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『ジュマンジ/ウェルカム・トゥ・ザ・ジャングル』のつかみのハイスクール落ちこぼれ補習クラスは『ブレックファスト・クラブ』が元とみた。

『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』 

基本的や型は『ナヴァロンの要塞』でこれをマーベル版でやったバトルロイヤル。

各シリーズの描写は当然ながら上手く出来ながらも、薄味仕様。
バトルにつぐバトルと最終決戦までの流れが遅く、単調なので途中は飽きる。
クライマックスに思いきった仕掛けがあり、これが評価を分ける。
そういう意味では大胆な脚本でマーベルでしか出来ないかな、と。

『タクシー運転手』 

同じ国民同士の内乱で、何の罪もない市民に対する理不尽な暴力を生々しく描いた点ではキャスリン・ビグロー監督の『デトロイト』に類した作品だが、ドキュメンタリータッチと暴力性にクローズアップされた『デトロイト』とは微妙に違う。

まず、ソウルのタクシードライバーとドイツ人記者ピーターによる言葉がいまいち通じない同士のバディ・ムービーであること。
それと何よりもソン・ガンボの独特なコメディセンス。間合いといい、前半のこすい感じが憎めない。

そして、韓国の南側の地域・光州の人々の温かさを全面に出したドラマにホロッと来る。給油所でサービスで金額以上にガソリンを入れたり、夜遅くに見知らぬドライバーの車の修理に嫌な顔をせずに付き合ったりとなにかと温かいおもてなしを見せてくれる。
それが故に中盤以降に彼らが理不尽な暴力にあうシーンに胸を痛めるし、クライマックスシーンのカッコいい演出に胸が高鳴る。

ラストの爽やかさにやはりマーティン・スコセッシ監督の『タクシー・ドライバー』を見た。

自国のブラックな題材に臆しない韓国映画の傑作!

『タクシー運転手』2回目 ① 

韓国映画『光州5・18』の光州事件をソウルのタクシードライバーとドイツ人の記者という外様目線で描いた社会派作品。

ソン・ガンボ演じるソウルのタクシードライバーも無学・無知な労働者なのでソウルから離れた光州の事件に関してはほとんど知らない。
つまり、光州事件を全く知らなくても映画を見る観客もソウルのタクシードライバーとピーターの目線・感情に近い形で見ることが出来る。

この異邦人目線・感情のその国のとんでもないブラックな様子を映した映画としてはマーティン・スコセッシ監督の『沈黙 -silence-』と近い手法をタクシードライバーとドイツ人記者でさらっとやってのけている。
加えて、このピーターの体を張った戦場リポーターさながらの取材はドキュメンタリー映画『ラッカは静かに虐殺されている』の市民ジャーナリスト集団RBSSに通じるものがあり、1980年の出来事ながらも現代に通じるものがある。

『市民ケーン』と『ソーシャル・ネットワーク』を『レディ・プレイヤー1』に照らして出てきたイースターエッグ 

『市民ケーン』を見るといろんな併せ鏡というか対になっている。
新聞を起点にリアルの世界を制したチャールズ・ケーンに対し、
『レディ・プレイヤー1』/『ゲーム・ウォーズ』のジェームズ・ハリデーはオンライン・ゲームという虚構で世界を制している。
ちなみに、『市民ケーン』にはウィリアム・ランドルフ・ハーストという実在の人物をモデルにした映画だが、
『レディ・プレイヤー1』は基本はアーネスト・クラインによる創造の産物になる。

また、作品による“女性”の関係は『市民ケーン』よりもこれまた『市民ケーン』タイプの映画作品『ソーシャル・ネットワーク』に類似している。
『ソーシャル・ネットワーク』では冒頭でマーク・ザッカーバーグが付き合っていた女性にふられた腹いせに作ってたソーシャルゲームが起点で、女性・世間に対する見返しの産物てある。
『レディ・プレイヤー1』のジェームズ・ハリデーは想っていた女性の胸に飛び込めず、自分の居場所・世界である「オアシス」を造り上げた。

『レディ・プレイヤー1』は『ファン・ボーイズ』の監督でもある『スター・ウォーズ』オタクの原作者アーネスト・クラインの映画に、80年代の映画界の創造者にしてアーネスト・クラインが崇拝しているジョージ・ルーカスのライバルであるスティーヴン・スピルバーグが“仕事”として“監督”をした映画と見ている。

