うーん。どうもなぁ。
他の人の感想を観ると
「スイッチをポチッと押すだけで人が殺せる主人公が精神を病む」だけの反戦映画みたいに思えてしまうんだけど・・・それだけじゃないと思うんだが。
この映画、確かに「主人公が落ちていく姿」を描くために結構時間を使っているんだ。
でもさ。それと同じぐらい時間を使って、明らかに意図的に、描かれているのは「スイッチを押すだけで人を殺す、ということに何も感じない人たち(トミーとスアレス以外の全ての人たち)」なんだよね。
「主人公が落ちていく姿」がかなり残酷に救いがなく描かれているので、そっちの印象が残りやすいのは、まぁ当然のことなんだけどね。
この映画の言いたいことは「スイッチひとつで人殺せても、実行者には精神的ダメージが残る。だから戦争あかん。」じゃなくてさ。「スイッチひとつで人殺せちゃうと、実は実行者には精神的ダメージが全くない。だからドローン攻撃って倫理的にどうなんよ?」ってことなんじゃないのかなぁ。
もっというと、この映画、正直いって反戦映画にみえないんだよね。
まぁ感想は人それぞれでいいけどさ。
主人公はカトリック教徒だ。作中、キリストが張り付けになった十字架が何度も描写される。
どういう意味があるのか?
私なりの答えは多分「善きサマリア人のたとえ」にある(まぁ人によって様々な解釈があることを踏まえて、あえて書く。もちろん違った解釈もあると思います)。
スイッチを押せと言われて、素直にポチっと押して人を殺せる人間。スイッチを押せと言われて、それを受け入れられずに精神を病んでゆく人間。
あなたはどちらを隣人にしたいですか?
現代のアメリカは「スイッチを押せと言われて、素直にポチっと押して人を殺せる人間」が次々に再生産される世界になりつつある。
この映画の中で十字架が繰り返し描写される意味は、こうしたアメリカ社会に対する批判が込められているように思える。
アメリカはキリスト教原理主義国家といっても過言ではない。映画による政権批判も、キリスト教の教え、を軸に行われる。
「倫理を教える」ということはとても難しい。「善きサマリア人のたとえ」も、単に読んだだけでは、それが指し示している意味は真に理解できない。こうして映画を通じた体験が、真の理解をするための助けとなる。
ドローン・オブ・ウォー
あまり期待せず観たから?
結構面白かった。
ネバダ州のコンテナの中から無人機により爆撃する様子が描かれている。まさにTVゲーム。映像だけ。着弾時の震動も爆音も死体の匂いもない。地上を歩いている一般人をロックオンしてスイッチ押すだけ。軍事スキルは要らない。なぜ軍人にやらせているのか?が謎。
他方、ネバダ州といえばベガス。広大な砂漠。コンテナの外は「ザ・アメリカ」。このギャップが上手く描けていた。
主人公はとても倫理的な人間。病んでゆく。病んでゆくだけのお話です。
もし私が同じ立場であれば、あの主人公のように病むのだろうか?
ゲーセンのコンテナみたいな無人機による爆撃ゲーム。気に病むことなくポチポチとゲームのスイッチを押す。多分、そういう人間の方が圧倒的な多数派だろう。なぜなら「殺した」という感覚が何もないから。
人が倫理を取り戻すために、リアルで人を殺したり殺されたり、したほうが良いのかもしれない・・・と言うと狂人扱いされる。だが、この映画を観て、あなたはどう思うだろう?少し考えてみて欲しい。「殺し」の無い世界。ある世界。どっちが良い世界なのだろう?
