以外にも、見るべき古典は山のようにあるのだけれど。

Uyare (Malayalam/2019)をDVDで。 

アシッド・アタックに関する作品とは読んでいたので、犯人も何らかの描写がされるとは思っていたが、まさかのアーシフ・アリだとは吃驚。よくこの役を受けたもんだ。恋人に別れを告げたところで、用意してあった酸で攻撃を受け、パイロットになる夢を絶たれた女性の絶望と再起をオーソドックスな手法で描く。奇を衒わない真っ直な語りが主題にマッチしている。パールヴァティは正にはまり役。アーシフ・アリも、十分な時間が割かれていた訳ではないけど、こうした犯行に走る平凡で弱い男をそれなりの説得力で演じていたと思う。トヴィノのキャラクターは若干王子様寄りだが、最後に経営者として温情主義を排したことで何とかバランスを保ったか。ヒロインが勤務中に起こしたある行動を責められ「もう一度同じ状況になったとしても、自分は同じ行動をする」と言うところは大変いい。唯一弱かったのが、クライマックスの非常事態への導入。ハイジャックでも起きれまた別だが、ああいう大型機は、たとえチーフ操縦士が絶命したとしても副操縦士一人でリカバリできるようになってるはずで、それがないのはどうかと思う。

Kammara Sambhavam (Malayalam/2018)をDVDで。 

182分の長大な中二病作品。新人監督より脚本のムラリ・ゴーピの作風がプンプン。本作封切りの時期にディリープは性犯罪教唆で一番ヤバい状態にあったはずだが、シッダールトの客演が救いになったか。それにしてもよく引き受けたもんだ、この脚本を。怯懦で腹黒い小者が、汚い手を使って激動の時代を生き延びたことを前半で語り、後半ではそれを英雄化した映画として見せる。政治風刺であるだけではなく、タミル語映画も思い切りディスってる。まさかの日本語多出作品。つまらない小者を独立運動の志士に仕立て上げてイメージアップというの、元になった政党というのはどこなのだろうか。冷酷無比な女領主としてのシュウェータ・メーノーンが相変わらず美しい(間違いなくOzhimuriの影響下)が、前半部での役割がよく分からず不発。戦闘のシーンは巧いとこと雑なとこが混じって落ち着かない。気取って「歴史とは合意された嘘の集合体である」というナポレオンの言葉が引用されるが、もっと簡潔に「死人に口なし」でいいような気がする。チャンドラボースとガーンディーの関係も?

Kammara Sambhavamを見たのだけど余りに難物でさらさらと感想が書けない。後回しにする。

『ロボット』(Tamil - 2010)をDVDで。 

ちょっと必要があって要部だけ見直すつもりが、やっぱり最後まで見てしまった。2.0と比べるとやはり人間の体温が感じられる。アイシュワリヤー・ラーイは美貌の最盛期を既に過ぎていたが、シャンカル好みの人形みたいな造形がはまっている。カラーバワン・マニやコーチン・ハニーファなど、もうこの世にいない人たちが目について何とも言えない。端役(難産をチッティに助けてもらう女性)としてデーヴァダルシが出ていたのでびっくり。’96で彼女が妊婦役。(二人目の子なの)で出てきたのはこれへの引用なのだろうか。2.0というのは、続編になって初めて登場した概念かと思い込んでたけど、ちゃんと本作中でもツー・ポイント・オーというバックコーラスが使われていた。こういう細部はやっぱそのつど確かめていかないとと思った。

『サルカール 1票の革命』 (Tamil - 2018)をイオンシネマ市川妙典で。 

大スクリーンで見るのは2018年11月10日に書いた時以来。テクスチュアルな部分については随分とこねくり回して若干食傷していたので、ヴィジャイの長い長い手足を愛でて楽しんだ。そうは言っても台詞ももちろん読んだ。その中で一番ジーンときたのは「“飯に塩かけるか?” 俺は漁師の生まれだ」というとこかも。それから、選挙事務所に立候補の届け出をするシーン。延々と届け出書類に漏れがないことを説明する背景に、ナディガル・サンガム執行部選挙でのヴィシャールの届け出問題があり、しかも反対勢力にはサラトクマールやラーダー・ラヴィがいたことなどを考えると、かなりすれすれギリギリのところを突いたお笑いだったのだということを改めて認識した。

