「マンチェスター・バイ・ザ・シー」、ネタばれあり感想3
パトリックがリーを癒す存在になるかというとそんなことはなく、まるでリーのコピーのようだ。それでいて10代の子供のズル賢さやセルフィッシュな部分が顕著で、より太刀の悪い男として成長するのは明白だ。パトリックの女癖の悪さは若くして離婚した母親の喪失を埋めるものだろう。
パトリックもリーも素直にお互いの気持ちをさらけ出すことはほぼない。お互いの苛立ちをそのままにぶつける。だがきっと彼らは殴り合いはしない。それは愛する家族が遺した分身であり、兄/父であったジョーを思い起こさせるものであり、ジョーがこの世界にいたことを証明してくれる存在だからだ。この二人とのやりとりは擬似的な父子の関係にはならない。リーにとっての子供とは失った三人の子ら以外にはなく、パトリックの父とはジョーに他ならないからだ。お互いはジョーの代わりにはならない。この二人の関係はどちらかというと歳の離れた兄弟のようである。終盤の不器用で奇妙なキャッチボールのシーンは秀逸だった。
「マンチェスター・バイ・ザ・シー」、ネタばれあり感想2
世捨人のごとく余生のような人生を生きることにするリー。もうマンチェスターに帰ることはないだろう。でもいつか兄の遺したパトリックが訪れて欲しいという思い。
リーは女との接触を頑なに拒む(このリーが性的な魅力のある存在として描かれるのには違和感がある)。バーでナンパしてきた女の子はカウンターごしにこちらを見る。それでもリーは正面の中流層と思われる男たちに難癖をつけて殴りかかる。男とのフィジカルなコミュニケーション、しかも会話のないコミュニケーションを選ぶ。それは自分を許せない怒りを解放させたいだけではなく、許せない自分を誰かにぶちのめして欲しい思いもあるように思える。
リーが女性と密接な関係を持つことに抵抗感があるのは単に自分を許せないからだけではなく、女性への無意識な嫌悪感情があるからに見える。
リーには最早人に対する優しさや思いやりといった感情がない。人に何かをしてやるということを放棄している。自分のことだけをして生きる。もう誰かの人生には関わりたくない。愛という感情を持つことに怯えているようにも見える。
「マンチェスター・バイ・ザ・シー」、ネタばれあり感想
傷を負った男が兄弟の遺した子供と過ごすことで傷が癒され、赦しを感じる物語、にしなかったことはとても良かった。傷や自分が罪と感じるものはその相手が直接許してあげること以外には癒えない。リーは永遠に自分を責め続けるだろう。
妻も新しいパートナーとの間に子供を設け自分のいた街に帰っていた。妻は過去を克服した、あるいは克服しようとしている。ジョーの葬儀に参列したのは埋めることのない傷すらも自分の人生と認め、かつて愛したリーのこと、リーを責めたことも引き受けようとしている。偶然リーと遭遇する時まで赦しの言葉をかけることが出来なかったのはタイミングの問題だったろうし、今更娘たちを失ったこと全てをリーのせいにした自分をも責めて許せなかったからだろう。
リーはパトリックと暮らすことをギリギリまで考える。だが妻はこの街で新しい人生をこの街で始めようとしている。リーは"I can't beat them."と言う。beatという言葉が出てくるのは相当に強い表現だ。自分の罪を許すことは出来ないが、妻がこの街で別の幸せを育んでいる。これは耐えられない。
スプリット、感想書きました
過去作との比較とかは出来なかったですが
http://mp719mach.hatenablog.com/entry/2017/05/19/022418
「スプリット」、(ネタバレあり)
ケイシーの聡明さに違和感を感じた序盤。しかし、それが徐々にケーススタディされた忌まわしい記憶によるものだと明らかにされていく脚本。タイトル含めて無駄がなく必要なものしかない。ケイシーは父親からも分断された娘であるということも含んだ題だ。
少女がモンスターを倒す、自分のトラウマの殺す物語にならなかったのは、これが傷を負った者たちが解放される話ではなく、常識的な世間から「分断」されて生きていく物語なのだからと思う。
ケイシーは誰にも見せなかったものをあの悍ましいものに見せ、そして承認される。こんなストーリーテリングができるのはシャマランもきっと人と世界から断絶を味わった者だからに違いない。
ケイシーのラストショットの眼力に留まらず、アーニャ・テイラー・ジョイの演技力に感服した。
adicted movie.