硫黄島からの手紙と父親たちの星条旗を同時に観たけど、改めてちゃんと観ると、イーストウッドのやりたかったことは全て「父親たちの」に入ってる。「硫黄島から」の方は「父親たちの」で描ききれなかった実際の戦闘シーンを描いているに過ぎない、オマケ映画に過ぎないんだなぁと気づいた。
「父親たちの」の方は、国家は嘘つき、というイーストウッドの右翼的な思想で終始一貫していて、人間の葛藤が中心に描かれているところがイーストウッド映画だなぁって感じなんだ。が、「硫黄島から」の方はアメリカ人から見た不思議な日本軍を紹介します、という映画になっているように見えた笑。
だからなのか、「硫黄島から」はリアリティがあまり感じられなかった。栗林中将、西郷、西中佐、などはアメリカ人から見た「そうであって欲しい日本兵」なんだよなぁ。
で、実際のところ日本兵はどうだったのか?どういう精神状態だったのか?これがよく分からない。記録がほとんど残っていないし、ほとんどが死んじゃっているからな。
戦争中、近所のユダヤ人を殺していたドイツ兵の精神状態についての話は聞いたことがあるが、日本兵のそういった話はあんまりない。
開放区(ネタバレ?)
映画の中で、「私は社会派で善良な人間です!」と自称する須山(本作の主人公)は、西成でその本性を曝け出す。
人種差別反対やLGBT主義を自負している人、大日本帝国の復活を応援している人、五輪に賛成する人、五輪に反対する人、人の命を大事だと主張する人、戦争に行きたい人。神を信じる人。そうでない人。
人は口ではなんとでも言える。嘘かもしれない。
その主張に行動が伴っている人が、どれだけいるだろうか。
全ての言葉は無意味なのか?
無意味だ。当たり前のことだろうが。なぜそんな当たり前のことがわからないのか。
まぁ仕方のないことだ。いまの時代、言葉の力が強すぎる。
とまぁ色々と語りましたが、要は、昨今のSNSで蔓延する「私は善良な人間です!」主張合戦をしている輩に対して、「お前口だけじゃん」と言わんばかりに冷ややかに一石を投じる本作のような映画を、私は好きなんですねぇ・・・。
開放区(ネタバレ?)
私は西成のリアリティについてはわからない。西成には行ったことがないからだ。
でも、この映画の監督である太田信吾さんが西成に魅力を感じた理由はなんとなくわかる気がする。西成で路上生活者の支援をしている人たちの証言を聞いたことがあるのだが、やはり、西成は東京とは何かが違うらしいことが伺える。
この映画を観て、東京と西成で違うなぁと思ったことは、汚いおっちゃんがカップ酒片手に路上や公園でたむろしてる、ということだ。この光景は、東京ではいまや珍しい。道路も公園も綺麗。汚いおっちゃんはいない(東京では「私は社会派で善良な人間です!」と自称する輩が行政に苦情を言い続けた結果、こうなったのだが・・・)
路上とは公共の場所=みんなの共有スペースではなかったのか?東京の人は、自分が生活に困窮する可能性を考えないのだろうか?とよく思う。彼らは路上や公園にすらいれないとしたらどこに行くのか。自殺するのか?まぁ自殺する勇気があればの話だが・・・。
要は、西成には開放的な雰囲気がある。これについては、この映画の中でよく描けていたと思う。
ネタバレ
かく言う私も、観る前は「西成の生活を体験する映画かな?」なんて思っていた。
全然違っていた。
意図された演出とシナリオがあった。
西成の人が出てると聞くと、最近公開された「ノマドランド」のような映画を想像してしまいがちであるが、そういうのを期待してはダメ。いわゆる「ドキュメンタリー映画」として観てはいけない。「ドキュメンタリーを撮っている須山というクズ人間の物語」という、完全なるフィクションとして観た方が良い・・・てゆーか、そういう作品でしょ。どこからどう観ても。しかも製作者のメッセージ性がわりと明確で強い。私の所感的には「万引き家族」にとても似ていると思う。「私は社会派で善良な人間です!」とか自分で言っちゃうような輩を徹底的に批判している。だが・・・そのような輩に対して「ハッ」とした気づきを与えることができなかったという点では、この映画はまだまだなのかもしれない。でも良い線いってると思う。