Oru Kuprasidha Payyan (Malayalam - 2018)をDVDで。 

マドゥパール監督、トヴィノ・トーマス主演ということで、高い期待で臨んだけど、色々残念。一番の敗因はミスキャスト。トヴィノをDQNでボケナス役で起用というのに無理がありすぎる。いくら演技力でカバーしても、色白すぎ、ガタイが良すぎ。そしてコマーシャル・エレメントを求める声に押し切られたのか、浮きまくりのサービスショット連発がイタい。二ミシャ・サジャヤンとスジート・シャンカルは快演。悪役のネドゥムディ・ヴェーヌも良かった。なんだかんだ言ってほとんど途中休憩も入れずに見れたんだから、ストーリーは悪くないのだ。ただし冒頭のジャッリカットウもどきの意味はよくわからない。二ミシャが演じる新人弁護士とヴェーヌ演じるパワハラ野郎との対決を前面に出したらスッキリしたのに。実話に基づいた警察によるフレームアッップの告発がメインテーマだが、警察の手法が雑過ぎないか。それから、52歳の熟年女性が名誉殺人の犠牲者というのも意表を突くもので、ここも実話ベースなら背筋が寒くなる。マドゥパル監督前二作に合った風格がないのが残念。

2.0 (Tamil/2018)を試写で。 

5月下旬の初号試写に続いて2度目。初回の印象と大きく変わりはしなかった。作品として美しくまとまっているかというなら、『ロボット』の方に軍配が上がると思う。しかしシャンカル作品の特徴である、きれいにまとまりきらないドロドロとしたものがはち切れそうに詰まっているという観点でなら、本作の方が勝っているか。これについてはいずれどこか別で書こう。

Unda (Malayalam/2019)をDVDで。 

久々の傑作。これはどう考えても『ニュートン』と対で見られるべき一作。『ニュートン』で主役だった選挙管理委員が後方に退き、投票所警護の警察官を描く。しかもそれがケーララから来た警官たち。言語のギャップもリアルに描かれる。マオイストが出没する僻地での活動に付きものとされる各種の慣用句(英雄的な殉死、残してきた家族との交情、ゲリラとの接近戦)は注意深く取り除かれ、とはいえ設定が設定だから、和やかなシーンの中に突然の襲撃が起きる可能性は常にあり、安心して見ることを許さない。若手から隊長まで、全員に実戦の経験がなく、隊長には健康問題までが忍び寄ってくる。ケーララ州警本部は頼りにならない。最後に訪れた緊迫状況の中で、彼らが手にしたのは、故地での通常任務において使い慣れた武具だった。へっぽこ射撃手の笑える武勇。そしてゲスト出演のアーシフ・アリが演じるキャラの謎具合。チーム内の不和のリアルさ。チャッティースガルの常住の自然の澄み切った空気感。マンムーティが演じる中年の隊長の、超人的マスキュリニティとはかけ離れた人間味、けれど芸術作品ではない風合い。

Kaappaan (Tamil,2019) をイオンシネマ市川妙典で。 

KVアーナンド監督作とのことで前評判は高かったけど、公開後ボコボコに。まあそれはわかる。KVは娯楽と社会正義との匙加減が絶妙で、さわやかで気持ちいい作品を作る人と思っていたけど、キャンバスを州政治から国家レベルに広げたせいでバランスを失った。ソングは全部が心ここに在らず感。デリーとTN州との距離感が無茶。スーリヤを農民の味方にするためにわざわざ農民に設定する必要はなかったはず。デリーのシークレットサービスとTNの有機農法百姓とは両立するとは思えん。クライマックスでのセキュリティチェックのムラとかも杜撰。00年代の有望な若手監督がこんなにも早く擦り切れてしまうとは。監督の寿命はスター俳優よりずっと短い。同時に、00年代のヴィジャヤカーント映画なら、こんなもんだろと言って観てただろう自分自身の不寛容化にも驚き。唯一斬新だったのは、新婚のアーリヤとサイェーシャを両方引っ張ってきて嫁の方をヒロインにしてスーリヤとイチャイチャさせたことぐらい。PM役ラルさんのネルージャケット案件として格納し、後は忘れていいような気がする。

