設計者は、施設の階層数を
どの程度にすべきなのか?をもっと考慮すべきであったのだ。
もしくは、施設の設計者には悪意があり、民主主義的な解決が不可能となるように、わざと施設の階層数を200層以上にしたのかもしれない。
この映画は、「民主主義がうまく回らない理由は、人間の心の問題ではなく、システムの問題であるのではないか?」という示唆を、観客に対して与える。
今の世相(民主主義オワコン感)をタイムリーに的確に反映していると思ったので、結構驚いた。
貧富の格差がどうのこうのっていうだけの映画だったら、ただの食人ホラーだった。
まぁただの食人ホラーでも良いけどね僕は笑
民主主義をうまく機能させるためには
その構成員の数を増やしすぎてはいけない。
構成員の数が増えすぎないように、「設計」すべきなのだ(と言われてます)。
この映画に登場する施設は200層以上ある。
上から降りてくる食べ物を、民主主義的に上手く分配するためには、200層は明らかに多過ぎるのだ。1〜10層にいる恵まれた人間からは、200層付近にいる悲惨な人間の顔が見えない。だから、上層にいる恵まれた人間は、下層にいる悲惨な人々のことを気にせずに、自分だけの私腹を肥やすことに邁進できてしまう。
もし、この施設が200層ではなく20層だったらどうであろう?
20層の施設が10個ある。
これであれば、民主主義的な解決策が可能となる。
20層であれば、上層から下層、全ての部屋にいる人間と顔見知りとなれる。
そして、もし自分が上層にいた時に私腹を肥やすような行動をした場合、自分が下層に回った時に仕返しをされてしまう。
20層であれば、誰が悪いことをしたのか?が一目瞭然になってしまうからだ。
つまり、この施設の設計自体に欠陥があるのだ。
例えば、人口1億人の国があるとしよう。
あなたがこの国の構成員であったとする。このような状況下において、自分の行動の結果が、アカの他人に対してどのような影響を与えているか?を気にする必要は微塵もない。人口1億人ぐらいの国であれば、ほとんどの構成員は顔見知りではなくなる。自分だけが抜け駆けして、利益を得たとしても、他人から後ろ指を刺されることはない。もちろん、自分と近い関係にいる人間には、自分が抜け駆けしたことがバレてしまう。そうなったとしても、全く違う人間との人間関係を新しく作れば問題はない。代わりの人間は1億人もいるのだ。自分の悪事がバレたら次の人間関係に移れば良い、となってしまう。
民主主義は、構成員の人数が多くなると機能しにくくなる(と言われている)。
あの施設は貧富の格差を表現してる
なんていう、ありきたりなことは言わん。そんな映画ゴマンとあった。
そんなことよりも、この映画は「社会システムの設計が、民主主義の合意形成に対していかにして影響を与えるか」を示唆する内容となっているんだ。
民主主義社会は、その構成員の人数が増えるほど、合意形成が難しくなる。(という考え方があるのはよく知られているんですが)
例えば、人口100人の村があるとしよう。あなたがこの村の構成員であったとする。このような状況下において、自分の行動の結果が、アカの他人に対してどのような影響を与えているか?を気にする必要が出てくる。人口100人ぐらいの村であれば、全ての構成員は顔見知りだ。全てが顔見知りの状況下において、自分だけが抜け駆けして、利益を得るために他人を蹴落とす行動は抑制される。もし自分だけが抜け駆けして、利益を得るために他人を蹴落とせば、すぐに100人全員にバレてしまうからだ。
民主主義は、構成員の人数が少なければうまく機能する(と言われている)。
鬼滅の刃 無限列車編
鬼滅の社会派映画としての側面。この点にどれだけ共感できるか?によって、映画の評価が分かれそう。
作中でも「鬼が群れない理由」「鬼が持つ不安感や孤独感」「鬼の超人的な身体性」という設定が、アニメ・漫画好き以外の難しいことを考えているような人たち(社会学者M氏とか脳科学者M氏とか笑)の琴線に触れるんだろう。
