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戦場のメロディ(오빠 생각、2015)をオンラインで。 

韓国文化院の「韓国映画特別上映会」の第2回。韓国版「二十四の瞳」といったら雑過ぎるか。こちらは瀬戸内の島じゃなく朝鮮戦争が背景なので、もちろんいっぱい人が死ぬ。その死亡フラグが立ち過ぎなのが辛い。実在の合唱団がモデルということで、見事な合唱を聞かせてくれるミュージカル映画でもあるのだが、北の将軍様の寵児たちの合唱団を思い浮かべないこともなかった。「国際通りで会いましょう」でも思ったけど、朝鮮戦争中・後の釜山の劇的なことといったら、ベトナム戦勝中のサイゴンに匹敵するかもしれない。主演のイム・シワンは後から調べたらKポップの人で、口半開きタイプのビジュアル系のオフスクリーン姿には全く感銘しないのだけれど、劇中では元文系の軍人(割と強い)を皮膚のようにまとって好演していた。本作での南北のせめぎ合いを見ていると、イデオロギーを信奉して戦った者はそう多くなく、多くがたまたまいた場所で優勢だった方についた(あるいは自分に害をなした者たちの反対側に行った)ということがよく分かる。同じストーリーが北側で成立してもおかしくはないだろうと思った。

映画の中で動物に暴力が加えられる 

描写に対する反発、最初は動物好きのちょっとしらシャレから始まったのかもしれないけど、ちょっとおかしな方向に行っていないか。当然ながら実際には暴力を振るわれてはいないし、暴力を肯定的に描いていないにもかかわらず、変な風に憤慨してる感想を見てしまった。こういうところでイキることで、自分を正義の側にある人間として確認しているのか何なのか。

Oh! Baby (Telugu/2019)をオンラインで。 

タミル語版で見始め、珍しく忙しくて途中で数日放ってあった。後半を見ようとアクセスしたらテルグ語版があったのでそちらにスイッチするというアナーキーな見方をした。なぜかテルグの方が12分ほど長かった。アジア各国で7つのリメイクが作られた『怪しい彼女』のインド版。これをオリジナルよりも先に見てしまったのは良かったのか悪かったのか。サウスのファッションリーダーを自認しているように見えるサマンタのファッションショーとして素晴らしい。オフスクリーンのサムは時に大滑りすることがある(Preetham Jukalkerというスタイリストのせいらしい)のだが、本作では見事だった。衣装デザイナーが誰かは分からず。ハートウォーミングで無害なストーリーだが、結末は折り返し地点で見えていて退屈。2時間36分は長すぎる気がした。神様役のJBは蝦蟇の油売り風。ラストに特別出演のあの人は安っぽすぎてトホホ。ナンディニ・レッディこんなことでいいのかと思わなくもなかったが、若返ったヒロインやヴィクラムの友人役に、トレードマークのガラッパチが出ていたのは良かった。

最近の30代以下の映画ファン(特に女性)のポリコレへの希求がかなり強いものであることはだんだん分かってきた。 

がしかし、その同じファンたちが、ではなぜF2のような旧態依然の男女間の性分担を前提にしたコメディーを支持できるのかが不思議。

天命の城(프리즌、2017)をオンラインで。 

韓国文化院の「韓国映画特別上映会」の第1回。1636年の丙子の乱の一部始終を描く。南漢城はソウルの南郊にあるが、その厳冬の描写は見てるだけで凍てつくよう。清朝始祖のホンタイジが攻め込まんとする中で、南漢城の臨時宮廷で交わされる和平派の崔鳴吉と主戦派の金尚憲との対立を描く。最終的に崔鳴吉の主張が通り、朝鮮は清の属国となる。金尚憲はラストで自刃するが、史実としては生き残り、波乱の多い後半生を生きたということを後付けで知った。崔鳴吉は李朝の末期までは売国奴という評価だったという。作中で崔鳴吉自身が自分をそのように形容するところがあり、つまりこれは歴史的なヴィーランに別の角度から光を当てる系の作品なのだと分かった。原作があるそうだが、国王を前に二人の大臣が交わす哲学的でさえある議論が白眉。中華と小中華という概念を理解していないと深く味わうのが難しいとは思うが、歴史ものにありがちなエスノセントリズムからは遥かに離れたところにある秀作。そして儒教的文明を武力で蹴散らしたホンタイジの末裔が、やがて中華文明に飲み込まれてその体現者となるというのが歴史の皮肉。

If you're bad, I'm your dad. 

