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聲の形 

WOWOWで見ました。もう何回目だろう…? あまり同じ映画を繰り返し見ない私には珍しく、劇場にも二回行ったしBlu-rayも買った映画です。

もうさー、あの小学校時代の硝子ちゃんの「私も頑張ってる!」みたいな台詞でもう泣いてしまいます。そうなんだよ、頑張ってるのに、頑張っても頑張っても普通の人々の輪に入れないんだ! って。そして「私は私が嫌いです」で、「ああ、そうなんだ、そう思ってしまうんだよ!」とまた泣き、ラストのあたりで鼻をグジュグジュにするみたいな。

声が聞こえなくてひとと普通につながれない硝子ちゃんと声を聞くことができなくなってひとと普通につながれない将也くん、そんな二人がでも、自分のためには変われなくても互いのために変わっていくなかで少しずつつながりを回復する話なんですよね。それがあの美麗な映像と美しい音楽とともに語られるのがたまりません。

男性の体に生まれてしまったけど女性として生きている女性と、女装ゲイ男性とを単に混同してるのでないかしら。同性愛の話とか、私のしてた話にはとりたてて関係ないし(前に出てた女装というのも関係ない)。

普通に考えたら、生まれながらの女性が女性らしく生きているのに「女性」と決して呼ばず、「女性生活者」なり「女性選択者」なりと呼ぶとしたら、そのひとのアイデンティティを傷つける失礼なことだと思うのですよね。それでもそれをする、だから男性の体を持つ女性も受け入れてくれ、というのならわかる。そうでなく、生まれながらの女性にはしないけど男性の体を持つ女性にはそうするし、すべきだ、となると、私は違和感を抱いてしまう。

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あと、コード強化を避けるために新しいラベルを望むなら、既存の男性や女性にもそれを向けるべきだとちょっと思う。女性らしい体で女性らしい格好で女性らしい振る舞いをする生まれながらの女性に対しても、「女性」と呼ばないようにする。それならわかるのだけど、生まれついた体が特殊なひとに対してだけそれをするというのは、それこそ単に「体での線引き」という偏見の強化になるのでないかなぁ。

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リアクションをいただいているけれど、当事者のひとが苦しんでいることって、「男は男らしく」、「女は女らしく」というステレオタイプなのかな。「男性体なら男」、「女性体なら女」という強固な偏見がまずあり、それがあったうえで本来の性別と異なる「らしさ」を要求されているから苦しんでいるのであって、本来の性別で暮らしていたら別にステレオタイプそのものはせいぜいたいていのひとにとってと変わらない程度の苦にしかならないのでないかな。

もちろん「らしさ」を解体しようとする当事者もいるだろうけど、他方で「らしさ」を意識的に身につけることで性別の実現をしようとするひともいる。後者のひとにとってはステレオタイプは(体との結びつきから解き放たれている限り)呪いどころかむしろ自己実現のための道具にさえなりうる。そのとき問われているのはむしろ、「男性体でも女性だ」「女性体でも男性だ」という体の多様性を受け入れるか否かではないかなと感じます。生物学的決定論からの解放というか。そして、私は当人が自称していないのに先回りで「トランスジェンダー」と言いたがる傾向に、まだこうした解放に至っていない頑なさを感じるんですよね。

お風呂に入りながら思い返していたのですが、ナチュラルウーマンでは主人公の過去の話がぜんぜんないんですよね。女性として生きたかったころ、生き始めたころの苦しみみたいな話はまるでなくて、アイデンティティの確立みたいなものはそもそもテーマになりさえしない。主人公は始めから終わりまで、すでに現在形で女性「である」ものとして描かれ、主軸は女性である主人公とそれにもかかわらず彼女を女性から締め出そうとする圧力との社会的なドラマと、それゆえにほとんど打ち明ける場を持たない彼女の恋人への想いとに置かれている感じ。これは画期的だと思います。

本人が積極的に「トランスジェンダー」を自認しているのでない場合、「トランスジェンダー」みたいな移行性に焦点を当てた概念のもとでそのひとを尊重するというのは、単に移行後の性別のひととして、この場合は単に女性として尊重するというのに比べて、格段に劣るというか、場合によっては受け入れてることにならないとさえ言えると私は思うんです。フィルマークスの感想とかを見ていても、多くのひとがあの恋人の弟ほどにはマリーナを受け入れようとしていないように見える。女性の名前で女性の格好で女性の振る舞いをする女性を、単に女性として見るというのがそこまで難しいものでしょうか。