これが功を奏したのはウルトラマンとレオパルドンなどが版権問題や公開後のアメリカでの興行を考え使えないことから脚本を大幅に変えなきゃいけなくなった所にある。アーネスト・クラインのみの脚本ではなく、『ラスト・アクション・ヒーロー』やいくつかの『X-MEN』シリーズ、『アベンジャーズ』の原案者でもあるザック・ペンとの共同脚本で客観的に捉えられた所も見逃せない。

辛うじて原作の原型をとどめて、ジェームズ・ハリデー=アーネスト・クラインのオタクの夢のようなギーク小説を、一見単純明快なアクション&アドベンチャー映画に仕立てたのは仕事人であるノーラン・ソントン、オグデン・モロー=スティーヴン・スピルバーグである。

じょ~い@えいがどん さんがブースト

レディ・プレイヤー1 

スピルバーグが他の商業映画と決定的に違うところは、彼の個人的な想いを映画の中でちゃんと表現できるところなんだよね。人は世の中生き難いからこそ現実逃避するわけだけど、その現実逃避こそがアートの原点なんだよね。スピルバーグも例外ではないんです。
何が言いたいかというと、劇中のキーパーソンである「ハリデー」はまさにスピルバーグ自身であったということ。
スピルバーグの映画は「技術的にすごい」とか「面白い」とか「ドキドキする」とかを通り越して、「大好き」になってしまうんだわ。

『レディ・プレイヤー1』は『市民ケーン』とはかなりつながっていたが、『ウォー・ゲーム』や『素晴らしき哉、人生!』とはあんまりつながってなかった。
『レディ・プレイヤー1』の237号室のゾンビたちのダンスシーンが『素晴らしき哉、人生!』かと思ったが違った。『素晴らしき哉、人生!』のダンスシーンが意外にもイケてたし、仕掛けもあった。
まだまだイースターエッグ探しは続く。

その『レディ・プレイヤー1』をしても観る前は『マトリックス』や『アバター』の後追いだと見られていたわけだから、それをはね除けたスティーヴン・スピルバーグとアーネスト・クラインは見事だった。

じょ~い@えいがどん さんがブースト

仮にソードアート・オンラインの海外での実写化が実現しても「あいつレディ・プレイヤー・ワンの真似しやがって」と思われるんだろうな

『レディ・プレイヤー1』について 

これは推測と「映画秘宝」のインタビューを総合してだけど、スティーヴン・スピルバーグ自体は実は80年代のサブカルチャーや音楽は詳しくなく、
それこそ映画の中で言うノーラン・ソレントと同じ状態で今回の映画を作ったと思われる。
だからこそ、『未知との遭遇』の次に製作が難しい、と。
本当の所、スティーヴン・スピルバーグにとって原作「ゲーム・ウォーズ」、1972年生まれのアーネスト・クラインの価値観は微妙に違うもので、スピルバーグにとってはまさしく未知との遭遇なカルチャーだったはず。
それを自分が好きなオーソン・ウェルズ、フランク・キャプラ、フリッツ・ラング、そしてスタンリー・キューブリックの映画のエッセンスを取り入れ、音楽など他のカルチャーについては他のスタッフやアーネスト・クラインと『アベンジャーズ』の原案者でもあるザック・ペンに任せた。

これぞスピルバーグの監督力。

じょ~い@えいがどん さんがブースト

『レディ・プレイヤー・ワン』 

見る前はもう少し若い監督に撮らせればいいのにと思っていたが、実際見てみると80年代カルチャー回顧まみれの内容を撮るにはまさにその時代に君臨していたスピルバーグ以外にいないと納得した。

今日見たイタリアのハイスクール青春映画『最初で最後のキス』は正攻法のハイスクール青春映画だったな。周りから疎まれながらも反発したり、悩んだり、ストレートな気持ちをぶつけたり、イキったり、そして残酷。でも、美しい。

まさか、レディ・ガガの「Born this new」がここまでしっくりくる映画だとは思わなかった。ありのままを受け入れてくれる、レディ・ガガのように突っ走るロレンツィオがなんともカッコいい。
ガガの精神が見れる青春映画だった。

と『レディ・プレイヤー1』を静かにdisりながらも、TSUTAYAで『ウォー・ゲーム』や『ブレックファストクラブ』を借りてるんだな、これが

映画版『レディ・プレイヤー1』はキーワードの「バラのつぼみ」だけでなく全体的に『市民ケーン』の引用と逆に『市民ケーン』で用いた手法を一切使っていないぐらい『市民ケーン』を意識した作品なので、
枝葉の知識を知るよりも『市民ケーン』を見ることを推奨する。