解放区
人種差別反対やLGBT主義を自負している人、大日本帝国の復活を応援している人、いわゆる左と右の両方の陣営の人たちにこの映画を観せて、その感想を聞いてみたい。
リトマス試験紙のような映画だ。
この映画は、大阪市にいちゃもんをつけられたことにより、映画祭の出品を断念したらしい。大阪市はこの映画で描かれているような人々の生活が「西成のリアル」として世間に広まることを嫌がったのかな?この映画で描かれている西成は昔の西成であって、現在は違う、という事らしい。
残念だ。
この映画、誤解されているというか・・・「西成のリアル」という観点からこの映画を観てしまうと、確かに、微妙だと思う。「西成のリアルを描いた映画です」という宣伝に釣られてやってくるような人間って、どんな人間なんだろうか?この映画の主人公である須山が、まさに、そんな人間の一人なのであるが・・・この辺り、非常にアイロニカルで面白いのであるが、説明が難しい・・・
「西成の街」は、この映画の要素の一つでしかない。「リアリティ」は、どちらかというと、この映画の「メイン」ではなく「サブ」要素に過ぎない・・・と思うのだが。
@tacchan という、なんだか観ていると暗くなる映画なのか。
というとそうでもない。
この映画の基本路線は、ノマド超カッコいいぜ!だ。ノマドという生き方のススメ、みたいな映画。
そもそもさ。Amazonが奴隷労働を爆進してるのも、共同体が空っぽになっちゃったということも、10年前からわかってたことだ。資本主義の批判はもう終わってるんだ。批判している人たちは、結局のところ、社会を何も変えられなかった。資本主義によって何もかも壊されてしまった。いまさら批判したところでもう遅い。
色々あるけど、いま僕らが生きているのは、この壊された後の世界だ。
この映画を観ると思うのは、アメリカが経済的に強いとか、軍事的に強いとか、ITに強いとか言われるけれど、それはたまたまそうなっているだけというか、結果でしかないということだ。根底にある、アメリカの本当の強さというものが、この映画には描かれていた気がする。
それは何か?
アメリカの本当の強さとへ、あの広大な土地だ。どこまでも続く荒野。あの荒野がアメリカ人の根底にある精神性を育んでいるような気がした。
崩壊後の世界を楽しもうではないか!
ノマドランド
これがアメリカ人のリアルなのか。まさに「アメリカの今」って感じだった。日本のテレビ番組を通してだとわからないアメリカが描かれていた。
「ニューヨークはアメリカではない」と、アメリカ在住している人はよく言う。この言葉は、アメリカ人の大多数は、海岸沿いではなく、内陸に住んでいるということを意味する。そして内陸の地域は荒廃している。
いま、アメリカ人の大多数は荒廃した土地に置き去りにされている。
この映画、「置き去りにされた感」が半端なく描かれていた。
全てを市場に委ねてきた国の末路がこれか。年金が少ない高齢者は労働する。Amazonで働く。この映画を観て、労働者をこき使って酷い!とか思う人はいるだろう。しかしそれは違う。著しく違う。Amazonの労働が社会保障なんだよ。全てを市場に委ねるんだ。それがアメリカ流なのよ。
まぁでも嫌だ。これは嫌だね。これがアメリカ流なら、アメリカ流はダメだってことだ。
経済が成長し続けられるなら、アメリカ流でも良い。でも経済は成長し続けられない。
バケツトイレの車上生活は辛い。狭い車の中は嫌だ・・・。
僕の記憶に触れた部分は、「夏夜の虫の音」と「おばあちゃん」と「狼狽える両親」
実家が畑と雑木林の隣にあったから。また、実家では真夏の夜は、クーラーを入れずに窓を開けっ放しにしておく慣習があったので、夏の夜は虫の音がするんだよね。窓から入ってくる夜風を思い出す。
