何が言いたかったかというと、
『シェイプ・オブ・ウォーター』の悪役なんかは格好の例だと思うのですが、セックスとジェンダーが一致していると見られる異性愛者でさえ実際には自認という形でジェンダーの選択を余儀なくされており、これを無意識的に可能ならしめているものが性のコードで、コードに縛られているという点では異性愛者だろうが同性愛者だろうがなんだろうが違いはないわけです(異論もあるでそょうが私はそう考えています)
こうしたコードの存在が論点として前景化するのは性に関わる政治・運動の領域ですが、一方で生活者の日常においては自明の事として埋没してしまいがちで、そのことの齟齬はあるだろうと思います。
つまり、本人としては自然に振る舞っているだけの性の私的な領域が性の政治の領域に包摂されてしまったら、それはやはり不愉快だろうと。
ただ、特に性の分野で公と私の領域を完全に分離することは社会に生きる限りは難しいので、なんでしょう、まあ、様々な意見があって難しい分野だなぁと…情けない結論ですが。個人的にはできるだけ色んな立場の意見を聞けたら良いとは思ってます。
映画の話から逸れてしまうのであれなんですが、少し思うところがあったので手短に。
画面に映し出される像をある特定のものとして認識するには社会的なコードが先行していないといけないわけですが、ここで例えば女性の服を着て女性のような仕草をする人を単に女性として見るケースを考えてみると、それは女性は女性らしい服を着て女性のような仕草をするものとして、同語反復的にコード化された女性の概念に無自覚的に従ってることになります。
これは性差別と裏表になっていて、女装する人を単に女性として扱うことは一面ではその人を尊重することであっても、服装や仕草を含むジェンダーコードを強化する側面もあり、そのことが身体的性とジェンダーのギャップに悩む当事者の最大の悩み事である「男なら男らしく」「女なら女らしく」という呪いの言葉としてそっくりそのまま跳ね返ってきたりもする。
これはなかなか難しいところで、そもそも性の選択に内在する本質的な矛盾でもあるので容易に解決される問題ではないと思いますが、性の選択ではなく性の移ろいを肯定
することは、その点で非常に有意義なのではないかな、と思います。
@tacchan
OVA…確か渋谷TSUTAYAにVHS在庫があったと思いますが、デッキが無いので未だちゃんと見れてないんですよね…。
あの中で『絶滅の島』が映像化されていましたけど、原作とは違うオチになっていて。そういう拡張性の高さは映像を生業とする人には挑戦のしがいがあるところだと思いますから、『デビルマン』みたいにNetflixでシリーズ化してくれたら最高です。
@tacchan
構成は抜群に巧いですよね。『コロリ転げた木の根っこ』とか、よくよく思えば大した話じゃないものでも些細な伏線やドライなユーモア、簡潔にして明瞭なキャラクターの組み合わせの妙で読ませてしまうところがあって。
『老年期の終わり』もオチとしてはそれほど驚くようなものではないのでしょうけど、やはり非常に構成が練られていますし、なによりあの少ないページ数で巨視的なテーマを軽々と捌いたこと、そして描かれない出来事までをも読者に想像させる豊饒な語り口には初めて目にした時に本当に驚きました。
手塚先生は物語を隅々まで描き込んで(それでも描き切れないで)しまうので作品としてはもちろん素晴らしいのですけど、手塚漫画として完成されてしまっているので映像化にはあまり向かないようなところがあったりするじゃないですか。
藤子・F・不二雄先生は一見シンプルで間口が広く、あまり作家性を感じさせませんけど、例えば『ノスタル爺』ですとか、完成されているのにいくらでも想像の余地があるっていう境地に辿り着いてしまっているので、ストーリーテラーとしての再評価のためにもどんどん映像化して欲しいですねぇ。