気まぐれに「パナマ・ギャング戦争」で検索したらヤフオクに三本も出品されておった。とりあえず一本、レスキューしてくる。

「電気人間(40)」を見てたら「え、シャマランの”アンブレイカブル”の発端部分って”墜落大空港(ジャンボ・墜落)”だけじゃなくて、実はコレも入ってんじゃないの?」とか思ったのだけど、それはともかく、本作はたった59分の映画で、主人公が超人化するのもあっという間。本作はヒーローものというよりはフランケンものの映画なのだけど、当時の人達は(添え物映画とは言え)「よく知ってる、お馴染みの話」だから、これで大丈夫だった…んだろうと思う。

でも、現代でコレをやろうとすると「お馴染みの話……って言うけど、本当に君、コレを知ってるの?」ってなると筈で、プラス「そのまんまやっても通用せんわな、コリャ」ってのも出てくるワケで、やっぱ、この手の話を”ちゃんと知ってもらう”というか、”再生させる”ためにはそれなりの手間暇がかかるよなぁ、と改めて感じたので、ちゃんと手間暇かけてる彼はやっぱり偉いと思いました。はい。

「ドミトリクの特異な画面構成力は、この映画でナチを撮る時に”意図的にドイツ風の演出を(パロディとして)取り入れたこと”によって完成したのだ」という説を一瞬思いついたが、それは嘘やで。

『ヒットラーズ・チルドレン』

「闘ってる最中に相手に急にナチ式敬礼されて、思わず返令してしまったらその間にヤラレタ」というギャグ描写が既にあった。

それにしても、この時代における「放射能」というものには、まだロマンがあるな。「詳しい事はよく分からんけど、”ほうしゃのう”の力があれば、これくらいのコトはできるんじゃないの?」くらいの感覚が、今の目からすると逆に羨ましかったり。

なんというか”人々の放射能に対する色んな妄想が詰め込まれてる感じ”と言うか、”その人々の妄想を、作り手達が意図的に取り込んだ感じ”と言うか、とにかく、そのことが映画表現においては、プラスに働いていた気がたまに(たまに)するな。

(今はもう使えないけど)

本作は記憶喪失もので、普通この手の映画では、記憶が甦ったり、悪夢を見たりする場面は「如何にもソレと分かる」映像が出てきたりするものだけど、この作品では「今主人公の目の前で起こってること」と、「彼の甦った記憶」がまったく同じ質の映像で、つまりは等価のものとして撮られている。

これは、最初は見ててちょっと混乱もするのだけど… 多分、本当に”そういう症状”になった人には、過去も現在も「同じこと」のように感じられているのだと思う(そしてそれが自分の意思に関係なく、急に目の前に浮かんでくる感じも。なんだか「スローターハウス5」みたい)

だから、その「そっけなさ」の方がリアルなんだと、この監督は信じてたんじゃないかな。

(で、「この辺の感覚に赤狩り後の彼の経験が反映されてるのだ!」って言ったら、それは単純化しすぎかな)

「蜃気楼」見た。

夜のニューヨーク、ネオンが輝く高層ビル群で、その中の一つだけが(停電で)ふっと消えるという、そのビジュアルの素晴らしさだとか、
ラストのロシアンルーレットの場面だとか、
やっぱ映画は高いビルから人が落ちてナンボだなとか、
色々語りたいことは多いのだけど、個人的にもっとも気に入ったのは、この映画独自のパラノイア感覚とでも言うべきもの。

「ダイ・アナザー・デイ」における「ロンドン・コーリング」の使い方は本当に正しいのか問題について、今日も頭を悩ませとった。

なんていうんですかね、世界は危機に満ちてるんだけど、彼らはそれを「踊り」だとか「歌」だとかで克服していく。

で、我々はその姿を見る事で、日々生活している中で見失いがちな”生の喜び”だとか”世界にたいする肯定感”みたいなものを、自分の「笑い」だとか「涙」の中に再発見する(”生の喜び”が「笑い」となって我々の内から噴出する)…ってなことはあると思うですよ。彼らの映画には。これ昔のは喜劇もそうかな。うん。

昔のミュージカル映画は、人生とか恋愛に対する肯定というだけじゃなくて、こういう「世界の豊かさ」を堂々と歌い上げる役割も果たしていたような。そして「一歩足を踏み出す方向が違えば…」という、怖くも楽しくもある世界の中で、(どんなに遠回りしようとも)最終的に必ずハッピーエンドにたどり着く、アステアのステップそのものに惚れ惚れしてしまうのです。こういう素晴らしいものが存在するというこ自体が、世界や人間のために良いことという感じがします。

「トップ・ハット」で一番好きなのはミュージカル場面でなくて、ロジャースがアスレアを友人の夫だと勘違いしてしまう場面。ホテルのフロントの人に「あそこ(二階)にアナタの尋ね人(友人の夫)がますよ」と言われたロジャースが、その方角を見るんだけど、シャデリアが邪魔でうまく見つけらない。で、彼女が見える位置まで移動する間に「友人の夫」は、彼を呼び止めたアステアに代わってるというところ。ここから彼らのすれ違いが始まるわけなんだけど、でも「ほんの少しいる場所が違うだけで、或いは、一歩足を踏み出す方向が違うだけで、その人の世界は違ったものになる」ことを視覚化してくれた感じがして好きなのです。それは恐ろしいことでもあるのだけど、でも「それも含めて世界の豊かさなんだ」といわれてるような気がしてねぇ(現実にはありえない場面と思うけど)。

「蜂女の恐怖」の魅力を適切に伝える言葉(理屈)を捜している。どっかにあるはずなんだ。

ヴァル・ゲストの非怪奇映画のVHSを気前良く出品してくれる人を、俺はずっと待ってるよ!

ドミトリクのヒットラーズ・チルドレンがヤフオクに出てたから買った。こういうところもたまにはチェックしとかんと…

久々にコレも見たので、記録として。

「雨(風呂)に歌えば」

youtu.be/6X1jlnyNQuQ?t=242

(思いつき)

久々に「透明人間(33)」を見てたんだけど、世に言う「人を殺して捨て台詞」系の作品に本作が与えた影響って、案外でかいんじゃないですかね。コレ、主人公である透明人間が悪いことするたんびに、面白いこと言うんですよ。そりゃ、同時期のギャング映画にもあるんでしょーけど、クロードレインズってイギリス人だから、そういう台詞に礼儀正しさが加わるんですよ。その辺の感覚は無視できんようなできるような。
(根拠はない)

eigadon.net/media/yoI129tDdiVY

その「リアリティ」が魅力なんだけど、海外のこういう作品を見てると、時々、そのノリ(良い意味での”雑さ”)がうらやましくなったり。あと、こういう作品って、ちゃんと最後が一番盛り上がるんだよね。東宝だと意外と最後はしんみりするのが多いんで。それもたまぁーに羨ましくなる、かな。

「カルティキ」見てて思ったんだけど”段々と画面で起こっていることがハデになる感覚”って、東宝の特撮映画にはあんまないんだよね(ゴラスくらい?)。向こうの特撮映画とか、あるラインを超えると話の整合性というか、それまでのアリアリティは無視して「バーン!」とハデなことが起こったりするんだけど(最後の5分で怪獣が急にでかくなるとか)、そういう「飛躍」みたいなのがないような。これは本多さんの感覚かな。SFだとしても「その映画の論理では起こりえないこと」はやだ、みたいな。

鶏がひどい目にあう場面のある映画はだいたい名作。

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