っていう決め台詞、MaariとKGF Chapter1に出てくるけど、Maariが初出と考えていいのか、それともさらに遡れるのか。意味としては、「お前が悪だってんなら、そりゃたぶん俺様がお前の父だからさ(悪にかけちゃあ俺様の方が上手よ)」ということでいいのか。

全く同じである彼女(감쪽같은 그녀、2019)をオンラインで。 

韓国文化院主催のオンライン「コリアン・シネマ・ウィーク2020」のラスト。タイトルから「怪しい彼女」系のものかと思っていたら全然違って、ティアジャーカー系。舞台は2000年の釜山で、「国際通りで会いましょう」と年代設定は違うものの、やはり貧しさの中の人情が主要なテーマ。2000年という、韓国が既に先進国へのテイクオフを終えた後の時代に、敢えて極貧の家族を設定し、貧しさが空気のように充満していたより古い時代の純情と素朴への、苦さの混じる郷愁を掻き立てる作り。認知症のモチーフはそれほどリアルには描かれないものの、いたたまれない思いをさせるには十分。中流家庭の丸々肥えた子供たちの、年画のようなおめでたい感じが浮世離れしてる。ロケ地となった坂の多い地区は大変気になり、日本語で検索したが出てこない。ハングル検索+英語機械翻訳でやっと南富民洞と甘川文化洞と分かった。韓流って日本で大流行なんじゃなかったのか。困ったもんだ。それから思わせぶりなタイトルの意味するところも今一つ分からず、これはネイティブに聞くしかないかも。

ユンヒに(윤희에게、2019)をオンラインで。 

韓国文化院主催のオンライン「コリアン・シネマ・ウィーク2020」の5日目。例によって予備知識ゼロで臨み、冒頭の列車の車窓シーンを見て「やっぱこういう景色、日本とそっくりだよな」などと思っていたら、舞台は小樽ということで吃驚した。1時間45分の最後の20分ぐらいになってやっとこれがクイア映画だということが分かって来る。それくらい秘めて秘めて秘められた恋愛感情にそれはないだろというのと、やっぱりそうなのかという気持ちとが半々。ともあれ終盤になってこれは離れ離れのまま中年になった二人の苦くもロマンチックな再会の物語だということが分かる。これがヘテロの男女なら、再会から何らかの物語が始まりそうなものだが、本作では再会後の短い時間を二人が何を語り合ったかは明かさない。そして二人が結ばれることもない。そのクライマックスとしての再開の場が小樽の雪の運河だったというのが何とも言えない。それから、冒頭で母娘が暮らす地方都市の名前が知りたいのだが、何をどう検索しても出てこない。韓流って日本で大流行なんじゃなかったのか。困ったもんだ。

ミッドナイト・ランナー(청년경찰、2017)をオンラインで。 

韓国文化院主催のオンライン「コリアン・シネマ・ウィーク2020」の4日目。これは軽快なアクション・コメディー。ティーザーガン以外の飛び道具は登場せず、刃物もほとんどなく、殴る蹴るブッ飛ばすという基本(警察学校で教えられる武術)だけで見せる本格アクション。デコボココンビのキャラはもう少しコントラストがあってもよかったのではないかと思うが、二人とも結構なスターということなので難しかったか(でもまあ微妙な高低差は感じ取れた)。それからメデューサの名前で呼ばれる女性の鬼教官がカッコよくて痺れた。ソウルの永登浦区大林洞が中国朝鮮族のマフィアの巣窟として描写されていてなかなかに臨場感もあるのだが、当事者から抗議を受けて映画制作側が謝罪することとなったという。観光ガイドでは大雑把にチャイナタウンと呼ばれるこの地区は、2010年代からの韓国映画で描かれることが増え、しかもそのほとんどが犯罪と結びつけたものだという。羊肉の串焼きが美味そう。それから日式耳かきという風俗も初めて知った。インドでのリメイクも可能なような気もするがどうだろう。