確かに鬼滅はセリフで全て言っちゃうダサい映画。しかし、その感覚はもはや時代遅れなのかもしれない。
というのも、(鬼滅評ではないが)あの悪魔主義者の高橋ヨシキ氏がこんなことを言ってた。もはや我々は、まともなことをまともに言わなければならない時代に入った。そんな当たり前なことみんなわかってるだろ?だから言わねー!もはやこの美学は一昔前のものであるという感覚。
個人的には鬼滅は「死」についてきちんと描いている点にすごく好感が持てた。
死を美化していると批判する人もいる。しかしその批判は愚かすぎる笑。死の描写を隠すというその態度は、作中の鬼の態度そのものだ。わかる?この意味笑。
いろいろな楽しみ方が多面的にできることが、本作がヒットしてる理由なのかもね。
鬼滅の刃 無限列車編
大ヒットした理由は、アニメの映像や音響クウォリティが凄いからなのかなぁ・・・なんて思う(この原作が、漫画としてどれだけ画期的なものか?は正直わからんかった。)
大ヒットの理由は集英社がマーケティングに本気を出したからだろ!こういう指摘がクールなんだぜ!という時代はすでに終わっている。理由付けはあまりにもありふれており、今更そんなことを指摘するのも馬鹿らしい笑。
この鬼滅のアニメはディズニーやピクサーにはできないと思うし、最近躍進している中国のアニメと比べてもやっぱりまだ鬼滅の方が数段ぐらい良い感じがする。日本の2Dアニメは他にはない「間」みたいなものがあった気がする(こんなこと言い出すようになったら終わりだな)
鬼滅の刃 無限列車編
最近、映画を観なくなってしまったのだが、久々に映画館に足を運んだ。
滅の刃のアニメを全部観て、映画も昨日観てきた。
俺は漫画と小説はなるべく自制して観ないようにしている(ハマると抜け出せなくなり、廃人のようになってしまうから)。同じ理由から、ゲームも一切やらない。
ジャンプ漫画原作の映画の人気が沸騰することはこれまでにもあったし、映画を観た感じ、確かにすごく面白かった。
鬼滅のアニメ版同様に、無駄なタメがなく、アクションとギャグのテンポが良く、荒唐無稽な世界観であっても、その辺の設定についてあれこれ突っ込む隙を与えないぐらいの世界観の作り込みはできている。頭のお堅い映画通の人でも多分大丈夫(笑)。眠くはならないはず。でも、アニメ版か原作を読んで世界観を知っておかないと楽しめないと思われるので、漫画を読むかアニメを観るかしておいた方が良いですね。
ソウルフルワールドに出てくるsparkという単語の日本語訳について思うこと
@tacchan では、sparkという単語をどう訳したら良いのだろう?私的には、作中のsparkという単語が表す単語の意味に最も近い概念として浮かぶのは、郡司ペギオ幸夫が提示した天然知能とかなのだが、マニアック過ぎるっ!
現代人にとって、身近なもので、何がわかりやすいだろうか?と考えたときに、やはり最もわかりやすいのは、薬だろう。ドラッグをやったときに体験できる感じ、ドラッグでハイになる感じ=spark。これだ。
日本人の場合、薬というと抵抗があるだろうが、合法ドラッグがあるじゃないか。アルコールだ。spark=酒を呑んで酔ったときの感じ、と訳すのがいいというのが、今回の話の結論でした。
ソウルフルワールドに出てくるsparkという単語の日本語訳について思うこと
@tacchan ソウルフルワールドは目的合理的行為はマジでファックオフ。目的合理的行為をしてる奴はみんな死ね。という映画だ。
にも関わらず、「ひらめき」という用語が、目的合理的行為を遂行するための手段として連想してしまう。これは観る人達を混乱させるだけだ。さらに悪いことに、目的合理的行為をしてる人は、自らの目的を達成するためにこの映画を利用する可能性さえある。魂のひらめきが大切なんだぜ!とかいう自己啓発セミナーはごまんと存在する。ソウルフルワールドは、自己啓発セミナーに登壇している講師連中を殺すための映画がソウルフルワールドなんだよ。
