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今年の独立記念日の超大作2本、 

『War 2』と『Coolie』、どちらも豪華キャストで話題をさらったが、肝心のストーリーが薄くてイマイチというのが批評家筋の評価のようだ。『War 2』はまだ見ていないけど、『Coolie』はローケーシュのこれまでの作品中で最も弱いストーリーだった。とはいっても、主要映画界からカリスマ性と実力を併せ持つスターを満遍なく引っ張ってきたという点で、『ジェイラー』には完全に勝っていた。腐ってもローケーシュ。

メモ:新聞記事スクラップ 

 熱い男の友情が「核」であるだけに、中華圏でも日本でも、登場人物同士をカップルだと妄想して盛り上がるBL(ボーイズラブ)目線のファンは多い。SNSにそうした内容の2次創作があふれる現象についての感想を聞くと、「本当に全く無問題(モウマンタイ)」と笑う。「小説も映画もヒットしたのは、そうした2次創作のおかげでもある。感謝しかない」

──朝日新聞
香港「九龍城砦」、広がる物語 エンタメ業界盛り上げたい 映画ヒット、原作者に聞く
2025年8月14日 16時30分

興収メモ:教皇+トワウォ+侍(6/24) 

教皇:11億
トワウォ:5億
侍:10億
x.com/moviewalker_bce/status/1

興収メモ:鯨が消えた入江
劇場公開1週間で観客動員が1万人を突破
x.com/march_film_0303/status/1

Coolie (Tamil/2025)を川口スキップシティで。 

R指定にビビって臨んだが、大したことなかった。チェンナイの集合住宅の主みたいな初老の男が、旧友の葬儀でヴァイザーグを訪れるが、遺児にけんもほろろに追い返される。旧友は殺害されたと推測して犯人探しを始めた彼は、ヴァイザーグ港湾を仕切るギャングのボス・サイモンに接近を試み、その過程で中ボス・ダヤルによって逆に弱みを握られて死体処理の仕事に就かされる。その処理方法というのが小学生の夏休み工作みたいでモヤる。ローケーシュらしい混乱させる脚本。またしても外国に売るための臓器摘出話が出てきて、実際にそういう事件があったのか気になった。サウビン・シャーヒルはほとんどゾンビみたいな役で、ナグを喰う勢い。ウッピはえらくカッコよく見せ場をあてがわれてた。アーミル・カーンはもうちょっとシャープに演出されても良かったはず。過去譚の因縁がよく分からなかった。回想シーンでのラジニとサティヤラージの若作りは上手くいってた。この労働者のリーダー像は何か元ネタがあるのかどうか調べること。スターキャスト過ぎて自重で沈んだ作品。MVPはアイテム出演のプージャー。

我在這裡等你(台湾/2024)をNTFLXで。 

英語題名「A Balloon’s Landing」、邦題「鯨が消えた入り江」。原題の意味は「ここで君を待ってる」。オタク女子の一部からの熱烈な推奨文言と、同時にLGBTQ当事者から「クィアベイティング」だとする痛烈な批判が目に入ったため。蓋を開けてみれば、『イル・マーレ』と似た構造で、男二人、香港と台湾をつなぎ、若干の時空の捩れを含んだ超自然的な空間移動がキーとなるファンタジーだった。張國榮への熱いオマージュも。「やり直し」で不幸な運命を修正するという点ではタイムリーブものの要素もある。そうしたテーマが見えてくるまでの1時間超は少女漫画のBL版のようなふわふわした描写が続く。そもそも作家をやっている主人公があんな中学生みたいなふわふわである点でリアリティーがほぼない。犬のエピソードもご都合主義。事故キスも学園ものコミックじゃあるまいし。90年生まれの監督の鄧依涵は多分そういうものをたっぷり養分にして育った人なのだと思う。劉俊謙はいつも自分がいい角度から撮られることにばかり腐心して演技をしていないように感じられた。范少勳の方が芝居をしていた。