晩夏(늦여름、2018)をオンラインで。 

韓国文化院主催のオンライン「コリアン・シネマ・ウィーク2020」の3日目。これまでの二作の浮世離れ感と対極にある現代のロマンス(的な)作品。舞台が済州島であることはすぐに分かったけど、それ以上の詳しい地名が後から調べても分からない。劇中での言及をメモしておけばよかった。リゾートと言うよりは鄙びた漁村の風情のある海辺の集落にあるゲストハウスを舞台にした平凡な男女の物語。主要キャラクターのうちの女性3人が、いずれも韓国整形美女とは異なる個性的で地に足の着いた感じの容貌なのが新鮮。あ、そういう意味では男優もか。小さな片隅の人生にちょっとした波乱が起こりかけるが、3泊4日の最終日の日が沈むころには波も静まるというスケッチ的作品。済州島というのは、だっさい観光地というイメージばかり持っていたけど、少し厚みを持ったものとして見えてきた気がする。

風水師 王の運命を決めた男(명당、2018)をオンラインで。 

韓国文化院主催のオンライン「コリアン・シネマ・ウィーク2020」の2日目。これが儒教ワールドなのか何なのかわからないけど、先祖の遺体をどこに埋葬するかで現世の権力が人から人に渡り移るとか、まるで異世界ゲーム・ワールドみたい。この黄泉の力に支配された呪術世界が19世期末〜20世期前半の設定ってんだから驚く。そして劇中では誰もこのことに突っ込まない。チラチラ見た日本人によるレビューでもそこはスルーのようだった。まあそれにしても、登場人物の殆どが両班のはずだけど、両班てこんなにチャンバラして人を殺すものなのか。例によって俳優の顔認識機能がほぼないので、登場するキャラクターを純粋にキャラとして楽しめた。清冽な時代衣装&宮廷衣装の美に目が楽しまされた。そして毎度ながら観賞後にキャストのオフスクリーンイメージを見てギャップに驚くところまで。

ソリクン(소리꾼、2020)をオンラインで。 

韓国文化院主催のオンライン「コリアン・シネマ・ウィーク2020」の初日。ジャンルすら知らずに全くの白紙での鑑賞。1730年代のパンソリの起源をフィクショナルにドラマ化したミュージカルだった。パンソリものでも、「西便制」や「花、香る歌」と比べて、芸道の厳しさの描写はなく、家族愛に焦点を当て全体的に甘い感じに作ってある。パンソリが劇中で歌われるのに被せ、非ダイアジェティックにオーケストラが伴奏するとか、エンドロールではKポップのテーマソングが流れるとか。邦画で映画コンテンツとは無関係に添えられるエンディングのJポップにはうんざりしてるのだが、それでもここでのKポップは力のある歌手が歌ってるようでマシだった。クライマックスではお約束の黄門様登場シーンがあるのだが、お約束のはずがこれは完全に不意を突かれた。韓国芸能界に詳しければ、その俳優が最初に登場したところで何かしらの予感が持てるものなのかどうか。字幕で「賎民」という語が普通に使われていて驚いた。観賞後にキャストのオフスクリーンイメージを見てギャップに驚くところまでが韓国時代劇。

前世紀のことだけど、 

たまたま映画館で近くに座った見知らぬ男性がどうやら同じ大学の人だったらしく(こちらは顔すら覚えてない)、その翌日に学食だか何かで偶然近くに座った時、「近頃は映画館に一人で来る女性がいる」と聞こえよがしに同席者に対して喋っていた。それ以上は何も起こらなかったけど、東京の大学に通う若い男性が、女一人の映画見物という行動を咀嚼できないものなのかと驚いたので今も覚えてる。最近はどうなんだろう。