『カーラ 黒い砦の闘い』をキネカ大森で。 

大きな画面で見るのは3回目。平日昼間で50人ぐらいは埋まっていたか。鑑賞後に知り合いと話をしていた際に、女番長プヤルが最終シーンに顔を出していなかったことを指摘され、うむむと思った。しかし近年この作品ほど演技者としてのラジニをたっぷりと見せてくれるものは無かったのではないか。前衛的なラジニ歌舞伎であると同時に、時折芸術映画のような風合いで、追い詰められていく還暦過ぎの男を超リアルに映す。この演技者ラジニの爆発は、やはり敵役に稀代の演技派ナーナー・パーテーカルを持ってきたことによるのではないかと思う。ナーナー演じるハリがカーラと握手したすぐ後に手をふらふらとさせるあの箇所は、何度見ても息をのむ。ラジニの方も、たとえば警察にしょっ引かれたシーンで、ちゃらんぽらんな受け答えをしながら、突然「黙って引っ込んでろ!」と一喝し、小者を文字通り吹っ飛ばすシーンなど、迫力がある。ラストのあれは北インドのホーリーの色粉掛けから着想しているのだということ、観ている人に伝わっただろうか。カラフルな色粉を投げ合っているうちに、いつしか真っ黒になってしまうというあの逆説。

これまでインド映画の恋愛もの、 

その中の1パターンである、引き裂かれて別々の相手と結婚させられたカップルのストーリーを見てきて、姦通を絶対的に避ける不文律にどうよと思ったことは多々ある。逆に肉体関係を持たなければ心は結婚を裏切ってもいいというロジックに何か現金なものを感じたりもした。結婚を裏切らずに恋愛を成就させるためには、離婚するか、あるいはそれぞれの配偶者が都合よく死ぬのを待つしかないわけだが、これも事実上脚本としては禁じ手。まあでも、インド語の、少なくともタミル語の文学的コンヴェンションからすれば、心は主体から離れて勝手な動きをするということになっている。心を責めるなかれというのはここから来ているのか。

キネカ大森で『ベルボトム』。 

映画館では半年ぶりぐらい。ほわんとした呑気空間に癒される。インド映画の常で、謎ときは脱力するほどに単純で、推理マニアを喜ばせるものでは全くない。それから、主人公の憧れの対象としての探偵&諜報部員というのが、それぞれ職能としてはかなり隔たっているのに、一緒くたにされているところもインドらしい。他の人の感想にもあったけど、IMWの他の上映作の高密度ぶりに対して本作の盛り上がりのなさは特筆ものなんだけど、それでも飽きずに見せる、これが不思議。これは天然ボケではなく、知的に緻密に組み立てられたレトロおとぼけワールドなのだ。80年台ファッションは見れば見るほどイケてるけど、これもそのまま持ってきたのではなく、今日のデザインセンスでの再構成を感じる。それからリシャブ・シェッティの顔の魅力。何年も芽が出なかった人だけど、そしてこれ見よがしの男前ではない(まあ、カンナダスターは皆だいたいそうだ)けれど、目が離せない不思議な磁力を持っている。そうしたもの全てが相まって、タメになることは何一つなく、劇的な盛り上がりもないのに、訳もなく楽しい130分という得がたい1本となった。

メモ:第五世代の登場における中国の映画産業と 制度の変化が果たした一側面について(山本律)  

”1980年当時、政府の批准を受けていた映画製作所は全部で14あった。その中でも特に大手であったのが、1949年の中華人民共和国成立直後に設立された、上海・北京・長春のいわゆる三大映画製作所である”

三大映画製作所が渋滞して新人が活躍できないでいた状況下で、広西電影製片廠や西安電影製片廠が第五世代の揺籃になったと。
core.ac.uk/download/pdf/144431