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アバウト・レイのときにも思ったんだけど、ナチュラルウーマンのマリーナも単に女性であると言われているわけだし、テーマがそもそも「女性なのに女性として認められない苦境」なのだから、宣伝では「トランスジェンダー」でなく「女性」って断言してほしかった。「男性の体をもって生まれた女性」とかでいいじゃん。ただのお嬢さんとして見ている恋人の弟、あの視線で宣伝してほしい。

ナチュラル・ウーマン 

死んだ恋人の弟がひとりだけ、主人公を「恋人を亡くして悲しんでいる可哀想なお嬢さん」として見ていて、数少ない癒しでした。

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ナチュラル・ウーマン 

filmarks.com/movies/74165/revi
恋人を亡くした若い女性。普通ならば周りから慰められながら、泣き、別れを惜しむことができるはず。けれど主人公マリーナは、「女性なのに女性として認められない」という人間であるがゆえに、喪のサークルからは排除され、攻撃を受け、アイデンティティを疑われ、傷つけられるばかりで慰められることもなければ悲しむ暇さえない。ラストまで涙を流さないその姿は、強いというよりも、ほかにどうしようもない、泣くことさえ許されないという苦境にも思えました。この不条理を、けれど湿っぽい方向というよりは「ふざけるな! なんだお前ら!」という感じにマリーナとともに怒りながら経験していくみたいな映画です。この怒りを少しでも多くのひとが感じ、女性なのに女性として認められないこんな不条理が少しでも減る方向に行ってくれたらいいなー。

ナチュラルウーマンをきょう見に行けそう。

実家にちょっと戻ってしゃべってたら、父が「アカデミー作品賞でラブストーリーは久々」とか語り出したのだけど、去年の『ムーンライト』がまさに純愛ラブストーリーではなかったか…。

去年のムーンライト(第3部の主人公がすごく可愛い)もそうでしたけど、最近はマイノリティの目線から見た世界みたいな作品がほんとに増えましたよね。もちろんそのなかでも優れたものとそうでないものがあるし、ものによってはむしろあれ? というのもあるけど、でも視点が多様化するのはいいことですよね。私もわりかし明白なマイノリティ属性をいくらか持っている身だから、そういう作品のなかにこれまでになく心を捉えるものが見つかったりすることもあって、ますます映画が(小説や漫画も)楽しくなってます。

私も半魚人と出会いたい。天狗でもいいし、吸血鬼でもいい。そういうのと恋したりしたいです。河童はあんまり。

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アカデミー賞は作品賞も監督賞も各主演賞も前評判通りの感じでしたね。『シェイプ・オブ・ウォーター』も見たいし、『ナチュラル・ウーマン』も、賞には及ばなかったけれど面白そうな『レディ・バード』も早く見たい!

ビッグ・シック 

エミリーのひとも可愛かったけど、エミリーのお母さんがすごくよかったなー。

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ビッグ・シック 

filmarks.com/movies/72900/revi

朝一で見てぼろぼろ泣いてしまいました。泣いてたとわかるような状態になっていなければいいのですが…。
序盤、中盤、終盤ではっきりと話の流れが変わるのですが、それぞれが非常に丁寧で、しっかりと主人公たちと同じように感情を揺さぶられました。

十二人の怒れる男って、戯曲で読んだことがあったりしたから、なんとなくもともと舞台作品なのかと思ってました。舞台設定も一部屋で展開されてるからそれっぽいし。調べたらもともとテレビドラマで、それを映画化したんですね。

十二人の怒れる男 

とてもアメリカ的な傑作ですね! 最近プラグマティズムの勉強などをしているのですが、人間の認識を超えた本当の真実なるものがわかっていない、もしくはそんなものがない状況で、それでもなお討議と合理的な思考によって民主的に意思決定していくというプラグマティズ的な構図が、まるごとひとつの密室劇になってる。すごく面白いです。

filmarks.com/movies/32101/revi

ナチュラル・ウーマンの主演のひとって、自分もむかし男性として暮らしてたひとなんですね。ああいう役ってたいてい男性俳優を使うから珍しいですね。

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