ゲーム、映画、アニメ、特撮、80sポップスで塗りかためた近未来VR青春アドベンチャー『レディ・プレイヤー1』。

ストレートな展開で楽しめ、尚且つ原作を買って読むまでのめり込んだんだけど、
映画としてスマートじゃないよね。
ハイティーンの青春という割には心の動きはいきなりコクっちゃ
うコミュ障リアリティーを示したのと、リアルの容姿を気にするサマンサぐらい。あと、ソレントの背伸びオタク知識のおじさんの哀愁ぐらいなんだよね。

「オアシス」の世界が全てという小説「2112」のコンピューターに制御された世界観に通じるものはあるし、映画オリジナルの『市民ケーン』、『素晴らしき哉、人生!』、『シャイニング』、『E.T.』のオマージュもいいんだが……○○がこのシーンにいたとかこういう服を着ていたとかいう枝葉ばかりに魅力がいってしまう現象は残念でならない。

その枝葉の多さが逆に映画としてのスケールを殺している気がしてならない。

『ランペイジ 巨獣大乱闘』 

看板に偽りない、ドウェイン・ジョンソン主演のモンスターパニック映画だった。
っていうか、ドウェイン・ジョンソン版のキングコングと言っても過言じゃない。

見所はビルが建ち並ぶ大都会でのキングコング&ドウェイン・ジョンソン対巨大オオカミ対超巨大ワニ。三匹の巨獣が暴れる中でドウェイン・ジョンソンが逃げながら攻撃をするという無茶ぶり。

都市破壊、ビル倒壊描写が凄まじく、ビルを登りながらの巨獣バトルは『キングコング』を踏襲した感じだし、ビル破壊描写は『トランスフォーマー』シリーズや『マン・オブ・スティール』などの応用で、ワーナーがこれまでに培った特撮力で、ドウェイン・ジョンソン主演で決してチープではない見応え抜群な巨獣映画が出来ちゃう。

ドウェイン・ジョンソン演じる主人公が霊長類学者という設定からコングとドウェイン・ジョンソンによる粋なコミュニケーションが出来、そこもしっかり笑いや伏線に繋げている。その中で、「こいつは飛行機が苦手なんだ」というくだりがあるけど、それってキングコング=「特攻野郎Aチーム」のコングに被せたネタだったのかな。

『最初で最後のキス』 

イタリアの青春+LGBTの映画。
ゲイに対する受容は田舎な考えのハイスクールという設定なので差別的も、ロレンツィオの養父母は理解があり全面的に受け入れてる。
そことロレンツィオの天真爛漫な性格で必要以上には暗く見えない。
ロレンツィオとJKのブルーの関係は女友達のそれで、あっさりした友達関係。
そのブルーには年上の彼氏がいて、クラスのJKに人気の男性だったせいか疎まれているが、精神的にはクラスメイトはもちろん、ロレンツィオやアントニオにも優位な立場にいる。
アントニオはバスケット少年だが口数が少なく内気な所から周りからバカにされ、ひそかにブルーに恋心を抱くも上手く伝えられない。
こうした心の模様を丹念に描いた辺りがアメリカ産の青春映画とは一味違う。

『最初で最後のキス』 

イタリア発の高校生男女三人の青春映画。ゲイのロレンツィオが彼氏がいるJKのブルーとバスケット少年のアントニオの学校にやってくるが、奇抜なファッションやゲイと分かる雰囲気から学校で浮きまくるが、同じくはみ出し者のブルーとアントニオが仲良くなり、校内で歌って踊っていたずらをする。

大枠は60年代のフランス映画『突然炎の如く』に80年代の青春映画『ブレックファストクラブ』を混ぜ、「glee」風のダンスやレディ・ガガの「Born this new」を大胆にまぶす。

ハイスクールもの特有のスクールヒエラルキーも使い、ロレンツィオを中心に高校生の恋愛、恥じらい、イキリ、悪ふざけなどエモーションを繊細に表した脚本が秀逸。
特に精神的にも未完成で気後れがちのアントニオの気持ちと惑いはストレートかつ思春期の青年そのもの。

それぞれのキャラに精神の支柱があり、これが揺らぐ、崩れた時の言動がリアリティーかつ残酷。

古典に通じながらも確実に新しいイタリアの青春映画だった。

今おいらが見たイタリア青春映画、『最初で最後のキス』という超タイムリーなタイトルの少年少女&BL映画だった。
(注:山口メンバーは出てません)

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