Bagheera (Tamil/2023)をYTで。 

ヒンディー語吹替え版。オリジナル160分に対して127分になっている。アーディク監督作の全点制覇、苦しかった。ミソジニーをこじらせた男がサイコパスとなり、通報アプリを開発して不実な女を殺しまくる。基本的にそれだけ。カットされた30分強はソングだったのか、もう少し丁寧な因果関係の説明だったのか。Sigappu Rojakkal(1978)以来の使い古されどこかで見たようなプロットの連続。そしてやはり一瞬だがアジット萌えのカットがあり。デビュー作では不完全燃焼だったビジュアルにおける極彩色悪趣味、夜の人工照明への偏愛、三次元の実写にマンガ的な効果を付け加えること、ビザール愛好、デモーニッシュな悪ふざけ、沈黙を恐れるかのような高原状態の騒々しさなどなど、GBUでの完成に向かって着実に進んでいることが分かる。メインの時代設定は現代だが、そこはかとなくレトロな感触もある。プラブデーヴァの七変化は、一人の人間の変装だという設定の中で最大限に振れ幅が取られていて、結構巧い。サーイ・クマールは無駄遣い。女優たちのお色気衣装に監督のニヒリズムを感じる。

Anbanavan Asaradhavan Adangadhavan (Tamil/2017)をオンラインで。 

シンブが一番肥えていた頃のもの(ただし翌年のChekka Chivantha Vaanamではあまり気にならなかったが)。全体的にドヨンとかったるい。よくこんなものにシュレーヤーとタマンナーが出演をオーケーしたもんだ。女に惚れて足抜けしようとしたギャングが最後の人仕事で捕縛され、脱獄したのはいいが女のもとには戻らずドゥバイに高跳びしてその地でドンとなる。しかし30年後の彼はチェンナイで暮らしていたところで若い女に惚れる。前半はレトロなマドゥライギャング映画のパロディー、後半はほとんどつながりのない老人と若い女のロマンス。主人公の名前すら変わっている。シンブの弛みきった外見から老人ロマンスに舵を切ったのかと思えるほどだが、終盤に今度は変に風呂敷を広げていって、どうすんだこれと思っていたらPART2の文字が出て引っくり返った。しかしこれは絶対に後半は放棄されていると思う。ストーリーはあり得ないレベルで崩壊してるけど、画面のビジュアルのグラフィックなセンスは色んなものを先取りしてた。

ドキュメンタリーA Night of Knowing Nothing (Hindi/Bengali - 2021)を渋谷ル・シネマで。 

邦題は『何も知らない夜』。何とも茫洋たる1時間43分。夕方5時半からで客入りは30名強か。ドキュメンタリーと言いながらも、おそらくは最初からテーマを決めて計画的に撮ったものではなさそうな、心象風景的な映像と学生運動の記録とが溶けあう、限りなくインディーズ劇映画に近いドキュメンタリー。心象風景と言ってもFTIIの寮での日常をモノクロで撮ったものだったりするのだけれど、『私たちが光と想うすべて』を予告するようなニュアンスのある映像。ハイカーストの恋人が両親により監禁され学校に来なくなった女子学生Lのモノローグが中心だが、恋人の親たちに襲撃されそうになって命からがら逃げた男子学生のモノローグ、JNUの学生運動の記録など、幾つか別の視点も加わり、混然としていて、やはり解題が欲しい。最もダイナミックなシーンは、デモ隊の最前線から警官たちを眺めるところと、学生寮のようなところに警官隊が突入する一部始終を記録したCCTV映像。前日に読了したアルンダティ・ロイと共鳴。

Trisha Illana Nayanthara (Tamil/2015)をYTで。 

ただし粗雑な英語字幕付きヒンディー語版。話がよく分からないところは多分変な編集だろう。シュールなアダルトコメディー(吹きあがる水道管、破ける牛乳パック)で、やはり評判は悪かったみたいだ。アーディク監督の性癖みたいなものは既に萌芽があり、Veeramの上映シーンや、シムラン、変にカラフルなソングシーン、レンガ男に代表される不条理キャラ、GVの音楽等々。しかしGVをヒーローとして2時間見つめ続けるのはキツい。見た目がアレなだけじゃなく、演技も拙い。アーディクにとってデビュー作だし、内容が内容だけにまともな俳優はキャストできなかったのは分かるが。カメオで出てきたアーリヤ―がキラキラ光って見えた。しかし主人公をとことんの屑にしたのに罰を受けるでもなく、かといってピカレスクものの爽快さがある訳でもない。ラムヤといちゃついたことを不用意に漏らして噂を広めてしまうのに彼女の純潔にはこだわり、自身は大酒飲みなのにアディティがパブで遊ぶことは許さない。題名と言いなのと言い無責任な若者のクダをそのまま映画にしたような感じ。

