「電気人間(40)」を見てたら「え、シャマランの”アンブレイカブル”の発端部分って”墜落大空港(ジャンボ・墜落)”だけじゃなくて、実はコレも入ってんじゃないの?」とか思ったのだけど、それはともかく、本作はたった59分の映画で、主人公が超人化するのもあっという間。本作はヒーローものというよりはフランケンものの映画なのだけど、当時の人達は(添え物映画とは言え)「よく知ってる、お馴染みの話」だから、これで大丈夫だった…んだろうと思う。
でも、現代でコレをやろうとすると「お馴染みの話……って言うけど、本当に君、コレを知ってるの?」ってなると筈で、プラス「そのまんまやっても通用せんわな、コリャ」ってのも出てくるワケで、やっぱ、この手の話を”ちゃんと知ってもらう”というか、”再生させる”ためにはそれなりの手間暇がかかるよなぁ、と改めて感じたので、ちゃんと手間暇かけてる彼はやっぱり偉いと思いました。はい。
本作は記憶喪失もので、普通この手の映画では、記憶が甦ったり、悪夢を見たりする場面は「如何にもソレと分かる」映像が出てきたりするものだけど、この作品では「今主人公の目の前で起こってること」と、「彼の甦った記憶」がまったく同じ質の映像で、つまりは等価のものとして撮られている。
これは、最初は見ててちょっと混乱もするのだけど… 多分、本当に”そういう症状”になった人には、過去も現在も「同じこと」のように感じられているのだと思う(そしてそれが自分の意思に関係なく、急に目の前に浮かんでくる感じも。なんだか「スローターハウス5」みたい)
だから、その「そっけなさ」の方がリアルなんだと、この監督は信じてたんじゃないかな。
(で、「この辺の感覚に赤狩り後の彼の経験が反映されてるのだ!」って言ったら、それは単純化しすぎかな)
「トップ・ハット」で一番好きなのはミュージカル場面でなくて、ロジャースがアスレアを友人の夫だと勘違いしてしまう場面。ホテルのフロントの人に「あそこ(二階)にアナタの尋ね人(友人の夫)がますよ」と言われたロジャースが、その方角を見るんだけど、シャデリアが邪魔でうまく見つけらない。で、彼女が見える位置まで移動する間に「友人の夫」は、彼を呼び止めたアステアに代わってるというところ。ここから彼らのすれ違いが始まるわけなんだけど、でも「ほんの少しいる場所が違うだけで、或いは、一歩足を踏み出す方向が違うだけで、その人の世界は違ったものになる」ことを視覚化してくれた感じがして好きなのです。それは恐ろしいことでもあるのだけど、でも「それも含めて世界の豊かさなんだ」といわれてるような気がしてねぇ(現実にはありえない場面と思うけど)。
(思いつき)
久々に「透明人間(33)」を見てたんだけど、世に言う「人を殺して捨て台詞」系の作品に本作が与えた影響って、案外でかいんじゃないですかね。コレ、主人公である透明人間が悪いことするたんびに、面白いこと言うんですよ。そりゃ、同時期のギャング映画にもあるんでしょーけど、クロードレインズってイギリス人だから、そういう台詞に礼儀正しさが加わるんですよ。その辺の感覚は無視できんようなできるような。
(根拠はない)
怪奇映画のことしかわかりません