Karkhanisanchi Waari (Marathi/2020)を東京国際映画祭で。 

邦題は『遺灰との旅』。何しろプレミエ上映なので、レビューを探しても一切見つからない。マラーティーらしい、間合いで笑わせるタイプのダークなコメディー。男どもはしょうもなく、女たちが強い。大家族制の欺瞞とうわべの取り繕いに対してフラストレーションを募らせるのは男である主人公だが、ガールフレンドはするりと抜けてみせる。円満な家族の家長を演じていた人物の葬礼を完遂する過程の旅で、大家族の成員間の軋みがひとつひとつ露わになり、最後に崩壊する。それが家長が買ったミニバンとも重なっていき、それから先祖伝来の屋敷の瓦解とも符合する様は見事。サブプロットとしてプネー郊外のデフに亡夫の愛人の存在を知って赴く妻のとことん銭ゲバのエピソード。ここもある種の聖地らしい。ひとりアメリカに渡りNRIとなった四男が、パンダルプルに近づくにつれて鼻をハンカチで押さえるようになるとか、演出が細かい。最後に遺灰ではなく遺品が流されるがどこかに打ちあがる映像があったが、あれの意味が気になった。ワールカリー派の遊行者たちの音楽もよかった。

Aviyal (Tamil/2016)をストリーミングで。 

4つの短編から成るアンソロジー。カールティク・スッバラージ製作のアンソロジーBench Talkiesの続編という位置づけ。青臭いプロローグの後の第一部は、僅か一歳年上の叔母に翻弄される若者の話。タミルのオジ・メイ婚について知っていると味わい深い。冒頭でヒンディー語が話されるのはなぜか。第二部は短編を撮り映画界に何とか食い込もうとする若手監督が引ったくりに遭いラッシュを失い奔走する話。犯人に遭遇し手の込んだ芝居でブツを取り戻そうとするが、さらに上手の芝居を仕切っていた人間がいた、というオチ。第三部は見鬼ネタとギャングの麻薬取引が絡み合った話だが、ややもたついた印象。マラヤーラム語とテルグ語が混じる。第4部は幻想的なコメディー。ボビー・シンハーとアルフォーンス・プトランがビシッとまとめた。ここだけ焼き込みの字幕がついており、さらに作品全体の字幕が重なるが、明らかに前者の方が情報が多いのが何とも。このエピソードのニヴィンとボビーにはNeramやJigarthandaのイメージが投影されていた。最後のソングになぜかカルナ―カランの姿。

Kadaikutty Singam (Tamil/2018)をUSAPで。 

タイトルとポスターから大体予測はついたけど、タミル南部の豪農の大家族の不和と、ライバル一家との揉め事のクラシックな話だった。批評家からはメタクソ言われたが結構売り上げは良かったらしい。それは分かる。いささかダラダラと長いけど、カールティの陽性さが生かされてたし、流血のない笑えるアクションも気持ちいい。ただ大家族ものの軸となるお館様(サティヤラージが演じる)のキャラ設定がデモーニッシュ過ぎて唖然とする。妻が女児しか産まないので妻の妹を第二夫人にしたり、その新妻も娘を産んだので、別の娘を娶ろうとした時に第一夫人が懐妊して男児を産みそうなんで結婚をキャンセルしたり。全ての不和の元を作りながら反省してない。ただしこれによってタミルの典型的なオジ・メイ婚のセッテングがされそれに乗って物語が進んでいくのに吃驚。2018年の設定のはずなのだが。寺院内での愁嘆場とエンディングロールとでカールティの台詞によって現代的な価値観と実感とが提示されはするのだが。お婆ちゃんが一番インテリ。一番可愛かったのは雄牛のラーム・ラクシュマン兄弟。

Theeran Adhigaaram Ondru (Tamil/2017)をUSAPで。 

歴史上のダコイト掃討作戦を題材にしたアクション。ともかく長くて前半の定型部分には飽きる(特にヒロインとのラブラブ・エピソードはヒロインの死亡フラグにしか見えず、その予感は的中する)が、本格的な作戦に入る中盤以降は釘付けになる。それにしても1995年ごろから2003年ぐらいまで続くダコイト襲撃の何とも言えない大時代感(フィクションだったらもっとリアリティ出せと怒るぐらい)と、捜査手法が基本的に熟練のプロによるマニュアル指紋照合というのが凄い。ハイテク捜査を過剰に演出する昨今のポリス・スリラーに物申す感じ。問題となったクリミナル・トライブへの執拗で具体的な言及には息をのむしかない。しかも悪は全て北インドから来るものとなっている。そしてそれが史実なのだからセンシティブさが増すのだが、映画批評界隈は本作をよくできたアクションとして激賞している。この空気感は記憶されるべき。カールティは相変わらず筋トレとは無縁のぷるんぷるんの体を晒してるが、格闘シーンになると筋肉とアクションのカッコよさとは無関係と知らしめる。