Jalsaghar (Bengali/1958)を渋谷ル・シネマで。 

邦題は『音楽ホール』。平日午後ながら半分程度の入りだったか。ベンガル文学の大家のO先生の指摘で、成り上がりのガングリが主人公に対して呼びかける言葉が最初と最後とで違っているというのがあり、聞き分けようと思ったけどできなかった。貴族階級の没落譚として最も鮮烈に思い出されたのはヴィスコンティの『家族の肖像』(1974)だった。同作が階級全体としての没落とデカダンを描こうとしたのに対し、レイは個人の内部の葛藤、執着、意地を物語る。本作でもまた象徴表現はとても分かりやすい。蝋燭の炎、飲み物に落ちる羽虫、肖像画を這う蜘蛛、風で倒れる舟の置物など。撮影地のNimtita Rajbariは今日のバングラデシュ国境付近で実際にガンガーに面し、現在も遺棄されて凄惨な姿。劇中の音楽は全てムガル宮廷音楽の流れをくむもので、ベンガルのヒンドゥーのザミンダールでも教養としての音楽はそういうものなのか。そしてCharulathaに続き、音楽をフルコーラスで聞かせようとするレイの姿勢も印象的。エッジの立った構図の連続に美術家としてのレイの面目躍如。

Charulata (Bengali/1964)を渋谷ル・シネマで。 

邦題は変わらず『チャルラータ』。10年ぶりの劇場での再見。多少知識が増えたのはボンキムとかラム・モホン・ロイなどの名前に聞き覚えがあるということで、しかしキチンと調べなければならない。37歳の夫と23歳の夫の従弟との間で揺れ動く有閑階級の妻の心。妻の持つオペラグラスや突然の強風、ただ一つのシーンでの妻の解け髪などの象徴的意味がよく分かる。1879年という設定を考えれば驚くほどリベラルな夫だが、妻を完全に掌の上で遊ばせていると信じているところ、英国の政界でのパワーゲームに一喜一憂しているところなどは今日の目で見れば哀れと受け取れる描写も。社会評論・社会改革のための言語としての英語と、文芸のためのベンガル語の真っ二つの乖離。Subrata Sensharmaによる衣装は、考証が正確なものなのかよく分からないけれど、ヴィクトリア朝の西欧婦人の普段着である長袖ブラウスとスカートにサリーをルーズに巻き付けたもののように見えて不思議な雰囲気。60年代の映画だから丁寧に覆い隠されているが、ヒロインの性的な欲求不満も微かにうかがえる。

Hero (Tamil/2019)をオンラインで。 

大いに推されて半信半疑で観てダレダレのグダグダになった。「Maaveeran」がよほど名作に思えた。スーパーヒーローと教育問題と、その他もろもろの社会問題をゴタマゼにした2時間37分。何が悪いって、まず悪役にリアリティーがない。なぜそこまで田舎の発明キッズを恐れなければならないのかが納得できるように描かれていない。そして落ちこぼれが適切な指導を受ければ凄いことを成し遂げられるという謎理論。それはどぎつい言い方をすれば優勢思想と言ってもいいもので、人間として生まれたからには何か役に立つことをしないと意味ないという功利主義の無邪気な信奉だ。インドの教育もの映画はだいたいそうだけど、突き詰めるとAmma Cheppindi (2006)のような恐ろしいものになる。役に立つ子がいい子であり、どんな子でも役に立つはずだというのは楽天的すぎ。役に立たない子は存在してはいけないのか。Gentleman (1993)の精神をリバイバルしたかったのは分かるが、中国のおっさんの発明みたいなレベルの技術で衛星もどきを打ち上げるところまでというのは雑過ぎる。

Peter Brook's the Mahabharata (8K) (English/2024)を渋谷PARCO劇場で。 

173分、日本語字幕付き。1988年の舞台上演関係者によるトークで、新築されたばかりのセゾン劇場を一旦全部壊して本作のため火や水を使えるように改装したエピソードが語られ、劇場スタッフが全員アシャの服を着ていた個人的記憶と共に、バブル期の豊かさに思いを致すなど。今回の映画は89-90年のテレビシリーズ(5h18m)の散逸したフッテージを集めてレストアしたものらしいのだけれど裏がとれていない。それと2015年の舞台劇Battlefieldとの関係もさらに調べること。群像劇として奥行きをもって俳優を配置した舞台とは異なり、人物アップが多用され、どうしてもスケールが縮小された感じがする。舞台の方が断然いい。舞台を今見たらどういう感想になるか分からないけれど、映画としては、20世紀の美しい理想主義を遠い目で眺めるような気分。Deathless boyという人物ははたぶん独自のキャラクターなのだけど、かなり中二病臭がする。多国籍の俳優がその母語の影響を隠さない英語台詞が印象的。