キネカ大森で‘96。自分にとってIMW初作品。 

観客は30人ほど。しばしば字幕を忘れてリードペアの演技に見惚れた。SKIPシティ常連にとってキネカはややショボいハコで、特にサウンドは物足りないけど、やはり大画面はいい。皆がVJSを絶賛するけど、トリシャーも一世一代の名演という認識を新たにした。スラリとした立ち姿が本当に美しい。恋愛映画というのはインドには目新しいジャンル。幕の内弁当スタイルのファミリーorアクション映画の中で恋愛は必須アイテムだけど、それは往々にして様式化されていて、ストーリーを回すための動因扱い。恋愛感情自体をじっくり描くことは比較的珍しいし、また描くのが上手いと思えるものも少ない。本作は揺れ動く心そのものがテーマ。ただ、映像作家の心には、常にオーバーアクトを抑制する強いストッパーがかかっていたものと思える。2人が最後に見交わす搭乗シーンを入れなかったのもその一例か。心の叫びは表情とBGMで表現される。そして冒頭ソングを除きほとんど全曲が女の側の心象を歌う。2人の物理的距離が縮まるにつれ男は別れを見据え冷静になっていく。やっぱりAnthaathiは映像化して欲しかった。

嫌味とか、通報するぞとかじゃなく、純粋な興味から思うのだけど、 

今年公開の外国映画の劇中歌の歌詞を、配給会社による字幕とは別に、勝手訳したものをネットで公開するのって、法的にはどうなのか。配給による公式字幕に物言いたいのか、劇中歌が好きすぎて我慢できずにやるのか、その辺りがはっきりしないのだけど。

Ulidavaru Kandante (Kannada/2014)をDVDで。 

ちょっと確認したいことがあって部分チェックだけするつもりが、面白くて全編見てしまった。羅生門スタイルと言うことだが、最終的に観客は神の視点を持つことになる。それよりも面白いのは、ねっとりとベタつく潮風の感触、ジャンマシュタミの祭事を祝う人々の常ならぬ興奮の気配、といった芸術映画的な何ものか。魔術的リアリズムといってもいい。正義を体現する人物が一人として登場しないことによってもそれが強まる。カルナータカ沿海部は内陸部の保守的・内向的な気性に対して開放的との印象が一方にあるけれど、何本か見た沿海部もの映画には、それを打ち消すような陰惨さや狭量さもあって、一筋縄ではいかない。カンナダ語、トゥル語、コダグ語その他の言語が飛び交い、影を内包する強烈な日差しに照り付けられるうちに物事の意味というものが溶けていくようなあの感じは中二病的なロマンを掻き立てるものがある。一連の流血の原因となった眩いお宝というのが何なのか、クリシュナ神話の最後の方に出てくる、岸に流れ着いてそれを見た人々を狂わせ、相互の殺戮に導いたアレのような。

好みの問題でしかないけど、「推し」って言い方も嫌だな。 

昔風に贔屓と言いたい。推しって自分とスターだけじゃなく第三者がいるって前提だ。まあSNS的ではある。推し活よりもバクティをしたいんだ、自分は。

Evaru (Telugu - 2019)を川口スキップシティで。 

アディヴィ・セーシュという俳優は、これまでに目にしてもあまり印象に残らなかったし、日本での知名度を上げた『バーフバリ』での役にしても、あまり丁寧に作られたキャラではないこともあって、ポジティブな印象は特になかった。今回上映のプレビューを書くにあたって若干調べて分かったのは、育ちが米国であること。それで何か腑に落ちることがあった。つまりアニーシュ・クルヴィッラやシュリーニヴァーサ・アヴァサラーラ(それから、NRIじゃないけどカマル・カーマラージュ)などに連なる「アメリカ帰り系」俳優だったのだ。NRIに特有のあの独特の臭みが確かにある。これまではそうした連中はシェーカル・カンムラ近辺の意識高い作品に集結して、仕事がなくなると大衆映画で脇役をしたりしてた。しかしセーシュはどうやらもう少しメインストリーム寄りのところを目指しているらしい。そのチャレンジがどうなるか、多少は関心を持って眺めるようにしていきたい。映画の感想としてはムルリ・シャルマ―の容貌の毒抜きの完了が印象的。初登場の頃は顔にモザイクかけんとヤバすぎだろと思ってた。

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