Maanagaram (Tamil/2017)をUSAPで。 

カナがラージ監督の過去作を漁りたくなったので。どうした訳か字幕が読みづらかったため、所々因果関係が分からなかった。いわゆるハイパーリンク・スリラーで、レビューは絶賛のものが若干見つかるが、これまで目にしたことがなかった一本。「マドラスの日」というローカルな記念日に、チェンナイ市の暗部で起こるあれこれをまとめた(偶然に助けられて最後は悪が罰される)ニューウェーブ系。巧みだとは思うけど、こういうハイパーリンクは2012~15年頃のマラヤーラム映画界で散々に作られたのに付き合って、今更の新味はない(Super Deluxeを絶賛できないのも同じ理由)。もっさりしたサンディープとガリ痩せのシュリーが前面に出て来て、リアルなことこの上ない。シュリーの役柄には過去作品からの残像が混じる。Bクラス俳優を使い、脚本や演出の上手さを見せつける(=次につなげる)だけのために作った低予算映画という感じだけど、多くの時間を占める夜の街路の描写には、二年後のKaithiを思わせるものがあった。チェンナイ賛歌がフワフワした消費文明礼賛じゃなくて良かった。

Naan Mahaan Alla (Tamil/2010)をDVDで。 

タミルニューウェーブが盛んだった10年前の作品。一見して前半と後半の乖離が酷く、失敗作と思った。冒頭シーンの惨劇がストーリーの主筋に絡んでくるのが遅すぎてお気楽な前半も楽しめず。ありがちな「途中で消えるヒロイン」も。だが当時のレビューを見ると激賞しているものも多く吃驚。その称賛はリアリティにあるというのだが、カールティが弛んだ体を惜しげなくさらすところなどは確かにリアルだが、最後の格闘では無敵の超人になってしまうのが画竜点睛を欠く。10年たってお勧めとは言えなくなってしまった。ただ、駄作と決めて捨て去るには惜しい部分も多い。惨劇の舞台となる南チェンナイの廃村(津波の犠牲になった場所という)の佇まい、仲良しになったギャングの人の良さ、子供に激モテの主人公を演じるカールティのハマり方、ごみごみしたスラムのリアルさ、少年犯罪グループの不気味なまでの戦闘力の高さとその説得力(実話というのはこの部分か?)などなどが捨てがたい。VJSは主人公の友人役で登場して何か一波乱起こしそうな感じを漂わせるが、何も起きずただの友人で終わる。

Jilla (Tamil/2014) をDVDで。 

4年ぶりぐらいに見返した。今になってみると、妹役の二ヴェーダや下働きのタンビ・ラーマイヤ、婦人警官のヴィディユラーマンなど、贅沢な配置だったことが分かる。いわゆるお館様美学を打ち立てた上で、そのお館様がヴィジャイに首を垂れるという構造。しかしここでのお館様というのが、暴力的なのはいいとしても、歴然と反社という風に描かれている(まあ、マドゥライ市内で各種の会社を経営していることになっているが)。伝統的な農本主義の世界での大地主としてのお館様とちょっと違うというところに租借しづらいものがある。それで正義感の強い警察官が赴任するといきなり呼び出して逮捕をちらつかせるというプロットは『ダラパティ』と同じか。しかしどちらの場合も妻子はごく普通に家庭生活を営んでいて、極妻・極娘という自己認識がなさそうなところが不思議。ダンスが潤沢に配されているが、きっつい顔のアイテムお姉さん2人を配したソングなどに時代を感じる。太秦のロケではバックに日本人の女性だけを写すのが分かりやすい。歌詞はカンダンギ・サリーを歌いながら、画面にはそれが全く登場しないのが凄い。

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