ナチュラルウーマンの評。手術の有無を明示せず(敵役的なキャラたちはそれを知りたがるけど)、そのうえでしっかりと女性として、女性でしかないものとして描いてみせているのがいいんですよね。もしかしたら主演のかたはホルモン治療もしていないのではと感じさせるシーンがあるけど(事実は存じておりませんが)、女性であるのにそんなことは必須ではないんだと見ていると強く説得されます。
シェイプ・オブ・ウォーター
https://filmarks.com/movies/73566/reviews/46441259
すっっっごくよかった! 途中で黒人や同性愛者に敵対的なお店とかが出てくるところからも、きっと意図的にメインキャラたちは「人間と認められない人間たち」というアウトサイダーなのでしょうね。その人々が結託してもっとも「人間として認められない人間」である半魚人を逃がすというのがとてもいいです。主人公が性的にアクティブであることを示すシーンも印象的に繰り返されていて、とにかく映画の全体から「自分たちは感情を持ち、友情や愛情で繋がり、性的な喜びを求める、『人間』なんだ!」とアウトサイダーたちが叫んでいるみたい。典型的なエリート白人でありつつも、「真っ当な人間」からの転落に怯え、他方で言葉を口にしない存在にフェティッシュな憧れを抱く、そんな悪役の姿との対比もどきっとします。
ベイビー・ドライバー
https://filmarks.com/movies/63840/reviews/46316403
ひたすら音楽に乗りながらスタイリッシュな銃撃戦やカーチェイスを見続けるみたいな映画。これは映画館で見たらテンション上がるでしょうねー! 衣装とかもけっこういいです。ヒロインの黄色いワンピース可愛い。
聲の形
WOWOWで見ました。もう何回目だろう…? あまり同じ映画を繰り返し見ない私には珍しく、劇場にも二回行ったしBlu-rayも買った映画です。
もうさー、あの小学校時代の硝子ちゃんの「私も頑張ってる!」みたいな台詞でもう泣いてしまいます。そうなんだよ、頑張ってるのに、頑張っても頑張っても普通の人々の輪に入れないんだ! って。そして「私は私が嫌いです」で、「ああ、そうなんだ、そう思ってしまうんだよ!」とまた泣き、ラストのあたりで鼻をグジュグジュにするみたいな。
声が聞こえなくてひとと普通につながれない硝子ちゃんと声を聞くことができなくなってひとと普通につながれない将也くん、そんな二人がでも、自分のためには変われなくても互いのために変わっていくなかで少しずつつながりを回復する話なんですよね。それがあの美麗な映像と美しい音楽とともに語られるのがたまりません。
普通に考えたら、生まれながらの女性が女性らしく生きているのに「女性」と決して呼ばず、「女性生活者」なり「女性選択者」なりと呼ぶとしたら、そのひとのアイデンティティを傷つける失礼なことだと思うのですよね。それでもそれをする、だから男性の体を持つ女性も受け入れてくれ、というのならわかる。そうでなく、生まれながらの女性にはしないけど男性の体を持つ女性にはそうするし、すべきだ、となると、私は違和感を抱いてしまう。
あと、コード強化を避けるために新しいラベルを望むなら、既存の男性や女性にもそれを向けるべきだとちょっと思う。女性らしい体で女性らしい格好で女性らしい振る舞いをする生まれながらの女性に対しても、「女性」と呼ばないようにする。それならわかるのだけど、生まれついた体が特殊なひとに対してだけそれをするというのは、それこそ単に「体での線引き」という偏見の強化になるのでないかなぁ。
リアクションをいただいているけれど、当事者のひとが苦しんでいることって、「男は男らしく」、「女は女らしく」というステレオタイプなのかな。「男性体なら男」、「女性体なら女」という強固な偏見がまずあり、それがあったうえで本来の性別と異なる「らしさ」を要求されているから苦しんでいるのであって、本来の性別で暮らしていたら別にステレオタイプそのものはせいぜいたいていのひとにとってと変わらない程度の苦にしかならないのでないかな。
もちろん「らしさ」を解体しようとする当事者もいるだろうけど、他方で「らしさ」を意識的に身につけることで性別の実現をしようとするひともいる。後者のひとにとってはステレオタイプは(体との結びつきから解き放たれている限り)呪いどころかむしろ自己実現のための道具にさえなりうる。そのとき問われているのはむしろ、「男性体でも女性だ」「女性体でも男性だ」という体の多様性を受け入れるか否かではないかなと感じます。生物学的決定論からの解放というか。そして、私は当人が自称していないのに先回りで「トランスジェンダー」と言いたがる傾向に、まだこうした解放に至っていない頑なさを感じるんですよね。
本人が積極的に「トランスジェンダー」を自認しているのでない場合、「トランスジェンダー」みたいな移行性に焦点を当てた概念のもとでそのひとを尊重するというのは、単に移行後の性別のひととして、この場合は単に女性として尊重するというのに比べて、格段に劣るというか、場合によっては受け入れてることにならないとさえ言えると私は思うんです。フィルマークスの感想とかを見ていても、多くのひとがあの恋人の弟ほどにはマリーナを受け入れようとしていないように見える。女性の名前で女性の格好で女性の振る舞いをする女性を、単に女性として見るというのがそこまで難しいものでしょうか。
映画だと『ベティブルー』、『お熱いのがお好き』、『エマニエル夫人』、『赤ちゃん教育』、『フランシス・ハ』などが好きです。
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