『ブルータリスト』
配給が始まったことに言及すれば親パレスチナかというとそうとは限らないし、作品自体にどうしてもシオニズムの視点があることは否めないが、シオニストのプロパガンダというよりはピュアなシオニズムの表現、という感じがする。プロパガンダだと言って危険視したり見えないようにしたりすることは、逆に良くないように思う
『ブルータリスト』
監督が『ノー・アザー・ランド』の配給が始まったことに言及して自身の立場を示したと思われるとのこと、少しよかった
(参照先:X)https://x.com/vinyl_tackey/status/1877521926861549948
『ブルータリスト』
このアーカイブを聞き直すと、1年前に聞いた時より理解できるようになってて己の成長を感じた…。『ブルータリスト』に絡めて腑に落ちるところがいくつもある。最後の方の質問コーナーで鶴見氏が語っている、"迫害を受けた人に対して、迫害を受けたからこそ迫害をすべきではないと言うのはあまり良い言い方ではないと思う"というような話についても、確かに…という…
『ブルータリスト』
あとは、ブルータニズムという建築のことをもっと理解できていれば、また違う見方もできるのだろうな。作中では醜いとか馴染まないとか素晴らしいとかいろいろ言われていたけど、直島の美術館みたいでええやんと思った。
『ブルータリスト』
問題はこの作品が、現実においてイスラエルがやっている行為がまさにトートたちが受けた暴力であることについて触れていないことだと思う。触れられないのかもしれない。シオニズムに自浄を期待するのはまず無理、という話を前に聞いたことがあるけど、やはりそういうことなのだろうかなぁ、第三者無しにはどうにもならないということを突きつけられている。しかしアメリカはあんなだし……こういうことをずっとグルグル考え続けられるので、いやつらいし問題有りだけど、私にとってはやっぱり観てよかった映画ということにはなる。
『ブルータリスト』
自分たちは結局外から来たものでずっと受け入れられないという絶望や怒りみたいなものを、ラースロー・トートが叫ぶシーンがあった。アメリカに来たことについて「選択の余地は無かった!」と怒鳴っていた。あのコミュニティセンターは外から来たものと元々あったものの調和である(もっと複雑な表現だったかも)、のような言葉もあった。トートだけでなく家族みんな酷く傷つけられていた。その果てがイスラエルへの移住ということになる。
やはりあまりにもつらく、そのつらさを訴えて逃れるばかりになってしまうゆえんが、あの3時間半の映画で語られていたのだろうと思う。人が安住の地を求めること自体は当たり前のことで、彼らに振るわれ続けた様々な暴力は許されない。けど
『ブルータリスト』
無意識のうちに考えないようにしていたかもしれないけど、性暴力について、はっきりと描かれたシーンと、はっきりとは描かれていないがあったのではないかと懸念されるシーンがあり、それぞれに今でもかなり衝撃が残っている
『ブルータリスト』
最後のシーンあたり、旅路より到達点が重要である、みたいな言葉で締められていたと思う。個人的には到達点より旅路の方が大事だと思っているけど、そういうことじゃないのだろう。「到達点」については、建築家としての成功というだけではなくて、イスラエルという地のことを連想した。明確に描かれていなかったと思うけど、結局はトートたちはイスラエルに移住したのだと受け取ったし。だから極端に言うと、イスラエルに移住して建築家としても認められて、ハッピーエンドのような結末だけど、パレスチナの人のことには直接は触れられていなかったので、うーん、シオニズムとはこういうことなのだろうかな…映画を観直したりちゃんと本を読んだほうがいいけど、観直すにはあまりにもしんどい。上映時間的にも、ストーリー的にも
『ブルータリスト』
簡単に感想をまとめることができない。シオニズム、資本主義、搾取、性暴力、外から来た者と元々居た者、のような考えてみたいことがいくつもあるけど、それらのうちからひとつ取り上げて考えるより全部ひっくるめて考えることが必要だと思う。しかしそれができるキャパが今の私にはないかも。ドキュメンタリー映画だからなぁ、難しいなと思っていたが、フィクションか…(まだ言ってる)