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シェイプオブウォーターの悪役が 

障害者をある種の非人間的な純粋さの持ち主として捉える描像というのはたぶんわりと多くて(体と違う性別を生きるひとを男女の枠を超えた何かだと見たがるのと同種の欲望だと思いますが)、悪役の彼がそれをたぶん切実に求めているという点も、イライザがそうでない、性的欲望も持ち、いろんな企みも持つただの人間であると描いている点も(その意味で、自慰の場面をあからさまに描いているのもよかった)、ちょっと独特でよかったです。

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シェイプオブウォーターの悪役が 

イライザに対する悪役の彼と魚めいた彼の欲望の向け方が対照的なのも面白いですよね。悪役の彼は沈黙を求める、魚めいた彼は会話を求める。人間外のものとして欲されることと、人間として欲されること。イライザが悪役の彼を拒絶して魚の彼を愛することがよくわかる反面で、そうなってしまった悪役の彼の背景に想いを馳せてしまいます。このひともきっとかわいそうな存在なんだと。

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シェイプオブウォーターの悪役が 

沈黙にフェティッシュな欲望を抱いてるというのがとても面白く感じる。彼ははっきりと悪役だし、ほとんどステレオタイプ的に白人男性エリートとされているけれど、しかし上司の一存であっさりと真っ当な人間から転落しうる弱い存在でもあって、赤の女王のようにその場にとどまるには走り続けるしかない(この焦燥は初めから真っ当に扱われていない主人公たちにはなさそう)。その彼が、典型的な幸福な家庭においてまったく楽しそうな表情を見せず、彼と肌を重ねながら声を上げる妻の口を塞ごうとし、沈黙するイライザに欲望を抱く。社会に属し続けようと努めるべく強制されているがゆえに、前社会的な、たぶんバタイユ的な意味で動物の段階に属すものへの憧れが募ってるキャラなのかなーと感じます。ただ皮肉なのは、彼はイライザの沈黙をたぶん「言語外にあること」のしるしと受け取っているけれど、イライザには言葉も理性もあり、イライザは実ははっきり人間である点。だからイライザは沈黙せずファックユーと言い返すし、悪役の彼はわからない言葉をイライザが発することに怒りを露わにする。
実は単純な悪ではない人物な感じがします。

slate.com/culture/2018/02/a-fa

ナチュラルウーマンの評。手術の有無を明示せず(敵役的なキャラたちはそれを知りたがるけど)、そのうえでしっかりと女性として、女性でしかないものとして描いてみせているのがいいんですよね。もしかしたら主演のかたはホルモン治療もしていないのではと感じさせるシーンがあるけど(事実は存じておりませんが)、女性であるのにそんなことは必須ではないんだと見ていると強く説得されます。

シェイプ・オブ・ウォーターの魚のひとはある種の理想にかなった王子さまという感じで、本当にあの映画はおとぎ話的な魅力を持ってますね。魚のひとみたいな存在に会いたい、会えさえすればきっと救われるみたいな気持ちになる。

体のもともとの性別と異なる性別を生きているひとの、普通の人生のドラマみたいな映画ないのかな。性別のことそのものをテーマにしているわけではなく。

ナチュラルウーマンはかなりいいんだけど、でもけっこうきつい体験をメインにしたものだったから、もっとただ普通に恋愛したり友達と過ごしたり働いたりする感じのゆったりした作品が見たい。渡辺ペコさんの漫画『ボーダー』とかみたいな。

シェイプ・オブ・ウォーターは、主人公イライザが半魚人について「私に欠けているものに彼は気づかない」みたいに語っていたのもとてもよかったです。私もそういう存在に出会いたいという願望をずっと抱いているように思う。私の欠如に気付きさえしない存在。

人間と認められない人間たちの物語や女性として認められない女性の物語がアカデミー賞を賑わせているのはとてもいいですね。私はそういう「外部へと押し出されている人々」の物語を愛おしく感じます。古くは『エレファントマン』の「僕は人間だ」の叫びに震えた、そういう心が揺さぶられます。

シェイプ・オブ・ウォーター 

filmarks.com/movies/73566/revi
すっっっごくよかった! 途中で黒人や同性愛者に敵対的なお店とかが出てくるところからも、きっと意図的にメインキャラたちは「人間と認められない人間たち」というアウトサイダーなのでしょうね。その人々が結託してもっとも「人間として認められない人間」である半魚人を逃がすというのがとてもいいです。主人公が性的にアクティブであることを示すシーンも印象的に繰り返されていて、とにかく映画の全体から「自分たちは感情を持ち、友情や愛情で繋がり、性的な喜びを求める、『人間』なんだ!」とアウトサイダーたちが叫んでいるみたい。典型的なエリート白人でありつつも、「真っ当な人間」からの転落に怯え、他方で言葉を口にしない存在にフェティッシュな憧れを抱く、そんな悪役の姿との対比もどきっとします。

お昼から友達とシェイプ・オブ・ウォーターをみにいってきますー。私も半魚人に会いたい(天狗も可)。

みなみ会館のさよなら爆音上映、「なんでそれ爆音にしようと思ったの!?」って作品がけっこう多くて気になる…。花様年華とかパターソンとかの爆音上映って、どんなことになるの…?

