ううむ。日本の漫画実写映画の惨状を見て思うのは、原作ファンが沢山いると、やはり原作弄り難い傾向にあるのかな。ということですね。
原作ファンが沢山いると、どんなにクソ映画でも客は来るから、期限、予算内にそれっぽく作れ(プロデューサーとしては)!となるし、下手に弄るとあらゆる方面(原作ファン、原作者、出資者、映画ヲタク、映画評論家)から無意味にキレられるので、作る側は原作を弄り難い。
原作ファンがそんなにいない場合、改変して、原作ファン以外も楽しめる映画にする。その過程で映画向けの改変がなされるから、映画としては面白くなる。原作ファンが少ないから文句出ない。
まぁしかし、原作そのままで面白いやつもあるし、原作そっちのけで面白いやつもある。やはり偉大なのは映画監督だと思う。
という、ごく一般的な結論に落ち着く。
ゴジラ対ビオランテ
ゴジラ繋がりで観た。香港映画、ハリウッド映画、スパイ映画好きなんだろうなぁ。好きだからやりました的な二番煎じ感がホント良い。ホンモノの銃を使った銃撃戦と筋肉アクション俳優を雇えれば良かったのにねぇ。。。だって全ての俳優がヒョロ過ぎて全然強そうに見えないんだもの。笑
いやいや。そのおかげで、グッと二番煎じ感が高まっているのだ。
半分世捨て人の科学者、リア充代表の三田村邦彦およびその仲間たち、ゴジラ、とここまでは1作目に似てる。
しかし、半世捨て人の科学者はゴジラに共感してるわけではなく積極的にゴジラ殺しに加担し、リア充はゴジラを倒して、最後彼女と一緒にラブホ行こうぜ!的なノリで終わる(お前は007か!)という。。。ぐぬぬ。なんというか、、、これが平成というかバブルなんだな笑。せっかくゴジラが出てやったのにお前らは、、、笑
あ。そうか!ゴジラ映画がゴジラ映画の二番煎じやってるのか!そう考えるとますます好きになる。
この映画の中で最もゴジラに共感していたのは、峰岸徹だ。
薬は注射より飲むのに限るぜ!
いやいや、田代に言わせればそこは注射だろ!
うん。この映画最高だわ。
ゴジラ 1954
一作目のゴジラ。初めて観た。なぜゴジラが世界的に評価されているのか?この一作目が偉大だったから(だから、パシリムの最後に本多猪四郎の名前が出てくるんだぞ!)・・・この辺の話は、以下の解説を聞いて分かりました。
https://www.youtube.com/watch?v=fl9yZP-SBg0
(⬆️ですが、ゴジラに興味ない人でも、映画作家とは何か?という話をしているので、面白いと思います。)
平成ゴジラは人間とゴジラの対決(+ハリウッドアクションの二番煎じ)を楽しむ映画だが、
一作目のゴジラは、一般人が突然に無意味に虫けらのように大量殺戮されるのを楽しむ映画。
もうお判りだろう。そう。一作目ゴジラにあるのは、「人がゴミのようだ!」という、ムスカ魂なのである!!!
平成では、渋谷とか池袋でヘラヘラしてる奴らを大量殺戮するシーンを作ると、クソPTAとかがうるさいのかねぇ。
もう一度、人間が無意味に大量殺戮される怪獣映画作ろうぜ(笑)。
別にいいじゃん。映画の中でぐらい殺させてくれよ。
とは言え、僕は平成ゴジラシリーズも結構好きです。ムスカになるには、まだまだ修行が足りないということか・・・。
動物世界(カイジ@福本)
カイジの中国リメイク版をネトフリで鑑賞
・過去のトラウマからピエロに執着。冒頭からちょいちょい入るピエロ無双とかカーチェイにざわざわ。まぁ主人公の妄想なんだけれども。
・カイジとは違うクズさ。看護婦の恋人に金を無心するかと思えば、その恋人が患者からのハラスメントに患者に暴力をふるう。そもそもなんでカイジに恋人いるですかね?
・キャンデー缶の裏蓋に恋人の写真とかなかなかにキモい。
・借金だらけの割にスマホはiPhone。まずそれ売れよ。
・同時通訳機ほしぃ‥
・利根川がマイケルダグラスなのがなんかうける
・友達のジュンがだんだん鈴木浩介(メガネキノコ頭)に見えてくる。
・安藤が若い頃の鳥肌実ちっくでしゅき‥
・あ、地下落ちじゃないそこはどこ?サウナ?
・カイジ、無駄に肉体美
何がすごいって賭事が1つしかでてこない。日本版でさえ鉄骨渡りとかでしのいだのにじゃんけんだけで二時間持たせる狂気の映画。
なかなかに面白かった。続編希望。ぐぅなんか悔しい。
マリリンモンローのイメージってこれです
(出演映画は良く知らない・・・反省)
https://img20.shop-pro.jp/PA01323/391/product/104396766.jpg?cmsp_timestamp=20160706153807
マトリックスとかファイト・クラブとか・・・自分が話したいことに、無理くり映画を絡めてみた。
デカルトの「方法序説」を読んでとても良くて、語れる友達がいない(泣)ので、無理やり映画の話に絡めてここで語る。
この書の「我思う故に我あり(現実に存在しているのは考えている私だけで、他には何も存在していないのではないか?)」という一句は、マトリックスやインセプションで引用されているという噂がある。がしかしこの句の本質は、当時多大なる影響力を持っていたキリスト教(つまり、神、体制への反発)の存在の否定である。人間の意志と理性こそ最も賞賛されるべきなのだ!(・・・と言いつつも神を完全に否定しているわけでもなく、神は人の心の中にいる、とは言っている。)
1960-1970年代のカウンターカルチャーと全く同じで、デカルトは、強すぎる伝統や習慣、下らない一般常識(笑)への反発を強く表明しているのだ。この辺は、映画「ファイト・クラブ」や「今を生きる」的だ。
彼の哲学は、彼の「真理の探求」に対する態度から来るものだ。「理性」とは知識量ではなく、真理を探求しようという態度だけが、本当の「理性」なのだ!
スティーブン・スピルバーグ提供