僕は両親が共に働いていて、よく祖父母の家に預けられた。今思うのは、当時の祖母(多分、今90歳後半ぐらいの年代の人)は戦前生まれで、思春期の頃に戦争を体験しているが故だと思うが、戦後生まれの人たちとは色々と違ってたんだよね。価値観とか思想信条とかその佇まいが違ってた。色々な作法をうるさく細かく言われたと思いきや、頑固なところもあり、ある面では大雑把で図太くワイルドだ。今の人が見たら、理解不能だと思うだろう。でも多分、今の人とは価値観が違うってことなんだよね。僕らが見えていなかった「価値」を重んじているんだと思う。僕から見ると祖母の振る舞いは矛盾しているのだが、祖母の中では一貫した「何か」があったんだろう。
僕は小学校低学年ぐらいまでは祖母と過ごした時間が長かった。だから、この映画の「おばあちゃん」と僕の祖母が重なった。
ミナリ
素晴らしい映画だった。
しかし、何が素晴らしかったのか?を説明することが難しい。
シン・エヴァのように高邁な思想を語っているようなものであれば、あれやこれやと、言葉による説明が可能だ。
本作のような、人間の記憶に基づいた「体験」についての表現は、シン・エヴァのような映画では不可能だ。
この映画は体験映画なんだ。何についての体験映画なのか?それは観る人によって異なる。というのも、本作は人々の記憶の奥底に埋もれている様々な琴線に触れるからだ。この映画は普通の生活が描かれるだけだ。映画の中の「普通」が、観客それぞれの「普通」に少しずつ重なるからだと思う。
人の記憶は言語化できない。日記に記したり、誰かに話したりして言語化できる記憶など、ごくごく僅かだ。言語化されていない記憶の蓄積が、実は膨大にある。体験映画は、そのような記憶を呼び覚ますことができる。
まぁそういうことだ。この映画の素晴らしさは言語化できない。
「理性で観る」ということはやめるべきだ。そうしなければ、本作の良さはわからないだろう。
P.S.
この映画は音が良い。夏の夜の虫の音が、ずっと鳴っている。
エヴァンゲリオン観にいくのは来週の土日になりそうだが、それまで何も情報を入れたくない心境である。
先ほどまた「Air まごころを君に」を観た。何度も観てる映画ではあるが、観る度に違う感想が出て来てしまう。
今日の感想は、庵野監督の果てしない自問自答。
僕もたまに果てしない自問自答をする。その自問は、大抵の場合、夜中に浮かぶ。一応その時だけの、何かしらの答えを得る。しかし翌日の夜になると、昨日得た答えはでっち上げだったことに気づく。また自問し、またその時だけの、何かしらの答えを得る。それを毎日繰り返す。結局のところ、答えは得られない。
絶対に答えは得られない。なぜ答えが得られないのか?そんなことは分かり切っている。
そもそも「答え」とは何か?答えとは、行動後の後付けの説明に過ぎない。確かに「問い」は行動前に提起できる。しかし「答え」は後付けだ。行動して良い結果になろうと、酷い結果になろうと、その結果に至る過程を説明する必要がある。その説明が「答え」だ。
行動、つまり現実、のないところに「答え」はない。
庵野がこの映画で言いたいことは、多分そういうことなんだ。
「minding the gap」
キアーとザックの笑顔が良い。
それにしても、なぜこの人たちはこんなにも苦しんでいるのだろうか?と考えてしまった。飢餓でもなく、奴隷にされているわけでもないのだが・・・
というのも、この映画は真の「分断」が描いていると思ったからなんだよね。
「分断」という言葉を聞いた時に、黒人と白人だの、男と女だの、富裕層と貧困層だの、これらの分断が本当にあって、これこそがやばい!と思う人が多いのかもしれないが・・・この映画をみた後では、ちょっと違うのかな・・・と思わせられる。
本当にやばい真の分断っていうのは、もっと身近で実生活の中にあるってことなのかもしれない。明らかに家庭に問題があるのに、お互いの家庭のことは一切口を出せない状態・・・みたいな。まじでやばいのは、個々の互いの生活が見えなくなって、分断されているってことなのかもしれない。
アメリカはほとんど中流階級がいなくなっちゃったっていう話は10年前ぐらいから聞いていましたが、その実情がこの映画で描かれていたことなんだろうかねぇ。