ベイビー・ドライバー 

filmarks.com/movies/63840/revi
ひたすら音楽に乗りながらスタイリッシュな銃撃戦やカーチェイスを見続けるみたいな映画。これは映画館で見たらテンション上がるでしょうねー! 衣装とかもけっこういいです。ヒロインの黄色いワンピース可愛い。

ナチュラルウーマンのラストの歌唱シーンって、たぶん主演のかたご自身が歌ってるんですよね? 訓練したらあんな高音がしっかり出るものなのかな。

山田尚子監督は、「普通」になれないひとへの視線がすごく優しいと感じます。たまこラブストーリー(たまこまーけっと)での花屋さんの描き方もとっても優しいし、聲の形での二人の主人公への視線も。山田監督が作った街で暮らしたい。

聲の形 

WOWOWで見ました。もう何回目だろう…? あまり同じ映画を繰り返し見ない私には珍しく、劇場にも二回行ったしBlu-rayも買った映画です。

もうさー、あの小学校時代の硝子ちゃんの「私も頑張ってる!」みたいな台詞でもう泣いてしまいます。そうなんだよ、頑張ってるのに、頑張っても頑張っても普通の人々の輪に入れないんだ! って。そして「私は私が嫌いです」で、「ああ、そうなんだ、そう思ってしまうんだよ!」とまた泣き、ラストのあたりで鼻をグジュグジュにするみたいな。

声が聞こえなくてひとと普通につながれない硝子ちゃんと声を聞くことができなくなってひとと普通につながれない将也くん、そんな二人がでも、自分のためには変われなくても互いのために変わっていくなかで少しずつつながりを回復する話なんですよね。それがあの美麗な映像と美しい音楽とともに語られるのがたまりません。

男性の体に生まれてしまったけど女性として生きている女性と、女装ゲイ男性とを単に混同してるのでないかしら。同性愛の話とか、私のしてた話にはとりたてて関係ないし(前に出てた女装というのも関係ない)。

普通に考えたら、生まれながらの女性が女性らしく生きているのに「女性」と決して呼ばず、「女性生活者」なり「女性選択者」なりと呼ぶとしたら、そのひとのアイデンティティを傷つける失礼なことだと思うのですよね。それでもそれをする、だから男性の体を持つ女性も受け入れてくれ、というのならわかる。そうでなく、生まれながらの女性にはしないけど男性の体を持つ女性にはそうするし、すべきだ、となると、私は違和感を抱いてしまう。

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あと、コード強化を避けるために新しいラベルを望むなら、既存の男性や女性にもそれを向けるべきだとちょっと思う。女性らしい体で女性らしい格好で女性らしい振る舞いをする生まれながらの女性に対しても、「女性」と呼ばないようにする。それならわかるのだけど、生まれついた体が特殊なひとに対してだけそれをするというのは、それこそ単に「体での線引き」という偏見の強化になるのでないかなぁ。

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リアクションをいただいているけれど、当事者のひとが苦しんでいることって、「男は男らしく」、「女は女らしく」というステレオタイプなのかな。「男性体なら男」、「女性体なら女」という強固な偏見がまずあり、それがあったうえで本来の性別と異なる「らしさ」を要求されているから苦しんでいるのであって、本来の性別で暮らしていたら別にステレオタイプそのものはせいぜいたいていのひとにとってと変わらない程度の苦にしかならないのでないかな。

もちろん「らしさ」を解体しようとする当事者もいるだろうけど、他方で「らしさ」を意識的に身につけることで性別の実現をしようとするひともいる。後者のひとにとってはステレオタイプは(体との結びつきから解き放たれている限り)呪いどころかむしろ自己実現のための道具にさえなりうる。そのとき問われているのはむしろ、「男性体でも女性だ」「女性体でも男性だ」という体の多様性を受け入れるか否かではないかなと感じます。生物学的決定論からの解放というか。そして、私は当人が自称していないのに先回りで「トランスジェンダー」と言いたがる傾向に、まだこうした解放に至っていない頑なさを感じるんですよね。

お風呂に入りながら思い返していたのですが、ナチュラルウーマンでは主人公の過去の話がぜんぜんないんですよね。女性として生きたかったころ、生き始めたころの苦しみみたいな話はまるでなくて、アイデンティティの確立みたいなものはそもそもテーマになりさえしない。主人公は始めから終わりまで、すでに現在形で女性「である」ものとして描かれ、主軸は女性である主人公とそれにもかかわらず彼女を女性から締め出そうとする圧力との社会的なドラマと、それゆえにほとんど打ち明ける場を持たない彼女の恋人への想いとに置かれている感じ。これは画期的だと思います。

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