Kootathil Oruthan (Tamil/2017)をオンラインで。 

タイトルはAayirathil Oruvanのインフレ版か。ニャーナヴェールの僅か3つしかない監督作の最初のものを見ておこうと思い。意外にもちんまりした出来。明らかにメッセージが先にあり、それを商業映画のフォーマットに何とかして乗せようと苦心した跡が感じられる。片思いの相手に振り向いてもらおうとあれこれ嘘を重ねて良いカッコをして、望み通りに相思相愛になれたものの、綻びが生じて噓がばれて全部おじゃんになってしまうというストーリー。そこからの立ち直りと恋人との和解まで全部フォーマット通り。しかしスーリヤがこれを絶賛しているポストが残っている。アショーク・セルヴァンは初めてだと思ったが、デビュー作の『キケンな誘拐』で見ていたか。トヴィノ・トーマスに似てるけど芸域はTTより狭そう。プリヤー・アーナンドは顔が変過ぎる。ガールスカウト姿の初登場シーンではどうしたものかと思った。貧困層への食の供給という本来のテーマが最後の10数分に押し込められてしまいチグハグな印象。その反動で続く2作品ではメッセージに全振りになったのかも。

ふと思いついて二部作の草分けとなった2作品を 

振り返ってみたけど、『Rakta Charitra』(2010)が合計253分、『血の抗争』(2012)が合計321分で、両方とも前後編が同じ年に公開されている。『Rakta Charitra』の253分なんてかわいいもんだという感じ。

何だか最近、印映を全部ヒンドゥー教神話で説明 

したがる傾向がないだろうか。人名の語源に過剰な意味を読み取る傾向とも相まって。日本人の名前だって、日常の中でいちいち意味とか考えたりしないだろうに。特にセキュラリズムで一本筋が通っているタミル語映画まで、全部神話的に沿ったものとして勝手な裏読み・深読みしようとする傾向は、まあ初学者の知恵熱として一度は通る道なのかもしれないけど、プロがそれを利用して小銭を稼ぐかのようなことをするのはどうかと思う。

Joi Baba Felunath (Bengali/1979) をオンラインで。 

英語題名は『The Elephant God』。何も知らずに臨み、フェルダ・シリーズの第2作目(レイ自身が手掛けたものとしては最終)にあたると知り驚く。ショウミトロ・チャタルジーとウトパル・ダットが特に印象的。前者はこの間見たKapurushとは別人のよう(まあ10年以上の時差があるけど)。ウトパル・ダットは澄んだ瞳と悪そうな面構えとのコンビネーションが絶妙。フェルダシリーズの常で、女気は全くなく、子供が重要な位置を占める。舞台はカーシーでありながら、ベンガル人のコミュニティーの中で話が進む。主人公たちの滞在する宿もコルカタ・ロッジといい、こういう場違いな名前は同郷人を引き寄せるためのものと理解する。基本的に登場人物は皆が役割を背負って登場するが、戯画的な教訓のためだけに現れるボディー・ビルダーはいい味を加えていた。カーリー祭りはカーシーにもアッルと初めて知ったが、画面中の神像は明らかにベンガル風だった。冒頭クレジットのカーシー地図から始まり、大邸宅の内部の装飾など、軽いテーマを裏切るような流麗な美しさ。

Manam (Telugu/2014)をDVDで。 

封切り時に自主上映で見て以来の10年以上ぶりの再鑑賞。ともかく陽だまりの暖かさだけを画面に閉じ込めたような一作で、イエローを基調にしたビジュアルがそれを補完している。出番はそう多くはないANRがキーとなっていて、逆にそれがなければ面白くもなんともない、ふわふわしたロマンス。むしろANR演じたチャイタニヤのこれまでの人生を知りたいところではある。それにしても、ANRがこの世を去る時、まさにテランガーナがAPから分離しようとしていたわけで、その心中はいかばかりだったかと思ってしまう。そして冒頭で結構な尺を使って描いたクリシュナヴェーニとラーダーモーハンの不和はその後現実のものとなってしまった。またナーガ・チャイタニヤは本作でもあまり難易度の高くないちゃらちゃらヤングの役柄を与えられていたけど、それでも2人の人格の演じ分けが充分とは思えなかった。アキルは精一杯にカッコよく演出されていたけど、その後も鳴かず飛ばずだし。ナグさんがいい具合に枯れていくことができない訳だ。DVDオマケのプロモ動画ではスマントトスシャーントも交えた座談会の様子も収録。

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