ソウルフルワールドに出てくるsparkという単語の日本語訳について思うこと
ソウルフルワールドでsparkが「ひらめき」と訳されているが、違う訳をつけた方が良かったんじゃないか。作中、sparkとは、魂を揺さぶられる瞬間みたいなものを表す単語として用いられている。がしかし、いまの日本で(英語だとどうなんだろうか?はよく分からん)使われている「ひらめき」という用語からは、魂のイメージが全く浮かんでこない。むしろ、「ひらめき」という用語から浮かんでくるのは、お金が儲かるアイデア、勝負における逆境をひっくり返すためのアイデア、みたいな、目的合理的行為における、目的を達成するための手段としての「ひらめき」である。
@tacchan その視点からすると、新エヴァの世界の作り込みも、ちょっと、というか、かなり微妙なんだよね。というか、新エヴァの製作陣は世界の作り込みに対して、あんまり興味はないみたい。
説明は難しいんだけど、新エヴァで描かれているあの世界は、現実世界なんだよね。現実世界の中でエヴァが戦う、みたいな感じで作られてる。そう。ゴジラみたいな感じなんだよ。ゴジラは現実世界の中で怪獣が暴れる話じゃん?新エヴァは、現実世界でネルフと使徒が戦う話になっちゃった。もちろんそれはそれで良いのかもしれないが、かつてあった、SF映画としての魅力がかなーり薄まってしまったんだよね。
旧エヴァで描かれている世界は、紛れもなく架空世界なんだ。架空世界の中でネルフと使徒が戦う話になっている。そのかわり現実世界ではないから、現実世界でネルフと使徒が戦う迫力、という面での魅力は薄いんだよね。
どっちが良いという話ではないんだ。多分旧エヴァと新エヴァの製作陣の指向性の違いなんだと思う。
旧エヴァの人類補完計画って、冷静に考えるとものすごく突拍子もなく、滑稽な計画なんだよね。ぶっちゃけ、クレしんの劇場版によく出てくる、おふざけ作戦、例えばブタのヒヅメ計画と同じようなもんだと思う。コメディ作品に出てきそうなモチーフ。
でもそれを滑稽に茶化すのではなく、作品の世界の中に現実味を持って存在させているところが、旧エヴァ製作陣の能力、やっぱり凄い!んだよな。
SF映画っていうのは、観客が作品の世界に違和感なく入り込めるか?もっというと、どれだけ現実味のある世界を作り込めるか?いやちょっと違うか、、、言い方が難しい、、、どれだけ現実世界とのつながりを保ちながら、架空の世界を作り込むか?みたいなところで作品の良し悪しがほぼ決まるものだと思っている。スターウォーズしかり、ブレランしかり。
庵野監督たちのアニメ制作グループがむかし作ったオネアミスの翼っていうSFアニメがあるんだけど、それが非常によくできており、作品の中の世界の作り込みが凄いんだよね。
その流れを汲んでいるおかげか、旧エヴァの世界の作り込みってめちゃくちゃ上手いんだよね。
エヴァのTV版から旧・新劇場版を割と真面目に(シラフな状態で)全部観た。
やはり、新劇場版には、かつてのTV旧劇場版にあった「心の空白」という主題がすっぽりと抜け落ちている。旧作では明らかに「普遍的な心の救済」みたいなものの映像化を目指していたと思われるが、その試みはうまくいかなかった(TV版の25,26話は、碇シンジの場合における心の救済を文字で延々と説明するということでお茶を濁したw)。でも少なくともやろうとしていることは明確であり、第1話から最終話まで一貫した作風があったし、巻いた伏線をきちんと回収していた印象もある。
まぁうまくいかなかったのは無理もない。「普遍的な心の救済」これは、かつての宗教の最終目的だ。世界の宗教でもまだ完全には達成できてない。ましてや全26話程度のアニメでできることじゃないw。
結局最後は「普遍的、かつ、完全なる心の救済なんてねーんだ。他人と傷付け合いながら頑張れ」みたいな結論になっていたと思う。
新劇場版はただのアクションアニメだ。安心して観ていられるが、何かやはり物足りない。映像は確かにすごくなってるけど、その映像に作家の魂はあるのだろうか。